ガンマトガンマトアドベントカレンダー315ふとんの抜け殻
ぽっかりと空いた穴を見つめる。布団はそこに寝ていた主人の形を残していた。マトリフは器用に布団から抜け出したらしい。
部屋は暖炉の火のおかげで充分に暖まっている。外は荒れた天気だが、それを全く感じさせなかった。
さて本人はどこへ行ったのだろうとガンガディアはあたりを見渡す。昨夜は一緒に寝なかったために、その姿を見ていない。ガンガディアの部屋はその体のサイズに合わせてあるので広い。マトリフ一人が身を隠そうと思えばその場所は沢山あった。
「大魔道士」
ガンガディアは極力優しい声音で言った。寝起きのマトリフは機嫌がよろしくない。無駄に刺激しないに限る。だがその姿が何処にあるかだけは確認しておかねばならなかった。
「ああ、そこにいたのか」
本棚の隙間に大魔道士のローブの端を見つけた。ガンガディアは屈んで覗き込む。
「さあ出てきてくれ。食事にしよう」
マトリフがガンガディアを見上げる。その首には金属の首輪がはめられていた。
ガンガディアはマトリフに手を差し出す。マトリフは躊躇いながらもその手を掴んだ。
地底魔城の奥深く。魔王の側近に捕えられた大魔道士は、今日もその身に寵愛を受けていた。
16一人寝の夜
その部屋は本に包まれているようだった。壁全てが書架で、その全てに本が詰まっている。
今夜はガンガディアがいなかった。ハドラーに呼ばれて出ていったきり戻ってこない。陽の光が射さない地底魔城では時間がわかりにくかった。いつもはガンガディアが規則正しい三度の食事を運んでくるから、それで概ねの時間がわかる。しかし今日は昼飯の後からガンガディアがおらず、夕食もないままに時間が過ぎていった。おそらく夜だろうと思いながらマトリフは布団へと潜り込む。
布団は温かかった。マトリフのためにとガンガディアが調達してきた布団は、二人で一緒に眠れるほどに大きい。その中に一人でいると、あまりの大きさの差に水に溺れているような気持ちになる。
マトリフは目を瞑るが眠れなかった。腹は空いていない。それなのにどこか満たされない寂しさのようなものが胸のあたりにあった。
17出口のない恋の始まり
さらば、とガンガディアは言って巨大な火球を掲げた。それに対してマトリフは咄嗟に思いついた呪文を手のひらに込める。師匠からの禁を破ることに罪悪感を覚えながらも、この場をしのぐ方法は他にはなかった。
だがガンガディアが呪文を撃つことはなかった。ガンガディアは天を仰いで火球を消すと、その手でマトリフの体を掴んだ。マトリフは骨の折れた身体を掴まれて悲鳴を上げる。
「やはり君を殺せない」
ガンガディアはそう呟くとマトリフを掴んだままルーラを唱えた。ルーラの軌跡は地底魔城へと向かっていく。ちょうどその頃、太陽が覆い隠されていた。だが勇者の呪文がどうなったのか、マトリフは知ることができなかった。
連れ去られたマトリフは折れた骨が内臓に突き刺さり、生死を彷徨っていたが、目が覚めたときには身体の傷は癒えていた。それがマトリフを救う唯一の方法だとガンガディアに吹き込んだ者が、マトリフを回復したからだ。
それから地底魔城の一室でガンガディアとマトリフの生活が始まる。ガンガディアはマトリフの回復と引き換えに研究の実験台にされ、マトリフはその魔法力の高さに目をつけられたために研究の素材として生かされていた。
18恋の雄叫び
地底魔城の奥深くから魔物の叫び声が聞こえる。それは地を揺るがすようであり、啜り泣きのようでもあった。
ガンガディアはその巨体を丸めて地に伏せていた。身体中の血管を浮き上がらせ、眼は見開いている。身体中を炎で炙られるような苦痛を感じていたが、頑丈な肉体はそれに耐えていた。
