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    なりひさ

    @Narihisa99

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    なりひさ

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    ガンマト。アドベントカレンダー企画作成まとめ

    #ガンマト
    cyprinid

    ガンマトアドベントカレンダー1.5 私は今日こそマトリフに好きだと伝えようと思っていた。私がマトリフに出会ったのはちょうど五年前。恋に落ちたのは四年と三百六十四日前だ。
     私はマトリフの研究室に来ていた。私は企業の研究職だが、共同研究員としてマトリフがいる大学に派遣されている。夕方の研究室には私とマトリフしかいなかった。
    「マトリフ、話があるのだが」
    「なんだよ改まって」
     マトリフは競馬新聞を片手にビーカーで黒い液体を混ぜていた。それがインスタントコーヒーで、そのビーカーが前回は何に使われていたのか思い出そうとしてやめた。衛生的であることを信じたい。
    「以前から言おうと思っていたのだが」
    「マグカップならねぇんだよ。でもコーヒーが飲みてえし」
    「その件も言いたかったのだが、いまはそうではなくて」
     君のことが好きなんだ。ずっと前から、君だけを見ていた。私は手を握りしめる。口を開いたが言葉は出なかった。
    「ん? なんだよ」
    「その、君のことが」
    「オレ?」
    「す……」
    「す?」
    「す……スシは好きかね」
    「寿司?」
     私は大学の近くの寿司店のカウンターに座っていた。横でマトリフがおしぼりで手を拭いている。あの間の抜けた会話の後に、じゃあ寿司を食べに行こうという流れになって、気がついたらこの店に来ていた。この店は以前に上司に連れてきてもらった事がある店で、値段の割に味が良い。落ち着いた雰囲気の店内で、いつかマトリフと来たいと思っていた。
     私たちの前には寿司が並んでいる。マトリフはさっそく手を伸ばしていた。
    「お、美味え」
     マトリフはもぐもぐと口を動かしながら言う。
    「それは良かった」
     私も寿司を口に運ぶ。確かに寿司は美味かった。だができれば告白を成功させて、デートとして来たかった。
     なぜ好きだという一言が言えないのか。私は項垂れる。これまでも何度も告白しようとして失敗してきた。自分が情けない。たとえ振られるにしても、マトリフを好きだという気持ちは伝えたかった。
    「オレも好きだぜ」
    「え?」
    「寿司が」
    「ああ、寿司が」
     そうかマトリフは寿司が好物なのか。告白は失敗したが有益な情報を得られた。むしろマトリフが寿司を喜んでくれたのなら良かったではないか。告白はより良いシュチュエーションをこれから考えよう。まだまだ熟慮が必要だ。
     するとマトリフが目を細めて私を見てきた。その温和な表情にどきりとする。よほど寿司が美味くて機嫌が良いのだろうか。
     マトリフがとっくに私の想いに気付いており、告白をずっと待っていたということを知ったのは、随分と後になってからだ。



