小さな頃に見たもの アバンはマトリフに会うために海岸沿いに降り立った。穏やかな気候は心地よい潮風を運んでくる。
アバンが洞窟の入り口へと向かっていると大きな声が聞こえた。それは子供特有の柔らかくも甲高い声で、悲鳴のようだった。アバンは声のしたほうへと急ぐ。だがその声はどうやらマトリフの洞窟から聞こえていた。
「どうしたんですか!」
アバンは言いながら洞窟に駆け込む。すると今ではすっかり馴染みとなったガンガディアが困り果てたようにアバンを見た。その顔が半分凍っている。小さな子どもがガンガディアの耳を掴んでぶら下がり、ガンガディアに向かってヒャドを唱えていた。まだ五つか六つほどの歳だろうか。淡い色の髪で手足が棒のように細い。
「おっと君、彼を攻撃してはいけませんよ」
アバンは子どもを掴むとガンガディアから引き離した。
「離しやがれ!」
子どもはアバンの腕の中で暴れた。しかし元勇者の腕力に敵うはずもない。
「この子は? マトリフはいないのですか?」
メラで凍った顔を溶かしていたガンガディアがそっと子どもを指差した。
「その子が大魔道士だ」
アバンはぎょっとして抱きかかえた子どもの顔を見る。そう言われてみればどこかマトリフの面影があった。
「呪文が失敗してもその姿になってしまったのだ」
「そんなことが」
「離せよおっさん!」
「おっさん!?」
小さなマトリフは両手を合わせると呪文を唱えた。途端に雷のような大音量が洞窟に鳴り響く。アバンは驚いて腕を緩めてしまった。途端にマトリフはアバンの腕から抜け出した。呪文は大きな音以外に効果はないようだが、あまりの大音量にアバンもガンガディアも手で耳を覆った。その隙にマトリフは洞窟の外へと走り出してしまう。
「大魔道士!」
ガンガディアが慌てて追いかける。しかし既に洞窟の外にその小さな姿はなかった。
***
ポップは砂場を歩いていた。手には紙袋いっぱいの果物がある。たまたま訪れた町で魔法で人助けをしたらお礼に貰ったものだ。あまりに大量だったからマトリフにお裾分けしようと持ってきていた。
「ん?」
ポップは抱えた果物の向こうに小さな子どもを見つけた。その子は砂浜に座り込んでいる。体のサイズに合っていない服を身につけており、表情も緊張していた。これは何かあったのだとポップは気付いてその子の横に屈んだ。そもそもこの辺りに住んでいるのはマトリフくらいなもので、子どもが一人で来ることもない。
「どうしたんだ? 迷子か?」
ポップは知る由もないがその子どもは小さなマトリフで、洞窟から飛び出して砂浜を歩いていた。しかし遠くに行けるはずもなく、座り込んでいた。
「迷子じゃねえ!」
マトリフは怒ったように目を吊り上げた。小さいながらもプライドは一人前で、迷子なんて言われて見くびられた気がしたのだ。しかし自分が何処にいるかわからないのも事実で、不安そうに辺りを見渡している。
「どこの村から来たんだい? なんならおれがルーラで連れてってやるよ」
「ルーラが使えるのか?」
その呪文の名前にマトリフはパッと顔を輝かせた。しかしすぐに首を振る。
「駄目だ。あんたギュータに来たことないだろ」
「ギュータ? そこがお前の村の名前か?」
マトリフは頷く。ギュータは特殊な場所だ。里の者以外が来れば目立つ。目の前の青年がギュータに来たらマトリフだって覚えていただろう。
「ギュータか。確かにおれは知らない場所だな。でも地図で調べて近くまでルーラで行って、そこからトベルーラっていう手もあるぜ?」
ポップは提案するがマトリフはまた首を振った。ギュータは地図には載っていない。師匠であるバルゴートが言っていたから間違いない。
ポップはマトリフを見て思案すると、紙袋から果物を一つ取り出してマトリフに渡した。そしてポップも果物を手に取って齧り付く。
「おっ、結構酸っぱいじゃん」
ポップは酸味に口を尖らせる。それを見ていたマトリフは小さなくちで果物に歯を立てた。そして溢れた果汁の酸っぱさに目をギュッと瞑った。ポップは歯を見せて笑うとマトリフの頭を撫でた。
「何かあったんだろ? おれで良かったら助けるぜ?」
マトリフは少し考えるようにポップを見たが、思い切って口を開いた。
「洞窟でデカブツと変なおっさんがいて逃げてきた」
「変な……ああ〜」
ポップはその二人の予想がついて思わず笑った。どうやらこの子どもはマトリフの洞窟に迷い込んで、そこでガンガディアとマトリフに会ったのだろう。
