ただいまのあと ただいま、と言いながらドアを開ける。するとすぐに足音がこちらへと向かってきた。まるで主人の帰りを待ち侘びた犬のようだとマトリフはいつも思う。
「おかえり」
ガンガディアはマトリフを出迎えたが、すぐにリビングへと戻ってしまった。見ればテレビがついている。放送されているのは自然ドキュメンタリーなのか、雄大な森が映し出されていた。
「実に興味深い内容でね」
言いながらガンガディアはテレビの前のソファに座っている。どうやらガンガディアの知的好奇心を刺激する内容らしい。
「一緒に見ないかね」
「ああ、風呂上がったらな」
マトリフは鞄を置いて風呂へと向かった。ガンガディアは大きな身体を丸めて熱心に画面を見ている。
しばらくしてマトリフが風呂から上がって戻ってきても、ガンガディアは同じ姿勢でテレビを見ていた。マトリフは髪を拭きながら隣に座る。見ればソファの前のテーブルにはガンガディアのマグカップが置かれてあるが、そこに入った紅茶はすっかり冷めていた。飲むのを忘れるほど熱心に見ているのだろう。
マトリフはそのマグカップを持ってキッチンへ行き、新しい紅茶を淹れた。ガンガディアのものと自分のものを両手に持ってソファに戻る。マトリフはガンガディアのマグカップを先ほどの位置に戻し、自分のものは持ったまま、ガンガディアの脚の間に座った。やや斜めに体を向けて、ガンガディアの体に凭れつつ、自分の脚をガンガディアの太腿に乗せる。マトリフの体は大きなガンガディアの体にすっぽりとおさまってしまった。そこがマトリフが寛ぎたい時の定位置である。
マトリフが勝手に座ってもガンガディアの視線はテレビに釘付けだった。一度集中してしまうと周りのことが目に入らないたちのガンガディアは、マトリフが好き勝手にしていても気づかない。それをいいことに、マトリフはガンガディアを専用のクッションのようにしていた。
何がそんなにガンガディアの興味を引くのかとマトリフはテレビを見る。テロップにはオオグンタマの貴重な産卵シーンとあった。
「生命の神秘を感じる」
ガンガディアは心底感動しているようだが、マトリフにはただのグロいシーンにしか見えない。マトリフは熱い紅茶をちびちびと飲みながらオオグンタマの大群が羽化していく様子を見ていた。
それからどれほど経ったか、ガンガディアはようやくテレビから視線を外した。結局最後まで見たガンガディアは、今になってマトリフが腕の中にいることに気付いた。しかもマトリフは眠っている。マトリフは空のマグカップを抱えるようにしてガンガディアの胸に凭れていた。その安心しきって緩んだ寝顔に、ガンガディアは思わず笑みが浮かぶ。
ガンガディアはマトリフの手からそっとマグカップを取ってテーブルに置いた。そういえば途中から飲んでいる紅茶が温かいものに変わっていたことを思い出す。マトリフが淹れ直してくれたのだろう。
ガンガディアはそのままマトリフを抱き上げた。マトリフはちらりと目を開けてガンガディアを見たが、すぐに目を閉じて頬をガンガディアの胸へと擦り付けた。寝るのを邪魔するなと言わんばかりの表情だ。ガンガディアはマトリフを寝室へと運び、その体をゆっくりとベッドに下ろした。
「おやすみ」
額にそっと口付けると、顎を掴まれて唇にキスされた。見ればマトリフの目が開いている。
「ようやくオレを見たな」
ふん、と鼻を鳴らしてマトリフは寝返りをうつと、今度こそ眠ってしまった。どうやら拗ねているらしい。面倒な性格であるが、そこもまた可愛いと惚れた欲目でガンガディアは思うのだった。
ただいま、という声が聞こえてマトリフは立ち上がった。予想より遅い帰りに、マトリフはかなり焦れていた。
「今日は早く帰るんじゃなかったのかよ」
「すまない。本屋に寄っていたら遅くなった」
