紅茶「オレは紅茶を」
「私も同じものを」
店員は小さくお辞儀をして去っていく。ガンガディアは神妙な顔でマトリフを見た。
「暫く会えなかったから寂しかったよ」
ガンガディアはそう言って机にあったマトリフの手に手を重ねた。マトリフはその温もりに思わず目頭が熱くなる。今の自分にガンガディアの存在がいかに必要なのか、充分にわかっていたからだ。
前世の記憶が思い出さられたのは突然だった。それはマトリフが二人で住むための家を探していた時だった。
マトリフはガンガディアから同棲しようと誘われていたが、ずっと断っていた。その覚悟を持てなかったからだ。ガンガディアはマトリフより若い。それを言い訳にしながら、自分が一歩踏み込む勇気が持てないでいた。
だが、これまでガンガディアと過ごした日々を思い返して、ようやくマトリフは決心した。
新しく住む家を探したのはマトリフにとって今のガンガディアの家が大すぎるということと、二人で過ごす家を一緒に探すのもいいかと思ったからだ。
マトリフはガンガディアに提案する前に住宅情報サイトを眺めた。すると自然と目がいく物件があった。それは海沿いの家で、不思議と強く惹かれた。青い海が窓から見える内装写真をじっと見つめては、こんな家でガンガディアと生活が出来たらと夢想した。
二人で生きる未来は輝いて見えた。マトリフは残りの人生をガンガディアと生きることを選んだ。
だがそのとき、海の青さが何かを思い起こさせた。突然に本のページを開いて突きつけられたように、鮮やかな青が視界いっぱいに広がった。海かとマトリフは思った。いつか行った海を思い出したのかと思ったが、目を凝らすように記憶を探れば、それは海ではなかった。
眩い光の中にガンガディアがいた。なぜだかガンガディアの肌は青かった。耳も長くて尖っている。ガンガディアは眩い光に包まれて、消滅した。
マトリフは今見た光景が何なのかわからずに困惑した。だが、それをきっかけに次々と知らない記憶が蘇ってくる。それはガンガディアが語った前世の話と同じだった。
マトリフはあらかた思い出して気付いた。ガンガディアとは恋人ではなかったのだと。ガンガディアはマトリフがこの手で殺したのだ。
最初に思い出した光景は、まさにガンガディアを殺す瞬間だった。マトリフはそれを理解して、吐気が喉の奥に込み上げてきた。今のマトリフにとってガンガディアは大切な人で、その人を前世で殺したという事実に、臓腑が締め付けられて抉られるようだった。
「お待たせしました」
店員が二人分の紅茶を運んできた。いい香りが鼻腔まで届く。マトリフはすっかり覚悟を決めた。
「ガンガディア」
マトリフは目の前のガンガディアを見つめる。
「オレたち、一緒に暮らそう」
***
ガンガディアは驚きと喜びで思わず立ち上がった。その拍子に脚が机にぶつかったのか、大きな音がなってティーカップが揺れる。
「おい、落ち着けよ」
マトリフは苦笑して溢れた紅茶を見た。しかしガンガディアはそれには目もくれず、マトリフのほうへ来ると突然に抱きしめてきた。力強い抱擁に息が詰まる。
「……こんなとこでよせって」
「理由を聞かせてくれないか。君はずっと断っていたのに」
ガンガディアの声は喜びに溢れていた。あまりにはしゃいだ様子に、こんな一面もあったのかと驚く。
「ようやく腹を括ったってだけだ」
マトリフはすっかりガンガディアを愛してしまっていた。前世で何があったにせよ、この数年の二人の出来事は今の二人のものだ。
「嬉しいよ」
「オレたちなら上手くやれるだろ?」
「ああ、もちろんだ。そのためならどんな努力も惜しまない」
記憶が戻ったのだと言ったらガンガディアはどんな顔をするのだろうか。だがマトリフは打ち明ける気はなかった。
マトリフは汗の滲んだ手を服で拭いて、ガンガディアの背に手を回した。ガンガディアを見ていると、あの光景が今も鮮明に頭に浮かぶ。そのときの後悔が、今まさに感じているように戻ってくるのだ。
だが今はガンガディアと共に生きられる。その道を選べるのだ。
「オレはお前と一緒に生きたいんだ」
