Glowing2 暴れる豊松丸を小脇に抱えて宗長は廊下を歩いた。息子の癇癪は今に始まったことではないが、今日は随分と酷かった。
「豊よ、なにがそれほど気に入らんのだ」
小笠原は昔から負けん気が多いと言われているが、息子の豊松丸は人一倍にその傾向にあった。豊松丸は汚れた水干に涙で濡れた顔のまま、頬を膨れさせている。
「私を駄々っ子と言う奴がいたのです!」
「なんと!」
我が一族の稚児にそれほど正直で向こう見ずがいたとは驚いた。豊松丸と似た年頃の子たちは、皆豊松丸に気を使って正直な意見が言えないでいることを宗長は気付いていた。
「誰が言ったのだ?」
「そういえば名を聞きませんでした。でも知らない奴です」
「知らない? ああそうか、長興の子か」
長興が今日は子を連れてくると言っていた。長興の子は豊松丸とは従兄弟に当たる。もっと早くに会わせて兄弟のように育てようと宗長は言ったが、長興はなかなか首を縦に振らなかった。
「え、師範の?」
豊松丸は驚いたようにその大きな目を丸くさせている。豊松丸は母に似た愛い瞳をしていた。涙はいつの間にか止まったらしい。
「あの怒りん坊が師範の……そういえば怒った顔がよく似ております」
きっと長興は子がいることを豊松丸には言っていなかったのだろう。宗長はまだ長興の子を見ていないが、きっとあの気性まで受け継いでいるに違いない。長興は一見穏やかそうに見えて、怒ると非常に怖かった。
すると、その長興がやってきた。祝いの席からいなくなった宗長を探しにきたようだ。長興は小脇に抱えられた豊松丸を見て状況を理解したのか柔和な笑みを浮かべている。宗長は長興を捕まえると笑いながら言った。
「どうやらそちの子が豊を泣かせたらしいぞ」
長興は細い眉を上げて豊松丸を見た。すると豊松丸は何かあったかを細かく話して聞かせた。些細な言い合いではあるが、これまでお山の大将でいた豊松丸には衝撃的な出来事であったらしい。
「それは申し訳なかったですな、豊松丸様」
長興は豊松丸に向かって頭を下げた。それでも長興は笑みを浮かべたまま豊松丸に言う。
「ですが、あえて厳しいことを言う者も必要なのです。そういう者を友としなされ」
「なぜですか」
「豊松丸様は目が良い。本当に色々なものが見えて気付きなさる。しかしそれゆえに人の意見を聞きなさらない。ですから、あなたに嫌われてでも正しいことを言ってくれる人が側にいれば、間違わずにすみます」
宗長は我が子の目が輝くのを見た。きっと今の言葉は豊松丸は届いたのだろう。
「それはつまり、あの子と友になれと?」
「なりたいですか?」
「なりたい」
宗長は豊松丸を床に下ろした。すっかり癇癪はおさまったらしい。相変わらず長興は豊松丸の癇癪をおさめるのが上手かった。豊松丸はすっかり舞い上がって長興の子と友達になる気でいる。初めて会った豊松丸に臆せずものを言うほど気が強いのであれば、豊松丸ともやっていけるかもしれない。
それから暫く経った頃。宗長は長興に早く子を連れてこいと急かしていた。豊松丸が会いたいと毎日のようにせがむからだ。そうして根負けした長興はようやく子を連れて館へと来たが、またすぐに豊松丸が癇癪を起こした。今度は弓の勝負に負けたらしい。
豊松丸は大きな目からぼろぼろと涙を溢しながら、長興に向かって頭を下げた。今すぐに弓の稽古をつけてくれというのだ。宗長は我が子ながら呆れてしまった。今朝まで友達になると息巻いていたのに、やっと会えたかと思えば勝負を持ちかけたらしい。
「勝負もいいが、一緒に遊べばよかろう。遠駆けとか」
宗長の言葉も今は豊松丸に届かない。結局豊松丸は日が暮れても弓の稽古をしていた。
それからまた暫く経った。なにやら館の中が騒がしいと気付いた宗長は部屋を出る。すると狩に行っていた豊松丸が、随分と大きな獲物を引いて歩いてきた。
「父上に紹介したい者がおります!」
豊松丸は興奮して顔を上気させていた。反対に豊松丸に手を引かれてきた長興の子は宗長を見て身を縮めている。
「私のはじめての郎党です」
豊松丸は自慢げに言ったが、長興の子は平伏している。宗長はこれで良かったのか疑問に思った。もっと幼い頃から共に育てば意識せずとも絆が芽生える。しかしある程度育ってしまえば、よほど性根の相性が良くない限り、はっきりとした上下関係や利害での繋がりとなる。そうでない相手を豊松丸は欲しがっていたはずだ。
すると、豊松丸は平伏する長興の子の手を掴んで立たせた。そしてこっそりと宗長に耳打ちする。
「そして私のはじめての友です」
豊松丸の言葉に長興の子は驚きながらも、照れたように口元に笑みをつくっていた。どうやら豊松丸が一方的に従えさせたわけではなさそうだ。子は親の知らないところで成長するらしい。
宗長は長興の子の頭に手のひらを乗せた。
「豊松丸を頼むぞ」
宗長が笑ったのは、心から嬉しかったからだ。
さらに数年が経った。朝早くから弓の音がして宗長は目を覚ます。庭を見れば貞宗が弓を射ていた。朝日の中でその表情は明るい。幼い頃はずっと怒りながらか泣きながら弓を引いていた貞宗が、いつの間にか楽しそうに弓を引くようになった。さていつからだろうかと宗長は思う。あれは長興の子と出会った頃からだろうか。
「父上」
貞宗がこちらを見ていた。本当に目がいい子だ。宗長は履き物を履くと庭へと出た。
「随分と早起きだな」
「今日は常興が来るので」
そうだ長興の子も元服したのだと宗長は思い出す。貞宗と常興はよく一緒に弓稽古をしていた。
「だからそんなに嬉しそうにしているのか」
「楽しいことを思い浮かべながら射ているのです」
「それで当たるか?」
言ってから宗長は的を見る。矢は全て的に刺さり、外れたものは一本もなかった。
「練習で当たらねば戦場で当たりません」
「では戦場でも楽しいことを思い浮かべて射るというのか?」
それで本当に当たるのかと宗長は思う。しかし貞宗ははっきりと言い切った。
「それで当たれば、楽しいと思いませぬか」
眩しい日の光の中で貞宗は笑う。いい顔で笑うようになったと宗長は思った。そして宗長は親として、貞宗に楽しい思い出があることを嬉しく思う。そしてそれがいつまでも続くことを願った。
馬のいななきが聞こえた。馬から降りた常興がこちらへと駆けてくる。
「常興!」
嬉しそうに笑う息子を見て、宗長もつられて笑う。たとえこれから起こる出来事がどれほど厳しいものとなろうとも、この瞬間が美しいことをいつまでも記憶にとどめておきたいと思った。