ガンガディアはザボエラが研究する超魔生物の実験を受けていた。今は肉体の耐性を調べるために、何種類もの毒が投与されている。
「もう宜しいのでは?」
そう言ったのはザボエラの息子のザムザだった。この研究も本来はザムザのものだった。だがザボエラはそれを当然のように取り上げ、雑務だけをザムザに押し付けた。
「まだ充分な結果ではない。どうせ頑丈しか取り柄のないトロルだ。放っておけばいい」
ザボエラにガンガディアを思いやる気持ちなど一片もなかった。苦しみ喘ぐガンガディアの声が煩いとさえ思っている。
そこからザボエラの納得のいく結果が出るまでガンガディアは苦しみ続けた。ようやく解放され、解毒された頃には、さすがのガンガディアでも動くことすらできなくなっていた。
「すまないが……もう少し休ませてくれ」
ガンガディアはザムザに言う。こんな姿でマトリフが待つ部屋には帰れなかった。マトリフにはこの研究のことは言っていない。マトリフはガンガディアがハドラーと一緒に勇者と戦っていると思っている。
「いま薬草を持ってきます」
ザボエラはデータを得られたらさっさと部屋を出ていった。ザムザはこっそりと回復に優れた薬草を取り出す。
ザムザはガンガディアが哀れに思えていた。ザムザはガンガディアがマトリフの命を救った代償として実験台にされている事を知っていた。そのマトリフが勇者一行の魔法使いであることもだ。
なぜガンガディアがそこまでするのかザムザにはわからなかった。相手はただの人間で、しかも敵だ。こんな辛い実験台になってまで守る相手だとは思えない。だがガンガディアにとって、あの人間はそれほどの価値があるらしい。
「助かったよ」
ガンガディアはザムザの渡した薬草で少しは楽になったようだ。ザムザは曖昧に笑みを浮かべて頷いた。
ガンガディアはザボエラと取引をしてマトリフを助ける見返りに実験台にされている。だが、ザボエラはそのマトリフを実験材料にするつもりでいた。ガンガディアが実験中に死んでしまえば、マトリフを守る者はいなくなる。それを待ってマトリフを超魔生物の材料にするつもりでいた。
そのことをガンガディアは知らない。この真面目なトロルはザボエラが約束を守ると信じていた。だがマトリフには手を出さないという約束を守るザボエラではなかった。
ザムザはそれをガンガディアに告げることができない。そんなことをすればザボエラにどんな仕打ちを受けるかわからなかった。だからザムザはガンガディアに負い目を感じている。薬草などを都合するのはせめてもの罪滅ぼしだった。
だがそれとは別に、ザムザにはある興味があった。ガンガディアはあの人間を愛しているという。そのためにこんな事にも耐えられるとガンガディアは言った。
誰かにこれほど愛されるというのは、あるいは愛するというのはどんな気持ちなのだろうか。ザムザはそう思ったものの、胸が痛む気がして考えることをやめた。
19メールの着信
ぽこん、と間の抜けた音がした。見れば部屋に置かれた鏡に文字が浮かび上がっている。マトリフはそれを読んでから、置いてある布で鏡を拭いた。どうやら今日もガンガディアの帰りは遅くなるらしい。
マトリフは自分の人差し指の先を口に含むと歯を立てた。歯が皮膚を突き破り、瞬間の痛みが走る。しかしそれを気にせずに、指先から流れた血で鏡へと文字を書いた。
わかった。早く帰ってこいよ。
短い文だが、返事を書かないとガンガディアは文句を言う。返事がないとマトリフが読んだかどうかわからないと言うのだ。
返事を書き終わるとマトリフは指先に回復呪文をかける。小さな傷口は痛みだけをわずかに残して瞬時に塞がった。
ふと、マトリフはなにか大切なことを忘れているような気がした。
それはぽっかりと空いた穴を見つめて、本来ならそこに何があったのだろうかと考えるような気持ちだった。マトリフは指先で胸に触れる。喪失感というほど大層なものではない。だが足りない何かを感じていた。