「その二人は怖くねえよ。おれもよく知ってるから安心しな」
マトリフは疑わしげにポップを見る。しかしポップの人好きのする笑みに警戒心は薄れていった。ポップは肩越しに振り返る。背後の岩場で身を縮めてこちらを伺っているガンガディアが見えた。その後ろにはアバンもいる。ポップが頷けば二人はそろりと出てきた。
***
ポップのおかげでマトリフはガンガディアとアバンに対する警戒心を解いた。ポップはこっそりとアバンから説明を受けて、その子どもがマトリフであると知った。あまりの驚きに素っ頓狂な声を上げる。しかもそのマトリフが言っていた変なおっさんがアバンの事だと知って、こちらは少し笑ってしまった。ポップはマトリフの相手を買って出て、気さくに話しかけている。
「困りましたねえ」
アバンはポップと話すマトリフを見ながら頭を悩ませた。ガンガディアの説明によれば、マトリフを小さくしてしまった呪文はマトリフによるもので、解除は術者本人でなければ出来ないという。しかしマトリフの精神は子どもへと戻っており、その知識がない。マトリフの使った呪文はオリジナルのもので、それはどこへも書き残していないという。
マトリフは膝を抱えたまま波打ち際を見ていた。ポップの話しかけに言葉少なに答えている。それでも少しは打ち解けたようで、マトリフは打ち寄せる波を指差してポップにたずねた。
「これは何なんだ?」
いつもは穏やかな海だが、先ほどから風が出ていた。波は今にもマトリフの足先にかかろうとしている。
「何って……波だろ?」
「これ全部が波なのか?」
その言葉にマトリフ以外の三人は驚く。しかしアバンはその理由がわかった。おそらくマトリフは海を見たことがないのだろう。物心ついたときにはギュータにいたと言っていた。雲の上の里では海を見ることも無かっただろう。
「これは海だ」
ガンガディアはマトリフの横へと腰を下ろす。その大きな指を波へとつけた。
「舐めると塩っぱい」
マトリフはガンガディアを真似て指を波で濡らすと口へと運んだ。ペロリと舐めて眉間に皺を寄せる。
「しょっぱ……」
「これを熱して水分を飛ばせば塩になる」
ガンガディアは海水を掬った手にメラを出した。それを消せばガンガディアの手のひらには白い粒が残る。マトリフはガンガディアの大きな手を覗き込んだ。
「やってみるかね?」
マトリフは自分の手を見て首を横に振った。
「おれメラは苦手だし」
「では私が教えてあげよう。どうかな?」
ガンガディアはできる限りの優しい声音を出したのだが、マトリフはまた首を振った。
「呪文なら師匠に教わる」
マトリフは両掌を空に向けた。そのまま呪文を唱える。するとその呪文は真っ直ぐに空へと伸びると、信号弾のように弾けた。しかしすぐには消えないようで、太陽のような印が光り続けている。
「師匠がこれを見つけて迎えにくる」
マトリフは広がる空を見て呟いた。三人は顔を見合わせる。
「なあ、師匠の師匠って……」
ポップが低い声でたずねる。
「バルゴート様は既に亡くなられてます」
「だったら迎えなんて来ねえじゃん」
「ええ。ですがその事を今のマトリフには」
「じゃあ先生がギュータに連れて行くっていうのは?」
「いえ……ギュータは既に封印されています。もう帰れません」
「天気が荒れそうだ。とにかく洞窟に戻るように説得してみては?」
マトリフが変なと称したアバンのカールした髪が強風に揺れた。空は曇り始めている。灰色の雲に太陽が隠されたせいで薄暗かった。
「なあ師しょ……あーっと、マトリフくん? 雨が降りそうだからさっきの洞窟に行かないか?」
「やだ」
マトリフは即答した。
「やだって……雨が降ったら濡れちまうぜ?」
「やだ!」
マトリフは動かないと示すようにぎゅっと膝を抱えた。
「が、頑固なガキだな〜」
ポップは困ったように跳ね返った黒髪を掻いた。今度はガンガディアがマトリフに話しかける。
「どうして嫌なのかね。洞窟は呪文で明るくしてあげよう。何も怖くない」
マトリフはガンガディアの提案にもツンと顔を背ける。
「おれはここで師匠を待つ」
「バルゴート様は今は忙しくて来れないかもしれませんよ?」
アバンも優しく伝える。しかしマトリフは俯いて膝頭に顔を押し付けた。
「師匠は迎えに来るって言ってんだろ」
マトリフのくぐもった声が聞こえる。アバンもポップもガンガディアもすっかり困り果ててしまった。雨は今にも降り出しそうだ。
「しかしですね。このままでは雨に濡れて風邪を引いてしまうかもしれませんよ?」