マトリフはガンガディアを抱きしめて目を閉じる。消滅の閃光が記憶の端にきらめいた。記憶は消えてはくれない。ガンガディアを殺した光景は常に頭の端でマトリフに刃を向けていた。
「君に出会えてよかった」
ガンガディアは力いっぱいマトリフを抱きしめる。まるで二度と離さないとでもいうように。
机の上では二人分の紅茶が冷めていく。
***
ガンガディアが最後に見た光景は美しい輝きだった。
あらゆるものを消滅させる呪文がこれほど美しいのかと、ガンガディアは指先から消えていく手を見つめながら思った。
ガンガディアは負けた。だが満足だった。大魔道士と戦い、その圧倒的に美しい呪文で負けたのだから。
不思議と痛みはなかった。消滅は苦痛とは正反対だった。己という存在が消えていくというのに、まるで呪縛から解放されていくかのようだった。
大魔道士と出会えてよかった。ガンガディアの意識はその思いでいっぱいだった。それは間違いなく喜びで、肉体が消滅しようとしているのに、意識だけは最後まで残って喜びを感じていた。
ふっと、呪文が消えた。輝きが弾けていく。ガンガディアはいったいどれほど肉体が消滅したのかを確かめることすらできなかった。
だが大魔道士が見えた。ということは目や脳はまだあるのだろう。ガンガディアは必死に目を見開いて彼を見た。
大魔道士は悲しそうだった。
ガンガディアは目を疑った。これは死ぬ直前の歪みなのかと思ったほどだ。大魔道士は勝ち誇った顔をしているか、彼らしく皮肉げに頬を歪めているかと思ったのだ。
途端にガンガディアは消滅したくないと思った。もう少しも肉体が残っていないというのに、どうにかして生きたいと思った。だが肉体の最後の欠片は崩れ去った。
なぜ悲しい。なにが彼を悲しませているのか。
それは強い思いとなって最後までガンガディアの心に残った。その思いが一番最後に消滅した。
そしてガンガディアは今世で人間として生を受けた。世界はあまりに変わっており、前世の記憶を残したまま生まれ変わったガンガディアを混乱させた。
だが、まるで前世の埋め合わせのように、今世でガンガディアは恵まれた環境にあった。自分を愛してくれる両親と、何不自由ない生活。知識を望めば与えられ、それを発揮する場も与えられた。
だが、その恵まれた生活があっても、どこか満たされない気持ちがあった。その欠落が大魔道士であると気付くのに時間はかからなかった。
ガンガディアのように前世の記憶を有した者は珍しくなかった。そして存在が引かれ合うかのように、前世で親交があった者たちとの再会があった。だが大魔道士と出会うことはなかった。最後に見た大魔道士の表情をガンガディアは忘れていない。忘れられないのだ。きっと最後まで大魔道士のことを考えていたからだろう。
ガンガディアはあらゆる方法を使って大魔道士を探した。しかし見つけることはできなかった。求めても得られない存在は暗い影となってガンガディアの心を暗くさせた。
だがある日、それは偶然に、そして突然に現れた。あれは早春の寒い日で、朝から雨だった。
ガンガディアは仕事の打ち合わせのために急いでいた。どうも行き違いがあったらしく、一刻も早く取引先の会社に行かねばならなかった。
早足で歩いていたせいで、足元の水が跳ねて裾を濡らした。その不愉快さに顔を顰めながら、ふと先の信号が赤であると気付いた。苛立つ気持ちが膨れ上がる。それを宥めようと傘を少し上げて、空を見上げた。大きく息を吸おうとしたそのとき、視界の端に何かが映った。
まるで体に電気が通ったかのように痺れた。脳の理解が遅れる。目だけは必死に彼を見ていた。
大魔道士がいた。全国展開のファストフード店の二階の席の、硝子の向こうに彼がいた。大きな口を開けてホットドックを頬張っている。
そこからはただ夢中に動いていた。あまりに必死だったせいで、大魔道士には不審者を見る目で見られてしまった。大魔道士には前世の記憶がなかったからだ。
なんとか連絡先を渡したが、電話をかけてきたのは大魔道士ではなく勇者だった。
「お元気そうでなによりです」
皮肉かと思ったが、アバンは本気で言っているようだった。アバンはガンガディアの名刺をマトリフのゴミ箱から拾ったのだと言った。
