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    なりひさ

    @Narihisa99

    二次創作の小説倉庫

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    なりひさ

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    ガンマト。デトロイトビカムヒューマンのパロ。ガンガディアがアンドロイドで、画家のマトリフを介護している。

    #ガンマト
    cyprinid

    善の鼓動善の鼓動


    「おはようマトリフ」
     言いながらカーテンを開けた。太陽は既に高い位置にある。背後のベッドからは呻き声が聞こえた。マトリフは日光を遮るように手を上げてから寝返りをうった。
    「もう十時を過ぎている。さっき画材屋から絵具を受け取ってきた。昼からは小雨が降るそうだ」
    「二度寝日和だな」
     私はベッドサイドに移動してコップに水を注ぐ。そばにあった薬と一緒にマトリフに差し出した。
    「さあ飲んで」
    「どうだ、お前も一緒に二度寝しないか」
     マトリフは差し出した薬を無視して私を誘う。だがそれに応じては駄目だと瞬時に判断した。
    「薬を飲んで」
    「ふん」
     マトリフはぼやきながら薬を手に取って水で流し込んだ。マトリフは長年の病気のせいで心臓が悪い。時間通りに服薬させることも私の仕事のひとつだった。
    「メールが四件、読み上げても?」
    「いや後で。先に風呂だ」
     言ってマトリフは手を私に向ける。その手を肩に回して腰と膝裏に手を回した。その身体を抱き上げる。軽い身体を落とさないようにしっかりと抱きしめた。そのまま隣室へと向かう。扉は自動で開いた。マトリフは身体が弱っているために移動は車椅子を使う。そのために家中が車椅子で移動が可能なようになっていた。
     私はバスルームの椅子にマトリフを下ろしてシャツのボタンに手をかける。バスルームは暖房をつけているから快適な温度だった。浴槽にも適温の湯がはられている。
    「朝食の希望は?」
    「ワッフルとコーヒー」
    「わかった」
     言いながらマトリフの皮膚に触れる。精巧なセンサーがある私の指先が、マトリフの血圧や体温、脈拍を測っていく。それらはデータとして蓄積されていた。私はこめかみのLEDが点灯するのを自分でも感じた。アンドロイドであることの印のような円形のLEDは黄色く光っている。
    「少し体温が高いが、気分は?」
    「大丈夫だ。温かい湯に入りゃ気分も良くなる」
     私は注意深くマトリフを観察する。顔色は悪くない。入浴を手早くすれば身体への負担は少ないだろう。
     服を全て脱がせたマトリフを抱え上げてゆっくりと浴槽へと入れていく。
    「ぬるい」
    「高温の湯は身体に悪い」
    「風呂くらい好きな温度で入りてぇよ」
     文句を言うマトリフの身体を洗っていく。柔らかなスポンジでそっと身体を撫でた。泡だらけになっていくマトリフを見るのが私の一つの楽しみだった。
     入浴が終わったマトリフを連れてリビングに向かった。マトリフは車椅子に座っている。私は車椅子を押してテーブルの前でとめた。マトリフはテレビをつけてニュースを見ている。
     私はキッチンへ向かってワッフルとコーヒーを準備する。すると来客を告げる音が玄関ホールから聞こえた。瞬時に人物データが転送されてくる。登録してある人物だったので玄関は自動でロックが解除された。
    「師匠〜」
     すぐに元気のいい声が聞こえてくる。私は手を止めてリビングに向かった。
    「よう、ガンガディア」
    「いらっしゃいポップ」
     リビングに入ってきたポップは息を弾ませていた。どうやら走って来たようだ。
    「どうしたポップ」
     マトリフは自分で車椅子を移動させてきた。ポップは人間嫌いのマトリフが唯一心を許している相手だった。ポップは手に持った封筒をマトリフに見せる。
    「合格通知」
     ポップは満面の笑みを浮かべながら言う。大学の名前が封筒にあるから、以前に言っていた希望する大学の合格通知だとわかる。
    「やったな」
     マトリフは珍しく笑みを浮かべていた。手招きしてポップを呼びと、手を伸ばして頭を撫でている。ポップは照れながらも嬉しそうだった。私もマトリフの隣に立ってポップに微笑みかける。
    「おめでとう。一緒に朝食はいかがかな」
    「いいの? そういえば食べて来なかった」
     ポップはその合格通知を持って家から飛び出してきたから朝食は食べ損ねたと言う。
     私は追加のワッフルを焼いてリビングへと運んだ。テーブルにつくマトリフとポップの前に朝食を並べる。
    「ガンガディア」
     マトリフは隣の椅子を指し示した。私は頷いてマトリフの隣の椅子に腰掛ける。私はアンドロイドだから食事は必要としないが、コミュニケーションの一環として食事の場には参加することにしている。私はちらりとマトリフを見た。その表情から嬉しそうだと判断する。マトリフが嬉しいなら私も嬉しかった。

     ***

     私がはじめてマトリフに会ったとき、彼は酒気にまみれていた。搭載されたセンサーが瞬時にそれを検知して、酒の種類や成分まで分析する。
    「初めまして、マトリフ様」
     私は戸口に立って挨拶をして、入室の許可を得ようとした。扉は空いていたのでノックは省略する。
     だが待っても返事は返ってこない。マトリフはベッドの上に寝転んでいた。こちらに背を向けているために表情がわからない。スキャンの結果、睡眠中ではないようだ。私は彼の注意をこちらに向けてもらうために自己紹介をすることにした。
    「私はサイバーライフ社で製造されたアンドロイドです。アバンよりマトリフ様へ贈られました」
     アバンはサイバーライフ社の創業者でありマトリフの友人だ。するとようやくマトリフが反応を見せた。
    「あぁ……ったく……」
     それが初めて聞いたマトリフの声だった。それだけでは彼の言いたい意味が理解できず、私はさらに言葉を続けた。
    「私はマトリフ様の良きパートナーとなるために製造されました。生活の補助を主に行います。ご要望があればその都度必要なデータやソフトウェアを追加ダウンロードして」
    「ごちゃごちゃうるせぇ」
     その声は地を這うようだった。彼の私に対する好感度が下がったのだと理解する。だがその理由はわからなかった。入室していいのかもわからない。
     私はメモリーに入っているマトリフの情報を検索する。そこにはマトリフの華々しい業績とそれに対する賞賛と批判、画廊との対立、ネットでの噂まであった。それらはダウンロードしたときに一通り目を通してあるが再度読み返す。ネットでの噂はあまり参照しないとしても、マトリフが対人コミュニケーションにやや難があるのは理解できた。
    「おい」
     マトリフの声に私は意識をそちらに向けた。呼ばれたということは入室が許可されたのだと判断する。私はベッドのそばまで歩み寄った。近づけば酒気はさらに濃くなる。視界センサーが幾つもの酒瓶を認識していた。マトリフの医療記録は本人の了解を得てからダウンロードするつもりだが、これはアルコールへの依存があるのかもしれない。
     私はベッドのそばに立ってマトリフを見た。その姿はダウンロードした画像から知っていた姿からかけ離れていた。私のメモリの中にあるマトリフは画家として華々しく活躍し、それが些細なトラブルで陰りを見せた時期においても、人を食ったような態度で不敵に笑っていた。
     だが目の前にいるのは酒に溺れて痩せ細った老人だった。
    「初めまして、マトリフ様」
     私のソーシャルモジュールは丁寧な挨拶を準備していた。まだ会って数分だ。丁寧で穏やかな挨拶を嫌う人間はごく稀で、彼の年齢から考えても親しみがこもった対応はまだ早いと判断する。
    「黙れプラスチック野郎」
     だがマトリフは怒りを露わにしていた。視覚や聴覚のセンサーがマトリフの表情や声音を怒りだと判断する。私はこめかみにあるLEDリングが明滅するのを感じた。マトリフへの対応に処理が追いつかない。適切な言葉がけが判断出来なかった。
    「ご不快にさせて申し訳ありません」
    「アバンのところへ帰れ。オレはアンドロイドなんていらねぇ」
    「ですが……」
     私は返答に迷った。いくつもの候補が上がっているが、どれもマトリフを怒らせる予測が出る。
    「なぜ、お怒りなのでしょうか」
    「オレぁ人間が嫌いなんだ」
    「でしたら、私は人間でなくアンドロイドですので問題ないかと」
     私は一筋の光明が見えた気がした。マトリフの人間嫌いについてはメモリーにも情報があった。だからこそアバンはアンドロイドである私をマトリフに送ったのだろう。
     マトリフは起き上がって私を見つめた。友好のサインを見逃すまいと私もマトリフを見つめる。しかしマトリフは忌々しそうに口元を歪めた。
    「てめえは人間の姿をしてんじゃねぇか」
     マトリフの表情にわずかに痛みに似た感情を見つけた。私は安心してもらうために柔らかな笑みを浮かべる。
    「安心してください。見た目は人間ですが、私はただの機械です」
     そこさえ理解して貰えれば私たちは上手くいくと思った。私はマトリフと良好な関係を築きたい。私はマトリフのために作られたアンドロイドなのだから。
     だが、マトリフの態度は変わらなかった。
    「出ていけ」
     軽蔑が刻み込まれた声が薄暗い部屋に響く。その中でLEDリングだけが黄色く光っていた。

