あなたが選んだのは 森の奥深くに、不思議な泉があるという。その泉は水が清らからで、その水と同じくらい清らかな者が訪れたら、幸せになれるという。
「だったらオレは無理だな」
話を聞いたマトリフは笑い飛ばした。自他とも悪党と認める素行の悪さと、清らかとは真逆の性格なのだ。ところがガンガディアが珍しく行きたいと言い張った。知識欲に飢えたこのトロルの我儘を、マトリフも珍しく聞いてやりたくなった。
そして落ちた。ガンガディアが泉に。それはそれは高い水飛沫が上がった。
「何やってんだ?」
マトリフとガンガディアはトベルーラで泉を探して飛んでいた。森の上を飛んでいたら、ぽっかりと空いた場所があり、そこに泉があった。そしてちょうど泉の真上に来たときに、ガンガディアが落ちたのだ。
マトリフは泉のそばに降り立った。上空まで上がった水飛沫が落ちてあたりの草を濡らしている。そして泉は泉というより沼だった。清らからな水とは程遠い。澱んで濁った悪臭のする水に、マトリフは鼻に皺を寄せた。
「おーい、大丈夫かガンガディア」
ガンガディアのタフさをマトリフはよく知っている。だから大丈夫だと思いながら声をかけた。
すると沼の中から何かが水を纏わせながら姿を見せた。ガンガディアにしては小さい、と思っていると、それはよく見知った顔だった。
「ポップ?」
それは白いローブを着たポップだった。だがいつものバンダナはしていない。ポップは伏し目がちに微笑んでマトリフを見た。
「あなたが落としたトロルはどれ?」
普段とはまったく違う口調でポップは言った。するとポップの背後に大きな姿が現れた。マトリフは目を見張る。それはガンガディアだった。だが三人いる。
「ガンガディアA、ガンガディアB、ガンガディアC」
ポップは並ぶ三人のガンガディアを紹介するように手で指し示した。三人のガンガディアは見た目はまったく同じである。
「さあ、あなたが落としたのは?」
「なんで三人もいるんだよ」
マトリフは並んだガンガディアを順番に見た。じっくり見ても違いがわからない。三人の見た目は全く同じだった。
「オレと一緒にここに来たガンガディアは手を挙げろ」
マトリフは言ったが、三人のガンガディアは誰も手を挙げなかった。
「いねぇじゃねえか」
「なんと正直な人でしょう」
ポップは両手を合わせて感激したように目を輝かせた。正直とは違うのではないか。そもそも正解を入れていない問題は成立しないのでは。
「正直なあなたには三人ともあげます」
「いらねえよ。オレと一緒に来たガンガディアを出せよ」
ポップはゆっくりと沼の中へと沈んでいく。三人のガンガディアを置いて。
「ちょっと待てこら」
マトリフはトベルーラで飛んでポップの首根っこを掴んだ。ポップはイヤイヤと首を振るが、無理矢理に沼から引きずり出した。
「やめたまえマトリフ。乱暴はいけない」
ガンガディアが言った。AかBかCかわからないが。このガンガディアは温厚そうな表情をしている。
「さっきから何の話をしている」
また別のガンガディアが言った。こちらのガンガディアは苛立っているようだ。
「おかしな状況だが、私はこれで失礼する」
もう一人のガンガディアはマトリフをじっと見つめながら言うと、背を向けて飛び立とうとした。マトリフは慌ててガンガディアの服を掴んで止めた。
「お前らもちょっと待て。動くな。オレの手は二本しかねえんだよ」
マトリフはガンガディアの動きを止めるように手を向けた。闘魔滅砕陣が使えたらいいのにとマトリフは初めて思った。
「おいこらポップ。ちゃんと説明しやがれ。ガンガディアは分裂でもしたのか」
「私は泉の精です。この姿は最近ここへ来た少年の姿を真似ただけで」
ポップもとい泉の精はエーンと泣き出した。鼻水まで垂らして。その顔がポップにそっくりだった。モシャスでも使えるのだろうか。だとしたら三人のガンガディアにも説明がつく。