言葉の通りガンガディアの手には本屋の袋があった。しかもかなり買い込んだらしい。ずっしりと重そうな袋を、ガンガディアは軽々と持っていた。もう本棚に空きはないのに、ガンガディアは欲しい本があると何冊でも買ってくる。
「食事は済んでいるかね」
「ああ、食ってきた」
マトリフは既に風呂も済ませてある。しかも明日は休みだ。
「お前も風呂に入っちまえよ」
「そうだな」
ガンガディアはそう言いながら、買ってきた本を袋から出して読みはじめている。これはまずいとマトリフは思った。
「ガンガディア」
「なにかね」
「風呂」
「ああ、わかっている」
わかっていると言いながらガンガディアは動かない。目だけが文字を追って忙しなく動いていた。
マトリフはガンガディアが買ってきた本を見る。それらは専門書のようで、どれもが前に見た自然ドキュメンタリーで取り扱っていたオオグンタマについての本だ。ガンガディアはそれを熱心に読んでいる。
ああ、だめだこりゃ。
マトリフは諦めて寝室へと向かった。あのガンガディアが動くのは数時間後になる。
マトリフはベッドに入り込むと頭まで布団を被った。まだ寝るには早い時間だが、マトリフは不貞寝を決めこんだ。
休日明けの月曜日。出勤してきたマトリフを見てアバンは首を傾げた。
「おはようございます」
「おはよーさん」
「どうしたんです。ご機嫌斜めですね」
マトリフは自分の席には座らずにミーティング用のソファに寝そべった。それはいつものことなのだが、表情がどんよりとしている。週末はたいてい恋人と仲良く過ごしているマトリフが、週明けから不機嫌なのは珍しいことだった。
アバンは渡そうと思っていた紙袋を持ってマトリフの元へ行く。
「これをガンガディアに渡して欲しいのですが」
本が入った紙袋を見せると、マトリフが険しい顔で睨んできた。アバンは両手を見せて降参を示す。マトリフは苛立ちをおさめると、両手で顔を覆った。
「何の本だ?」
「オオグンタマの生態研究の歴史」
「またかよ」
マトリフは呻くように呟いた。アバンはなんとなくマトリフの機嫌の悪さの理由がわかってきた。アバンはガンガディアからこの本を持っていないかと聞かれて、祖父の書庫から探し出して持ってきたのだ。この本は既に絶版になっており、図書館にも無かったらしい。こんな珍しい本まで読みたがるということは、かなりのめり込んで調べているのだろう。
マトリフの恋人のガンガディアは知的好奇心が旺盛で、一度好きになったら没入するタイプだ。どうやら今はこの本に載っている生き物に夢中らしい。
「オオグンタマのどこがいいんだよ……」
「オオグンタマに嫉妬ですか?」
どうせガンガディアが本に夢中で構ってくれなかった、くらいの理由で拗ねているのだろう。長年連れ添っている割には未だに熱々なのはいいことだが、この捻くれ者の構ってちゃんの相手をするガンガディアは大変だとアバンは思った。
「オレとオオグンタマのどっちが大事なんだ、って言えばいいじゃないですか」
「そんなダセぇこと言えるかよ」
「言ったらいいじゃないですか〜」
するとマトリフは長々と溜息をついて、指の間からアバンを見た。
「……準備して待ってたんだぜオレは」
「準備って、何のですか」
「それをあいつは、ずっと本ばっか読みやがって」
「ねえ、何の準備です?」
マトリフは沈黙したまま答えなかった。確か金曜日の夕方にマトリフは意気揚々と帰っていった。何の準備。ああ、ナニの準備ですか。アバンはふっと微笑む。確かにあの面倒な準備をして待っていたのに、見向きもされないとちょっと心が折れるかもしれない。
しかし、だったらはっきりと誘えばいいのだ。だがマトリフにはそれができない。スケベなくせにそっち方面のことに関して妙に控えめというか、照れ臭いのだという。
「オレとオオグンタマのどっちが大事なんだよ」
「本人に言ってくださいよ」
ただいま、という声を聞いてマトリフは間延びした声を上げた。ソファに寝そべったまま、指だけが忙しなく動いている。