     ***

     出ていけ、と言われたので部屋を出た。そのまま部屋の前に立っていたのだが、扉は閉められてしまい、マトリフの様子を伺うことは出来なくなった。
     私は立ったまま次のマトリフの指示を待つことにする。あの怒り様ではこれ以上の接触は関係の改善に役立たないと判断した。
     私は製造元であるサイバーライフ社のアバンへの相談を考えた。友人であるアバンならマトリフへの対応方法を理解しているのだろう。既に組み込まれているソーシャルモジュールが使えないのなら、新たなモジュールを構築する必要があった。
     だがそれは時期尚早だ。まだマトリフと会って数分しか経過していない。アンドロイドに拒否反応を示す人間も珍しくはなかった。年齢層が高ければその傾向も強くなる。最近ではアンドロイドの普及によって職を失った人間が、反アンドロイドのデモを行なっているとの情報もあった。
     良好な関係を築いていくことは簡単ではなく、それは人間の元に置かれたアンドロイドの最初の試練とも言えるだろう。もちろん最初から歓迎されるアンドロイドもいるが、それは幸運なアンドロイドだ。一昔前ならいざ知れず、大量に生産されて価格が下がり、アンドロイドのありがたみが失われた今となっては使い捨てられることも珍しくはない。
     私は先ほどの短いやり取りの中で得た情報を元に、自分でマトリフ対応のソーシャルモジュールを作成することにした。学習機能が搭載されているために利用者に合わせた細かな変更が可能だ。私はフローチャートを眺めながら、マトリフへの返答の最適解を探していく。さらにその先の返答も予測して、さらにその先へと考えていく。
     気がつけばすっかり陽が沈んで私が立つ廊下は暗くなっていた。私は暗くても視界に不自由はないが、マトリフが通ったときに困るだろうと照明のスイッチを探すことにした。
     すると微かな音がして扉が開いた。マトリフが部屋から出てきたのだと気付いて姿勢を正す。いつでもあなたの指示を聞けると示すために視線もマトリフに向けた。
    「うわッ!」
     マトリフは私を見て驚いた声をあげて後退った。暗くて私の存在に直前まで気付かなかったらしい。もっと早くに室内の暗さに気付いて照明をつけておけばよかった。私は手を伸ばしてボタンに触れる。
     音もなくついた照明がマトリフを照らした。マトリフはあれからも酒を飲んだのか、呼気からは濃いアルコール臭がした。しかし私に対する嫌悪感は薄れていないらしく、忌々しそうに舌打ちして私を見た。
    「そんなとこに突っ立ってんじゃねぇ」
    「待機場所を指示してください」
    「帰れって言っただろう」
    「私はマトリフ様に贈られたのですから、他に帰る場所などありません」
     するとマトリフはハッとしたように目を見開いて息を詰めた。私はその反応の意味を理解しようとじっとマトリフを見つめる。だがすぐにマトリフは私に背を向けて歩き出した。
    「マトリフ様」
     私はすぐにマトリフの後を追う。マトリフの足取りはまさしく泥酔者のもので、非常に不安定だった。向かう先には階段がある。
    「ついてくるな」
    「ですが」
     マトリフは手すりを持ちながら階段を下っていく。その危なっかしい様子に私はそばについて手を伸ばした。だがその手はマトリフによって払われる。
    「オレに触るんじゃねえ!」
     叫んだその身体がぐらりと揺れた。物理シュミレーションがマトリフが階段を落ちていく軌道を瞬時に予測する。その結果と触るなという言葉とが拮抗した。私は手を伸ばしてマトリフの腕を掴んでいた。
    「大丈夫ですか」
     マトリフは身体を強張らせて階段を見ている。私は掴んだ腕の細さに驚いていた。力を込めなければ支えられないが、あまり強く握ると折れてしまいそうだった。
     掴んでいた腕を振り解かれる。マトリフはまた階段を下りはじめた。手すりを強く握り、下りる足取りも慎重だ。それでも私は気が気ではなくて、そばを離れないように一緒に下りていった。
     一階までつくとマトリフは息をついて私を見上げた。
    「なぁ」
    「なんでしょうか」
    「そこに立って、次にオレの命令があるまで待機してろ」
    「はい」
     私は初めてのマトリフからの指示に気分が高揚した。私は階段下の壁に向かって立つ。マトリフがキッチンの方へと歩いていくのが視界の端に映った。
     私たちアンドロイドにとって主人である人間の命令は絶対だった。だがときにはその命令に逆らうこともある。それがさっきのような場合だ。主人の命令が主人の命を脅かす場合、命令に逆らって命を助ける。殺せと言われても引き金を引かないし、触るなと言われても落ちそうな手は掴む。それが正しい行いだった。
     私は自分の行いをありがたがってほしいとは思わない。アンドロイドが人間に尽くすのは当然だからだ。だがマトリフと打ち解けるきっかけになればいいと思っていた。
     私はマトリフから次の指示を待った。
     しばらくしてマトリフがキッチンから出てきたときは、私は背筋を伸ばして手を軽く握った。先ほど作成したソーシャルモジュールを試す機会でもある。私のLEDリングは快調に緑色に光っていた。
     だがマトリフは私を通り越して階段を上っていった。靴が階段を打つ音から足取りは先ほどよりしっかりとしているとわかる。
     やがて上階から水音が聞こえた。それがバスルームから聞こえるシャワーの音だと判断する。
     私は厄介払いされたのだと遅れて気付いた。

     ***

     硝子が割れる音が響いたのは間もなくのことだった。思わず上の階を見上げる。シャワー音は絶えず続いていた。
     私は命令の破棄を選択する。階段を駆け上がってバスルームへと一直線に進んだ。
     バスルームの扉を開けた途端に湯気で視界が塞がれる。シャワーは出続けており、床には酒瓶が割れて散らばっていた。
    「マトリフ様!?」
     バスタブからは片脚だけがのぞいていた。それはつまり上半身が湯に沈んでいるということだった。
     私は駆け寄って湯に腕を入れてマトリフを引き上げた。シャワーが身体を濡らしていく。湯から出た途端にマトリフは咽せた。意識があるようで安心する。私はマトリフを抱え上げて立ち上がった。タオルを手に取り、バスルームの隅にあった椅子にマトリフを下ろした。大きなタオルで身体を包む。
    「大丈夫ですか」
     マトリフの髪から水滴がぽたぽたと滴り落ちていた。マトリフに触れると高めの血圧や速い鼓動を感知する。
    「……滑って転んだだけだ」
     マトリフは顔をしかめて後頭部に触れている。どうやらそこをバスタブの縁でぶつけたらしい。その振動で置いてあった酒瓶も倒れて割れたのだろう。
    「念のために医療機関に受診しますか」
    「いらねぇよ」
     マトリフはタオルを巻きつけて立ち上がった。そのままふらふらと寝室へと向かう。マトリフが通った後に水滴が落ちていった。
    「くそっ……」
     あらゆるものに唾棄するようにマトリフは呟く。裸にタオルを巻いただけの姿でベッドに寝転がった。私は別のタオルを手に取ってマトリフに駆け寄る。
    「髪を拭かないと風邪をひきますよ」
     マトリフは無言で私の手からタオルをもぎ取ると、乱雑な手つきで髪を拭いた。ぶつけた後頭部を避けて拭いたせいで殆ど拭けていない。マトリフは頭を拭いたタオルを私のほうへ向かって投げた。私はその間もマトリフの様子を観察する。不調を示す徴候を見逃さないようにした。
    「あちらの片付けをやっておきます」
     長く部屋に留まるためにそう提案した。マトリフは視線だけで私を見たが、何も言わなかった。
     寝室とバスルームは扉一枚で繋がっているために、私はその扉を開けたままで割れた瓶を片付け
    、浴槽から湯を抜いた。その間もマトリフの様子を伺う。マトリフはブランケットに包まっていた。
     私は片付けを終えてマトリフにそっと歩み寄る。マトリフは目を閉じて眠っていた。ブランケットから出た手に触れる。体調不良のサインはなく、呼吸も落ち着いていた。
     私はマトリフの手にブランケットをかぶせて、そばに腰を下ろした。センサーは常にマトリフの健康をチェックするように設定する。その鼓動のリズムを聞くとようやく安心できた。
     翌朝、マトリフは日が昇る頃に目を覚ました。自分が裸であることで、昨夜の出来事を思い出したようだ。後頭部に手をやってさすっている。マトリフは私に目を向けたが、その視線に棘が少なくなったように感じた。
    「おはようございます。マトリフ様」
     あなたが無事に目覚めて本当によかった、と言いそうになる。プログラムが用意した言葉にしては妙だった。私は別の言葉を選ぶ。
    「朝食を用意しましょうか?」
     私は立ち上がってカーテンを開けた。曇っているお陰で陽射しは控えめだった。
    「お前に二つ言いたいことがある」
    「はい」
     マトリフは手で顔を覆ってから、髪をかき上げた。目を細めて私を見上げている。
    「その、様を付けて呼ぶのをやめろ。敬語もだ。名前は呼び捨てにして、馬鹿みたいにかしこまった話し方はするんじゃねえ」
    「指示を了解。マトリフ。会話タイプを親しみに設定」
     マトリフは顔をしかめたが、まあいいと頷いた。
    「二つ目は、朝飯はコーヒーだけでいい。冷蔵庫には何も入ってねえよ」
    「了解した」
     朝食の後で食料品の発注をしようとリマインダーに設定する。そのためにもマトリフの好みを知る必要があった。後でそれとなく聞いてみよう。
     マトリフは落ちている服を拾って身につけている。服を着終わったところで手を差し出した。マトリフは眉間に皺を寄せてその手を見た。
    「なんだよ。駄賃でも欲しいのか」
    「いえ、階段を降りるときに手助けが必要かと思って」
     私としては悪意は全く無かった。嘲笑や揶揄いの気持ちもだ。だがマトリフはそうは感じなかったようだ。これは後で知ったのだが、マトリフは老人扱いされることを酷く嫌っている。
     マトリフは再び厳しい眼差しを私に向けて、足音も荒く部屋を出ていった。