「……はやく帰ってこいよ」
これはきっとガンガディアがいないせいだ。こんな本しかないような部屋に置いてけぼりにするから、妙に寂しくなってしまう。
おそらくガンガディアは外で小さな手鏡でマトリフの返事を待っているのだろう。魔王軍と人間たちが争うその地で、こっそりと手鏡を覗き込んでいるガンガディアを想像するとマトリフは思わず笑みが浮かんだ。
そのとき、部屋のドアが開く音がした。ガンガディア以外がこの部屋に来ることはない。誰が来たのかとマトリフはそちらへと向かった。
20 一目ぼれの瞬間
あれは恋だったのだろうか。圧倒的な呪文の力で床に押し付けられ、振動に震えながら見上げた先にいた人間。本に閉じ込められたつまらない人間だと侮っていたが、その呪文で認識は変わった。
ガンガディアはあらゆる呪文を知り尽くしていた。だがその人間が使った呪文は未知のものだった。おそらくオリジナルの呪文。そしてこの威力。それだけでこの人間がいかに優れているのかを表していた。
あれは恋だった。ガンガディアはそう思っている。あれからガンガディアの頭も胸もマトリフで占められてしまったのだから。
ガンガディアはそのマトリフを見つめる。マトリフはガンガディアのすぐそばにいた。後ろ手に拘束され、首には鉄の輪がはめられている。一時はどうなるかと思った傷も癒えていた。ガンガディアはその髪に触れる。白銀の髪はらさらさとガンガディアの指をくすぐった。
「なにしやがる」
マトリフはガンガディアの指から逃げるように身を捩った。だがたいして効果はない。それでもマトリフは諦めないようで、どうにか逃げ出せないかと知恵を絞っているようだった。
だが無駄だ。マトリフの首にある鉄の輪は魔法力を抑える効果がある。そのため極限呪文などは使えない。そんな状態でこの地底魔城の奥深くに拘束されて、逃げ出せるはずがないのだ。
ガンガディアの指がマトリフの頬に触れた。その指先に魔法力を込める。途端にマトリフの目はとろんと緩んだ。まるで夢でも見ているかのように視線は曖昧になる。この呪文はかけられた者にはラリホーのように思えるが、催眠のような効果がある。この呪文は相手の記憶を意図的に改変できるものだった。これでマトリフはずっとこの地底魔城でガンガディアと暮らしていたと思い込むだろう。
この呪文がある限り、マトリフはこの地底魔城にいる。ガンガディアはマトリフを抱き寄せた。それに応えるようにマトリフの手もガンガディアの腕にまわる。
「マトリフ!?」
ガンガディアが部屋に戻ると、マトリフは胸を押さえて踞っていた。息を詰まらせて苦しげな声を細く吐いている。まさか以前の傷のせいかとガンガディアはマトリフに駆け寄った。
「すぐに回復を」
数少ないが部下には回復呪文が使える者がいる。いや、それともザボエラを呼ぶべきか。しかしマトリフは小さく首を振った。
「平気だ」
マトリフの身体が淡く光る。マトリフは自分で回復呪文を唱えていた。それは効果があったらしく、マトリフはひとつ息をつくとガンガディアに向かって笑みを浮かべた。
「今日は遅くなるんじゃなかったのか?」
既に夜遅い時間帯だった。マトリフに鏡通信で連絡を取ってから数時間は経っている。
「もう夜遅い時刻だ。それより体は大丈夫なのかね」
「もうそんな時間か?」
マトリフは不思議そうにあたりを見渡した。だが地底魔城に窓はなく、時刻を知るためのものはない。
「何があった」
「何も……さっきお前から鏡通信があって……」
マトリフは思い出そうとしているが無理なようだった。記憶操作呪文の弊害かもしれない。
ガンガディアが深刻に考え込んでいると、マトリフは気にするなというように手を振った。