「よし。お前らまとめて連れて行くからな」
マトリフはガンガディア三人とポップ似の泉の精を連れてルーラを唱えた。
三人のガンガディアを見分けるために、マトリフは部屋のガラクタの中から特別な筆を探し出した。それを使って分厚い胸板あたりにABCと書き込んでいく。
「よし、じゃあC。お前から来い」
マトリフは手招きしてガンガディアCを呼んだ。
「残ったお前ら。逃げようなんて考えるなよ」
マトリフの洞窟の出入り口の岩戸は呪文で開閉が出来る。今はマトリフが封印を解かなければ絶対に開かないようにしてあった。
「私が君から逃げたいと思うとでも?」
ガンガディアAが言った。
「離せ! 私は魔王軍へ帰る!」
ガンガディアBが言った。ガンガディアBはAに押さえつけられている。Bは魔王軍に属していた頃のガンガディアらしく、その魔王軍が滅んだことも、新たな魔王軍や大魔王の存在すらも知らない様子だった。逆にAはその全てを知っており、ポップのこともよく知っている様子だった。ポップ似の泉の精は部屋の隅で膝を抱えている。この部屋は広いがトロル二体が関節技をきめるためにジタバタしているために、隅にいないと潰されてかねない。
「いい子にしてろよ」
マトリフはそう言い残してガンガディアCを連れて寝室へと向かった。
「よし、そこに座れ」
マトリフはベッドを指差した。
「君が寝るには随分と広いベッドだな」
ガンガディアは言いながらベッドを見ている。そのベッドはもちろんガンガディアと一緒に寝るために特別に設えたものだが、このガンガディアはそれを知らないらしい。
「やはり君には一緒に生活を共にする相手がいたのだな」
ガンガディアはそのベッドから目を逸らせた。その一緒に暮らしている相手とはつまりガンガディアなのだが、このAやBやCのガンガディアではないのだから他人ということになるのだろうか。ガンガディアCはまるで悲しみに浸るように部屋の隅を見ている。
「そうだな。オレはそいつのこと愛してる」
マトリフが言うとガンガディアCは身体を強張らせた。瞬間的に感じた感情の昂りを鎮めるように、ゆっくりと息を吐いている。
「では私は邪魔でしかないな。もう引き止めないでくれ」
「そう言うと思ったぜ」
マトリフはガンガディアの後ろに立って通せんぼうするように両腕を広げていた。
「逃がさねえって言ったろ」
「しかし君には……」
「いいこと教えてやるよ」
ちょいちょいと指を曲げ伸ばししてマトリフはガンガディアに屈むように指示した。ガンガディアは戸惑いながら屈んでマトリフに顔を寄せる。マトリフは手を伸ばしてガンガディアの長い耳をむんずと掴んだ。
「オレがお前をどれほど愛してるか教えてやるから最後まで聞きやがれ」
「だが君は」
「オレは知ってんだよ。お前が悩んでることは全部解決する。食うものや生活の違いも、魔物と一緒に暮らすオレが周りから変な目で見られることも、寿命の違いも、これから全部オレたちで解決してくんだよ」
「マトリフ」
「だからお前だけで悩むな。お前がどこのガンガディアで、時代か世界かどこから来たのか知らねえけど、戻ったらちゃんとそこにいるオレと話せ。勝手にいなくなろうとすんな」
ガンガディアは驚いたように目を瞬かせると、僅かに口元に笑みを浮かべた。
「そう出来ればどれほどよいか」
「まだ遅くねえだろ」
ガンガディアは頷いた。そしてひとつ息をつくと、マトリフに手を伸ばした。
「ありがとう」
差し出された手が握手のためだと気付いてマトリフも手を向ける。握手とはいえないほど、大きな手に手が包まれた。
「次はお前な」
マトリフはガンガディアBを指差した。Bは仰向けになった状態で片腕をAに取られ、首と胴体を脚で押さえつけられている。AはBが喋れるように締めつけを緩めた。