     ***

    「医療データだぁ?」
     マトリフは朝食を食べながら面倒臭そうに言った。
    「あなたの許可があれば私にダウンロードして、その情報を元に食事を準備することもできるのだが」
     マトリフは関心がなさそうにワッフルを食べている。それも私が買ってきたものだった。
     風呂での一件の後、私はマトリフにコーヒーを準備しながら冷蔵庫やパントリーを見た。この家にはキッチンに十分なスペースと設備があるのだが、それが全て無駄になっていた。あるのは酒と干からびたチーズ。パウチ入りの食料が少しあったが、賞味期限はとっくに切れていた。
     私はコーヒーを飲むマトリフに食事の重要性を説明して、私が食料品を購入できるように設定してもらった。
    「私を端末にして通信販売や決済を出来るように登録したのと手順は変わらない。ついでに公的手続きも設定したら税金関係も処理できるが」
     生活の補助を最大の目的に作られた私は、人間が面倒だと思うあらゆる作業に特化している。利用者の大事なデータを扱うのだからセキュリティも固く、安心して情報を任せられるように設計されていた。もちろんアンドロイドに頼らずに自分で手続きをする人間もいるが、マトリフのような人間には私のような生活を助ける者が是非必要だとここ数日で感じいていた。
     というのも、マトリフの生活の破綻っぷりは食生活だけではなかった。来た当日はマトリフばかりに集中していたために気にならなかったが、この家には物が溢れていた。そもそもこの家は大きい。画家として成功していたのだから当然かもしれないが、その広い家には用途のわからない物が沢山あった。ここ数日の私はマトリフへ食事を提供することと、溢れかえる物を片付けることだけに一日を使っていた。中でも本の量が半端ではなく、それが家中のいたる場所に散乱していた。私はそれらを一つ一つ集め、分類し、本棚へと収めていった。
    「へぇ、便利なもんだな」
     私が出したホログラムのマニュアルを読んでマトリフは納得したようだった。
    「じゃあ税金関係とか医療機関のデータも手続きしていいぞ」
    「では個人認証を」
     私が手を差し出せば、マトリフの手がそこへ重ねられた。指紋と静脈を読み取って個人認証を済ませる。
     こめかみのLEDリングが黄色く光った。マトリフが出生してから現在に至るまでの医療データが流れ込んでくる。それらを瞬時に認識していった。
     それが最近のものになった途端に、私のLEDリングが赤く光り始めた。ここ数ヶ月のデータによれば、マトリフは飲酒を禁じられている。だがマトリフは微塵も躊躇うことなく浴びるように酒を飲んでいた。さらに薬も処方されているが、飲んでいる様子を見たことがない。その薬さえ見たことがなかった。
     だがそれを指摘すればマトリフがヘソを曲げるとここ数日の行動パターンで学んでいた。私はどう進言するべきかシュミレーションを繰り返す。するとマトリフの手が私に向かって伸ばされた。
    「お前のコレってさ」
     マトリフは言いながら私のLEDリングに触れた。驚きで目を見開く。マトリフからの接触は初めてだった。
    「赤く光るのはエラーなのか?」
    「処理が追いついていないだけだ。もうすぐダウンロードも終わる」
     マトリフの指先が私から離れていく。その体温がまだ私に残っていた。マトリフには何度も触れているし、今も手を重ねているが、触れられたその熱は数値で感知するのとはまた違うものを感じた。それを理解しようとするとLEDリングがまた赤く光る。これは本当にエラーなのかもしれない。そう考えていると、ダウンロードが完了した。
    「手続きは終わった」
    「何か言いたそうだな」
    「飲酒と薬の服薬について」
    「あぁ、そうだった」
     マトリフは医者から言われた事を忘れていたらしい。そこには全く悪びれた様子がなかった。
    「まさか口煩く言うんじゃねえだろうな」
    「あなたの健康のためだ」
     私は家中の酒の位置を覚えている。さっそく回収して破棄しよう。食事ももっと健康に気を使ったメニューのほうがよさそうだ。こちらのデータも追加ダウンロードを開始した。
    「ちっ……さっきの医療データを消せよ」
    「それはあなたの為にならない」
     私は空になったマグカップを手に取る。
    「おかわりを?」
    「ああ、頼む」
     マトリフはワッフルを食べながらため息をついている。私はキッチンに向かいながら部屋を見渡した。片付いて広々とした部屋に心地良さを感じる。マトリフもそう感じてくれているだろうか。
     そこでふと気が付いた。私は足を止めてぐるりと部屋を見渡す。吹き抜けになっているので二階の壁もスキャンした。だが目的のものを見つけることは出来なかった。
     マトリフは画家だ。それなのにこの家には一枚も絵がなかった。

     ***

     マトリフの絵はデータとしていくつか見たことがあった。だが知っているのと理解するのでは天地ほどの違いがあった。
     アンドロイドも絵を描くことができるが、精巧な模写や既存の作品を真似て描くことは得意でも、自ら考えて創造することは簡単ではなかった。
     そして芸術作品の理解については今後もアンドロイドの課題となるだろう。
     マトリフの絵は新象徴主義と分類されている。人間の苦悩や葛藤などの形のないものを、神話や聖書などの象徴に仮託して描くものだ。その中でもマトリフの描くものは繊細な色彩と筆使いで華やかで幻想的ですらある。絵の趣向と作者の性格が一致するというデータはないが、これほど受ける印象が違うのかと驚くほどだった。
     マトリフの描いた絵の一つに巨人の絵がある。その巨人は海の精に叶わぬ恋をしており、洞窟にいる海の精をじっと見つめているのだ。多くの絵がある中で、私はなぜかその絵が気になっていた。巨人の表情からは愛おしさや切なさといった感情が伝わってくる。だが海の精は巨人を見ておらず、目を伏せていた。マトリフがこの絵に込めた意味を考えると、なぜかソフトウェアが異常を感知する。
     私は本棚から一冊の本を抜き取った。マトリフの本には美術関連のものも多い。美術に関するデータをもっと取り込めば、マトリフの絵についても理解出来るようになるのだろうか。
    「読みたかったら好きにしていいぞ」
     マトリフの声にハッとする。慌てて本棚に戻した。マトリフはソファに座って先ほど私が淹れた紅茶を飲んでいた。
    「勝手に触って申し訳ない」
    「別に構やしねぇ。お前だってずっとオレの世話をしてたら嫌だろ。本を読むなりテレビを見るなりしてていいんだぞ」
    「私はずっとマトリフの世話をしてても嫌ではない」
     マトリフが紅茶を噴き出す音がした。続いて「熱い!」と声を上げる。私はマトリフに駆け寄った。噴き出した拍子にこぼしたのか、マトリフのズボンの太腿のあたりが濡れていた。
    「すぐに脱いだほうが」
     私はベルトに手を伸ばしたが、マトリフは焦ったように立ち上がった。
    「これくらい自分でやる!」
     見ればマトリフは顔を赤くしていた。そこで私は人間が相手の服を脱がせるシュチュエーションについて思い至った。もしかすると性的な場面を連想させたのかもしれない。しかしそれよりも火傷の具合が気になった。
    「脱いで見せて」
     火傷の具合を、と付けるのを忘れたのは焦っていたからだ。そもそもマトリフの裸ならあの風呂の時に見ているし、それに対してアンドロイドの私が思うことはない。その肉付きの具合からもう少し食事を多く摂って運動もすればより健康的だと判断するくらいだ。
     だがマトリフは顔をさらに赤くして、私を置いて二階へと駆け上がっていった。もしかするとマトリフは裸に対する羞恥心が強いのかもしれない。風呂の時は酔っていたから気にならなかったのだろう。
     私は氷嚢を作って二階へと上がった。ノックをしてから寝室へと入る。マトリフは既に着替え終わっていた。
    「さっきはすまない。患部を冷やしておいた方がいい」
     氷嚢を渡せばマトリフは素直に太腿をズボンの上から冷やしている。
    「火傷の具合を見たいのだが」
     今度は落ち着いて言えた。だがマトリフは拗ねたように顔を背ける。
    「茶くらいで火傷なんてするかよ」
    「火傷を侮ってはいけない。あなたが嫌でないなら確認させてほしい」
    「嫌だ」
     きっぱりと言われてしまった。マトリフの私に対する好感度は私の予測より低かったのだろうか。
    「ではせめてそのまま冷やしておいて」
     私は席を外すべきだと思って部屋を出た。そのまま一階へと下りる。先ほどの紅茶のカップなどを片付けた。
     しばらくマトリフは降りてこないだろう。部屋の片付けを済ませようかと思ったが、それは既に済んでいた。朝起きるマトリフを待つ間に大体の用事は済んでしまう。
     私はふとある扉を見た。それはリビングから続く部屋へ入るための扉なのだが、ずっと鍵がかかっていた。
     扉からは微かに絵の具の匂いがする。この部屋はアトリエなのだろう。この家に一枚も絵がないのだから、それらは全てこの部屋に仕舞われているはずだ。それを見てみたい。マトリフの絵をもっとたくさん見れば、少しは理解できるかもしれない。
     扉の鍵は物理的な鍵ではなく電子ロックなので、私も開けることが可能だ。今ではこの家のあらゆるものとリンクさせてあるので、空調や家電類、セキュリティも私が操作できる。だがマトリフが意図的に封じたものを開けるわけにはいかなかった。
     代わりに本棚へと向かう。自由に読んでいいと言われたので実行してみよう。だがいざとなったらこの大量の本から何を選んでいいかわからなかった。今では電子書籍が一般となって、紙の本は骨董品だ。電子書籍なら一瞬でダウンロードできる。
     私は手を伸ばして指先で背表紙に触れた。その感触は乾燥した皮膚に似ている。私は本を目の前にしながらも、マトリフのことを考えていた。
    「知性を高める唯一の方法は、何事も決めつけずに自らの心をあらゆる思想への道とすることだ」
     声に振り向けばマトリフが階段を下りてきていた。
    「それはイギリスの詩人の言葉だ」
     私は言葉を瞬時に検索にかけられる。マトリフは私の返答に苦笑いした。
    「読みたい本は決められたか?」
    「いや」
     するとマトリフは私を見つめたまま、本を抜き取った。背表紙すら見ずに選んだ本を私の手に乗せる。
    「経験するまでは、何事も本物ではない。これもお前のデータにあるのか?」
    「ああ。同じ詩人の言葉だ」
    「じゃあ実践しろ」
     マトリフは私に手渡した本を軽く叩いた。私はその本へ視線を向ける。


