傷跡と焦情 カインとオーエン 1
「傷跡、残しとく?」
フィガロの言葉に体を起こしたカインは片眉をひょいと跳ね上げた。
柔らかな陽光は窓の外を充していたが、直接日差しが当たっているわけではない部屋の中は少しだけ青く薄暗い。カインが横たわるベッドの横、木製の、背もたれのある椅子に座ってフィガロは優しい南の国の魔法使い然とした笑みを浮かべていた。穏やかな午後のことである。
フィガロは腕の良い医者だ。傷跡を残さず傷を治すことなんていとも容易くやってのけてしまう。とても、容易いことに違いなかった。そんなフィガロが問うている。
傷跡を、残しておくかどうか。同じく賢者の魔法使いである北のブラッドリーは顔に古傷の跡を残している。人間が自然治癒で傷を治した時に残るような跡。実力にもよるが、魔法使いは綺麗に傷を治すことができる。生存競争激しい北の国で生まれ、短くない時の中を今の今まで生き延びているブラッドリーは力の強い魔法使いであるから、カインは詳しく聞いたことがなかったけれど、おそらくあの傷の跡は自分で選択して残しているものなのだろうと予想している。
迫られた選択のことを思い、知らず、服の上から腹に巻かれた包帯のあたりを撫ぜた。傷は既にそのほとんどが治りかけている。フィガロはゆるく微笑んだままだ。
「なんで」
言いかけた言葉は続かなかった。膝の上で手を組んで、フィガロはカインの答えを穏やかに待つ。結局、フィガロが設けた時間の途中で答えは出て来なかった。タイムリミット。口を閉ざし思案の海に沈む患者の、黄色の瞳と、前髪で隠れた赤色の瞳を見透かしながらフィガロは軽い調子で、それこそ鼻歌でも歌うように口を開く。
「それはきみが当然に与えられるべき権利だから」
「権利……」
「そう、権利」
組んだ手を解いてフィガロは人差し指を立てた。一つ、のジェスチャー。
「戒めのためとか」
誰の、とは言わなかった。なにせフィガロは優しい南の国の魔法使いだから。
「さあ、どうしようか?」
カインは選択を迫られている。
2
カインのことを見舞った後、自室に戻ろうとしていた賢者はゆらりと煙のように姿を現したオーエンの姿を捉えた。軍帽にインバネスコート、そして皺ひとつない白地にグレーのストライプのスーツ。それらをきっちり身に纏った魔法使いは今朝の朝食の席で見かけなかった姿だった。
今日初めて賢者はオーエンと会う。先ほど相対していたカインと揃いの、不揃いの色をした瞳が賢者をゆるりと見下ろした。かなりの頻度で浮かべているにやにやとした笑みはそこになく、ただ表情の浮かばない、能面のような顔をした魔法使いが一人。
「オーエン」
賢者のすぐ後ろにはカインの部屋がある。この階には他に賢者、アーサー、ヒースクリフ、シノの自室があった。王子であるアーサーは公務やその他色々な雑事で大抵の場合その身があかず日中は城にいることが多いし、東の二人は他の東の魔法使いであるファウストやネロと共に朝から訓練で魔法舎を留守にしている。オーエンは他の魔法使いの動向をあまり気にするような性質ではなかったが、賢者がちょうどカインの部屋から出てきたところで姿を現した。今このタイミングで姿を見せたということは、つまりそういうことなのだろう。そう予想した晶はお見舞いですか、と聞こうとして思い直した。仮にお見舞いだとしても、そんないかにもな言葉はオーエンが嫌うだろう。思い直して、笑みを浮かべて友好的に。いつもの調子で晶はオーエンに話しかけた。
「こんにちは」
「こんにちは、賢者様」
「……」
「……」
晶には何かを考えているような沈黙に思えた。しばらく互いに無言であったが、おもむろにオーエンはその薄い唇を開く。
「なんで喋らないの」
文句を言うような口調だった。理不尽だなぁと思わず苦笑しそうになる気持ちを留めて晶は「ええと、オーエンが姿を現したのは何か用事があったからなのかな、と思いまして……」と答えた。オーエンはつまらなそうな無表情で答える。