「それでもいい」
「しょうがねえなあ。ほら、行こうぜ。魚焼いて食おうぜ?」
「いらねえ」
「約束したとしても、それが守られるとは限らない」
ガンガディアの言葉にマトリフは顔を上げた。
「師匠は来る!」
マトリフの声は震えていた。怒りや戸惑いが綯交ぜになっている。マトリフは頭上の魔法を指差した。
「この呪文でおれがどこにいるかわかるんだ! おれがどこにいたって、これがあれば師匠が見つけてくれるって……ちゃんと迎えに来るって言ったんだ!」
それはぎりぎりとどまっていた感情が溢れ出したようだった。マトリフは暗雲を睨みつける。まるでそこから今にも師がやって来ると信じているようだ。
***
か細い雨粒が落ちてきた。それがマトリフの髪にあたる。吹く風もひんやりとしてきた。
「ほら、雨が降ってきたぜ?」
ポップは宥めるように言うが、マトリフは頑として譲らない。そう言っている間にもぽつりぽつりと雨が降ってきた。時刻も夕方を過ぎて夜になろうとしている。
「真実を告げるべきでは?」
ガンガディアがアバンに言う。マトリフが待ち続けているバルゴートはもういない。それは覆りようがない事だった。
「しかし、それを知ったところで無意味に悲しませるだけだと」
アバンはマトリフから詳しい出自を聞いたわけではない。だが物心ついたときからギュータにいたというあの言い方からして、両親の元で育ったわけではなさそうだ。迎えに来るのはバルゴートだと言っていることから、他に保護者にあたる人物もいないのだろう。
「もしかして、迎えに来ると約束したのに来なかった人物がいたのかもしれません」
アバンの言葉にガンガディアは厳しい表情になった。
「師匠は、とさっきマトリフが言っていたので。他に迎えに来なかった人がいたのかと。あのギュータは子どもが単独で辿り着ける場所ではありませんし、マトリフは生まれつき魔法力が高いと言っていたので。もしかするとそれを理由に……」
魔法力の高さを忌み嫌う風習がある地域もある。魔法力は魔族の力とされているからだ。もしそんな場所で高い魔法力を持って生まれてしまったら。
「両親が迎えに来ると約束をして彼を置き去りにしたと?」
「あくまでも想像ですが。だからバルゴート様はマトリフにあの呪文を教えたのかも知れません。何かあって離れ離れになっても、必ず迎えに来ると約束をして」
アバンは空に輝く太陽の印を見上げる。これまでこの呪文をマトリフが使うことがあったかはわからない。十年もすればマトリフも成長をして師の迎えが必要になることもなかっただろう。だが必ず迎えに来るという約束が、幼いマトリフの心を支えていたのかもしれない。
「だから、今のマトリフに迎えが来ないと告げるなんて残酷すぎませんか」
ガンガディアはマトリフを見る。呪文の失敗により幼い姿になったときは驚きもしたが、彼はやはりマトリフなのだと思った。その性格も、考え方も、今のマトリフを形作った根幹はあの小さなマトリフなのだろう。
「あの呪文は大魔道士にしか解けない」
「ええ、ですが他に何か方法がないか調べてみようかと」
「その前に雨を遮るものが必要だろう」
ガンガディアはマトリフの横に行くと掌を上げた。そこから緩やかな真空呪文を放つ。風が覆いを作り雨が弾かれていく。
「君が待つと言うのなら、私も付き合おう」
ガンガディアは言うとマントを外してマトリフの小さな肩にかけた。ガンガディアはアバンに目配せをする。アバンは頷いた。
「ポップ、少し手伝ってくれませんか」
アバンはポップを連れてルーラで飛んでいった。解決策を探しに行ってくれたのだろう。
ガンガディアはメラを灯して足元に置いた。
「君は氷系呪文のほうが得意かね」
「まあな。あんたは?」
「私に得手不得手はない。もし苦手な呪文があったとしても努力で克服した」
「へっ……真面目なやつ」
生意気な口調でマトリフは言う。しかしその目は黒い海に向いていた。寄せては返す波は絶えることなく続いている。
「海が気に入ったかね」
「うん。もし住むなら海のそばがいい」
波は単調でありながら永遠に続くように音を響かせていた。ガンガディアは眼鏡を押し上げる。
「それはきっと叶うだろう」
「なんでそんな事わかるんだよ」
「知っているからだよ、大魔道士」
マトリフは訝しんでガンガディアを見上げた。
「なんだよ、大魔道士って」
「君のことだ」