「オレはいい歳なんだぜ。身体のあちこちにガタがきてもおかしくねえだろ」
マトリフはゆっくりと立ち上がった。まだふらつく身体をガンガディアが支える。
「そういえば君は老齢だったな」
人間の寿命の短さをガンガディアは知っていたが、実感したのは初めてだった。人間の身体はあまりに脆い。これまではマトリフの強大な魔法力のせいでそれを感じずにいた。だがマトリフにも当然生命の終わりが来る。それも遠くはない未来に。
「どうした?」
「人間の命は短すぎる」
マトリフを失いたくないと思ってここへ連れてきた。敵対関係でなくなれば殺さずに済む。だが寿命のせいでマトリフを失うのは避けられないことだ。
「だから一生懸命に生きるんだろ」
マトリフはガンガディアを見上げて言った。
「長く生きてもつまらねえ。退屈ってやつに殺されちまう。短いから、やりたいことを思いっきりやるんだろ」
まあオレは十分に長生きしたけどよ、とマトリフは苦笑した。ガンガディアは胸に冷たいものが満ちていく。縋るような気持ちでガンガディアはマトリフの手を取った。
「君はもっと長く生きたいとは思わないのかね」
「思わねえよ。そのうちお迎えがくる。そこまででいい」
「なぜ」
そこでマトリフは少し困ったような笑みを浮かべた。話す内容に自信が持てない時のような表情だ。
「誰かがオレを待っている気がするんだよな」
マトリフは記憶を辿るように首を傾げた。やはり呪文の効果が薄れたのかとガンガディアは訝しむ。
「誰かとは」
「おかしいよな。オレはずっとここでお前と暮らしてるんだ。オレを待ってる奴なんているはずがねえ」
マトリフの記憶はガンガディアが書き換えた通りだ。これまでの記憶は奥深くに封印してある。だが強い記憶なら完全に書き換えることは難しい。
もしかすると、マトリフに既に愛する人がいるのかもしれない。もしそうなら、きっとその人はマトリフを待っているだろう。マトリフの記憶を覗けば、知ることができるはずだ。そしてそれがどんな記憶かわかってしまえば、完全に消すこともできる。
さあ飯にしようぜ、とマトリフはガンガディアの手を叩いた。
「マトリフ」
「ん?」
ガンガディアはマトリフを抱き寄せた。その頬に指で触れる。マトリフはじっとガンガディアを見上げていた。記憶を覗くのは容易いが、ガンガディアはそれをするのが躊躇われた。
「どうしたんだよ」
「いや、なんでもない」
マトリフは手を伸ばしてガンガディアを抱きしめた。その温もりにガンガディアは目を閉じる。これが偽りの愛だとガンガディアもわかっていた。
その後もガンガディアは思い悩んでいた。ガンガディアはマトリフを死なせたくはない。だがマトリフは人間の寿命を受け入れている。
そもそもガンガディアとマトリフは別の種族だ。生きる長さも生き方も異なる。共に生きようと思うのが間違いなのかもしれない。
すると悩むガンガディアに目敏く気付いた者がいた。ザボエラだ。ザボエラは猫撫で声でガンガディアを呼び止めると、不遜な態度で手招きした。ガンガディアは嫌悪を感じながらザボエラの元へと向かう。ザボエラはつまらない話題を長々と喋ってから、ようやく本題を切り出した。
「魔族化?」
ザボエラはマトリフを魔族にしないかとガンガディアに持ちかけた。
「あの人間を好いているのじゃろ。だったらわしがあの人間を魔族にしてやろうか?」
「そんなことが出来るのか」
するとザボエラは耳障りな笑い声をあげた。
「わしほどの頭脳があれば容易いことだ」
「しかし……」
ガンガディアの頭にマトリフの言葉が過ぎった。十分に長生きしたと言ったマトリフは、魔族化してまで生きたいとは思わないだろう。たとえガンガディアがそれをどれほど望んだとしても、マトリフの意思は変えられない。ガンガディアは首を横に振った。
