メガンテ アバンはうたた寝から目を覚ました。空が明るくなっていることに気付いてあたりを見渡す。朝の澄んだ清らかな空気があたりを包んでいた。
昨夜は野宿だった。アバンは夜明け前の見張り役だったのだが、どうやら眠ってしまったようだ。焚き火が小さく燃え残っている。ロカとレイラは寄り添って眠っていた。
だがマトリフの姿が見えなかった。見ればアバンの膝に掛けられている毛布はマトリフのものだ。
アバンは毛布を折りたたんで置くと、近くの森へと目をやった。眩い朝陽に紛れるように神々しい光が見えたような気がしたからだ。
森の中を少しも進まないうちに、アバンはマトリフを見つけた。マトリフはこちらに背を向けている。上半身裸で、足元には魔法陣が描かれてあった。それが呪文の契約であると一目でわかる。神々しい光が魔法陣から立ち上り、マトリフへと吸い込まれていった。
契約が終わったからかマトリフが息をついた。置いてあった法衣へと手を伸ばしたので、声をかけてもいいかと思って近づく。すると足音で気付いたマトリフが振り返った。
「起きたのか」
「見張りが眠りこけるとはお恥ずかしい」
アバンは苦笑いしながらマトリフの側へと進んだ。
「呪文の契約ですよね。マトリフにも契約していなかった呪文があったんですね」
「まあな」
「もしかして強力な呪文ですか。この前も手強い敵でしたものね」
魔王軍との戦いはいつもギリギリの勝利だった。アバンが技を極めようとするように、マトリフも新しい呪文が必要だと思ったのかもしれない。
マトリフは法衣を着ると置いてあった本を拾い上げた。呪文の契約について書かれた魔導書だろう。アバンはその表紙を見て驚きに目を見開いた。
「メガンテ?」
表紙には自己犠牲呪文の契約とあった。アバンは背筋に冷たいものを感じる。その呪文から死の気配を感じたからだ。
「使うつもりはねぇよ」
マトリフはそう言うと荷物の中にその本をしまった。
「だったらどうして契約を?」
「そりゃあ、いざってときのためにだ」
「使うってことじゃないですか」
アバンは責めるような口調になっていた。マトリフは近くの切り株に腰を下ろす。
「オレだって死にたかねえよ。だから使うつもりはねえ。だが甘い覚悟で挑めるほど、魔王軍は簡単な相手じゃねえってわかったからな」
「私が頼りないからですか」
「お前を守りたいからだよ」
捻くれた大魔道士の思わぬストレートな言葉に、アバンは面食らってしまった。マトリフは老獪な笑みを浮かべると若造を見据える。
「お前は勇者だ。魔王を倒すのはお前しかいない。そのお前を守るのがオレの役目だ」
「そんなの嫌ですよ。あなたの犠牲で勝つなんて」
「だったらあの技を極めるんだな。オレの命を賭けたところで足止め程度にしかならねえ。老ぼれの命なんて軽いもんさ」
マトリフは軽口のように言って立ち上がった。わざと腰を摩りながら老人のように歩く。アバンは苦笑しながら、勇者としての責任の重さを感じた。
「さぁて、今日の朝飯は何にするんだ」
マトリフは明るい口調で言いながらアバンを見る。アバンはマトリフの手から荷物を受け取ると二人で歩き出した。
「さっきベリーがなってたので摘んでいきましょうか。それでソースを作って、固くなったパンを少しでも美味しくいただきましょう」
アバンは言いながらこっそりと荷物から魔導書を抜き取った。それをそっと背に忍ばせる。
命を賭してまで守りたい者ならアバンにだっているのだ。そしてこの呪文が必要になるかもしれない。アバンは遠い未来を見るように、遠い空を見つめた。
***
「じゃあオレは寝るからな」
マトリフは焚き火のそばに寝転がると毛布を被った。野宿の見張り役は順番であり、マトリフの次がアバンだった。
アバンは小さく伸びをしながら笑顔を作っている。月は傾きはじめ、あと数時間で朝だった。
「はい、おやすみなさい」
寝起きだろうが礼儀正しくアバンは言う。
見張りをアバンに任せてマトリフは目を閉じた。だが目が冴えてしまって眠れない。それでも体を休めておこうと目を閉じていた。焚き火が燃える音と、どこからか遠吠えが聞こえている。
それからマトリフは眠れない時間を過ごした。そうしていると、取り止めのない考えが浮かんでくる。
マトリフはアバンのことを考えていた。出会ったときこそ得体が知れないと思ったものの、共に旅を続けるうちになぜアバンがそのように振る舞うのかがマトリフにもわかってきた。アバンはその生まれ育ちから本心を明かせず、他人に対して壁を作ってしまう。人々から恐れや妬みを向けられる事を知っていたからだ。それはマトリフも経験したことがあるつらさだった。