     マトリフは大抵の場合、研究室にこもっている。学生たちは研究室を洞窟という隠語で呼び、マトリフに大魔道士という渾名をつけていた。
    「せめて窓を開けてくれないか」
     研究室は薄く白ぼけていた。マトリフの吸った煙草の煙のせいだ。椅子から動かないマトリフを見て、私は窓を開けに立った。
     窓の外は冬の空が広がっていた。私は窓際で手を振って、煙を少しでも外へと追い出そうとした。そもそも、構内は禁煙だったはずだ。
    「開けたら寒みぃじゃねえか」
    「健康を害するほどの喫煙は如何なものかな」
     私の言葉にマトリフは肩をすくめて、短くなった煙草を灰皿に押し付け、また新しい煙草を箱から引き抜くと咥えて火を付けた。数年前に大病を患ったというのに、マトリフは健康的な生活をしようという気がまるで無いらしい。
    「好きに生きるのが長寿の秘訣なんだよ」
     マトリフは上を向くとまた大量の煙を吐き出した。
    「綿菓子」
     マトリフは煙に指を突き刺している。煙を綿菓子に見立てているらしい。だが煙はすぐに消えていく。
    「有毒な綿菓子だ」
    「違ぇねえ」
     私はマトリフに近寄るとその指から煙草を抜き取って灰皿へと押し付けた。マトリフはその煙草へと視線をやる。
    「もったいねえな」
    「もうすぐ学生が来るだろう。若者に副流煙を吸わせる気かね」
     私は手元のファイルを手に取って扇ぎながら部屋を歩く。いくら寒いとはいえ、この部屋の煙草の匂いを少しでも減らしておきたかった。
    「なあガンガディア」
    「なにか、うわッ」
     見ればすぐ後ろにマトリフが立っていた。あまりの近さに驚いてしまう。すると苦い匂いがふわりと鼻腔まで届いた。それはもちろん煙草の匂いなのだが、不思議とマトリフから匂うときは嫌だとは感じなかった。
    「ネクタイ、曲がってんぞ」
     マトリフの手が私の胸元に触れた。わずかにネクタイの位置を直される。マトリフはぽんとネクタイを叩いて手を戻した。
     私はマトリフに触れられたことに胸の高鳴りを感じたが、それが表情に出ないように唇を噛んだ。なんとか冷静を保ちつつマトリフを見る。
    「ありがとう」
     ネクタイだけでなく身だしなみは気をつけているつもりだが、いつの間に歪んでいたのだろう。マトリフに会う前は必ず鏡でチェックしているのに。
    「いいってことよ」 
     マトリフは悪戯っぽく笑ってポケットに手を入れた。



     マトリフは机に置かれた紙をじっと見つめた。手のひらサイズ程度のメモ紙だが、何と書かれているか読めなかったからだ。
     マトリフは昼に研究室を出て、さっき戻ってきたところだ。出る前にこんなメモ書きは無かったはずだから、留守中に誰か来て、マトリフがいないから伝言のために置いていったのだろう。
     だがしかし。あまりの悪筆のために解読ができなかった。外国語なのかと思ったが、そんなメモ書きを残される理由がわからない。
     学生だろうかと思ったが、それとは別に心当たりがあった。ガンガディアだ。このメモ書きに書かれた文字の、少し青みがかったインクのペンをガンガディアが持っていた気がする。
     だがガンガディアは字は綺麗だ。性格を表すような、字の手本のような文字を書く。間違ってもこんな読めもしない字は書かない奴だ。
     さて、どうしたものか。マトリフはメモ書きを手に持って口を曲げた。
     読めもしないメモ書きなんて無いも同じだ。気にする必要などない。いっそ捨ててしまってもいいくらいだ。悪いのはマトリフではなく、こんな読めない文字を書いた奴なのだから。
     そう思うものの、マトリフはそのメモ書きを握り潰すこともゴミ箱へ入れる事もできなかった。そのインクの色がガンガディアを思い出させるからだ。
     共同研究は終わった。ガンガディアはもうこの研究室へは来ない。ガンガディアにはもう一月も会っていなかった。
     もしこのメモ書きが、ガンガディアのものだったら。留守のマトリフにあてた手紙だったら。そう思うとこのメモ書きを捨てることができなかった。
     マトリフはずっとガンガディアの想いに気付いていた。あれほどわかりやすい奴もそういないだろう。マトリフは知りながら知らないふりをしてきた。今さら恋なんてと怯える気持ちが足を竦ませ、あの熱量の真剣さに向き合う勇気を挫いていった。
     またどこかで、と控えめな挨拶をして去っていったガンガディアに、最後までマトリフは知らないふりを続けた。まだ若いのだし、すぐにいい奴が見つかるだろうと自分を納得させた。
     それがメモ書き一枚でこのザマだ。せめて何と書いてあるのか読めさえすればいいのに。
     そのとき、研究室の扉が開く音がした。
     