「偶然に目に入ってしまって」
と、アバンは朗らかに言ってから、声を落とした。
「それでマトリフに何の用ですか?」
その声音に背筋がぞくりとした。警戒と牽制を感じて、ガンガディアは戦場で対峙しているかのように感じた。
「何も。ただ彼を見かけて、思わず声をかけただけだ」
言ってから、ガンガディアは前世での自分と彼らの立場を思い出した。
「彼に危害を加えるつもりはない」
自分たちが敵同士であったこと、そしてガンガディアにとって大魔道士は命を奪った相手だ。恨みを持っていると思われても仕方がなかった。
「マトリフには前世の記憶がありません」
「そのようだな」
「不用意な接触は彼を混乱させてしまいます」
「わかった。彼には二度と会わない」
ガンガディアは音もなく息を吐く。大魔道士に再会できた喜びは砕けていた。だが大魔道士に前世の記憶がないということは、彼はもう悲しくないということだ。
ガンガディアが消滅する最後に見たマトリフは悲しそうだった。それがどうにも心に引っかかっていた。だが前世のことを全て忘れているということは、あの悲しみも、もう存在しないということだ。
「会ってほしくないわけではないんですよ。ただ」
電話の向こうのアバンの声に覇気がなくなった。戸惑いを払うためか、アバンは息を吸った。
「マトリフはあの頃の彼ではないんですよ」
それは鈍い衝撃となってガンガディアを襲った。どのような意図でアバンがそんなことを言ったのか理解しかねる。前世の記憶がないことはわかっていた。
「彼は今世だけの人生を歩んでいます。魂……と呼べるものが同じであっても、経験してきたことは違うんです。ですから」
アバンはまた言葉を切った。いつも明瞭に喋っていた彼には珍しいことだ。
「だから何かね?」
「新しい出会い方が出来る反面、以前の彼とは会えないということです」
「彼が大魔道士であるということに変わりはない」
「あなたがそう思うなら、それもまた真実ですよ」
ではまた、と言ってアバンは電話を切った。
大魔道士と会うつもりはない、と言ったにも関わらず、それから間もなく大魔道士と再会した。
そのとき大魔道士は酔っていた。だがガンガディアも酔っていた。酔いは口を軽くさせ、前世の出来事を喋ってしまった。前世の話を聞けば大魔道士が思い出すのではないかと期待する気持ちもあった。
ガンガディアは大魔道士を求めていたのだ。前世で戦い、憧れた、あの大魔道士を求めていた。
だが同時に、大魔道士に対する思いが憧れだけではないと気付いてしまった。強い執着は独占欲となり、独占欲は性欲となった。彼を我が物にしたいと願ってしまった。
そのためにガンガディアは嘘をついた。前世では恋人だったのだと嘯いた。なんて酷い嘘なのか。己の欲望を満たすために、相手を謀ったのだ。
ガンガディアは大魔道士の細い身体をかき抱いて快感を得た。あの大魔道士が自分の手で悶え、快楽に震え、もっととせがむ姿は、ずっと抱えていた満たされなかった気持ちを埋めていった。
歪んでしまった憧れは、醜い形になってガンガディアの心を支配した。彼を手に入れたいとそれだけを願った。
だから彼のためだったら何でもした。何も惜しまなかった。恋人となり、その後に過ごした数年も、ずっと大魔道士のために生きていた。しかしいくら求めても足りず、不満が募ることもあった。どうしても前世の大魔道士のことを忘れられず、彼が大魔道士らしくない振る舞いをすると苛立った。早く思い出してくれと望みながらも、思い出してほしくないとも思った。恋人などと嘘をついたことを大魔道士が知ったら、どれほど怒るだろうか。だがその罵声を浴びたいと思った。君が思い出さないからだと言い返したかった。そして抵抗する彼を捩じ伏せて繋がりたかった。何が君を悲しませたのかと問いたかった。
だがある日からぱったりと大魔道士からの連絡が途絶えた。こちらから電話をしても出ず、メッセージに既読は付くものの、返事は返ってこなかった。
***
ガンガディアは呼び出された喫茶店でマトリフを抱きしめていた。
「オレたちなら上手くやれるだろ?」
そう言って背に回された手の感触に、鼓動が高まる。