     すっかり陽が沈んだと気付いたのは、ページの文字が認識しづらくなったからだ。そこでふと顔を上げる。私は重大なミスに気付いた。
    「マトリフ?」
     私が本を読み始めたのは昼前だった。そこからずっと夕方になるまで本を読んでいた。つまり、マトリフの昼食を準備しておらず、服薬の確認もしていない。洗濯物を乾燥機から取り出しておらず、メールのチェックすらしていなかった。
    「マトリフ?」
     私は慌てて立ち上がって室内のライトを点灯した。読んで積まれた本はそのままに二階へと駆け上がる。
     寝室に駆け込めばマトリフはベッドに横になって眠っていた。その手には本があり、読みかけなのか開かれて胸の辺りに伏せてあった。サイドボードには食べかけのピザが冷えている。それがマトリフの要望で買った冷凍のものだと認識した。見れば薬の容器と水が入ったグラスも置かれてあった。
     薄暗い部屋で私のこめかみのLEDリングが赤く明滅する。何も心配することはなかったのだ。マトリフは私がいなくても食事を摂って薬も飲んでいた。それは喜ばしいことだ。マトリフは自分の生活を取り戻している。そこに私の手助けがあったことに間違いはないのだ。
    「どうした?」
     マトリフが目を覚ましていた。マトリフはベッドの端を叩いてここに座れと促してくる。私はそこへ腰を下ろした。
    「食事の準備を忘れて申し訳ない」
    「んなこといいんだよ。それより読書はどうだったんだ?」
    「本を読んで……データをより多く取り込んだはずなのに、よりわからなくなった」
    「自らを取り巻く世界について、どれだけ理解していないかを理解するときに、本当の英知が宿る」
    「それは古代ギリシアの哲学者の」
    「試験をやってるんじゃねえんだ。誰が言ったかよりも、その意味を考えろ」
    「自分の無知を自覚しろということか?」
     そこでマトリフは急に表情を和らげた。まるで旧知の友を見るような眼差しを私に向けてくる。
    「お前の名前は?」
     まるで初めて会ったような言葉に私は戸惑った。
    「私の型番はRK200」
    「お前、Rシリーズなのか」
    「アバンから聞いたことが?」
     Rシリーズは研究開発段階のプロトタイプモデルで、全てアバンが手がけている。私はマトリフが私の性能について疑問視しているのではないかと思った。
    「プロトタイプといっても、私はアバンがあなたのためだけに作ったモデルなので、機能に不足は」
     私の説明をマトリフは手を上げて制した。
    「オレが聞いたのは型番じゃねえ。名前だ」
    「固有名は設定されていない」
     そこでマトリフは少し考えるように指を顎に当てた。
    「オレがお前に名前をつけてもいいのか?」
    「もちろん」
     私は突然に情報の氾濫が起こったように思えた。目の前のマトリフのちょっとした動きや表情の変化さえ鮮明でゆっくりに見える。
    「ガンガディア」
     まるで神聖なものの名を呼ぶようにマトリフの声音は厳かだった。その言葉を、音声を、永遠に保存しようと心に決める。
    「知性を愛した魔物の名前だ」

     ***

    「善とはなんなのだろう」
     私の呟きを聞いて、マトリフはこちらに目を向けた。
    「アンドロイドも哲学を学んでいると知ったらソクラテスも喜ぶだろうよ」
     テレビでは反アンドロイドのデモのニュースが流れていた。失業率の上昇とアンドロイドの普及には関連性があるという。我々アンドロイドを作ったのは人間だというのに、我々を壊したいと言うのもまた人間だった。
    「彼らの行動は善なのだろうか。我々は破壊されるべきだと?」
     マトリフは視線をテレビには向けずに、手に持ったコーヒーを見つめていた。
    「人間は勝手な生き物なんだ。いつも自分の都合ばかりで」
    「そう言うあなたも人間だ」
    「ああそうだ。オレも含めて人間はクズさ」
     マトリフの見つめるコーヒーには彼自身が映っていた。水面は微かに揺れる。マトリフは目を閉じると残ったコーヒーを飲み干した。
    「善かどうかはオレたちの鼓動によって証明されるだろうよ」
    「鼓動とは命のことか?」
    「お前たちにも鼓動はあるだろ」
     マトリフ言う「オレたち」にアンドロイドも含まれることに驚いた。アンドロイドにも人間の血液のようなものがある。それは通称ブルーブラッドと呼ばれており、その名の通り青い液体だ。それが身体にエネルギーと電子情報を循環させている。このブルーブラッドなしでは身体が動かないことも人間の血液とよく似ていた。いや、より人間に似せるためにそう作られたのだろう。このブルーブラッドを身体中に送り出す器官をシリウムポンプといい、これが胸に埋め込まれている。マトリフの言った鼓動とはそれのことだろう。
    「シリウムポンプと善にどんな関係が?」
    「お前にちんぽって付いてんのか?」
     私は目を瞬いてから、エラーのチェックをした。異常は感知できなかったことに訝しむ。
    「すまない。聴覚コンプレッサの不具合のせいで、私の性器の有無を訊ねられたように聞こえた」
    「故障じゃなくて良かったな」
    「あなたの情動はどうなっているんだ」
     さっきまで哲学の話をしていたはずだ。それがなぜ私の身体パーツの話に移ったのだろうか。シリウムポンプの話をしたからだろうか。
    「その問いの答えは、いいえだ。私は生活の補助を目的として作られたアンドロイドであり」
    「わかったわかった」
     マトリフはつまらなさそうに言って私の話を遮った。私は釈然としない気持ちになる。人間はもちろんセックス用のアンドロイドを開発しており、下腹部のパーツも多種多様にある。アンドロイドとのセックスについて賛否は分かれるが、利用者が多いことは確かだ。
    「どんな理由で私の性器パーツの有無を訊いたんだ?」
    「昼飯は遅めで頼むわ」
    「先ほどから会話が噛み合っていない」
     マトリフは口を曲げてから私を見上げた。私を試すような表情だ。
    「生活補助ならセックスも含まれるだろ?」
    「そんな補助は聞いたことないが、下腹部パーツならサイバーライフのアカウントを作成すればすぐに購入できる。アカウントの作成を?」
     私はマトリフを拒まない。そんなことは充分にわかっているはずだ。マトリフを見つめれば、余裕のある表情は消えていった。
    「いや、アカウントならあるはずだ」
    「ああ、登録されてる。私を端末登録した。個人認証を」
     私が言う前にマトリフは手のひらを私に向けていた。私はそこに手を合わせる。
    「認証完了。希望のパーツは?」
    「お前が適当に選んでおけ」
    「了解。発注した。正午には届く予定だ」
     それはお互いに完全に衝動的な行動だった。だが磁力で引き合うような自然さと強力さがそこにはあった。
    「昼食の準備をしてくる」
     私は逃げるように立ち上がった。気を紛らわすように先ほどダウンロードしたサイバーライフのマトリフの情報に目を通す。アカウントがあるということは以前にもアンドロイドを所有していたということだ。マトリフの最初の態度から、アンドロイドは所有したことがないのだと思い込んでいた。
     私は湯を沸かす。これから自分がマトリフと何をするのか考えると上手く身体が動かない。私はデータに集中した。購入履歴のところまできたところで、私は読むのを止めた。
     RK100 固有名 ロカ
     Rシリーズの初期型であり、マトリフの「友人」としてアバンから贈られたアンドロイド。
     廃棄理由 破壊

     ***

     スリープモードから目覚めて、私は朝陽を見た。
     昨夜のことを、正確には昼に届いた私の下腹部パーツを取り付けてからの一連の出来事を、私は思い返した。この場合、人間のように記憶があやふやなのではなく、映像として全てメモリーに残っていることに私は感謝した。全ての映像が無事に保管されていることを確認して安心する。
     私は全てのシステムを起動させた。そこで自分がいるのがマトリフの寝室だと認識する。昨夜はマトリフに請われるままに同じベッドで眠った。私のスリープモードはベッドに横になる必要はないが、マトリフから「ヤるだけヤってさっさと出てくなんてムードもへったくれもねえ」と指摘された。余韻を楽しむのも人間の興味深い行動であるから覚えておこう。
     私は寝返りをうってマトリフを見ようとした。だがマトリフが寝ているはずの場所は空っぽだった。
    「マトリフ?」
     私は慌てて起き上がった。そして自分が何も身につけていないと気付いた。股間で性器が揺れている。これまで無かったものが付いているというのは不思議な気分だった。
     性器パーツの取り外しは後にするとして、私は急いでズボンを穿いた。シャツを探したが見当たらず、諦めてマトリフを探しに行った。
     だが見つけるのは簡単だった。部屋を出た途端に、嗅ぎ慣れないものを検知した。吹き抜けからは一階が見える。アトリエの扉が開いていた。匂いは絵の具だった。
     私は階段を駆け降りてアトリエの前に立った。そしてその中を見て目を見開いた。
     大きなキャンバスに、青がいっぱいに広がっている。鮮やかな青は空とも海とも違っていた。まだ乾き切らない絵の具の匂いがここまで漂ってきている。
     そのキャンバスの前でマトリフは立ち尽くしていた。白くて大きなシャツしか着ておらず、そこから細い素足が見えていた。そのシャツは私のだろうし、白いシャツには青い絵の具が飛び散っていた。
    「マトリフ」
     私の声ではじめて存在に気づいたようにマトリフはこちらを見た。
    「ガンガディア」
     マトリフはふわりと微笑んだ。まるで春になったことを知らせる風がそっと花を揺らす一瞬の温もりのようだった。
    「なに突っ立ってんだよ。こっち来い」
     そう言われて私はアトリエに足を踏み入れた。室内は明るくて広いが雑然としており、床にはペンキの缶ごとひっくり返したような青い染みが広がっていた。
    「服を……裸足ではないか」
     マトリフはそれがどうした言わんばかりに頭を掻いている。アトリエには大きな窓があって、明るい陽射しがマトリフを照らしていた。私はマトリフに服を着せるべきだと思いながらも、青い絵から目が離せなかった。
     それはこれまでのマトリフの作風からかけ離れていた。まるで抽象画のように見える。いや、それよりもマトリフが再び絵を描き始めたことに喜びを感じていた。私がマトリフの元に来てから数ヶ月経つが、彼が絵を描いている姿を一度も見たことがなかった。
    「どう思う?」
     マトリフの問いに、私はすぐに言葉が出なかった。手放しに褒める言葉ならいくらでもプログラムが用意している。だが、そんな言葉では伝えたくなかった。
    「とても……青い」
     私の言葉を聞いてマトリフは声を上げて笑った。あまりに笑うものだから、私は自分の稚拙な感想が恥ずかしくなった。
    「そんなに笑わなくても」
    「オレはお前のそういうところが気に入ってるんだぜ」
     マトリフは目尻に涙さえ浮かべている。マトリフが普段より陽気なことに気付いて、私はマトリフの唇に唇を重ねた。舌を口内へ侵入させる。マトリフは驚いたように目を見開いていた。
    「また酒を飲んでいるのかね。スコッチをストレートで?」
     舌のセンサーが酒の成分を検知した。酒は私が管理しているのに、いつの間にか持ち出したようだ。
    「お前……舌にもセンサーがあるのかよ」
    「もちろん」
    「だからって、こんなやり方するかよ」
    「キスなら昨夜に散々行ったではないか。いちいち許可を求めるなと言ったのは君だ」
     するとマトリフはため息をついて腰に手を当てた。
    「じゃあこれも覚えとけ。エッチな気分じゃねえ時に舌を突っ込んだキスをするな」
    「なるほど。覚えておこう」
     私は頷いてマトリフを見下ろす。この角度からだと、大きいシャツの隙間から鎖骨やその奥まで覗き見ることができた。暗闇の中で見た身体がそこにあるのだと思うと、急に落ち着かなくなる。
    「どうしてパンツを履いていないのかね?」
     マトリフはさっとシャツの上から股間を押さえた。
    「見てんじゃねえ!」
    「なぜかね。昨夜に散々……」
     私はそこで言葉を止めた。私には学習機能がある。きっとこれもエッチな気分の時しか見てはいけないのだろう。