    「あ、師匠ここにいたのかよ!」
     研究室に入ってきたのはポップだった。
    「なあ師匠ここに、あ! それだ!」
     ポップはマトリフが手に持っていたメモ書きを指差しながらこちらへ来た。
    「お前のか?」
    「さっきここへ来たときに置き忘れたみたいでさぁ」
     へらりと情けなく笑って見せるポップに、マトリフは気が抜けてしまった。このメモ書きはガンガディアが書き残した物ではないらしい。ここへガンガディアが来たかもしれないなんて、マトリフは自分の想像に苦笑した。
     持っていたメモ書きをポップに返し、マトリフそれにしても、と付け加えた。
    「汚ねえ字だな。読めやしねえ」
    「う、ほっといてくれよ。おれしか読まねえと思って書いたメモなんだからさ」
    「それよりさっきここへ来た用事はなんだったんだ」
    「ああ、それならもう解決済み」
     ポップはメモ書きをノートに挟んでいた。課題にでも使うのだろう。
    「用が済んだならさっさと行けよ」
     マトリフは上着から煙草を取り出して窓を開けた。そうしてから、もう煙草を口煩く注意する奴がいない事を思い出す。マトリフは少し考えてから煙草を上着に戻し、窓を閉めた。
    「……あのさ、師匠」
    「なんでえ、まだいたのかよ」
    「これ、本当は言わないでくれって言われたんだけどさ、やっぱり言ったほうがいい気がして」
     マトリフはポップを振り返る。ポップは気遣わしげな表情でマトリフを見ていた。
    「なんだよ」
    「おれ、さっき課題でわかんねえとこあって師匠に聞きに来たんだ。そしたらここにガンガディアのおっさんが来ててさ」
     それを聞いてマトリフは固まった。思わず息を止めてしまって、それを悟られないように顔を逸せて息を吸った。
    「でも師匠は留守だったからさ。おれが師匠を探しに行こうかって言ったら、ガンガディアのおっさんはいいって言うしさ。待ってる間におれがわかんなかったとこ教えてくれてさ。ペンも貸してくれて」
     ということはあのメモ書きはガンガディアのペンを借りてポップが書いたものだということか。マトリフは無意識に研究室を見渡す。どこかにガンガディアがいたという痕跡を探したかったのかもしれない。
    「それであいつは?」
    「帰った。もう少し待ってたら師匠も戻ってくるって言ったんだけど」
    「あいつも忙しいんだろ。連絡だって全然ねえんだ」
     もしここで会わなくなったって、ガンガディアから連絡してくるだろうとマトリフは思っていた。連絡先は交換してあるし、理由なんていくらでも作れる。だがガンガディアが連絡してくることはなかった。マトリフは自分から行動しようなんて考えてもみなかったのだ。
    「なあ師匠、今ならまだ追いつくかもしれねえよ」
     ポップは窓から外を見た。マトリフもつられて視線をやる。学生たちの中にあの大きな姿を探した。だがあの目立つ姿は見当たらない。
    「もういるわけねえよ」
    「少しくらい必死になったって、バチは当たらねえぜ」
    「チッ、ガキが一丁前に言いやがる」
     今更追いかけたって間に合うわけがない。マトリフはそう思いながらも研究室のドアを開けていた。走るのなんて何年振りだと思いながら、廊下を駆けていく。ガンガディアを失いたくないのだと、ようやく気付いた。