ガンガディアはてっきり、マトリフに別れを告げられるのかと思っていた。
ガンガディアは自分の醜い心を知っている。これまでずっと憧憬と破壊衝動と性欲が入り混じった汚い感情を大魔道士に向けてきた。だが大魔道士はそれを受け止めてくれた。それがきっと、愛なのだろう。
ガンガディアは目が覚めるような思いがした。
マトリフを愛している。もしかすると、はじめてそう感じたのかもしれない。前世の大魔道士ではなく、今この腕にいるマトリフを、愛していると感じた。
暫く抱き合っていたが、いい加減に恥ずかしくなったのかマトリフがガンガディアの胸を叩いた。二人で顔を見合わせて笑い合う。冷めた紅茶も二人で飲めば悪くなかった。
翌日、ガンガディアはダンボールを抱えて車から降りた。
ガンガディアは古い木造のアパートの、錆びて耐久性のない階段を上がっていく。これまで良い環境だとは思わなかった場所だが、改めて見ると情緒があるようにも思えた。マトリフが気に入って住み続けたのだから、この広い世界の中でも素晴らしい場所だったのだろう。
ガンガディアは通路の突き当たりの部屋の前まで来た。この部屋は薄暗いが、それもいずれ思い出して懐かしく感じるのだろう。
ガンガディアは扉を拳で叩いた。すぐに返事がある。ガンガディアはドアノブに手をかけた。
部屋はもぬけの殻だった。
「随分と片付いたね」
がらんとした何もない部屋を見てガンガディアは言った。家具の跡が薄く残った床を見つめる。マトリフは袖を捲って雑巾を手にしていた。
「隣の部屋がまだ手付かずなんだ」
「では取り掛かろう」
ガンガディアは持っていたダンボールを置いた。中に入れていた掃除道具を取り出す。
引っ越し作業は大方済んでいた。マトリフがこの部屋から新居へ持っていくのは大量の本ばかりで、家具や細々とした生活用品は全て処分してしまった。本は既に梱包して送ってあり、後は掃除をするだけになっていた。
ガンガディアが掃除道具を手に立ち上がる。するとそばにあったゴミ袋が目についた。その中に彼の気に入っていたマグカップを見つける。
「これも捨ててしまうのか?」
マトリフはちらりとゴミ袋を見て頷いた。
「持ち手にヒビが入ってんだよ」
新居には新しい食器が揃っている。ここから持って行かなくても不自由はしないだろう。だが使い慣れて気に入ったものもあるはずだ。しかしマトリフはそれらを惜しげもなく手放していた。
「もう要らないだろ?」
そう言ってマトリフはゴミ袋の口を結ぶ。
「捨ててくる」
「重いものは私が運ぶ」
「ゴミ袋一つくらいオレでも持てるんだよ」
マトリフは言ってゴミ袋を手に行ってしまった。その姿になぜか胸騒ぎがする。
彼が知らないうちに消えてしまうのではないかと、そんな気がしてしまったからだ。
ガンガディアはマトリフを追いかけた。殆ど走るように追いかければ、下のゴミ捨て場にいるマトリフを見つける。マトリフも足音でガンガディアに気付いたようで、こちらを見上げた。
「どうした?」
不思議そうにこちらを見るマトリフに、ガンガディアは駆け寄った。鬼気迫る様子にマトリフは訝しげな顔をする。
「なんだよ」
「……君と離れたくなくて」
「なんだそれ」
冗談だと受け取ったのか、マトリフは目を細めて笑った。ほら掃除すんぞ、と背を押される。いつもと変わらない様子に、ようやくガンガディアは安心した。
これからずっと一緒に生きるのだ。そんな明るい未来があるはずなのに、なぜか不安がつきまとう。それは漠然とした焦燥だった。
ガンガディアは隣を歩くマトリフの手を握った。小さく冷たい手を握り込む。
一緒に生きてくれるなら、とガンガディアは思った。小さな不安などすぐに消える。この手を離さなければ、二人はずっと一緒なのだ。
***
十数年という月日の間に起こった出来事を思い返すと、さして大きな出来事は何もなかった。日々の小さなやり取りや、些細な言い争い、それの仲直り、少しの遠慮や、見ないふりの連続だった。だがそれがマトリフにとって小さく積み重なり、彼を潰そうとしていた。