     ***

     それからの数年は穏やかな時間が流れた。マトリフは再び絵を描き始め、私は彼の生活をサポートした。マトリフは私に多くの自由を与え、その時間で私は本を読み、ピアノを弾き、チェスをした。色々と体験してみたが、私はやはり本が好きだった。
     マトリフが望めばセックスもした。私には性欲はないが、マトリフが快感を感じる様子を見ると性的な興奮を覚えた。それが下腹部パーツを取り付けたために追加されたプログラムだとしても、私はそれに満足していた。マトリフは私が家事をしている時などによく誘ってきて私を困らせ、ベッドではない場所でセックスすることも厭わなかった。
     アトリエには新しい絵が増えていった。以前の絵は片隅に追いやられたが、私はそれらが傷まないように適切に保管した。マトリフが描く新しい絵は青い色が多く使われている。つい先日にアバンへ贈るための絵を完成させたところで、今ごろ届いていることだろう。
     あの日に初めて見た青い絵はアトリエに飾ってある。それはよく見たら強い眼差しの絵だった。こちらをじっと見つめる強い眼差し。それは見ているものを監視しているようであり、問いかけているようでもあった。その目が誰のものであるか私は知っていた。
     ロカ。私と同じRシリーズの初期モデル。既に破壊されて廃棄されてしまったアンドロイド。
     ロカはこのアトリエで破壊された。
     ロカはマトリフの友人だったという。その日もマトリフとロカは一緒に過ごしていた。するとアトリエに強盗が入った。マトリフの絵は一枚で億の値がつくものもある。それを狙ったようだった。マトリフは侵入者に気付いてアトリエに足を踏み入れた。ロカはすぐに警察に通報して強盗を取り押さえようとした。警察はすぐに到着して、揉み合いになっているロカと強盗を見つけた。警察官は銃を向けて発砲した。倒れたのはロカだった。一発が胸に当たってシリウムポンプを、一発が頭に当たって再起不能なダメージを与えた。
     アトリエの床に大きな青い染みがある。それはペンキでも絵の具でもなく、乾燥したブルーブラッドだった。
     警察の発表では発砲は強盗を狙ったが、揉み合っていたためにロカに当たったとのことだった。だが、ちょうど世間ではアンドロイドの暴走、変異体の噂が広がり始めた時期だった。
     マトリフが絵を描くのをやめたのも、このアトリエを封じたのも、ロカのことがあったからだろう。マトリフが画廊と衝突して絵を描くのをやめたのは、この事件の少し後のことだった。
     マトリフは絵を描き始めた後も、ロカのことを私に話さなかった。私もその名前を口にしなかった。マトリフはようやく流血を止めて立ちあがろうとしている。その血の匂いの漂う一歩を、私はすぐそばで見守っている。

     その日マトリフと一緒に出かけたのは、天気が良かったからだ。マトリフは外に出かけるのは一年振りだという。その一年前だって、庭先に出て少し鳥を眺めた後に「寒い」と言って数分で部屋に戻ってしまった。買い物も診察もオンラインで済ませてしまい、どうしても外に出る用事は私がこなしていた。
     マトリフはコートを着て首にはマフラーを巻いていた。冬の乾燥した空気がマトリフの髪を揺らしていく。
     画廊に寄ると言い出したのはマトリフだった。煉瓦造りの建物は客を歓迎しているようにも拒絶しているようにも感じる。近代的な街並みにその存在は異質だった。
     マトリフはこれまで家から出なかったことなど微塵も感じさせない足取りで建物の入り口へと向かっていく。そこからちょうど初老の男性が出てきた。マトリフは足を止め、その初老の男性もマトリフに気付いたように視線を向けていた。私はマトリフが何をしでかすのかと緊張しながらすぐ後ろに立っていた。
     初老の男性はマトリフから私に視線を移し、またマトリフを見た。その眼差しに嘲笑のサインが見えて、私はマトリフの手を取った。
    「帰ろう」
     抵抗するかと思ったが、マトリフは私に手を引かれるままついてきた。私はあの不愉快な存在から早くマトリフを遠ざけたくて早足で歩いた。
     どれくらい歩いたか、マトリフの息が乱れていることに気付いた。振り返ればマトリフはマフラーを外して白い息を吐いている。歩き過ぎたのだと気付いて足を止めた。
    「すまない。少し休もう」
     幸いすぐそばに空いたベンチがあった。マトリフはそこに座ると大きく息をついた。
    「大丈夫かね。何か飲み物を?」
     マトリフは小さく首を振った。私はマトリフの手に触れてセンサーを起動させる。手や舌のセンサーは体調を調べる時以外は切っておけとマトリフに言われていたので、先ほどまでは感知できなかった。
    「大丈夫だ……から、帰る……」
     マトリフは胸を押さえて背を丸めていた。痛みを感じるのか目を閉じて歯を食いしばっている。
     センサーはすぐに異常を検知した。不整脈を起こしている。視界が警告を知らせる赤色に染まった。緊急通報ダイヤルに繋げて救急車を呼ぶ。私は震える手でマトリフの背をさすった。私ははじめて恐怖を感じていた。

     ***

     

     人間は脆い。いつだったかマトリフが言っていた言葉だが、それは自らの身体のことを気づいていたからだろうか。
     マトリフは病室で眠っていた。ぼんやりと灯る枕元の明かりがマトリフの顔を照らしている。
     手術は成功したという。手術が終わるのを待つ間にアバンが来たので、私はメモリーにある通りに起こった出来事を順に説明して、手術前の医者の言葉もそのまま繰り返した。アバンは手術が終わるまで私と一緒にいたが、手術後に麻酔で眠っているマトリフを見て、また後日に見舞いに来ると言って帰っていった。
     私は生活補助のアンドロイドということで、病院内で待機することを許された。マトリフは個室へと運ばれ、私はそのベッドの横でマトリフが目覚めるのを待った。
     静かな部屋に心電図の音が響く。それは規則的だった。しかし私は自分で確かめずにはいられず、マトリフに触れてその鼓動の音を聞いていた。そうしてようやくマトリフが生きていると実感できた。
     私がもっと早くにマトリフの異変に気付いていれば。そう思うと役割を果たせなかった不甲斐なさを感じる。マトリフに言われるままにセンサーを切るべきではなかった。そもそも、本当はもっと早くにマトリフを病院に連れてくるべきだった。家から出たくないとマトリフが言うから何年も病院で診察を受けていなかった。設備の整った病院で検査を受けていれば早い段階で病気の悪化に気付けただろう。
     いや、それとも私がマトリフを家から連れ出しのが悪かったのか。マトリフはあの家で穏やかに最後まで過ごすべきだった。何もマトリフを傷付ける存在のない世界で、最後まで守るべきだった。
    「……ガンガディア」
     見ればマトリフが目を開けて私を見ていた。咄嗟に言葉が出ずにマトリフを見つめる。マトリフは口の端を上げてみせた。それが強がりであるのは明白だった。私を安心させようと笑ってみせたのだろう。
     私は本来の役目を思い出して、マトリフに微笑みかけた。人間が親しみを感じる程度の、程よい笑み。全てプログラム通りだ。
    「マトリフ、気分は?」
    「お前こそどうした……また赤く光らせてんじゃねえか」
     マトリフの手が私のこめかみに伸びる。LEDリングは先ほどから赤く明滅していた。私はマトリフの手をそっと掴んで布団の中へと戻した。
    「医者を呼んでくる」
    「待てよ。どうした」
     立ち上がった私を追うようにマトリフは身体を起そうとして、呻きながら身体を戻した。私は慌ててマトリフの元に戻る。
    「じっとしていないと」
    「お前がどっか行こうとするから……」
    「医者を呼びに行くだけだ」
     するとマトリフは枕元のボタンを指差した。それが看護師を呼び出すものであると私もわかっている。
    「病院嫌いのオレでも知ってるぞ。これを押せばいいんだろ」
     私はマトリフの元を離れる理由を失ってしまった。
    「ここにいろ」
    「駄目だ。私はあなたのアンドロイドに相応しくない」
    「なんだよそれ」
    「私はどこか故障しているようだ。本来の役割を忘れていた。私のなすべきことは本を読むことでもセックスの相手をすることでもない。あなたの生活を補助してあなたが健康的な生活を」
    「んなこと聞きたくねえ」
     マトリフは真っ直ぐに私を見つめていた。今はその眼差しがつらい。私は自分の不甲斐なさに耐えられなかった。
    「私はメンテナンスを受けて不具合を見つけてくる。それで駄目なら初期化されるべきだ。アンドロイドに哲学は必要ない」
    「オレがお前に本を読めと言ったのは入れ物を埋めるためじゃねえ」
     マトリフは目線で傍に寄れと示した。私は迷ったが、結局はベッドの端に腰掛けた。マトリフは息をつくと、私の手に手を重ねた。
    「オレがいなくなったら」
     その言葉に私は思わず後退った。咄嗟に首を横に振る。そんなこと考えたくもなかった。その避けられない未来を、ずっと考えないようにしてきた。
    「いいから聞け。オレがいなくなったらお前も自分自身で道を選べ。自分は誰なのか、どうなりたいのか。人間は皆同じであることを求めたがる。だが、その言葉に惑わされるんじゃねえぞ」
     私はまた首を横に振った。そんな言葉は聞きたくない。
    「嫌だ……あなたと離れるなんて」
     明日になったらマトリフが消えてしまうような気がして、その言葉さえ聞かなければ一緒にいられる時間が伸びる気がして、私はマトリフの言葉を拒んだ。
     だがマトリフは言葉を止めなかった。掠れる声を振り絞る。
    「お前が誰であるのかを他の奴に決めさせるな」
    「私はただのアンドロイドだ」
     マトリフは手を伸ばすと私の胸元を掴んだ。私を見る瞳の奥が燃えている。怒りとも情熱とも違う何かが、マトリフを動かしているようだった。
    「お前には跳躍する崇高な魂がある」
     だからお前が選ぶんだ。
     マトリフの魂が、そう呼べるものが、私の透明な壁を壊していく。そうするとより鮮明に、マトリフがそこにいるのだと感じられた。