「きみが見舞った騎士様は、死にそうだった?」
容態は知っているはずだった。話によればオーエンはカインのために祈ったとクロエが言っていたし、事件後、オーエンのことを心配したクロエやラスティカがオーエンに会った際カインの怪我の具合を逐一伝えていると言っていたし、晶は晶でオーエンと雑談の機会があればそれとなく伝えていた。まるで確認するみたいな問い。カインは言っていた。あの後、オーエンとはほとんど会話をしていない、と。
「いいえ、元気そうでしたよ。傷はもう治りかけみたいで、これ以上寝てたら体が鈍る! なんて口を尖らせていましたけど」
オーエンは今度こそ意地悪そうな笑みを浮かべて賢者を見下ろした。
「……そう。騎士様が暇そうなら僕が相手をしにいってやろうかな」
「病み上がりですから、お手柔らかにお願いします」
少しでも、二人が会話をしてくれたら。そんなことを思いながら晶は再度笑みを(しかし今度ははっきりと苦笑いだった)浮かべたが晶の言葉を耳にした魔法使いは途端瞳に冷たい光を宿した。それまでの和やかさがまるで幻のように霧散して、晶は少し身を強張らせる。その場の空気の冷たさは、すべての生き物に厳しい北の国の大地を思わせた。
「おまえは、カインがどんなふうに怪我をしたのかきいてるんでしょ」
美しい白皙の魔法使いはゆるりと目を細めて賢者を睥睨した。彼の眼窩に嵌め込まれた眼球は片方が焼ける真っ赤な夕陽の色で、もう一方は蜂蜜と朝焼けを溶かして混ぜたような色をしている。
カインの片目はオーエンが奪った。彼らは眼球の交換を行っている。そんな事実は異界の人間である晶からしてみれば信じられないような現実離れした話であったが、さりとてそれは紛れもない事実だった。晶は当時のことをカインから話に聞いていたが、それでも想像には限界がある。
自身の眼球が奪われて、他人の眼球を自分の眼窩に嵌め込まれる。それは一体どんな心地なのだろう。話を聞いて推し量ることはできても完全な理解には及ばないだろう。晶は異界の人間で、彼らは魔法使いで、何より晶は彼らではないから。理解に限界はあるが、けれどそれが理解しようとすることをやめる理由にはならない。
晶は無意識に下げてしまっていた視線をグッと持ち上げた。彼らは同じ色を瞳に宿していたが、けれども宿す光は大きく異なっている。
受容と拒絶。拒絶を前提に、するりと人の心の隙間に入り込むように。いっとう美しく、人を惑わすような微笑を彼はたたえていた。
「僕がやったんだよ」
その毒は、一体誰を侵すためのものだったのか。
3
「彼にはね、選択肢を与えたんだ。傷跡を残すか、残さないか。なんでだと思う? 死んでも傷跡まで綺麗に治しちゃうきみには分からないかもしれないけど……戒めのためにね。誰の為の戒めか、俺が彼の傷跡を綺麗さっぱり消し去ったかどうかはきみの解釈に委ねるよ。はは、怖い顔するなって。か弱い南の魔法使いに向けるような顔じゃないよ、それ」
4
いわゆる、そういった訓練を受けていない者よりカインの感覚は研ぎ澄まされていた。職業病と言っても差し支えないかもしれない。脳の覚醒と瞼の持ち上がりはほぼ等しい速度で行われ、視界がひらけたことによりカインの頭には様々な情報が入り込んだ。
急速な情報の流入は、彼に大きな驚きと衝撃を与えた。声も出せないくらいだった。ついでに息をするのも忘れてしまった。大声が出なかったのは不幸中の幸いで、大声なんか出してしまえば同階の、今夜魔法舎に滞在している彼の主君や、東の幼馴染の二人、そして隣室で声が届きやすいであろう一般市民代表の賢者が何事かと尋ねて来るであろうことが想像に難くなかったからだ。
幽霊は枕元に立つんです。遠く異界の幽霊が枕元に立って出る、という話をしたのは前の賢者だったか。それとも今の賢者だったか。枕元って、ベッドで寝てたら幽霊の足が頭にめり込まないか? そんな疑問に賢者はなんと答えたんだったか。冷静に記憶をたぐり寄せられないくらい、カインは混乱している。