マトリフは海が見える部屋にいた。ベッドの背は起こしてある。マトリフはそこに座って海を見ていた。天気が良ければ窓を開けることもあるが、今日は風が強くて海も荒れている。波の音は聞こえないが、引いては返す波が蠢いていた。
「マトリフ」
ガンガディアは呼びかけてベッドのふちに腰掛けた。
「すまないが、仕事で暫く部屋に籠る」
マトリフは小さく頷いた。目はすぐにガンガディアから海へと移される。マトリフは何かを待っているかのように海ばかり見ていた。
マトリフの身体の変調はストレスのせいだと医者は言った。
それが最初に現れたのはこの家で同棲をはじめて一年ほどが経った頃だ。マトリフは頭痛が続くようになった。病院へ行ったが原因はわからず、痛み止めを飲んでやり過ごしていたが、やがて眠れなくなった。
医者はストレスのせいだろうと言った。
マトリフは仕事を辞めた。引っ越してからは通勤時間が長くなり、通うのが負担になっていた。それに年齢的にも退職を考えてもおかしくない頃だった。ガンガディアはマトリフの身体のためにも仕事を辞めることを勧めた。マトリフはさして迷いもせず辞表を書いた。
ガンガディアはマトリフのための環境を整えることにした。何も彼を傷つけることのない、心地よい環境があれば、体調も良くなるはずだと思ったからだ。
しかしマトリフの体調は快方には向かわなかった。それどころか不調は増えていき、飲む薬も増えていった。病院を何件も回ったが、結果は変わらなかった。
マトリフは家に引き篭もるようになった。マトリフの部屋には大きな窓があり、そこから海が見える。マトリフはその部屋から外を眺めて過ごすようになった。まるで何かが来るのを待っているかのように、じっと海を見つめている。その姿を見ているとガンガディアは胸が苦しくなった。朽ちかけた木でさえもっと生命力があるように思えたからだ。
マトリフが待つのは命の終わりなのではないかと思うことがある。死だけが彼を救うのではないかと、そんな酷い考えが思い浮かんでしまうのだ。
ガンガディアはマトリフの手に手を重ねた。冷たい手だ。その手がいつかすり抜けていってしまう気がする。
「仕事なんだろ」
マトリフは苦笑しながらガンガディアを見ていた。
「そうだな」
「オレは大丈夫だから、はやく行けよ」
「具合が悪くなったらすぐ呼んでくれ」
「わかったわかった」
マトリフは小さく笑って見せた。ガンガディアは離れがたい気持ちを振り切って立ち上がる。かけ布団を整えてから部屋を後にした。
ガンガディアは自室でパソコンに向かっていた。まとめた資料を上司に送って、細かな内容について意見を交わしていく。それがあらかた終わってから、上司はガンガディアに「そっちはどうだ」と尋ねてきた。それがマトリフのことについての質問であるとガンガディアにもわかっている。
「症状は一進一退の繰り返しです」
「そうか。力になれることがあったら何でも言え。アバンも心配していた」
「ええ。よろしくお伝えください」
上司の気遣いは有り難かったが、できればマトリフに彼らを会わせたくはなかった。前世の記憶がある者同士は不思議と存在が引き合う。それがマトリフにとってどんなストレスになるかわからなかったからだ。
ガンガディアは窓の向こうが夕暮れだと気付いた。思ったより時間が経っていたらしい
ガンガディアはマトリフの部屋へと向かう。ノックをしたが返事がなかったので入ると、マトリフは眠っていた。
ガンガディアはその顔をじっと見つめる。白髪は夕陽に染められていた。
ガンガディアは大きな窓にかけられたカーテンを閉める。途端に部屋は暗くなった。
***
「ひざ掛けは?」
「いる」
ガンガディアは触り心地の良いブランケットをマトリフの膝にかけた。窓から見える外は晴天で、春が来たことを思わせる。マトリフは椅子に座って外を眺めていた。
「散歩にでも行かないかね」
「オレはいい」
マトリフは外ばかり見ているが、出たがらなかった。この陽気だと寒くはないだろうし、外の空気を吸えば気分も良くなるだろう。だがマトリフはそれを望まない。そうとわかっていても、ガンガディアは誘うことをやめなかった。
外では二人の少年が追いかけっこでもするように駆けていく。見ていて微笑ましい。彼らは近くに住んでおり、よくこの道を通りかかる。