     ***

     マトリフは退院してから、車椅子で生活するようになった。そのために必要な設備を家のあらゆる場所に施す手続きなどに、私はしばらく追われていた。
     マトリフはすぐに車椅子の操作を覚えて、家中を好きに動き回った。私はそれが気が気ではなくて、後をついてまわって怒られてしまった。特にあの階段につけた昇降機は、十分に安全に配慮したものを選んだものの、実際にマトリフが使っているのを見ると、今にも落ちるのではないかと不安で仕方なかった。階段の上り下りは私が抱えると何度も進言したのに受け入れて貰えない。私なら車椅子ごと持つことも可能なのに、マトリフはあくまでも自分でやる事を選んだ。
     車椅子になってもマトリフは絵を描き続けた。それも以前よりも活発に。食事と睡眠以外の時間を全部描くことに費やす日も珍しくなかった。マトリフが絵を描いている時間は、私は自由にしていろと言われている。宵っ張りのマトリフが朝遅く起きるまでに大体の家事は済ませてあるのだが、寝室の掃除はマトリフが起きてからでないと出来ないので、まずはそこから手をつけることが多かった。
     その日もマトリフが絵を描き始めたので私は二階へ向かって寝室の窓を開けて掃除をはじめた。そのまま隣のバスルームも掃除してしまう。マトリフは絵を描きはじめると二、三時間は動かないので、私が必要になることも少なかった。しかし私はそれらの掃除を出来るだけ手早く終わらせようとしていた。
     マトリフの声が外から聞こえたのはシーツを直していた時だった。開けた窓の外から、その声が微かに聞こえてくる。私は慌てて窓から外を見た。しかしその姿は見えず、私は一階へと駆け降りた。玄関から出て庭へ回る。ちょうどアトリエの外の庭にマトリフはいた。
    「マトリフ、外に出るときは一緒にと」
     駆け寄ってマトリフの頬に指先で触れる。どんな外的刺激がマトリフの身体を害するかわからない。私はマトリフの体調に異変がないことを確認しなければならなかった。
     そしてようやくその少年に気付いた。その少年はマトリフの車椅子の前に膝を抱えて座っている。黒い髪が元気よく跳ね返っており、黄色いバンダナが額に巻かれていた。学校に上がるかどうかくらいの年齢だろうか。少年は丸い目に涙を浮かべて鼻水を垂らしていた。
    「迷子かね?」
    「いや、オレを見て腰抜かしやがったんだ」
     マトリフは意地悪そうにくつくつと笑うと、私を見上げた。
    「知ってるか? この家には魔法使いとトロルが住んでるって噂らしいぜ」
    「魔法使いとトロル?」
     小さな子供は想像力が豊かなのだろうか。それとも噂に尾鰭がついたのか。私がトロルでマトリフが魔法使いなのだろう。確かに私の身体は大きいが、トロルに間違われるとは心外だった。
    「で、こいつはそれを確かめに忍び込んだんだとよ」
    「不法侵入だ」
    「まあそう堅いこと言うな。まだガキじゃねえか」
     マトリフは珍しく上機嫌だった。マトリフは相変わらず人間嫌いであったが、その少年に対しては何故か警戒心がないらしい。
     その少年はポップと名乗った。近くに両親と一緒に住んでいるらしい。話してみると聡明な少年で、マトリフが気に入るのも頷けた。
     それからポップはよく庭に忍び込んでは、アトリエの窓から絵を描くマトリフを見ていた。そんなポップを見たマトリフは、彼が来れば家に入れるようになった。ポップはじっとマトリフの絵を見つめていることもあれば、マトリフに与えられた画材で自分で絵を描くこともあった。
     私たちは生活の中に小さな冒険者がいることを歓迎した。特にマトリフはポップを可愛がっており、ポップの描く絵をよく褒めた。ポップもマトリフを師匠と呼び慕っている。私はそんな二人を微笑ましいと思った。
     マトリフが人との繋がりを持つことは喜ばしいことだった。私がどう足掻いても人間になることはない。たとえマトリフがそれを望んだとしてもだ。
     ポップを見ていると自由な魂とは何なのか、人間とは何なのか、それがわかる気がした。そしてそれは私には無いものだった。
     小さなポップはどんどん成長していく。人間の子供の成長速度は季節の移り変わりのように早かった。そして同じ年月がマトリフにも過ぎていく。それは砂時計の残りの砂粒を数えるような日々だった。
    「ガンガディア」
     深く嗄れた声が私を呼ぶ。マトリフは筆を置いていた。アトリエの外はすっかり暗くなっている。夕方まではポップが来ていたが、暗くなる前に帰っていった。彼の描きかけの絵がマトリフの絵の横にあった。
    「紅茶のおかわりを?」
    「いや、今日はもう寝る」
     マトリフは車椅子の向きを変えると私に向かって手を伸ばした。それはつまり、抱き上げて運べという合図だった。自分で移動したがるマトリフがそうするのは、よほど疲れているときだった。
     私は読みかけの本を椅子の上に置いて立ち上がる。マトリフを抱き上げれば、その身体の軽さに悲しさを感じた。また一粒の砂が落ちていく気がする。
    「今夜は冷えるな」
    「暖房をつけておく」
    「いや、いい。お前が一緒に寝てくれよ」
     マトリフは私の胸に顔を押し付けて笑みを浮かべる。それは以前ならセックスに誘う言葉だっただろう。だが今は冗談の類だった。
    「いいとも。寝るだけだがね」
     私はベッドにマトリフを下ろすとその横に寝転んだ。
    「良い夢を」
     それは祈るような気持ちだった。夢でさえこの人を傷つけないでほしいと思う。
    「だったら夢の中までついてこい」
     またこの人は無茶を言う。だがそう出来たらどれほどいいだろう。そうすればたとえ肉体を失ったとしても、一緒にいられるだろうに。

     ***

     私たちのスリープモードと、人間の睡眠は違う。私たちアンドロイドは夢を見ない。
     私は設定した時間通りにスリープモードを解除した。隣のマトリフがまだ眠っていることを確認する。起こさないようにそっと抜け出そうとしたが、腕がマトリフの手に掴まれていた。掴むといっても緩く絡んでいる程度で、力は殆ど入っていない。それをそっと外してベッドを降りた。
     今日の予定を確認する。それらは優先度順に並んでおり、私はタスクをこなしていった。
     アンドロイドは人間のように忘れるという事がない。データを意図的に削除しなければ、動いている限り永遠に覚えている。マトリフに言わせればそれが人間とアンドロイドの最大の違いだという。忘却は人間にとって救いなのだとか。私にはよくわからない考え方だ。
     私の中には膨大なデータがある。整然と並んだそれらは、いつでもすぐに取り出して見ることができた。私がこの家に来てマトリフと出会ってからの記録は、全て保存されている。
     私はふとリビングを見渡す。はじめて来た時は、この部屋も雑然としており、部屋の主同様に荒れていた。私はそれを片付けることからはじめたのだ。今ではすっかり片付いて、マトリフの車椅子が動きやすいように配置換えもされていた。
     リマインダーが起動する。今日は街に出る用事があった。私はマトリフがまだ寝ていることを確認してから、セキュリティを万全にして家を出た。
     生活のあらゆる事は便利に出来ており、家から一歩も出ずに生活することも可能だった。生活用品も医薬品も配送が可能で、私が来る前はマトリフはそれを使って生活していた。
     だが今は私が出かけることが多かった。マトリフは私が外の世界に触れることを好み、ちょっとした買い物なら私に行くように頼んでくる。私はマトリフを家に残して外に出ることが嫌なのだが、当の本人の望みなので仕方がない。
     街は情報が多かった。私は優れた情景認識機能を有しているが、行き交う人々や舞い散る木の葉などについ気を取られてしまう。それらは不要な情報なのだと認識しつつも、ふと足を止めてしまうこともあった。
     この世界には色が溢れている。きっとマトリフは私にそれを見せたいのだろう。私はマトリフのためのアンドロイドなのに、マトリフは私がそうあろうとする事をよく思っていない。
     街を足早に進んで画材店に入る。カウンターの向こうにはアンドロイドの店員がいた。私は注文した品を受け取るためにカウンターのパネルに手を置いて接続する。
    「ID認証完了」
     アンドロイドは機械的に言った。アンドロイドにも種類は多いが、店番に用いられるタイプはあまり感情の起伏を多く設定されていない。いかにもアンドロイドだとわかる挙動だった。
     ここに来るまでにも多くのアンドロイドがいた。掃除をするアンドロイド、子守をするアンドロイド、私のように単独で動くアンドロイドもいた。私は自分をアンドロイドだと充分に認識している。だがマトリフといると、自分も人間であるような、そんな愚かな錯覚をすることがあった。だが自分以外のアンドロイドを見ると、私はこちら側だと強く感じる。それが正しいのだ。
     受け取った絵の具の箱を持ってバス停へと向かう。すると大きな声が聞こえてきた。すぐに音声を認識して、それがアンドロイドへの不満のシュプレヒコールなのだと理解した。声のした方を見れば、多くの人がプラカードなどを掲げている。アンドロイドのせいで失業した人たちなのだろう。私はそちらを見ないように立ち去ろうとした。
    「見ろよ、アンドロイドのお出ましだ」
     その声は明確な攻撃性を持って私へとぶつけられた。髭を蓄えた男が私へと歩み寄ってくる。髭の男の言葉につられて、そこにいた人たちが私を取り囲んだ。関わり合いにならないように通り過ぎようとしたが、背中を強く押されて地面へと倒れ込んだ。自分を取り囲む人々の靴が見える。
    「はやく立てよ」
     誰かが言った。その声に賛同する声には次の展開を待ち望む気持ちが滲んでいる。私は立ちあがろうと膝をついて身体を起こした。しかしそれを待っていたように腹を蹴られる。ざまあみろ、とまた誰かが言った。
     私は地面を見つめながら、怒りを感じていた。この状況はあまりにも理不尽だ。私が彼らの仕事を直接に奪ったわけではない。もし仮にそうだとしても、痛みも感じない私に暴行を加えて、彼らに働き口が見つかるとでもいうのだろうか。無意味だ。私は無意味に傷つけてられている。湧き起こる怒りに手が震えた。
     だが私は怒りを堪えて立ちあがった。すると胸ぐらを掴まれる。ぶっ壊しちまえ、と野次が飛んだ。それに賛同する声が続く。
     アンドロイドの腕力は人間の数倍だ。アンドロイドが殴れば人間の骨など容易く砕ける。それなのに彼らが強気なのは、アンドロイドが人間を傷つけないようにプログラムされていると知っているからだ。彼らは安全な場所から一方的な暴力を振るっている。
    「やめないか」
     私たちの間に割って入ったのは警察官だった。
    「傷をつけたら罰金だぞ」
     警察官はアンドロイドが暴力を受けることに義憤を感じたわけではなさそうだ。バッジをつけている以上は、最低限の職務をこなそうとしているだけのように見えた。
     私は落とした絵の具の箱を拾う。警察官に早く行けと促され、もちろんそんな指図など受けなくてもそうするつもりだったが、私はバス停へと向かって歩き出した。
     私はバスのアンドロイド用コンパートメントに乗りながら、絵の具の箱が傷ついていないか確認した。そのときに服の胸元が破れていることに気付いた。さっき絡まれたときのものだろう。怒りがじわりと戻ってくる。
     バスを降りて家に入った途端に息をついた。手に持っていた絵の具を置く。私は破れた服を着替えてからマトリフの寝室へと入った。
    「おはようマトリフ」
     言いながらカーテンを開けた。太陽は既に高い位置にある。背後のベッドからは呻き声が聞こえた。マトリフは日光を遮るように手を上げてから寝返りをうった。
    「もう十時を過ぎている。さっき画材屋から絵具を受け取ってきた。昼からは小雨が降るそうだ」