「魔族化は必要ない」
「ほう、あの人間が死んでもいいと?」
ザボエラが挑発するかのように言う。ガンガディアは頭に血が上るのをなんとか抑えて、努めて冷静に言った。
「マトリフは解放する」
「は!?」
ザボエラは焦ったように声を上げた。
「私が間違っていた。あんなふうに全てを忘れさせて、閉じ込めて、ただ生かされる。そんな彼はマトリフではない」
マトリフと共にこの地底魔城で暮らしながら、そこにガンガディアが憧れたマトリフはいなかった。これでは死んだことと違わない。ガンガディアがあの記憶操作の呪文を解けば、またマトリフは元に戻るだろう。
「だったら今すぐ殺せばよかろう!」
ザボエラはガンガディアの思わぬ言葉に苛立っていた。マトリフを実験材料にする準備は既に整っている。先日ガンガディアがいない間にマトリフの魔法力を吸い取り、その魔法力の高さに驚いた。だからザボエラはマトリフを何がなんでも実験材料にしたかった。
「まだ戦いの決着はついていない。戦ってマトリフが死ぬならそれまでのこと。最後まで私は大魔道士のマトリフと向き合いたい」
それが悩み抜いたガンガディアが出した結論だった。ザボエラは怒りに身を震わせていたが、考え方を変えることにした。実験材料を諦めるつもりはない。
するとそこへザムザがやって来た。慌てた様子でガンガディアに言った。
「魔王が……秘法で凍りついた魔王が発見されました!」
「ハドラー様が!?」
ガンガディアがマトリフを連れ去ったあのとき、アバンの凍れる時間の秘法は成功していた。アバンとハドラーは凍りついたが、その二人は持ち出され、どこかへと隠されていた。ガンガディアはハドラーを探していたが、先に見つけたのはザボエラだった。そしてその救出をある者に命じていた。
「クロコダインと名乗る者が魔王を運んできました」
ガンガディアはザムザの指差す方へ既に走り出していた。しかしザボエラはそちらへは背を向ける。凍りついている以上は、今は何も出来ない。秘法の解除方法はまだわからないからだ。
「だったら今のうちに……」
ザボエラは口の端を吊り上げた。ガンガディアが解き放つ前に、記憶が無く戦うことを知らないマトリフを実験材料にしてしまおうと考えていた。
ガンガディアは凍りついたハドラーに駆け寄った。触れるとその体は氷のように冷たい。だがずっと探していたハドラーが見つかったことに安堵を覚えた。
ガンガディアはハドラーを見つけて運んできたクロコダインに礼を言った。クロコダインは偉ぶる様子もなく、豪胆で快活な猛者だった。
「これは……呪法だろうか」
ガンガディアは凍りついたハドラーを見ながら言った。
「ええ、おそらく」
答えたのはザムザだった。ザムザは考えを巡らせるようにハドラーを見ている。ザムザが知恵者で研究熱心なことはガンガディアもよく知っていた。
「さっそく解除の方法を探さねば」
「そのことなのですが、実は手掛かりがあるのです」
ザムザはそう言うと懐から一冊の本を出した。ザムザはその本を開く。どうやらそれはザムザの研究日誌のようだった。ザムザはあるページを開いた。そこには魔法円が大きく描かれている。
「数日前に日誌をつけていたら、手が勝手に動いてこれを描いたのです。何者かに操られていたかのようで、不気味に思っていたのですが、さっき魔王様を見て、もしやと思って」
そこには呪法の解き方が記されていた。呪法が発動した皆既日食の正午と真逆の時間帯である深夜に、記された魔法円と魔法具を用意して呪法を発動させる。
「ここに記された魔法具ならすぐに準備できます。この魔法円を描く場所はありますか?」
「それなら闘技場がよいだろう。あそこは空も見える」
「ではさっそく準備に取り掛かりましょう」
ザムザはそう言って駆け出そうとしたが、立ち止まって不思議そうに辺りを見渡した。まるで何かを探しているかのようだ。