「ふざけるな」
ガンガディアBの地を這うような声が洞窟に響く。
「さっきから何のつもりだ。貴様ら揃いも揃って大魔道士と……私は魔王軍で大魔道士は勇者の仲間なのだぞ」
「ガンガディアA、Bを連れてこっち来い」
「わかった」
Bは暴れたがAには敵わない。Bは寝室へと連行された。マトリフはその後をついて行く。
「離せ!」
「君が暴れなければ離してやる」
Bは部屋の中央で後ろからAに羽交締めにされている。マトリフはベッドのふちに座るとBを見上げた。
「まあ落ち着けよ」
「君こそ何を考えている。私から魔王軍の情報でも聞き出すつもりか」
「いらねえよ、そんなもん。ちょっと話に付き合ってほしいだけだ」
「話だと」
マトリフはベッドから降りるとガンガディアに近づいた。ガンガディアは今度は暴れずにマトリフの様子を見ている。マトリフはガンガディアの前にぺたりと座った。
「オレとお前は敵同士なんだろう」
「何を今さら」
「オレを殺したいか?」
「……私は君に勝ちたい。そして君が勇者の味方をするなら、殺すほかあるまい」
「そうか。オレはお前が好きだ」
「は?」
ガンガディアは驚いてマトリフを凝視した。
「もしかしたら、オレ自身もまだ気付いてなかったかもしれねえけどな。だがいずれ、自分の気持ちに気付くはずなんだ」
「何の冗談だ」
「信じられねえならいい。お前がオレを好きにならなくてもいい。でもオレはお前が好きなんだよ」
「私を揶揄っているのか」
「オレは本気だぜ」
マトリフは手を伸ばしてガンガディアの膝に触れた。ガンガディアは目を瞬きながらそれを見ている。
「こうやってお前に触りたいって思う」
「なぜ……何の意味がある」
ガンガディアはガンガディアAに後ろから羽交締めにされていて動けない。だが、ガンガディアはマトリフに目を奪われていて抵抗していなかった。
「もっと触れたら、わかるかもな?」
マトリフの手がガンガディアの膝からゆっくりと上がっていく。触れるか触れないかという程度で、指先がガンガディアの身体を撫でていく。太腿の付け根から、指が剥き出しの腹筋に触れる。指はゆっくりゆっくりと胸元を通り、首元まできた。ガンガディアの入れ墨をなぞるようにマトリフの指が動く。
「だ、大魔道士」
「ん?」
マトリフはトベルーラで浮かび上がっていた。顔の高さが同じになっている。ガンガディアの瞳が揺れていた。
「止めねえと触っちまうぞ」
マトリフの指がガンガディアの頬に触れた。ゆっくりとマトリフの唇がガンガディアのものに近付いていく。
「そこまでだ」
止めたのはガンガディアAだった。AはBを羽交締めにしていた手を離してマトリフの手を掴んでいる。マトリフの唇はガンガディアのものに触れる寸前で止まっていた。
「もう充分だろう」
ガンガディアAは微笑みを浮かべていた。だが有無を言わせない圧力を感じる。マトリフは大人しくガンガディアBから顔を離した。
「君は冗談が過ぎる」
マトリフはAに掴まれた手を見た。きつく握られているわけではないが、なぜだが振り解けない。
「オレは本気だったぜ?」
「貞操観念はないのかね。ここにいる私たちは君が愛したガンガディアではないはずだが?」
Aの視線を受けてBは身体をびくつかせた。BはマトリフとAを交互に見ながら逃げるように部屋から出ていく。
「固いんだよお前は。同じガンガディアだろ?」
マトリフは呆れたように肩をすくめてみせた。すると掴まれた手が引き寄せられる。
「あんなふうに気付かされたらあの私が可哀想だとは思わないのかね」
「気付くのが早いか遅いかの違いだけだろ」
マトリフはガンガディアを見上げた。ガンガディアは反対の手を伸ばしてマトリフの身体を抱き上げる。その慣れた様子にマトリフのほうが驚いてしまった。
「では私が君に口付けても問題ないと?」