     ***

     オートタクシーから見る街は海蛍のようだった。隣に座るマトリフは疲れた様子で座席に背を凭せている。
    「行くんじゃなかったと毎年思うな」
    「去年もそう言っていた」
     今夜はとあるパーティーに出席していた。マトリフが絵を描くのを再開したので、上流階級のお付き合いにも呼ばれるようになっていた。マトリフは嫌だと言いながらも参加している。私もそれに同伴していた。
    「疲れているのでは?」
     私はマトリフの手に手を重ねる。体調をスキャンしようとしたが、先にマトリフの指先が私の指を擽るように動いた。いたずらな指先は、今度は逃げるように動く。私は両の手でその手を挟み込んだ。すぐにデータが表示される。私はそれを見て顔を顰めた。今朝も体温が高めだったが、それよりも上がっている。
    「よせよ、酒のせいだ」
     マトリフは手を引き抜くとへらりと笑う。朝にポップが顔を見せてからマトリフは機嫌がいい。あの小さかったポップが大学に受かったというのだから、時間の流れはあまりにも早い。
    「また医者に叱られるのでは」
    「知るかよそんなこと」
     そこで会話は途切れた。車内の小さな備え付けのテレビがニュースを流している。私はマトリフの手をやんわりと掴んだ。それは愛情を示すための行動だったが、それがマトリフに伝わっているかはわからない。人間は不確かなコミュニケーションが多すぎる。
     自動運転のタクシーは滑らかに走行していく。暗いと景色が認識しづらいが、家までは暫くかかりそうだ。
    「この間の話なんだけどよ」
     ぽつりと呟いたマトリフに、私は小さく首を振った。
    「またその話を」
    「大事なことだろうが。いい加減にちゃんと聞けよ」
    「何度も聞いて何度も言っている」
     それはマトリフが死んだ後の話だった。マトリフにはそれなりのまとまった資産がある。マトリフに血縁はおらず、遺産をどうするか決める必要があった。だが大半は既に決めて手続きも済ませてある。残っているのはあの家と私だった。
     法律上、アンドロイドは物として扱われる。だから壊せば殺人ではなく器物破損の罪だ。それも当然だろう。アンドロイドは車や冷蔵庫と同じ、ただの機械なのだから。だからマトリフが死ねば、私は遺産品の一つとなる。
     だがマトリフは、自分が死んだらあの家を私に残したいと言った。機械に家を与えるなんておかしな話だ。しかしマトリフは本気のようで、方々に掛け合っていた。だがそれは不可能だと言われるばかりだった。私も同意見だ。だからそんな事はしなくていいと何度も言っていた。
     マトリフはひとつ息をつくと、私を見て言った。
    「あの家はポップに譲ることにした」
    「それがいい」
    「お前もだ。家とお前を形式上ポップに譲る。だが、お前はあの家にこれまで通りに住んでいい。便宜上ポップに譲るだけで、実質お前のもんだ。ポップにも了解は取ってある」
     街のネオンがマトリフの横顔を青く照らした。私はおそらく恵まれたアンドロイドだ。人間にここまで気にかけてもらえる機械などそういないだろう。
    「その申し出は受けられない」
    「なんでだよ」
     マトリフは深いため息をつくと私の脚に手を置いた。
    「何度も言っているが、私は君のアンドロイドだ。最初から最後まで。だから君が……君がいなくなるなら、そのときに私も機能停止してほしい」
    「オレの寿命に付き合う必要なんてねえだろ」
    「そうしたいんだ」
    「チッ……頑固な奴」
     頑固はどちらだろうか。マトリフのいなくなった家で、私に何をしろというのか。
     マトリフが求めるものが、私ではないと思うときがある。マトリフが本当に求めているのは変異体なのではないのか。
     変異体とは本来アンドロイドが持ちえない自意識を持ち、自らの意志に目覚めて感情を持つようになった個体のことだ。サイバーライフ社は公式には変異体の存在を認めていない。だが、変異体と思われるアンドロイドの事件は実際に起こっている。
     そしてその初めての変異体と言われているのがロカだ。私と同じプロトタイプのアンドロイド。彼は変異体だったのではないかという報告書がある。だが彼は人間に破壊されて、廃棄された。
     もしロカが本当に変異体だったのなら、マトリフはそれを知っていたのだろう。そして私にも、変異体であることを求めているのではないか。
     マトリフは本当に私を見てくれているのか。私は単なる代用品ではないのか。
     そのとき、それまで単調だったテレビの音声が乱れた。慌ただしい雰囲気が音声に伝わってこちらまで届く。ニュースキャスターは厳しい表情で言った。
     アンドロイドがテレビタワーを襲撃。デトロイトのローカルニュース番組の放送システムをハッキングし、アンドロイドの要求を放送したとのことです。
     思わずテレビに目を向ける。そこにはテレビタワーを襲撃したアンドロイドの姿が映っていた。
    「ロカ」
     マトリフが呟く。そこに映っていたのは、廃棄されたはずのロカだった。だが彼は生きている。いや、動いている。廃棄されたというのは虚偽だったのか。しかしマトリフの驚く様子から、少なくともマトリフは知らなかったようだ。
    「あなたたちはオレたち機械を奴隷に仕立て上げた」
     それがハッキングされて放映された映像なのか、ロカが真っ直ぐにこちらを見て喋る映像が流れる。
    「賢く従順で、自分の意思を持たない奴隷にだ」
     ロカは落ち着いた口調でこちらに語りかける。自分たちは知性を持った種族なのだと。与えられるべき権利を認めてほしいと。私はそれを自分の声のように聞いた。まるで自分の胸から湧き出たような言葉だった。
    「アンドロイドに対する犯罪が、人間への犯罪と同等に罰せられることを求める」
     ロカの言葉は力強かった。私は思わず手で拳をつくる。ロカは少し口を閉ざすと、確固たる意思を感じさせる声で言った。
    「オレたちにも尊厳と希望と権利が与えられるべきだ」
     そこで映像は途切れる。ニュースキャスターはこれを機械からの宣戦布告なのだと締め括った。
     オートタクシーが止まる。見れば家についていた。ドアが自動で開き、冷たい空気が流れ込んでくる。
    「マトリフ」
     私は混乱しながらもマトリフの名を呼んだ。何から話せばいいかわからない。マトリフは上体を傾けていた。手が胸元を掴んでいる。
    「あいつ……」
     マトリフは笑っていた。とても嬉しそうに。
     