ガンガディアは窓を少し開けた。外の温かな空気が入ってくる。それと同時に少年たちの笑い声も聞こえてきた。まだ声変わりのしていない柔らかな声は、その瞬間を楽しむ声だった。
「閉めてくれ」
少年たちが走り去っていき、その声も遠くなる。ガンガディアは窓を閉めた。マトリフは窓から顔を背けて身を丸めている。
「薬を?」
ガンガディアはマトリフの背を摩る。マトリフは小さく首を振った。
「いらねえ」
「ではベッドに運ぶ」
ガンガディアは身体を丸めたマトリフを抱き上げた。その軽さに頼りなさを感じる。不意に涙が込み上げてきそうになって奥歯を噛み締めた。
マトリフのストレスの原因が何であるのかわかっていない。いくら環境を整えても、一向に良くならないからだ。
だが、本当は気付いていた。引きこもっているマトリフと接するのはガンガディアだけなのだ。だとしたら、原因はガンガディアだ。
「マトリフ」
ベッドに横たえたマトリフの背を摩る。その背を震えさせているのはこの手なのではないか。私こそがマトリフを苦しめているのではないか。ガンガディアはそう思うものの、マトリフから離れられなかった。
愛している。マトリフを愛している。一緒に生きてさえいれば、幸せになれる。そう信じてきた。だがそんなものは幻想に過ぎなかった。
「すまない。人と会う約束があって」
嘘は簡単に口から出た。最近はマトリフと一緒に過ごす時間を意図的に減らしていた。
「……オレはいいから行ってこいよ」
「大丈夫かね」
「すぐおさまる」
マトリフから手を離す。ガンガディアはそのまま部屋を出た。
ガンガディアは早足で歩きながら家を出た。マトリフといると息が詰まる。愛しているのに憎いとさえ思うときがある。彼を捕まえているのは自分なのに、解放されたいと思った。
ガンガディアは殆ど駆け足で海の見えるところまで行った。堤防を上る。海は穏やかだった。さっきの少年たちが砂浜で遊んでいる。
何を間違ってしまったのだろうか。ガンガディアは答えのない自問を繰り返す。叫びたいほどの衝動を感じた。全てを投げ捨ててしまいたくなる。
「……許してくれ」
声に出たのは詫びる言葉だった。ガンガディアは両手で顔を覆う。マトリフとは離れられないのだ。マトリフをあのようにしてしまったのはガンガディアで、ガンガディアがいなければマトリフはどうなる。自分がいなければ生きられないように仕立て上げたのはガンガディアなのだ。その罪をどう贖えばいい。
するとこちらに走ってくる足音が聞こえた。
「おっさん大丈夫か?」
見れば先ほどの少年が目の前に立っていた。こちらを覗き込むように見てくる。
「知らない人に声をかけちゃだめなんだよポップ。じいちゃんが言ってた」
もう一人の少年が言った。この少年のほうが幼いのか背が低い。ポップと呼んだ少年の服を掴んでいた。
「いいんだよ。このおっさんは師匠んとこのおっさんだもん。なあ具合悪いのか? おれが師匠を呼んできてやろうか?」
少年は見た目の年齢よりしっかりして見えた。その違和感に覚えがある。前世の記憶を有している者はそのようになりがちだ。
それよりも、少年が言っている師匠とはマトリフのことらしかった。ガンガディアはマトリフとこの少年が知り合いだとは聞いていない。
「私は大丈夫だ。君はマトリフと知り合いなのかね」
「うん。あ……」
ポップは元気よく頷いてから、何かを思い出したように声を上げた。
「これ言っちゃだめだったんだ」
「マトリフさんに怒られるよ」
「やっば……」
少年たちは顔を突き合わせてこそこそと話し合っている。ガンガディアは胸がざわつくのを感じた。この少年たちがマトリフと知り合いなのは間違いないようだ。
「君たちは何者なんだ」
少年たちは顔を見合わせる。そして頷き合った。
そして逃げ出した。
二人の少年は全く別の方角に同時に走り出した。
「き、君たち!」
ガンガディアは一瞬どちらを追うべきか迷って出遅れた。その隙に少年たちは堤防を乗り越えて走り去ってしまった。
***
「……なんだ、早かったな」