目が覚めて、触れてもらわずとも彼の瞳に映ることが可能なのはこの世界で一人しかいない。それまで寝ていたお陰でカインの目は少しの光量でその人物を捉えることが可能だった。
窓とカーテンは開けられていて、夜風にはためく布の音が彼の鼓膜を絶え間なく震わせる。ドアからではなく窓から入ってきたらしい。それも、窓を割らずに。厄災は暗い部屋の中をぼんやり明るく見せていた。
青白い顔の魔法使いは、ベッドの横に立ちカインをじっと見下ろしている。まるで亡霊のようだった。いつも着ているコートとスーツのジャケットは羽織っていない。帽子だってかぶっていない。ラフな出立ちだった。
「こんばんは、騎士様」
ゆらめく青い炎のような調子。夜の挨拶を返してカインはのそりと起き上がった。野生の動物と会ってしまった時のように、なるべく相手を刺激しないようカインは努めた。なんとなく、騎士の勘が警鐘を鳴らしていたから。
「何しにきたんだ?」
「騎士様は僕が何をしにきたと思う?」
問いの答えを問いで打ち返しうっそりと笑うオーエンは普段通りのようで普段通りではなかった。小さな違和感は、けれどカインの疑念をすくすく育てるには小さすぎる。そもそも相互理解にかなり難のある相手だ。カインは早々に潔く降参して「わからないから教えてくれ」と白旗をあげた。あげられた白旗にオーエンは砂糖の入っていないミルクコーヒーをうっかり飲んだような顔で閉口する。
たまたま会った際、戯れに愉快でない言葉を投げかけられそのまま雑談することは多々あった。そういうことは多々あったが、二人は別に部屋に招いて招かれて話をするような間柄ではない。
北のオーエンは仲間か、という問いを投げかけられたなら人の良いカインは迷いなく頷けるがそんなカインでもオーエンは友人かと問いを投げかけられたならきっぱり顔を横に振って否定する。最初期より仲間の意識が強くなったとはいえ、友人になるにはまず眼球を返してもらわなくては、とカインは思っている。だからオーエンが己の自室にいるという事実は、カインに疑問符とそれに付随してくる何故の言葉しか生まない。
心あたりがあるとすれば一つだけだ。カインがここ数日ベッドで安静にしていなければならない要因に関して。オーエンの過失によるカインの傷について。
「傷の調子は悪くないぞ」
「は? 誰もそんなこと聞いてないよ」
「じゃあ何しに来たんだ……?」
まさか、謝罪をしに来たのでもあるまいし。元より、オーエンからの謝罪はないだろうなとカインは思っていた。そういうのは柄ではないだろうし、それにカインはそもそも別に謝罪なんかはいらないと思っている。あれはオーエンの過失により起きた事故であるけど、仕方ない出来事だったとカインの中で結論が出ていた。小さく、少し力の大きな子どもを傷付けて、怒らせた結果。小さな子どもに向かって大人気なく怒る性質ではない。もちろん、今後同じような事故が起こらないように対策をしなければならないと思っているが、特別何かを思ったりだとか、そういったことは一切なかった。オーエンのせいではない。
カインの目に映る世界は厄災の傷により大きく変わってしまった。賑やかな喧騒は聞こえるのに、目に映るのは閑散とした街並みだけ。人の姿だけ拒絶するカインの目。慣れ親しんだ世界が時折異界に見えることがある。異界から身一つでやってきた賢者がいるため、その友人の気持ちを慮り誰にも溢したことはないが。
厄介な傷は、症状が違えどオーエンのことも苛んでいる。オーエンの傷は何より本人のプライドを傷付けるものだ。自分の思う通りに自分が動かないのは、想像するだけでも辛い。だからオーエンもかなりしんどいだろうなというのがカインの感想である。こちらは言えば怒るだろうから、言ったことは無いが。だから、そんな厄災の傷がもたらしたものに文句なんて沸かなかった。