「どうしたのかね」
「いえ……父上の姿が見えないと思って。こう言ってはなんですが、こんな状況なら父上は恩を売りつけるために来そうなものなんですが」
その瞬間、ガンガディアは嫌な予感がした。背筋に冷たいものが走る。
「マトリフ」
ガンガディアは呟くと同時に駆け出していた。確信があったわけではない。だが、何か悪いことが起こっている気がして、ガンガディアは部屋まで全力で走った。
「マトリフ!」
ドアを蹴破る勢いでガンガディアは部屋に入った。その瞬間に遅すぎたことを悟った。部屋は焼け焦げた匂いと、血の匂いで充満していた。そこに金切り声が響いている。床に踞っていたのはザボエラだった。そのそばに腕が二本落ちている。鋭利なもので切断されたようで、青い血が床一面に広がっていた。
「マトリフ……」
マトリフは離れた場所でザボエラを見下ろしていた。その首から血が流れて服を赤く染めている。手で押さえているものの、血は止まらないらしく、その赤い染みは広がっていた。マトリフは肩で息をしながらゆっくりとガンガディアを見た。
「マトリフ!」
ガンガディアは駆け寄ろうとしたが、その横を一瞬でマトリフが通り抜けていった。それがルーラを使ったものであると遅れて気付く。すれ違う瞬間にマトリフはガンガディアを見たが、その眼差しにはっきりとした強い意志を感じた。それはマトリフを地底魔城へ連れてきてからは見ていなかったものだ。
マトリフにかけていた記憶操作の呪文が解けたのだとガンガディアは気付いた。おそらくザボエラと戦ううちに、何らかのきっかけで解けたのだろう。
「マトリフ!」
マトリフが逃げたことよりも、彼が負った傷が気掛かりだった。ガンガディアはマトリフの後を追いかけた。
トベルーラで高速移動するマトリフを追ってガンガディアは闘技場まで来た。闘技場ではザムザが魔法円の準備をしている。時刻は真夜中だった。満月が空に輝いている。ザムザは突然に現れたマトリフとガンガディアを見て驚いていた。
ガンガディアはもう少しで追いつくかと思ったが、マトリフは空が見えた瞬間にルーラを発動させた。それでもガンガディアはその瞬間にマトリフの脚を掴んでいた。景色がぐんと引き延ばされる感覚がして、ガンガディアはマトリフと一緒にルーラをしているのだと気づいた。
景色が一瞬で変わっていく。その最中に攻撃呪文を受けた。ガンガディアがついてきたと気付いたマトリフが、ルーラ発動中にガンガディアにイオラを撃っていた。マトリフのイオラを間近で受けていくらガンガディアでも無事なわけがない。だがガンガディアは手を離すわけにはいかなかった。次第に地面が近づいていく。勢いが落ちなかったので、ガンガディアは咄嗟にマトリフを抱えてトベルーラで着地した。
磯の香りと波の音でそこが海辺だと気付いた。人里から離れていてあたりに灯りがなく、あるのは月明かりだけだった。
「マトリフ」
ガンガディアは抱えていたマトリフを見た。マトリフはガンガディアの腕の中でぐったりとしていた。
「マトリフ、早く回復呪文を」
マトリフなら回復呪文が使える。だが先ほどからマトリフが回復呪文を使う気配がなかった。未だに首の傷は塞がっていない。脈打つたびにその傷跡からは血が流れ続けていた。
マトリフはガンガディアに目を向けて何か言おうとしたが、声が小さすぎて聞こえなかった。ガンガディアは耳をマトリフに寄せる。すると微かに毒だと聞き取れた。マトリフの首の傷はいくつかの刺し傷だ。ザボエラは毒を鋭い爪に滲ませてマトリフを刺したのだろう。
ザボエラの毒がどれほどの威力なのか、ガンガディアは身を持って知っていた。強靭な肉体のガンガディアでさえ耐えられないと思ったほどのものを、人間が耐えられるはずがない。