マトリフは部屋に入ってきたガンガディアを見て言った。ガンガディアは海で会った少年たちに撒かれて、そのまま帰ってきた。
マトリフの体調は落ち着いているらしい。やはり私がいないほうが良いのだと、ガンガディアはマトリフを見下ろす。
「なんだ、どうかしたのか?」
「海辺で少年たちに会った。この家の前をよく通りかかる少年たちだ」
「それがどうかしたか?」
「君は私に隠し事をしているようだ」
ガンガディアは責めるような口調になっていた。マトリフはガンガディアの様子がいつもと違うと気づいたようだ。
「あいつらが庭に入って来たから声をかけただけだ」
「一人の少年は君を師匠と呼んでいた。随分と親しそうだ」
「おいおい、ガキに嫉妬か?」
マトリフは軽口でこの会話を終わらせたかったようだが、ガンガディアは笑わなかった。
「あの少年は前世の記憶があるようだ」
「言いたいことがあるならはっきり言えよ」
「君こそ私に隠していることがあるのではないかね」
今のマトリフが積極的に人と関わるとは思えなかった。もし庭に子どもが入ってこようが、彼なら無視するだろう。それをわざわざ声をかけたのだとしたら、よっぽどの理由があったはずだ。
前世の記憶がある者同士は不思議と惹かれ合う。あの少年が前世でマトリフと縁を結んでいたのだとしたら、その存在は自然と引き合うはずだ。もしかするとそれをきっかけに、マトリフに前世の記憶が戻っているのかもしれない。
マトリフは身体を起こした。ひとつ息をついて、髪をかき上げる。マトリフはガンガディアを真っ直ぐに見つめた。
「オレも思い出したんだ」
その言葉を、ガンガディアはずっと待っていた。
だがマトリフはそれ以上何も言わずに、ただガンガディアを見つめていた。
「……私に何か言いたいことはないのかね」
マトリフが前世の記憶を取り戻したら、真っ先に罵倒が飛んでくるものだと思っていた。ガンガディアの嘘を罵り、蔑んだ目でガンガディアを見るだろうと。ガンガディアはそれを望んでいた。その罵声を浴びれば、自分の罪が少しは小さくなるような気がしたからだ。
しかしマトリフは小さく首を振った。
「お前こそ、オレを殺さなくていいのか?」
マトリフはガンガディアの手を取ると、自らの首へと導いた。その手も首も、骨ばかりになっている。触るとひんやりとしていて、既に死が隣に寄り添っているかのようだった。
「オレはずっと待ってたんだよ」
マトリフはぽつりと呟いた。苦しみに表情が歪む。
「お前がオレを殺すのをな。今のお前でも簡単だろ。あんまり苦しまないようにやってくれ」
言ってマトリフは目を閉じた。無防備に晒された首にガンガディアの手がかかっている。
「……なぜ私が君を殺さねばならない」
「てめえは前世で誰に殺されたか忘れちまったのか?」
「私は君を……愛している」
「まだ恋人ごっこか? それならセックスしながら殺せよ。気持ちいいことしながらくたばるのも悪かねぇな」
「なぜそんなことを言う!」
激情のままにマトリフを押し倒していた。ガンガディアは両手でマトリフの首を掴んでベッドに押し付ける。空気を吸い込む細い音がマトリフの口から聞こえた。
「私は君を愛しているのに! こんなにも君を!」
まるで火に包まれているかのように熱かった。昂った感情の捌け口がない。違う。こんなことがしたかったわけではない。ではなぜ嘘をついてまでマトリフを手に入れようとした。それは緩やかな殺意ではないのか。マトリフを支配して壊したかったのではないのか。
ガンガディアの咆哮が部屋に響く。嫌だ。こんな自分は嫌だ。もう魔物ではないのだ。違うものか。魂はあの醜い魔物のままだ。
「ガン、ガデ……ァ」
マトリフは笑っていた。
なぜ笑っている。死が訪れようとしているのに。悲しくないのか。悔しくないのか。ではなぜあのときは、あの美しい呪文を放ったあのときに、悲しい顔をしていたのか。
ガンガディアは手を離していた。咳き込むマトリフを抱き起こす。
「こんな終わり方は望んでいない」
私たちは未来を選べるのではないのか。だとしたら、私が望むのは共に生きる未来だ。
***
「オレだけを悪者にすんじゃねえよ」
マトリフは掠れる声で呟いた。マトリフの手がガンガディアの胸倉を掴んでいる。