リビングにガンガディアが入ってきたが、マトリフは手元のゲーム機だけを見ていた。今まさに手も目も離せない状況だった。
「そのゲームはどうしたのかね」
「ポップの忘れもん」
マトリフの手にあるのは携帯型ゲーム機で、それは昼間に来たポップが忘れていったものだ。充電したいからコンセント貸して、と言って繋いでいたが、そのまま持って帰るのを忘れたのだ。
「ああ、ポップくんが来ていたのか」
言いながらガンガディアはコートを脱いでいる。手を洗う音や湯を沸かす音などが聞こえてきた。マトリフはそれらを聞きながらも、ガンガディアのほうを見なかった。
しばらくしてガンガディアはマトリフのいるソファに戻ってきた。マトリフはソファを占領して仰向けで寝転んでいたが、ガンガディアに肩を支えられて起こされる。
「その姿勢では目を悪くする」
その言葉にもマトリフは間延びした声で返事した。今はちょうどボス戦なのだ。攻撃を避けるのが難しく、タイミングが少しでもズレると大ダメージを受けてしまう。
するとマトリフの体が後ろから包まれた。ガンガディアがマトリフを抱きしめている。
「おい……今は忙し……」
「邪魔はしない。こうしているだけでいい」
ガンガディアは極力マトリフの邪魔にならないように、腕などを避けて抱きしめてくる。体の身動きは取れないが、ゲームができないほどではない。
「あっ」
ゲームの中で主人公が倒れてしまった。コンテニューしますか? の文字が浮かび上がる。こんなふうに後ろから抱きしめられて集中できるはずがない。だがマトリフは自棄になって、はいを選択した。
ガンガディアは言葉通り抱きしめる以外は何もしなかった。マトリフはゲームを続けるが、結果は悲惨なものだった。抱きしめられる腕の温もりが、胸の鼓動が、わずかな呼吸音が、マトリフを冷静でいられなくする。
マトリフはゲームの電源を切った。これ以上進められる気がしない。
「終わるのかね?」
「誰のせいだよ」
「では君を抱きたい」
いやもう抱きしめてんだろ。というマトリフの言葉は出なかった。もちろんそれはセックスしたいの意味だとマトリフも理解していたからだ。
「オオグンタマはどうしたんだよ」
「なぜ突然にオオグンタマの話に?」
「お前がずっとオオグンタマばっかり見てるからだろ!」
オレがここ数週間どんな思いで過ごしてたかわかってんのか、という言葉をマトリフは飲み込む。そんなの格好悪すぎてとても言えない。別にオレはお前がオオグンタマに夢中でも全然気にしてないんだぜ、というスタンスが崩れてしまう。
「私はいつも君を見ている」
「よくそんな大嘘がつけたな。お前がオオグンタマに夢中だった証拠がそこら中にあるだろうが」
ガンガディアの部屋の本棚に入りきらなかった本はリビングにも積まれてあった。さらにDVD、リアルなフィギュア、コラボTシャツに至るまで部屋中がオオグンタマで溢れている。昼に来たポップがドン引きしたくらいだ。
「オオグンタマは興味深いが、愛しているのは君だけだ」
「お前……そんな言葉だけでオレが絆されると思ってんのかよ」
マトリフはぷいと顔を背けるが、体を包む温かさに言葉尻が弱くなっていく。
「君に寂しい思いをさせてすまなかった。しばらくオオグンタマは封印する」
「別にオレは……」
マトリフは口を尖らせながらも、今回だけは許してやるかと思いはじめていた。
「お前が夢中になるくらいだ。オオグンタマも面白いんだろうよ」
マトリフは自分がオオグンタマに嫉妬していたことが恥ずかしく思えてきた。ガンガディアがマトリフを愛していることを一番わかっているのはマトリフ自身だ。
ガンガディアの腕がギュッとマトリフを抱きしめる。
「だったら一緒にオオグンタマのDVDを見ないかね」
「はあ!?」
翌朝、リビングの机の上に一枚の書き置きがあった。
しばらく実家に帰る。オオグンタマのことを忘れたら迎えに来い。 マトリフ