「マトリフ……キアリーを」
ガンガディアは言いながらそれが不可能なのだとわかっていた。毒消しが優先なのだとマトリフにわからないわけがない。それができない状況なのだ。マトリフは細い息を吐きながら天を見上げていた。何もうつ手がないのだとマトリフにもわかっているのだろう。
「地底魔城に戻ればザムザが……」
言いかけたがガンガディアはそれも不可能だと気付く。以前にザムザが言っていた。ザボエラの致死性の毒はザボエラにしか解毒出来ないと。キアリーを使うにしても、よほどの使い手でなければ解毒が追いつかずに死に至る。
ガンガディアは絶望を感じていた。駄目だ。考え続けなければ。救う方法があるはずだ。だがそうしている間にも時間は過ぎていく。
「……お、い」
マトリフがガンガディアを見ていた。
「なんて……顔、してん……だ」
微かにマトリフが笑っているように見えた。ガンガディアは自分の顔に手をやる。頬が濡れていた。そこで自分が泣いているのだと気付いた。流れ落ちた涙がマトリフのそばに落ちていく。そこでガンガディアはふと思いついた。
ガンガディアは幾度もザボエラの毒を投与されている。そのガンガディアの血なら、マトリフの解毒ができるのではないか。しかし魔族の血はそれだけで人間の体には毒になる。
「ぐっ……」
マトリフの全身は細かに震えていた。目を見開いて突然の変化に怯えているように見える。咄嗟に声をあげまいと堪えているようだったが、声すら出なくなったのかもしれなかった。それがよい変化であるはずがなかった。
迷っている時間は無かった。このまま何もせずに見ていてもマトリフは死んでしまう。
ガンガディアは自分の指を噛んだ。すぐに青い血が滲んでくる。それを薄く開いたマトリフの口へと持っていった。傷口から青い血が垂れてマトリフの口へと落ちていく。
マトリフの見開かれた目はガンガディアを見ていたが、意識は混濁しているようだった。マトリフは咽せたが、微かに喉が上下する。
「マトリフ……たのむ」
ガンガディアは祈っていた。その相手が誰なのかわからないままに、マトリフの命を助けてくれと祈っていた。
マトリフの体の震えはおさまっていた。細い息の音だけが聞こえている。それも波の音に掻き消され、やがて聞こえなくなった。
「マトリフ……うそだ……」
ガンガディアはマトリフの胸へと耳をつける。だがそこに鼓動ははなかった。
「マトリフ!」
ガンガディアは叫んでいた。そうすればまだマトリフの命を引き留められるかもしれない。だがその声は海へと響いて消えていくだけだ。ガンガディアのマトリフを呼ぶ声があたりに響く。その声は泣き声へと変わっていった。
「おい」
途端に突風がガンガディアの体を揺らした。ガンガディアはマトリフを抱きしめたまま天を仰ぐ。
月明かりに照らされて誰かがガンガディアを見下ろしていた。
「また会ったな」
歌うような軽快さでその者は言った。ふわりと降り立ったその姿にガンガディアは瞠目する。緑のマントに白くて丸い大きな帽子。こちらを挑発するかのように見つめる眼差し。それはよく知ったマトリフだった。だがマトリフはガンガディアの腕の中で息絶えている。
「さぁて、成功するように神にでも祈っててくれ」
今現れたマトリフは片手を振り上げると、ガンガディアの腕の中にいるマトリフの胸にその手を振り下ろした。
「ザオラル!」
聖なる光が息絶えたマトリフを包んだ。圧倒的な光にガンガディアは目を細める。だが決して目を離さなかった。圧倒的な魔法力の奔流があたりに風を巻き起こし、草木を揺すり海を波立たせた。
「マトリフ!」
ガンガディアは祈る気持ちで叫んだ。戻ってきてくれと抱きしめる腕に力を込める。するとその体が僅かに動いた気がした。
