大晦日と正月の朝 大掃除、といってもガンガディアが普段からマメに掃除をしているので、大して汚れてもいない部屋をマトリフは見渡す。申し訳程度に埃取りモップを手にテレビの裏などを覗き込んでみるが、そこは掃除の必要がないほどにきれいだった。
マトリフは一瞬で掃除をする気を無くしてコタツへと入り込む。蜜柑も電気ポットも手の届く位置にあるし、ここに座れば数時間は動かないことになる。
「私はもう行くが、大丈夫かね」
コートを着たガンガディアが言った。マトリフは軽く手を振って早く行けと示す。ガンガディアは元魔王軍連中の年越しパーティーに呼ばれているので、もう出かける時間だった。
「オレも夕方には師匠のとこに行くから気にすんな」
いつもは二人で年越しをするが、今年はガンガディアがいないのでマトリフは師であるバルゴートのところへ行く予定だった。
「何かあったら連絡を」
「年越しするだけだろ。なんもねえよ」
「暖かい格好をするように。あとコタツで寝過ごさないで。お土産は紙袋に入れて玄関に置いてあるから」
「わかったわかった。お前こそ遅刻すんぞ」
ガンガディアはまだ何か言いたそうだったが、時計を見て足早に部屋を後にした。幹事をするから早くに行って準備をするらしい。
ガンガディアがいなくなった部屋は急に静かになった。
ガンガディアは今日も朝から細々と掃除やらをしていたから、その音がずっと聞こえていた。マトリフはそれを聞きながらも昼前まで布団から出ずにいた。やっと起きてきたマトリフにガンガディアは朝食兼昼食を作り、そのあとはキッチンの壁を拭いていた。
静かさが落ち着かなくてマトリフはテレビをつけた。どの局も年末の特別番組らしく、いやに賑々しい。それを見るともなしに見ながら、蜜柑を手に取った。それを手のひらで揉みながら、ふと眠気を感じる。あれだけ寝たというのに、まだ眠れる気がする。身体は巨大なビーズクッションが包むように支えてくれているし、コタツは暖かい。マトリフは眠気に誘われるままに目を閉じた。
どれほど時間が経ったのか、マトリフは目を覚ます。テレビでは依然として賑やかな様子が映っていた。窓の外が薄暗い。師匠の家に行くと約束した時間はもうすぐだった。電車を乗り継いで小一時間かかるので、遅刻は確定だった。年末年始のダイヤを確認してもいない。タクシーを捕まえるのも難しいだろう。
マトリフは急激に出かけるのが面倒になった。コタツから出ることすら億劫だ。
「……行きたくねえな」
かといって行かなかったら師匠に何を言われるかわからない。
するとスマートフォンが音を立てた。見ればガンガディアからメッセージが届いている。
「君のお師匠様から催促の連絡が続いている。早く向かったほうがいいのでは?」
どうやら師匠はガンガディアにマトリフが来ていないと連絡したようだ。マトリフに直接連絡しても無視するとわかっているらしい。
「……ったく」
マトリフはのそりとコタツから出ると、どうにか出かける支度をした。ずっとコタツで温められていた足が寒くて決心が鈍りそうだ。だがパーティー会場で忙しくしているガンガディアが師匠の電話に付き合わされる姿を想像すると可哀想なので、渋々と家を出た。
マトリフは駅へと向かいながら、飾り付けされた街を見た。ついこの前までクリスマス一色だったのに、いつのまにか正月の飾りが見られる。その中でやたらと兎が目に付くと思ったが、それが来年の干支だと気付いた。
その一つに目がいって、マトリフは足を止めた。貼られた謹賀新年のポスターの兎は丸眼鏡をかけている。その姿がガンガディアに似ていた。
マトリフはじっとその兎を見つめて、スマートフォンを取り出す。その兎を写真に撮ってガンガディアに送った。お前に似てる、と簡単なメッセージを添えて。
マトリフはなぜだか気持ちが軽くなった気がして、駅へと軽い足取りで向かう。ちょうど電車は到着したばかりだった。
***
マトリフは正月の朝日を目を細めながら見る。叩き起こされて、師匠が相変わらずの早起きであると知る。
寝癖だらけの頭を掻きながらスマートフォンを見ると複数のメッセージが来ていた。ポップやアバンからは年始の挨拶、ガンガディアからは数件のメッセージがあった。見ればパーティーの様子が写してある写真が添付されている。マトリフも知らない連中ではない。皆酒を飲んで楽しそうである。普段は生真面目なガンガディアも、酒が入っているせいか開放的な雰囲気だった。
マトリフは着替えて食堂へと向かう。やたらと大きくて無駄に豪華な屋敷のせいで、部屋から部屋への移動が遠い。
食堂には既にマトリフ以外の全員が集まっていた。師匠であるバルゴート、その娘のカノン、マトリフと同じく養子のまぞっほ、そしてカノンの家族のチョコマとその両親である。
「あー、明けましておめでとさん」
寝坊を咎める視線を受けながらマトリフは席についた。食卓には正月らしい食事が並んでいる。豪華で厳粛な雰囲気に、ここで育ったにも関わらずマトリフは堅苦しさを感じてならなかった。