「ねえだろ?」
するとガンガディアは急にマトリフの顔を掴んだ。マトリフは思わず息を詰めたが、次の瞬間にはガンガディアの唇で唇を塞がれていた。すぐに舌が差し込まれる。肉厚で長い舌はマトリフの口内をいっぱいにした。
「んッ」
マトリフは苦しさに目を見開いた。こんなキスはしたことがない。いつもガンガディアは控えめに唇を合わせることしかしない。だがこのガンガディアはマトリフの舌を絡めとり、喉奥までいっぱいにした。マトリフの口からは飲みきれない唾液が溢れて伝っていく。息苦しいが気持がちよかった。だが良すぎてその刺激にマトリフがついていけない。頭がぼうっとしてきて、慌ててマトリフは顔を振ろうとした。だが顔はガンガディアの手に掴まれて動けない。
マトリフはどうにかガンガディアを引き離そうと魔法力を込めた。するとガンガディアはすっと顔を離した。
「私が君のガンガディアなら、こんな事をされては嫌だと思うがね」
「浮気だってか?」
マトリフは唾液を拭って息を整えた。不敵に笑って見せるが、腰は引けている。
「その通り」
マトリフはガンガディアの真面目さに呆れてしまった。しかしマトリフにも言い分があった。
「だってよ、お前たちって同じガンガディアなんだろ?」
マトリフは三人のガンガディアと話して確信していた。あの沼に落ちたために三人になったガンガディアは見た目こそ一緒だが、それぞれに違いがあった。
「さっきのBは昔のガンガディアだ。まだ敵同士だった頃のな。そんでCは戦いが終わった後のガンガディアだ。その頃にあいつは悩んでたからな。そんでお前だ」
マトリフはガンガディアAを指差した。
「お前は未来のガンガディアだ。お前のその余裕たっぷりの様子はオレの知っているガンガディアじゃねえ。ってことは、順番からいくとお前は未来のガンガディアってわけだ」
ガンガディアはマトリフの推理を感心したように聞いていた。まるで教え子の回答を聞く教師のような視線である。
ガンガディアはすっと目を細めるとマトリフを見て頷いた。
「素晴らしい。だが間違っている」
「間違ってる?」
マトリフはガンガディアが三人に分裂してしまったのだと思っていた。それが過去や未来の姿になって現れたのだと。
聞き返したマトリフにガンガディアは頷いた。
「短時間での推察には敬服する。だが残念ながら事実は異なるのだよ」
「ってことは、正解を聞かせてくれるだろうな」
「知りたくない事実が含まれていたとしてもかね?」
硝子の奥にあるガンガディアの眼がじっとマトリフを見ていた。口元には笑みが浮かんでいるが、その眼は正に魔物のそれだった。その赤い眼差しに射竦められて背筋が凍る。
「たとえば先ほどのBのことだが」
ガンガディアは言いかけて、考え事をするように遠くを見た。その視線の先に明確にある何かを見るかのようだ。
「彼は過去から来たのではない。彼たちはまだ戦い続けている」
「誰とだよ」
「もちろん君たち勇者一行とだ。マトリフはメドローアを完成させられなかった。だから戦いが長期化している」
「何の話だよ。オレはメドローアを完成させた」
そしてマトリフはメドローアをガンガディアには使わなかった。だから今もガンガディアと一緒に暮らしている。
「あるいはCは」
ガンガディアはまた別の方向を見た。マトリフは恐れを含んだ気持ちでガンガディアを見返した。嫌な汗が手に滲んでくる。
「あの私には、もうマトリフがいない」
「いないって……」
「死んだんだ。少しの行き違いがあって、彼は自分の思いを伝えられないままに、マトリフを失った。だから彼はもうマトリフと話し合うことも出来ない。君はまだ遅くないと彼に言っていたが、手遅れなのだよ」
マトリフは内臓が締め付けられるような気持ちの悪さを感じた。このガンガディアの言う事をそのまま鵜呑みにする気はない。マトリフは手を握りしめた。