     マトリフはゼイゼイと息を荒げていた。普段運動をしていない老人の体力を舐めて貰っては困る。構内から出る前にマトリフの体力は尽きてしまった。駐車場の隅の階段に座り込んで息を整えながら、空が飛べたら楽だろうにと、マトリフはじわりと滲んだ汗を拭った。
     そこへ走る足音が近づいてきた。つられてそちらへ顔を向ける。
    「マトリフ、大丈夫かね」
     マトリフの顔に影が落ちる。スーツを着たガンガディアがそこにいた。ガンガディアはマトリフの前に屈むと、心配そうにこちらを見てくる。
    「おまっ……なんで……」
    「君が走っているのが見えた。何かあったのかね?」
    「おまえ……帰ったんじゃねえのか」
    「ああ、食堂で昼食を食べていた」
     ガンガディアは振り返って食堂が入っている建物を指差す。食堂は壁がガラス張りになっているから中から外が見えた。マトリフが体力も尽きかけで走ってる姿が見えたのだろう。
    「お前、忙しいんじゃ……仕事はどうしたんだよ」
    「今日は有給を取ってある」
     だったら連絡ぐらいしろよ、と言いそうになるのをぐっと堪える。
     マトリフは大きく息をつくとガンガディアの肩に手を置いた。そのまま引き寄せようとしたが、体が傾いたのはマトリフのほうだった。そのままガンガディアの胸に顔を埋める。ガンガディアは驚いたようにマトリフの肩を支えた。
    「マトリフ?」
     マトリフは地面を見つめながら、ガンガディアの温かな体温を感じていた。それは不思議と心が落ち着くものだった。
    「明日、筋肉痛になったらお前のせいだからな」
    「筋肉痛? なぜ? それよりも大丈夫なのかね」
    「お前このあと暇なんだろうな」
    「暇ではないが、融通はきく」
    「おう。じゃあ一回しか言わねえからよく聞きやがれ」
     マトリフはようやく整ってきた息を大きく吸って吐いた。顔を上げてガンガディアを真っ直ぐに見つめる。ガンガディアは眼鏡の奥の目をきょとんとさせていた。途端にマトリフは羞恥心が込み上げてくる。自分でも顔が赤くなるのがわかった。
    「あ、やっぱちょっとタイム」
    「さっきから何なのだ」
    「いいからあと五秒待て。心の準備が」
     走ってきたせいで鼓動がうるさいんだよ、とマトリフは言ったが、律儀に待っているガンガディアに見つめられ続けているので、鼓動は一向におさまらなかった。



     嘘は得意なほうだった。騙したり煽ったり、言葉で相手を翻弄するのは、マトリフにとっては容易いことだった。
     だが、いざ惚れた相手を目の前にして、本心を伝えることのどれほど難しいことか。その伝えようという勇気さえ、自発的には出なかった自分が、何度も告白しようと挑戦していたガンガディアを笑うことなど愚かなことだった。
    「落ち着いたかね?」
    「ああ」
     隣に座って背をさすってくれるガンガディアの大きな手は温かかった。本当に心配してくれているのだとわかる。よくわからない状況で待たされているのに、不満も言わない。貧乏くじを引かされるタイプだとつくづく思う。
     だから惚れてしまったのだ。真面目で努力家で、頭いいくせに鈍くて、自分の思いをつい飲み込んでしまう。でも諦めずに向かってくる。
    「オレはお前に会いたかった」
    「え?」
     急にガンガディアは故障した機械のように固まった。そしてマトリフに触れていた手をサッと引っ込めてしまう。
    「お前から連絡がくるんじゃねえかって、ずっと待ってた」
    「何か研究に問題でも?」
     焦ったようにこちらを見てくるガンガディアに、マトリフは笑いが込み上げてきた。ああそうだよ。お前はそういう奴だ。
    「問題があるのはオレのほうだ」
    「君に? まさかギャンブルで借金でもつくったのか?」
    「違えよ」
    「金ならいくらでも助けに」
    「金銭面じゃねえって」
    「まさか病気の再発か?」
    「それも違う。こないだの健康診断だって問題なかった」
    「まさかついにハラスメントで訴えられたのか」
     こいつ本当にオレのこと好きなんだよな? とマトリフは首を傾げたくなる。ガンガディアは真剣な表情でマトリフの手を握った。
    「なんでも君の力になる。本当のことを話してくれ」
     そんなに問題を起こしそうだと思われていることに僅かにショックを受ける。ガンガディアはすっかり思い詰めた顔をしていた。話がそんなに深刻なことではないことが恥ずかしくなってくる。
    「じゃあ聞いてくれ」
    「ああ」
    「オレはお前のことが」
     マトリフはガンガディアの耳にすっと顔を寄せた。囁いた言葉はガンガディアにだけ届く。昼間の構内は方々から賑やかな声が響いていた。
     二人を横目に学生たちが通り過ぎていく。感極まったガンガディアがマトリフをきつく抱きしめていた。