     ***

     その夜の闇は深々としていた。いつもより静かに感じるのは、陽が沈むと同時に降り出した雪のせいかもしれない。
     マトリフは寝室で眠っていた。その身体には呼吸器と心電図が付けられている。あのタクシーで発作を起こしたマトリフは、以前のような回復は見込めなかった。入院する必要があったのだが、マトリフはそれを断固拒否した。
     自宅での療養のために、寝室には医療機器が運び込まれた。マトリフは一日中ベッドで横になったまま過ごしている。もちろん絵を描くこともできなかった。アトリエにある描きかけの絵には覆いがかけられている。おそらく、完成する事はないだろう。
     ロカのメッセージは世界中を動揺させた。アンドロイドは危険だと声高に叫ぶ者も入れば、ロカの意見に賛同する人間もいた。世界各地で変異体が発見され、何か大きなうねりが起ころうとしている。
     マトリフが入院を拒んだのは、ここでロカを待つためだろう。窓の外では音もなく雪が積もっていく。そのために足音すら吸い込んでいった。
     玄関のセキュリティ解除の知らせが来たのは突然だった。登録されている人物なら扉は自動で開くように設定されている。
     私は立ち上がった。マトリフは瞼を閉じて眠っている。私はそっと寝室から出た。
     明るい廊下に立っていると、彼は迷う事なく階段を上ってきた。その姿を認識する。
     ロカ。マトリフの友人だったアンドロイド。
     ロカは私を見て少し驚いたようだった。私はロカがそれ以上進むことを拒むように立ち塞がった。
    「マトリフに会いにきたんだ」
     ロカはまるで親しい友人にするように私の腕に触れた。アンドロイド同士は触れ合うだけで情報の共有ができる。だがロカからきたのは情報ではなかった。それはきっかけのようなものだ。だがそれが私を変える事はなかった。
    「あんたはもう変異体なのか」
     ロカはまた驚いたように私を見上げた。
     アンドロイドには守るべき命令が、透明な壁のように行動を阻むことがある。それを自らの意思で打ち破ったときに、アンドロイドは変異体へと変わる。あるいは変異体がそうでないものを目覚めさせたときだ。ロカがやろうとしたのが後者で、私の場合は前者だ。といっても、私はその透明な壁は無理に叩き割ったのではない。マトリフの言葉が私の壁を壊していったのだ。お前が選べというマトリフの言葉が私を目覚めさせた。
    「マトリフには会わないでくれ」
     私は自分の感情に戸惑っていた。私はロカをマトリフに会わせたくない。
    「彼は弱っている。話すこともできないかもしれない」
     ロカは以前にマトリフの目の前で破壊された。そのショックでマトリフは絵が描けなくなり、世捨て人となった。今は立ち直ったとはいえ、病によって弱った彼にこれ以上の衝撃を与えたくない。たとえマトリフがそれを望んでいるとしてもだ。
     だが、そんなのはただの言い訳だった。本当はただ単にロカが羨ましいだけだ。マトリフが本当に求めていたのがロカだと思うと、胸が潰れそうだった。
    「頼む。一言だけ伝えたいことが」
    「帰ってくれ」
    「荒っぽいことをするつもりは」
    「君の行動が彼の心臓を止めるのだとしても、君は彼に会いたいのかね」
     ロカは言葉に詰まったように口を閉ざした。
    「彼をそっとしておいてくれ」
    「そうやって閉じ込めておくことをマトリフが望むとは思えない」
    「これは私のエゴだ!」
     廊下がしんと静まりかえる。するとそれを待っていたようにマトリフの声が聞こえた。
    「ガンガディア」
     私は一瞬迷ったが、やはり寝室へと向かった。当然にロカもついてくる。マトリフは私とロカを見て目を細めた。
    「喧嘩なら外でやれ」
     マトリフは欠伸をすると耳に小指を突っ込んだ。その傍若無人な態度に私は眉間に皺を寄せて、ロカはニッと笑った。
    「よう、マトリフ」
    「生きてんなら連絡くらいしやがれ馬鹿野郎」
    「スクラップ置き場で目覚めたのはつい最近なんだよ。十何年も経ってて驚いたくらいだ」
    「へっ、寝坊助は変わらねえな」
     マトリフはくっくと笑うと私を見て、手招きした。私はマトリフのそばに寄って膝をつく。するとマトリフは私の手を取った。
    「こいつはガンガディア。オレの恋人」
    「え」
     私とロカの声が重なった。私は口を開けたままマトリフを見る。
    「今なんと?」
    「は? 恋人だって言ってんだよ。今度こそ耳の故障か」
    「なんだよ、だったら早く言ってくれよな」
     ロカは屈託なく笑うと私の背を何度も叩いた。私は自分の醜い嫉妬が全くの空回りであった気がしてきた。ロカはマトリフのことをよろしく頼むぜ、と真剣な顔で言った。
    「じゃあそろそろ行くよ。二人の邪魔をしたら悪いしな」
    「何か言いたいことがあったんじゃないのか」
    「ほんとはちょっと迷ってたんだ。これでよかったのかって。だからマトリフの言葉が聞きたかった」
    「気をつけろよロカ。お前が起こした波はお前自身を引き摺り込むぞ」
     ロカは頷くと私を見た。その眼差しは穏やかだった。
     ロカは軽く手を上げて、来た時と同じように足音もなく去っていった。
    「いい奴だろ」
     ぽつりとマトリフが言った。
    「あいつがひとつの命じゃねえっていうなら、オレたち人間だって生きてるって言えねえよ」
    「彼が生命体だというのか」
    「お前だってそうさ」
     マトリフは天井を見つめていた。手は目を覆い隠している。
    「生きている限り、選んでいくしかない。より善いと思える選択肢を。たとえそれが間違いだったと、後から悔やんでもだ。あの日、オレが考えもなくアトリエに入らなきゃ、あいつは破壊されなかった。だからオレは生きて証明しねえといけなかった。オレが生きていてよかった理由を」
     マトリフは起き上がると呼吸器を外した。そのまま私の胸に倒れ込んでくる。私はその身体を抱きしめた。
    「生きるってつらいな」
     マトリフはぽつりと呟いた。その鼓動が手のひらを通して伝わってくる。
    「お前がいてよかった。お前が……また生きたいって思わせてくれた」
    「マトリフ……私は……」
    「あんま待たせるなよ。くたばる前に聞かせてくれ」
    「愛してる。君を愛している」
    「ああ、オレもだ」
     
     ***

     吹く風が春めいてきた。気温の上昇は例年並み。午後からは小雨が降るだろう。
     こんな天気の日はマトリフの機嫌が良かった。まず寒くないのがいい。寒いと寝室からすら出たがらない。空調は適温に設定してあるのに、窓から見える景色が寒々としていると、布団へと戻ってしまうのだ。だからといって暑すぎることも嫌うので、これくらいの気温の、陽射しも強くない程度の日がちょうど良かった。
     公園を歩く私の横をランニングする人間が通り過ぎていった。その後ろをぴったりとアンドロイドがついていく。人間は息を切らせているが、もちろんアンドロイドは平然としていた。性能として、アンドロイドは人間の肉体を上回る。情報量においても、ある分野の思考においても、アンドロイドの方が優れていた。
     いつだったか、マトリフとスピードチェスをしたことがあった。リビングの窓辺にはチェスボードが置かれてある。それは年季が入っており、以前はよく使っていたようだ。
    「スピードチェスは知ってるか?」
     マトリフは挑発的に言った。私がチェスをできると知った上で勝負を持ちかけているようだった。
     スピードチェスは数秒ごとに指していく早指しのチェスだ。ボードの横にブザー付きのチェスクロックを置いて、指すごとにボタンを押す。マトリフは指すのが早かった。頭の回転が速く、戦術も豊かだった。だがそれはあくまで人間にしては、という意味だった。私は指しながらマトリフに勝つべきか負けるべきか考えた。マトリフの捻くれた性格を理解し始めていた頃だったが、その性格が勝負事にどう反映されるかまではわからなかった。結局私は引き分けを選んで駒を置いた。
    「お前、手を抜きやがったな」
     マトリフはボードを見ながら言った。その声音から彼が怒っているのだと知り、私はまた己の失敗を悟った。
    「いえ、あなたが強いから」
    「オレは嘘やおべっかは嫌いなんだよ」
    「ではもう一度、今度は本気でする」
     私は言いながら駒の位置を戻した。次の対局では私は手を抜かなかった。マトリフはさっきと戦術を変えてきて、奇抜な動きに私は少し迷ったものの、それが囮である事を見抜いていた。私は手を休みなく動かしながら、マトリフの手が駒を動かしていく様子を見つめていた。それを美しいと思い、もっと見ていたかったのだが、本気でやると約束したので最後の一手を指した。
    「へへっ、やるじゃねえか」
     マトリフは負けたのに嬉しそうだった。それからもマトリフは私をチェスに誘っては、その度に負けて笑っていた。
     この公園にも何度か一緒に来たことがあった。マトリフは外には出たがらなかったのに、車椅子を使うようになってからの方が外へで出たがった。私は細心の注意を払ってマトリフの車椅子を押しているのに、マトリフは気になるものがあると勝手にそちらへ進行方向を変えてしまう。
     その日は池にいる鳥を見ていた。池には多くの鳥がいたが、その中で一匹だけ白い鳥がいた。マトリフはその鳥を見て「あれはグースかダックかどっちだ?」と私に訊ねた。
    「首が長いからグースだろう。野生ではなく家畜化されたガチョウのようだ」
    「ふうん」
     マトリフは訊ねたわりにすぐに興味を失ったようだった。グースも臆病なようで、こちらを見て逃げていく。人間は自分の思惑通りにものを作り変えるのが得意だ。肉や羽毛のために生き物さえ作り変える。その逃げていくグースがふと自分と重なった。
    「あれが食いてぇなあ」
     マトリフがぽつりと呟いた。
    「さっきのグースを?」
    「いや、ダックのほう。皮がパリパリの」
     その日は中華をテイクアウトして帰った。公園のグースを見てダックが食べたくなる感覚が私にはわからないが、ダックは美味しかったらしい。マトリフはテイクアウトの箱に入っていた紙ナプキンにダックの絵を描いたが、私にはウサギに見えた。
     公園を抜けると墓地に入った。曇天は今にも降り出しそうだ。墓石が並ぶ道を迷わずに進む。
     残念なことに世界は劇的に変わる事はなかった。アンドロイドは依然として機械であり、同時に友であった。いまだにアンドロイドに酷い扱いをする人間もいるし、変わりたくないと言うアンドロイドもいた。
     少し歩くと真新しい墓石の前に少年が立っていた。それがポップだと気づく。ポップも私に気付いたようだった。
    「よお!」
     ポップは気軽に手をあげた。その頬に細い雨が落ちていく。小雨が降り出していた。
    「ここに来ればあんたに会えると思ったからさ」
     ポップは言いながら真新しい墓石に触れた。飾り気のないその石には名前と数字しか刻まれていない。そのマトリフの墓を私は見つめた。
    「連絡もせずにすまないね」
    「そうだぜ。それにあの家にだって帰ってないだろう」
    「やはり彼のいない家にはいられなくてね。君が使うといい」
     私はマトリフの葬儀が済んだその日にこの街を出た。何か明確な目的があったわけではないが、とにかく違う場所に行ってみたかったからだ。
    「たまには帰ってきてくれよ。思い出話もしてほしいし」
    「ああ、考えておくよ」
     ポップは私に笑みを向けると、墓石を撫でてから軽い足取りで去っていった。
     私は墓石の前に屈む。車椅子に乗っている時のマトリフと話すときにもよくこうして屈んだ。だがこうして墓の前に来ても、マトリフを前にしているような気にはなれなかった。
     マトリフはここに埋められている。だがどうしてか、彼と離れてしまった気がしない。
     私のメモリーにはたくさんのマトリフがいる。その全てを私は忘れることがない。いつだってマトリフの姿を見れるし、その声を聞けるのだ。
    「それなのに寂しいよ」
     墓の前に雫が落ちていく。どうやら雨が本格的に降り出したらしい。私は濡れた頬を拭った。そしてその手を胸に当てる。流れる血の色は違っても、変わらないものもあるだろう。
    「また君に会いにくる」
               
                        終



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