「お前がオレを殺せばチャラになる。オレの罪を消してくれ……」
「今世では私が君を殺した罪を背負えというのか」
するとマトリフは傷付いた顔をした。途端に狼狽えて首を横に振る。
「嘘だ……違う。お前にそんなことさせたくねえ。だがもう嫌なんだ。お前と一緒にいることも、あの記憶を持ち続けることも」
「私と一緒にいることを、君は望まないということか」
マトリフの肩は震えていた。その姿は今にも押し潰されてしまいそうだった。
もっと早くにわかっていれば。ガンガディアが過去を偽らなければ、あるいはマトリフが打ち明けていれば、別の道があったのかもしれない。
「だったら私が消える」
二人で共に生きる道がないのなら、ガンガディアが選べるのはそれしかなかった。それは前世での選択と同じだった。
マトリフが弾かれたようにガンガディアを見る。
「駄目だ……それだけは駄目だ!」
マトリフはガンガディアの胸に縋り付いた。残った力を全て振り絞ったのだろうが、その腕をガンガディアが外すのは容易かった。
「何かを選ばなくてはいけないのだよ。私には君と過ごした時間がある。君にとっては苦痛だったかもしれないが、私にとってはかけがえのない宝物だ」
「行くな! オレを置いていくな!」
「もっと早くにこうするべきだったのだ」
ガンガディアは立ち上がった。決断さえしてしまえば、身体は自然と動いた。
「私以外にも君を助けてくれる人たちがいる」
しがみついてくるマトリフの手を払った。倒れたマトリフが呻き声を上げる。ガンガディアはもう振り返らなかった。
「ガンガディア!」
部屋を震わせるほどの声に、思わず立ち止まる。行かなくては、と思うのに、足は動いてくれなかった。
「ガンガディア、ガンガディア!」
他の言葉を忘れてしまったかのように、マトリフはガンガディアの名だけを呼んだ。その声の響きが、世界を揺らす。全て崩れ去って、ただ二人だけが残されたように思えた。
「ガンガディア……」
マトリフは蹲ってガンガディアの名を呼んだ。声は今にも消えてしまいそうだ。
振り返ってはいけない。ガンガディアは拳を握りしめる。これがマトリフのためなのだと自分に言い聞かせた。
だが、ガンガディアは蹲るマトリフを抱きしめていた。
「君を愛している」
ガンガディアの頬に涙が流れていった。いっそこのまま溶け合って一つになれたらと思う。そうすれば二度と離れることはないだろう。
***
「あのとき」
マトリフが低く掠れた声で言った。それは風のようであり、波のようであった。ずっと聞いていたいと思うほど心地良く身体に響いていく。
「あのときの後悔を、今でも覚えている」
マトリフは手を開いた。そこにある何かを見つめるように、視線を注いでいる。
「自分の選んだ道は間違っていなかったと、どうしても思えなかった。だから自分に魔法をかけた。記憶を消す呪文だ。オレはお前を消してしまったことを忘れてしまいたかったんだ」
罪の意識も後悔も、すっかり忘れて新たな命として生まれ変わったとマトリフは言った。マトリフに前世の記憶がなかったのはそのためなのだろう。
「お前を殺して、それすら忘れて、のうのうと生きていた。そんなオレを許せるのか」
「恨んでいないものを、許すも許さないもない。私がひとつ心残りだったのは、君が悲しんでいたことだ」
マトリフの幸せを願っている。それは昔も今も同じだった。だが今は、その幸せが共にあることであればと思う。
ガンガディアはマトリフの手に手を重ねた。大きさが違う手だ。違いに目を向ければいくら数えても足りない。
「もう君を悲しませたくない」
「だったらオレを置いていくな」
「私と一緒にいることは君を苦しめないのかね」
同じ過ちを繰り返したくはなかった。お互いを不幸にするくらいなら、別の生き方もある。
だがマトリフは小さく首を振った。そこには確固たる意志があった。
「生きて、オレと一緒にいてくれ」
過去は捨てられない。どうしようもなく身体にのしかかるそれを、二人でなら背負えるだろう。その覚悟を、今度こそ胸に刻む。マトリフはぎこちなく微笑んだ。満身創痍でも、二人でなら立ち上がれそうだ。