     目を開けたらマトリフの横顔が見えた。同時にいい匂いがして、それがマトリフの持つマグカップから香っているのだと気付く。朝陽がカーテンの隙間から差し込んでいた。
    「随分と早起きだ。早く大学へ行く日だったか?」
     私は予定を頭の中で確認する。速く出勤するとは聞いていなかったはずだ。
    「いいや。目が覚めちまった」
     マトリフはベッドの縁に腰掛けて私を見た。その手が伸びて私の耳に触れる。その行為にどきりとしてしまい、少しの間が生まれた。私はそろりと手を出してマトリフの手の甲に触れる。
     マトリフの部屋は一人暮らしにしては広かった。私はたまに誘われて泊まりに来ている。はじめてこの部屋に来た日、マトリフは「広いベッドが好きなんだよ」と言ってこのベッドに寝転がったが、それが私のサイズに合わせて新しく買ったことを私は知っている。だがマトリフは隠し通せていると思っているらしい。
     私はマトリフの手を掴んで口付ける。骨張った手はいつ見てもきれいだと感じた。
    「それは何杯目のコーヒーなのかね」
    「三杯目」
    「起きてからずっとコーヒーを?」
    「お前の寝顔を見ながらな」
     私は思わず自分の顔に手をやった。間の抜けた顔をしていなかっただろうかと気になる。
    「可愛いツラして寝てたぜ」
    「君には老眼鏡が必要なようだよ」
    「年寄り扱いすんじゃねえ」
     私は逃げるように体を起こすとベッドから出た。リビングではコーヒーの香りがより強くなる。そこで私は壁の時計がいつもの起床時間を過ぎていることに気づいた。おかしい。目覚ましのアラームはまだ鳴っていないはずなのに。
     私が慌てて寝室へと戻ると、マトリフが私のスマートフォンを持っていた。
    「アラームを止めたのかね」
    「お前の可愛い寝顔を見ていたくてな」
    「おかげで遅刻しそうだ」
     私は急いでパジャマを脱いだ。マトリフはそれをニヤニヤと見ていた。まったく悪戯が過ぎる。
     身支度を終えて鞄を持つ。食事は途中の駅で買うしかない。
    「忘れもんだぜ」
     玄関でマトリフに呼び止められた。私はポケットに手をやる。スマートフォンも財布も入っていた。するとマトリフはのんびりと玄関まで来ると、あるものを差し出した。
     それは鍵だった。キーホルダーも何も付いていない、鈍く光る銀色の鍵だった。
     私は慌てて鞄からキーケースを取り出した。まさか家の鍵を落としたのかと思ったからだ。だがキーケースにはちゃんと鍵がついている。
    「この部屋の鍵だよ」
    「この部屋の?」
    「合鍵ってやつだよ」
     マトリフはそう言うと鍵を私に向かって投げた。鍵は放物線を描きながら飛んでくる。私はそれを手で掴んだ。
    「合鍵?」
     それはつまり、いつでも来ていいということだろうか。訊ねようとしたが、マトリフは私の腕をぐいぐいと押した。
    「ほら、遅刻しそうなんだろ。早く行けよ」
    「しかし」
    「あーもううるせえな。それ返品不可だかんな!」
     マトリフは私を玄関から追い出して扉を閉めてしまった。扉が閉まる寸前の隙間から、マトリフの顔が赤く染まっているのが見えた。
    「マトリフ」
    「なんだよ」
     閉じた扉から返事があった。出勤の時間は差し迫っているし、そう仕組んだのはマトリフなのだろう。照れ隠しに私を遅刻させるとは、マトリフの愛情とやらは本当に捻くれている。
     私は手の中の鍵を見つめた。それは与えられた特等席のように思える。マトリフの横にいられる特等席だ。
    「今夜もここへ帰ってきても?」
    「そういう意味で渡してんだよ」
    「了解した」
     私は貰った鍵をキーケースにつけた。そして扉に触れる。そこにマトリフはまだいるだろうか。
     私はキーケースにつけたばかりの鍵を使って扉を開けた。扉の前にいたマトリフが驚いたようにこちらを見る。その手を引いて抱きしめた。
    「愛してる」
     マトリフを抱きしめると胸がいっぱいになった。おそらくこの胸には幸せが詰まっているのだろう。
     私の背にマトリフの手が回される。小さくぶっきらぼうな声で「オレもだよ」と返される。その言い方が、あの大学の隅で告白されたときと同じでつい笑みが浮かぶ。この恋の炎は私の胸で、そしてきっとマトリフの胸でも、燃え続けているのだろう。

     
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