ガンガディアの眼鏡の奥の瞳がマトリフを射る。マトリフは急に居心地の悪さを感じた。逃げ出したくなって後退る。しかしガンガディアは続けた。
「君の師は迎えに来ない」
マトリフは顔を強張らせた。くしゃりと表情が歪む。
「……なんでそんなこと言うんだよ」
「思い出せ。君は幼い迷子ではない。大魔道士マトリフだ。思い出せないだけで君の中には君を救う知識が詰まっている」
「っ……知らねえよ……そんな……」
「君の師はもう死んだ。故郷は封印されて帰れない。だが君は師の助けを待つだけの幼子ではない。君を救うのは君自身だ。さあ呪文を解くんだ。その方法は君だけが知っている」
「わけわかんねえこと言うなよ! 師匠が……あんなクソジジイは殺したって死ぬわけねえんだ!」
「本当は君だって知っている。だが乗り越えた。今の君を救えるのは君だけだ」
ガンガディアはマトリフの手を取った。ガンガディアの視線は言葉にはない感情を伝えていた。そこにはマトリフに対する信頼と尊敬が含まれている。マトリフならできるとガンガディアは信じていた。
「さあ気持ちを落ち着けるんだ。自分の心を見つめて。そして思い出すんだ。これは君が作った呪文。答えは君の中にある」
マトリフの小さな瞳が潤んでくる。しかし何かに気付いたように自分の手を見た。
「呪文の解除?」
それはシャボンが弾けるほどの呆気なさだった。マトリフにかかっていた呪文は解除された。
***
マトリフ幼児化騒動から数日後。ポップはルーラで洞窟の前に降り立った。洞窟の岩戸はぴったりと閉じられ、その前ではガンガディアが立ち尽くしていた。
「なんだよ。まだ師匠は拗ねてんのかよ」
ポップは呆れたように岩戸を叩く。呪文が解けてからマトリフは洞窟に引きこもっていた。どうやら元に戻っても子どもになっていた頃の記憶はあるらしく、それがマトリフにとってかなりの精神的ダメージだったらしい。
「べっつに恥ずかしがることねーじゃん。生意気だったけど案外かわいらしかったよな?」
「私もそう伝えたのだが」
ポップとガンガディアは頷き合う。しかしその反応こそマトリフにとって脳みそを掻きむしるほど恥ずかしいのだった。しかもよりにもよってガンガディアとポップとアバンという、こいつらにだけは絶対に見られたくないという三人に見られてしまった。マトリフにとっては自分の師に対する依存心は、誰にも知られたくないものだった。
「大魔道士、ポップ君がジャムを作って持ってきてくれたが、お礼を伝えてはどうかね」
ポップが持ってきた籠には瓶詰めのジャムが幾つも入っている。この前の酸っぱすぎる果物をアバンのレシピでジャムにしたものだ。
「……あんがとよ」
岩戸の向こうから小さく声が聞こえた。ここ数日間も返事だけは返ってきている。声が聞こえてポップは安心した。あの小さな姿が頭に焼き付いているのでつい心配してしまう。
「あんたまで締め出されて大変だよな。あの呪文が解けたのだってガンガディアのおっさんのおかげなんだろ」
「呪文を解いたのは大魔道士本人だ。私は何もしていない」
「まったくしょうがねえよな」
ポップはそう言うが、ガンガディアはマトリフの気持ちもわかった。二度と触れたくない過去はガンガディアにもある。あんな姿をマトリフには知られたら血管が切れてしまうだろう。
「ガンガディアのおっさんは入れてやれよな」
「私は構わない。屋根付きでないと寝起きできないほど脆弱ではない」
「そういうことじゃないんだって」
ポップは意味ありげにガンガディアに目配せした。しかしガンガディアはその意味がわからない。ポップはガンガディアに手招きをして屈ませると、尖った耳に向けてそっとたずねた。
「あの呪文、何のために使ったのかガンガディアのおっさんは知ってるのか?」
「いや……試したいことがあるとしか聞いていなかったが」
ふうん、とポップはにやついた顔になる。
「なーにを試したかったんだかなあ?」
ポップはわざとらしく声を上げる。すると岩戸が少し開いた。と思ったら途端にイオが飛んでくる。ポップはそれがわかっていたようにヒラリと避けて飛び上がった。
「じゃあおれは帰るわ」
言いながらポップは高速で飛んでいく。マトリフの舌打ちが聞こえた。ガンガディアは少しだけ開いた岩戸に向かって問いかける。
「何を試したかったのかね?」
「うるせえ」
マトリフはガンガディアの手からジャムだけ取ってまた岩戸を閉めてしまった。ガンガディアは不思議そうに首を傾げる。マトリフが若返ってやりたいこと。ガンガディアは座り込んで頭を悩ませた。