溶けない氷 マトリフは膨大な魔法力が無意味なまま霧散するのを感じた。もっとも、この呪文でも凍りついた勇者を救えないとわかっていた。だがもし万が一、ほんの少しでも可能性があるならと、縋るような気持ちで呪文を唱えたのだ。
勇者アバンは寸分違わない状態でそこに立っていた。マトリフは震える手を握りしめる。強大な威力の呪文はマトリフの手を焼いていった。その肉が焦げた匂いが鼻につく。回復呪文をかけなければと頭では思いながら、膝の力が抜けてその場にしゃがみ込んだ。
焼け爛れた手のひらを見つめる。こんなことをしたって、アバンは救えない。
「ッ……!」
マトリフは急に息苦しさを感じて胸元を掴んだ。内臓が締め付けられるような感覚に体を丸める。それが先ほど使った呪文のせいだとわかっていた。この呪文は人間が使えるものではない。その強大さは人間の肉体には負荷が大きすぎるからだ。
息をしようと空気を吸い込むが、咽せて口の中に血の味が広がった。地面に黒ずんだ血がぽたぽたと落ちていく。それが失われていく己の生命のように思えた。
この命と引き換えにアバンを救えるなら安いものだ。だがいくら命を粗末にしたところでアバンは救えない。
「くそッ……」
マトリフは己の足元に置いてあった魔導書を掴んだ。さっき使った呪文が載っていたものだ。魔界の呪文が記載されているそれを、力任せに投げつける。それは単なる八つ当たりであったが、魔導書は無惨に地面に落ちる前に、青い手によって受け止められた。
「本を乱暴に扱うのは感心しないな」
音もなく降り立ったガンガディアに、マトリフは口を歪めて笑った。
「オレを笑いにきたのか」
「無意味なことを止めさせにきた。こんな呪文は効きはしない。君もわかっているはずだ」
「そりゃお前らにとったら百年くらい短いだろうけどよ、オレはそんなに待ってられねえんだよ」
秘法が不完全であることはわかっていた。だからそれが解けることに賭けていたのだ。その間にマトリフがハドラーを消し去ってしまえばいい。
だが、凍れる時間の秘法がかかった肉体を傷付けられる呪文はなかった。あの消滅呪文も完成には程遠い。失敗続きのなか時間だけが過ぎていくことにマトリフは焦っていた。アバンだけでも秘法を解いてしまえればと、マトリフは禁呪法にまで手を出した。
「時間の流れは人間にも魔物にも等しい」
ガンガディアの言葉にマトリフは鼻で笑った。同じなわけがない。ガンガディアが百年待てることに対して、マトリフが待てるのはせいぜい十年だ。他の仲間だって百年は待てない。もし百年経って秘法が解けたとして、アバンはたった一人で魔王と戦うことになる。そんなことはさせない。たとえ世界がその百年の平和を願ったとしても、マトリフはそんなこと許さなかった。
ガンガディアはマトリフのそばに屈むとマトリフの手を取った。その手が淡い回復呪文の色に包まれる。先ほどまで手を蝕んでいた痛みがすっと消えていった。
「……いつの間に回復呪文を」
マトリフの手がガンガディアの手の中で再生していく。それをマトリフは奇妙に気持ちで見ていた。
「私も何もせず過ごすつもりはない」
「これでお前を倒すのがもっと面倒になっちまった」
もう勝てねえな、とマトリフが呟けば、ガンガディアはマトリフの手を握り込んだ。なんなら今すぐ楽にしてくれと思いたくなる。もう回復呪文は終わっていた。それなのにガンガディアはマトリフの手を離そうとしない。
「私たちが戦って何になる」
「なんだよ、魔王が凍りついて腑抜けにでもなったか」
「君とは戦いたくない」
その言葉が刃のようにマトリフの胸に突き刺さった。自分で抑えられない怒りが込み上げる。マトリフはガンガディアに掴まれた手を振り解いていた。
「オレはお前ら全員をぶっ殺してやりてえよ!」
唾を吐きかければガンガディアの頬にかかった。血液混じりのそれがガンガディアの青い肌に付着する。ガンガディアはそれを手のひらで拭うと立ち上がった。
「ならば勝手にするがいい。君が自滅するは見たくなかった」
ルーラで飛んでいく姿を見ながらマトリフは胸が痛むのを感じた。だがそれは禁呪法のせいではない。先ほど感じたのも怒りではなかったのかもしれなかった。
声を上げて叫べばこの気持ちも消えるのだろうか。荒野に一人残されたマトリフは青い空を見上げていた。