「過去や未来じゃねえってことは、似たような世界から来たってことか」
「概ねその理解で正しいと思う。私の過去にいる君は、今の君とはおそらく違う。君は魔族にはならなかったのだろう?」
「魔族だと?」
「おや、この世界の私は君を魔族にしようとしなかったのかね?」
ガンガディアは意外だと言わんばかりに目を見開いた。そしてようやく心からの自然な笑みを浮かべる。まるで眩しいものを見るかのようにマトリフを見た。
「どんな行動にも後悔はつきものだな。考え抜いて正しいと思ったものでも」
ガンガディアは指で眼鏡を押し上げた。余裕に満ちていたガンガディアが、はじめて迷いを見せた。
「君や、あるいは私が選ばなかった道の先にいるのが、ここにいる私たちだ」
このガンガディアが言うことが正しいなら、この世界に似た世界が無数にあり、そこは少しずつどこかが違っている。そこでは今でも戦い続けていたり、どちらかが死んだり、生き方を変えたりしているのだろう。
「じゃあ……」
マトリフは視線を彷徨わせた。
「この世界にいたガンガディアはどこにいったんだよ」
「それなら彼に訊くといい」
ガンガディアAは寝室を出て、あのポップ似の泉の精を掴んで戻ってきた。ガンガディアは泉の精をマトリフの前に下ろす。
「おい、ガンガディアを返せよ」
マトリフは泉の精に掴みかかるように言った。ガンガディアが消えてしまうような不安に駆られているマトリフは、いつもの冷静さを失っていた。泉の精は後ろをガンガディアAに、前をマトリフに挟まれてたじたじとしている。しかし降参だというように手を上げてから、片手を懐へと入れた。
「あなたが落としたガンガディアは……」
泉の精は懐に入れた手をそっと出した。その手に持たれていたのは白い皿だった。その上に握った米が二つ。さらにその上に魚の切り身が乗っていた。
「寿司だな」
「寿司です」
寿司を持った泉の精は笑顔で答えた。マトリフはその寿司を持つ手を叩いた。寿司が床に落ちる。
「寿司じゃねえよ! ガンガディアを出せって言ってんだよ! てめえの耳にはスライムでも詰まってんのか!」
「ああ! 大事な寿司ですよ!?」
「んなもん懐に入れてんな!」
泉の精は慌てて寿司を拾い上げている。マトリフは泉の精の意味がわからない行動に苛立っていた。ガンガディアの行方がわからない不安から苛立ちは加速していく。
「何を騒いでいるのかね」
声が聞こえたのかガンガディアCとBが寝室へと入ってきた。寝室はさほど広くない。ガンガディアAがすでに部屋の奥にいて、さらに二人入ってきたせいで窮屈に感じるほどだった。
マトリフは思わずCを見上げた。先ほどの話を聞いて何も感じないわけがない。するとCもマトリフを見た。目が合ったがマトリフは気後れを感じる。知らなかったとはいえ、無神経なことを言ってしまった。
「マトリフ」
Cに名前を呼ばれてマトリフははっとした。
「大丈夫かね。何か問題でも?」
「ああ、この世界のガンガディアの居所がわからなくてよ」
「そうか。それは……」
ガンガディアCはすっと表情を消した。
「……好都合だ」
ガンガディアCは手を伸ばしてマトリフの胴体を掴んだ。その勢いに咄嗟に反応できず、マトリフはガンガディアに引き寄せられる。
「君の言う通りだ。まだ遅くはない。君はここにいたんだ」
「おい、何を」
ガンガディアCはマトリフの頬を指先で撫でた。途端に強烈な眠気に襲われる。マトリフは身を捩ったが、身体を強く握られていて身動きが取れなかった。
「今度こそ君を死なせない」
まずい、とマトリフは思いながら身体の力が抜けていくのを感じた。急激に視界が狭くなっていく。ガンガディアが何をしたのか理解できないまま、意識が遠のいていた。
「マトリフ!」