やけに風の強い夜だった。布の擦れる音は不規則にカインの耳朶に風の存在を知らせてくる。窓に向けた視線を、来訪してきた魔法使いに戻して「窓を」と口を開けば自分の目玉と目が合った。
慣れすぎてしまって普段はそんなことを思わないが、鏡を見ているわけじゃないのに自分の目玉と目が合うだなんてなかなか無いことだよなと場違いにも程があることをカインは考える。そしてそんなことを考えた後、ずいぶん慣れたものだ、と心の中でカインは独りごちた。
賢者の魔法使いに選ばれ、この魔法舎で生活を共にしなければもっと殺伐とした関係であったはずだ。もっと敵対していたはずだ。それなのに、夜、自室に侵入を許してしまうくらいには絆されている。きっと過去の自分に「将来おまえはオーエンと仲良くなるぞ」と教えても絶対に信じないだろうなと自分で考えて思った。もちろん警戒心がないわけではないが、少なくとも魔道具を今すぐ出せるように、なんて考えが浮かばないくらいには信頼していた。
「《クアーレ・モリト》」
呪文の囁きに応じて静かに窓が閉まる。
「騎士様は僕のことを恨まないの」
問いの声音に、一瞬、厄災の傷が出てきたのかと思った。幼な子が問うような響き。つぶさに観察して、それは違うとジャッジする。
「死んでたら、恨んだかもな」
これくらいの軽口は許容してほしい。軽口を受け取った北の魔法使いは息を吐くようにして笑った。ハ、と笑う気配は酷薄としている。形の良い瞳が歪んだ。
「ほんとうにお優しいね、騎士様は」
「褒めてないだろ……」
「死ぬような目に遭わされて、それでも恨まずにいられるだなんて。おまえ、騎士より聖人の方が向いてるよ」
少し黙って考えて、カインは正面からオーエンを見据えた。勝負を仕掛ける前のような表情だった。
「死ぬような目に遭っても、こうして生きてる」
オーエンは眩しいものを見るように目を細めた。生きてるひとの眼差しはむかつくくらいに眩しい。
「助けてくれた仲間がいる。祈ってくれた仲間がいる。守護をかけてくれた仲間がいる。オーエン、おまえも仲間のひとりだ」
祈ってなんとかなるような世の中なら、もっと世界は祈りに溢れている。神様なんて存在は識らずに育った。知っていたとしてもそれはオーエンには不必要なものだった。ずっと独りで生きてこられた。仲間、だなんて。ぐるりと思考が掻き混ざって不愉快だった。祈りが届いたとは思わなかった。気休めで、馬鹿馬鹿しくて、守れるというからしただけ。そんな意識で心をコーティングしている。でも、本心は?
「痕も残さず治してもらったよ」
答えは返らない。構うことなくカインは続ける。
「……俺の戒めにしても良かったんだけどな」
おまえへの戒めになるのは違うだろ?
その言葉は音としてカインの口から出ていくことはなかったが、オーエンには伝わってしまった。目は時に何よりも雄弁になる。暗がりで金の瞳が光を散らした。むき出しになっている金の瞳と反対側、相手の髪の隙間から見える己の眼球は、血の色よりも炎の色を想起させた。
あぁ、本当に、心底……いらいらする。
「おまえのそういうところが嫌いだよ」
ちょっぴり分かってきたオーエンという魔法使いについて思いながらカインは吐息で笑う。だろうな、という笑うような声がオーエンの鼓膜を撫でるより前に、オーエンはその場から姿を消した。その場に残ったのは部屋の主人であるカインと呪文の余韻一つだけだった。オーエンの置き土産に、何だ?と思いながらカインは慎重に、ひもとくようにそれを手繰り寄せた。どうやら守護を一つ掛けられているようだった。言葉では伝えられてはいないが、オーエンなりの謝罪なんだろうか。そう考えると妙に愉快な気持ちになって、カインは忍び笑いをもらした。
「そういえば、祈ってもらった礼を言わなかったな」
とろとろとした眠気がゆるやかにカインの意識を侵食していく。
そしてその夜、カインは夢を見た。両目の赤が印象的な子どもに、手を差し伸べる夢だった。