光に包まれながら、マトリフはゆっくりと目を開いた。口が息を吸い込み、胸が上下する。マトリフは目を瞬くと、驚いたようにガンガディアを見てから、ザオラルを唱えたマトリフを見た。自分がもう一人いて自分を見ていたら驚くに違いなかった。
「マトリフ」
しかしガンガディアにはザオラルが成功してマトリフが生き返ったことのほうが大事だった。ガンガディアはマトリフを抱きしめようとしたが、マトリフはさっさと起き上がるともう一人のマトリフに向き合った。
「まさか鏡じゃねえだろうな。モシャスか?」
マトリフはマトリフを指差す。ややこしい状況だった。しかしガンガディアも気になっていることだった。だがモシャスではなさそうだ。どちらのマトリフからもマトリフの魔法力を感じる。
「説明してくれるだろうか」
突然現れたほうのマトリフにガンガディアは言った。マトリフは人差し指をくいくいと曲げてガンガディアを呼ぶ。ガンガディアが顔を寄せるとマトリフはガンガディアの耳を遠慮なく掴んだ。
「小さな奇跡ってやつだよ」
マトリフはガンガディアの耳を離すとふわりと微笑んだ。
「あとよ、泉には気をつけろ」
「泉?」
「じゃあ上手くやるんだぜ」
マトリフはガンガディアに近寄ると、その頬に口付けた。ガンガディアが呆気に取られていると、マトリフはルーラを唱えて飛んでいってしまった。
「なんだったんだ……」
気が抜けたのかマトリフはその場に座り込んだ。
「大丈夫かね」
ガンガディアはマトリフに駆け寄ろうとしたが、マトリフは手を上げると呪文で火球を作り出していた。
「来るんじゃねえ。燃やすぞ」
ガンガディアの記憶操作の呪文は消えていた。だが記憶操作の呪文をかけていた期間のことをマトリフは朧げに覚えているはずだ。しかしマトリフはやはりガンガディアを敵として見ているのだろう。
ガンガディアは伸ばしかけていた手を下ろした。ガンガディアを無条件に信じて慕っていたマトリフはもういない。本来の彼に戻ったのだ。
「君のことが好きだ」
ガンガディアは真っ直ぐにマトリフを見つめて言った。マトリフは驚いたように目を見開いている。
「なに言ってやがる」
マトリフの目は揺れていた。ガンガディアが更に説明をするのを求めるように待っている。だがこれ以上の説明は必要ないだろう。多くの言葉を尽くしてもこの気持ちは言い表せない。そしてこの想いは受け入れられないだろう。
「安心してくれ。私は何も望まない」
ガンガディアはマトリフの前に跪いた。マトリフは後退ったが、逃げずにガンガディアを見ていた。
「私のこれまでの行いは変えられない。君とはこれからも敵対関係が続くだろう。だが、どうしても私の思いを伝えておきたかった」
なぜだが迷いは晴れていた。もうマトリフをこの腕に抱き締めることもできないだろう。だがそれで構わない。いずれ戦ううちにどちらかが勝つだろう。私たちはそういう関係なのだ。
マトリフは何かを言いたそうにガンガディアを見上げていた。だが言葉は出ないようだった。
そのとき、近くの茂みで枝の折れる音がした。ガンガディアはその気配に気付かなかったことに苦笑する。ちらりと見えた髪色から察するに凍れる時間の秘法が溶けた勇者だろう。ということはザムザが儀式を成功させてくれたのだ。今ごろハドラー様も秘法から解放されただろう。
「アバン?」
マトリフも勇者に気付いたようだ。だがすぐにガンガディアに視線を戻す。
「おい……」
マトリフが何かを言おうとした。だがガンガディアはマトリフに背を向けてルーラを唱えた。
ガンガディアは胸を押さえる。ガンガディアはマトリフを愛していた。だが一緒にはいられない。そう思うとどうしようもなく胸が苦しかった。
空を切り裂いてガンガディアは飛ぶ。捨て去れない思いなら抱えるしかない。ガンガディアは誰も聞く者がいない空でマトリフの名を呼んだ。
おわり