その声に意識を呼び戻される。するとガンガディアCが殴られるのが見えた。その瞬間に手の力が緩んでマトリフは床に落ちる。ガンガディアCを殴ったのもガンガディアだった。だがAでもBでもない。その殴ったガンガディアはモシャスが解けたとき特有の煙を身に纏っていた。
「ガンガディア?」
それがよく知るガンガディアであるとマトリフは直感的に理解した。ガンガディアは何かにモシャスしていたのだろう。だがポップ似の泉の精ではない。泉の精は何やら感激したようにガンガディアを見上げている。その足元に白い皿が落ちていた。だがその上に乗っていたものがない。他にこの部屋からなくなったものはなさそうだ。
つまり、ガンガディアがモシャスしていたのは
「寿司か?」
「マトリフに手を出すな」
ガンガディアは拳を握りしめていた。身体中の血管が浮き出るほどに怒りを露わにしている。
マトリフは殴り倒されたCを見ながら頭を振った。先ほどかけられたのはラリホーのような呪文だったのだろう。半端に終わった呪文はすぐに効力が消えていった。
「大丈夫かね」
ガンガディアがマトリフの背に手を回した。怒気を発散させていたガンガディアだが、我を失ってはいないようだ。マトリフはにやりと笑ってガンガディアを見上げた。
「お前こそ、なんで寿司にモシャスしてんだよ」
「私ではない。そこのポップくんに似た泉の精に呪文をかけられた」
「やっぱりてめえのせいかよ」
マトリフは泉の精を睨め付ける。泉の精はおどおどしながらガンガディアを見上げた。
「しかし自分でモシャスを破るとは素晴らしい。これぞ愛の力ですね」
「やかましい」
マトリフの声に泉の精はしゅんと首を引っ込めた。
「……やってくれたな」
Cが殴られた頬を押さえながら立ち上がった。Cは憎悪の目をガンガディアに向けている。ガンガディアも引く様子はない。拳を握りしめて構えている。
「おい、よせよ。ここはお前らが喧嘩できるほど広くねえぞ」
マトリフがCとガンガディアの間に割って入った。
「そうですよ。真実の愛が証明されたので、もうおしまいです」
泉の精は音を立てて手を叩いた。途端に別の世界から来たガンガディアたちの体が淡く光を放つ。
「さあ帰りましょう」
泉の精はそう言うとリレミトを唱えたかのように消えてしまった。その呆気なさにマトリフは泉の精がいた場所をじっと見る。まだ何か起こるかと思ったが、そこは魔法力の痕跡があるだけで、人騒がせな精霊は本当に帰ったようだった。
「残念だがお別れのようだ」
ガンガディアAが言った。まるで水に溶けるように身体の輪郭が失われている。ガンガディアAは屈むとマトリフに視線を合わせた。
「火遊びは程々に」
そう言ってガンガディアAは思わせぶりに舌先で唇の端を舐めた。マトリフは先ほどのキスを思い出して顔が熱くなる。それを見てガンガディアAは笑みを浮かべ、跡もなく消えていった。
「火遊びとは?」
ガンガディアがマトリフを見下ろす。マトリフはぎくりと肩を跳ねさせた。
「さっきのAとこの大魔道士は口付けをしていた」
ガンガディアBが事も無げに言った。マトリフはぎょっとしてBを見る。
「チクるなよ!」
「マトリフ?」
ガンガディアの手がマトリフの肩に置かれた。やばいこれめちゃくちゃ怒ってるやつだ、とマトリフは思う。後でいっぱい言い訳しなければならない。
ガンガディアBはそんなマトリフとガンガディアを見ながら、少しは溜飲を下げた顔をした。まだマトリフとガンガディアが恋人同士であることが受け入れられないようだ。だがマトリフに注がれている視線は来たときとは違う好奇心が含まれていた。Bは最後までマトリフを見つめたまま消えていった。
最後に残ったのがCだった。マトリフは躊躇いがちにCを見る。Cは先ほどからずっとマトリフを見ていた。その淡く光って消えかかった身体がマトリフの前に跪く。
「私と一緒に来てはくれないか」