やっぱりコタツでカップ麺食ってた方が良かったな。
バルゴートの年始の挨拶を聞きながらマトリフは思う。
食事を終えてさっさと部屋に引きこもっていたら、師匠が初詣に行くと言った。早起きさせられて朝っぱらから寒い外に出たくない。マトリフは嫌だと言ってベッドに寝転んだが、マトリフの主張などバルゴートに通用するはずもなく、首根っこ掴まれて連れ出された。
「ああ〜寒みぃよ〜」
外は晴れているものの冷たい風が吹いていた。マトリフは首をすくめてマフラーに顔を埋める。
「そんないいマフラーをしておいて寒いだなんて、歳をとったねアンタも」
カノンが揶揄うように言う。するとまぞっほはマトリフのマフラーをじっと見た。
「それクリスマスプレゼントだろ兄者」
「なんでわかるんだよ」
そのマフラーはガンガディアがクリスマスプレゼントにくれたものだった。肌触りが良くて軽い。
「サンタさんから?」
今度はチョコマが振り返って尋ねてくる。
「ガンガディアだよ。でっかくて眼鏡をかけた」
「肩車のおじちゃん!」
チョコマは嬉しそうに言った。それは以前にガンガディアが来た際に、チョコマを肩車してやったからだ。背の高いガンガディアの肩車をチョコマは甚く気に入ったらしい。
「また肩車のおじちゃん来るかな?」
「さぁな」
ちょうどマトリフのスマートフォンが音を立てる。見ればガンガディアからのメッセージだった。マトリフはそれを読んでニヤリと笑う。
「チョコマ、肩車のおじちゃんが来るってよ」
初詣から帰ると見慣れた車が屋敷の前に止まっていた。寒いだろうにガンガディアは立って待っている。ガンガディアは師匠やカノンたちに挨拶をしてから、一番後ろにいたマトリフを見た。
「……やはり似合っている」
それがマフラーのことだと気づく。クリスマスに貰ってから、ガンガディアの前でつけたのははじめてだった。
「おかげであったけえよ」
「さっきは寒いって言ってたのに」
笑うまぞっほにマトリフはうるせえと返す。チョコマはガンガディアに両手を伸ばして「肩車して!」と言っていた。
そのまま食堂でお茶をすることになり、ゾロゾロと廊下を歩く。ガンガディアの肩車にチョコマは楽しげな声を上げた。
「もっとゆっくりしてくりゃ良かったのに」
マトリフがガンガディアに言う。年越しはホテルで行って、そのまま泊まってくるとガンガディアは言っていた。
「早く君に会いたくなってね」
ガンガディアが臆面もなく言うものだからマトリフのほうが恥ずかしくなる。マトリフは熱くなった顔を冷ましたくてマフラーを外した。まぞっほはマトリフを見てニヤニヤしている。マトリフはまぞっほの膝裏を蹴った。
「そういや、アレは持って帰らなくていいのか」
話題を逸らそうとマトリフは言った。
「アレとは?」
「アレだよアレ。オオグンタマの本」
マトリフは昨夜、部屋で段ボールに入れっぱなしの本を見つけた。開けてみればそれは一時期ガンガディアが収集していたオオグンタマに関する本だった。
マトリフとガンガディアはオオグンタマのせいで喧嘩をしたことがある。というよりも、マトリフが一方的に拗ねて家出をした。結局はすぐに仲直りしたのだが、ガンガディアが収集した一部の本はこの屋敷で預かってもらう事になった。
「いや、アレは……」
ガンガディアは気まずそうに言葉を濁した。マトリフの機嫌を損ねたくなくて、はっきりと言えないらしい。マトリフはふっと表情を緩めてガンガディアを見上げた。
「もういいんだよ。オレだって読んでみて面白いって思ったからな」
昨夜の暇つぶしにマトリフはオオグンタマの本を読んだ。その生態の多くは謎に包まれており、研究は今も続いているらしい。あれほど憎く思えたオオグンタマも、知ってみれば親しみを覚えた。
「では」
「だがお前からのレクチャーはいらねえ。オレはオレのペースで読むから布教してくるな」
「うっ……そうだな。それがいい」
ガンガディアは内なる興奮を抑えようと深呼吸している。危ないと思ったのか、チョコマを床に下ろした。
それからみんなで和気あいあいと茶を飲んで過ごした。融通の効かない生真面目な恋人は、普段のマトリフの様子を馬鹿正直にみんなの前で喋る。そのために師匠からは厳しい視線と小言、兄弟たちからは哀れみと含み笑いを向けられる。それでもガンガディアが隣に座っているだけで、マトリフは今朝ほどの堅苦しさは感じずに済んだ。
昼過ぎにマトリフはガンガディアと一緒に帰ることにした。車で帰るならと、馬鹿みたいに手土産を持たされる。ガンガディアはそれをどうにかトランクへと積み込んでいた。
「じゃあな」
マトリフは素っ気なく言ったが、師匠は珍しく温和な表情で見送ってくれた。それが返って気恥ずかしく感じる。
マトリフは助手席に乗り込んで「んじゃ帰ろうぜ」と言った。ガンガディアはマトリフをじっと見ている。
「なんだよ」
「いや。帰ろうか」
車はゆっくりと動き出す。元日から忙しなく動き出す人々を車窓から眺めながら、やはりガンガディアと過ごす家が一番いいとマトリフは思った。