言葉と一緒に手が差し出される。マトリフはその手を見て助けてやりたいと思った。このガンガディアをどうにかしてやりたい。たとえそんな方法が存在しなくてもだ。
そのとき肩に痛みを感じた。肩に置かれたガンガディアの手に力がこもったからだ。ガンガディアがどんな顔をしているのか見なくてもわかった。そんな心配などしなくても、お前から離れるわけがない。マトリフは肩に置かれた手に手を重ねた。
「悪いな」
マトリフはCに向かって言った。Cはゆっくりと手を下ろした。もうその身体の半分は消えている。だがCは諦めきれない眼差しでマトリフを見ていた。
「君は幸せか?」
Cの言葉にマトリフは目を瞬いた。だが迷いはなかった。
「まあな」
肩に置かれた手の温もりを感じながらマトリフは言った。顔は自然と綻んでいる。
「そうか」
Cは無理に微笑みを浮かべた。その頬に涙が伝っていく。
「私も君を……マトリフを幸せにしたかった」
Cの身体は消えた。直前に溢れ落ちた涙が床に跡を残している。しかしそれも蒸発するように消えていった。マトリフはそれを見つめて、ひとつ息をついた。
「ガンガディア」
ガンガディアはすっと屈んだ。マトリフはガンガディアに向き合うと両手を広げる。ガンガディアはマトリフを見つめ、その小さな腕の中に顔を埋めた。マトリフは胸いっぱいにガンガディアを抱きしめる。
「オレはお前のこと離さねえよ」
「私もだ」
二人は長いこと抱きしめ合った。その存在が自分との境目を失うほどに。
その洞窟に元気のいい声が響いた。マトリフを師匠と呼ぶ少年は、慌てた様子で洞窟へと走り込んでくる。やれやれ、いい雰囲気も続かねえなとマトリフは思いながら、ポップを出迎えるために寝室を出た。
「師匠ここにいたのかよ! さっきから大変なんだよお!」
慌てた顔のポップは少年を抱っこしていた。さらに後ろには二人の青年を連れている。その三人が誰であるのかマトリフもガンガディアもよく知っていた。
「ヒュンケルを泉に落としたら三人になっちゃったんだよ〜!」
マトリフとガンガディアは顔を見合わせた。そういえば泉の精は最近泉に来た少年の姿を真似たのだと言っていた。ガンガディアより先にポップとヒュンケルが泉へ行き、ヒュンケルが落ちたのだろう。吸引力が強い泉だ。マトリフは深い溜息をついてポップを見た。
「よし、ポップ。寿司を探せ」
「はあ?」
「寿司だよ寿司。馬鹿みたいに聞こえるだろうがよ、今ごろヒュンケルは寿司にされてんだよ」
〜A〜
「ここにいたのかよ」
呆れたようなマトリフの声に、ガンガディアはあたりを見渡した。さっきまでマトリフの洞窟にいたはずだが、風景は魔界のものに変わっていた。どうやら元の世界に帰ってきたらしい。
「どこ行ってたんだよ」
マトリフはふわりとガンガディアの膝に降り立った。どうやら立腹しているようだ。マトリフは何よりも退屈を嫌う。それは長く生きているせいだ。マトリフが魔族になってから百年ほどが経つ。最近のマトリフはとにかく刺激的なものを求めていた。それが主に性的な方向へと向かい、あらゆるセックスを試していた。そういえば今夜も新しいセックスを試す約束をしていた。
「別の世界だよ」
「はあ?」
ガンガディアは先ほどまで体験してきた世界のことをマトリフに話して聞かせた。マトリフは最初は訝しんで聞いていたが、どうやら本当らしいとわかると、顔色を変えた。
「そんで?」
「そこの世界のマトリフは魔族化しなかったらしい。だが幸せそうだった。長く生きることだけが幸せとは限らないのだな。私は君を幸せにできているだろうか」
ガンガディアは自分の考えが間違っていたのかと迷いが生じていた。マトリフは共に生きることを選んでくれた。だがマトリフは長い生を持て余している。これでよかったのかと思わずにはいられなかった。
だがマトリフはそんなガンガディアの言葉など聞いていなかった。
「そうじゃねえよ。おめえその世界のオレに何したって?」
「キスを」
ガンガディアは別世界であってこと全て素直に話した。もちろん、あの世界のマトリフにキスをしたことも。
「はあ!?」
マトリフは目を吊り上げた。怒りのためか放出された魔法力のせいで髪がふわりと浮き上がるほどだった。
「……怒っているのかね?」
ガンガディアは意外に思った。マトリフは性的なことに関しては奔放なたちだ。以前は他者を交えた性行為さえ楽しんでいた。
だがマトリフは真顔でガンガディアを見つめている。その目は怒りに燃えていた。
「お前、それ浮気だろ」
「だがマトリフであることに違いはないが?」
「ほう、お前はお堅い奴だと思ってたがオレの勘違いか?」
自分がするのはいいが、されるのは嫌だ、というやつだろうかとガンガディアは思う。あの世界のマトリフは乗り気でキスをしようとしていた。この世界のマトリフも同じ状況なら同じことをやりかねないだろう。だからガンガディアはあの世界のマトリフにキスをしたのだ。マトリフが知っても笑い飛ばすと思っていたから。
だがマトリフは予想とは異なり怒っている。しかもかなり怒っている。
「その……すまない」
ガンガディアはマトリフに手を伸ばしたが、あからさまに避けられた。マトリフはトベルーラでふわりと浮き上がる。
「マトリフ。この件に関しては私が悪かった」
しかしマトリフはガンガディアの声を無視して飛んでいってしまう。ガンガディア青い顔をさらに青くしてマトリフを追いかけた。
〜B〜
「ここにいたのかガンガディア」
ヒュンケルの声にガンガディアはあたりを見渡す。おかしな世界へ行っていたと思ったら、突然に帰って来たようだ。ガンガディアはいつもの地底魔城の居室にいた。
「……ガンガおじさん?」
ヒュンケルは反応がないガンガディアを心配したように見上げてくる。その呼び方はヒュンケルが幼い頃のものだった。今では同じ魔王軍の団長として対等に振る舞うために名前で呼んでいるが、二人だけの時などはヒュンケルは今でもおじさんと呼んでくる。
「いや、なんでもない」
あれは夢だったのだろう。ガンガディアはそう思うことにした。ガンガディアは眼鏡を押し上げて雑念を振り払った。
「戦況に変化でも?」
「ああ、そうだ。勇者一行の大魔道士たちが奇襲を」
「なんだと」
ガンガディアの脚は部屋の出口へと向かった。ヒュンケルもそれに並びながら現在の状況を伝えてくる。
「今は不死騎団が相手をしているが長くは持たないだろう」
「私の軍団も出陣させ、私が陣頭指揮に立つ」
そのとき、あの夢の中で大魔道士に触れられたことを思い出した。肌の触れた指先の感触がまだ生々しく残っている。
「ッ!」
破壊音と共に通路の壁が崩れた。ガンガディアが思考を止めるために壁を殴りつけたからだ。
「……おじさん?」
「なんでもない」
ヒュンケルは訝しげにガンガディアを見上げる。ガンガディアが苛立つと危ないと知っているヒュンケルだが、あまりにも唐突な行動に意味がわからなかった。
大魔道士のことは考えるな、とガンガディアは己に言い聞かせる。夢とは荒唐無稽なものだ。おかしな出来事などいちいち気にしていられない。
だが、あの大魔道士の声音や表情が頭から離れない。
いや、これは闘志だ。大魔道士のことを考えると湧き上がってくる興奮と胸の高鳴り。これはまさしく闘志そのものだ。
ガンガディアは軍団を連れて戦場へ赴く。するとそこには弟子を連れた大魔道士がいた。大魔道士はガンガディアを見ると不敵に笑う。まるでガンガディアが来ることをわかっていたように。
「また君かね大魔道士」
「オレに会いたかっただろ?」
「今日こそ君に勝ってみせる!」
ガンガディアはマトリフめがけて飛びかかっていった。