そう思うと得体の知れなかった勇者が実物大の若者に見えた。表に出さないだけで、アバンは多くのことを考え、感じているのだろう。
マトリフは夢と現を漂いながら、これまでのアバンとのやり取りを思い返していた。アバンは器用なようでいて、甘えることを知らない不器用さがある。親友のロカにさえ言えないこともあるだろう。それを聞いてやることならマトリフにも出来るはずだ。
やがて空が白み始めた。それを見てマトリフは体を起こす。
すると見張りのアバンが座ったまま目を閉じているのが見えた。どうやら見張りの途中で眠ってしまったらしい。
無理もないとマトリフは思う。アバンはまだ少年と呼べるほどの歳だった。それを世界を救うために旅をしている。連日の戦いや修行が疲れとなってその体に残っていたのだろう。
マトリフは立ち上がると毛布をアバンの膝に掛けた。それでも目を覚さないから起こさずにおく。もう朝だから見張りは必要ないだろう。
マトリフは眠るアバンを見つめる。この勇者を守ることが自分の使命だった。
マトリフの師匠であるバルゴートは、魔法使いの役目を事あるごとにマトリフに説いたが、それはいかなる時も冷静であれといった精神の保ち方や、呪文や知恵の使い方であったりした。だがそれらは、常に一つの目的の為だった。
魔法使いは勇者のために生きろ
勇者は勇気ある者。そして周りに勇気を与える者だ。ただ強いだけではない。その存在が、周りの人々を照らす。
人は光がないと生きられない。希望という光だ。その光を守ることこそが、魔力と知恵を持った魔法使いの役目だ。勇者を守ることが、延いて人々を救う。
そう教えられて、魔法使いも悪くない存在だとマトリフは思った。ただ魔法力が高いという理由だけで選んだ道だったが、そう思うとどんなきつい修行も耐えられた。
だがマトリフはバルゴートから教えを受けながらも、勇者のために生きるということを実感することはなかった。
マトリフは空を見上げる。まだ白い空は、ゆっくりと朝になろうとしていた。明日も同じように朝陽が昇るだろう。だがそれを守る者が必要だった。
マトリフの中でようやく決心がついた。マトリフはそっと手を伸ばしてアバンの頭に触れる。そのまま手のひらで頭を撫でた。空色の髪は柔らかい。アバンはよく眠っていて、それでも起きなかった。
マトリフは荷物を持つと近くの森へと向かった。今なら三人とも寝ているからいい機会だろう。それに呪文の契約をするなら空気の澄んだ朝がいい。そのほうが精霊の機嫌もいいだろう。
マトリフは森に入ると荷物から一冊の魔導書を取り出した。それは先日立ち寄った故郷から持ってきたものだった。
マトリフは多くの呪文を契約している。その殆どはバルゴートに契約させられたものだ。だがバルゴートはある呪文だけはマトリフに契約させなかった。それが自己犠牲呪文だった。
マトリフはギュータに立ち寄った際にバルゴートの書斎からこの魔導書を探し出した。魔導書には何重にも封印がかけられていたが、今のマトリフには解除できた。だがそれをカノンに見られてしまった。
カノンはマトリフが手にしていた魔導書を見ると、厳しい目でマトリフを見た。そして平手でマトリフの頬を打った。
「お父様の言いつけを破るつもりかい」
カノンの眼差しはバルゴートにそっくりだった。まるで師匠に叱られているような気がしてマトリフは苦笑した。
「もう師匠の仕置きが怖いガキじゃねえんだ」
打たれた頬がじんと熱くなった。カノンもバルゴートがメガンテを契約すらさせなかったことを知っていた。それを破ることを怒ると思ったから内緒で魔導書を探したのだ。
「お父様は勇者のために『生きろ』と言ったんだ。簡単に命を投げ出して満足するつもりかい」
「これは最後の切り札だ。手数は多い方がいい」
メガンテの契約が記された魔導書は貴重なものだ。せっかくギュータに来たのだから手に入れておきたかった。
「その慢心が判断を鈍らせる」
「ヘマはしねえ」
カノンはまだ何か言いたそうだったが、それを飲み込んだように顔を厳しくさせた。そして忌々しそうにマトリフを見る。
「厄介な生き物だよ。勇者も魔法使いも」
「よせよ。師匠が聞いてたら怒られちまう」
「あんたはあの世でずっとお父様に叱られるんだ。覚悟するんだね」
カノンは踵を返して書斎から出ていった。どうやら見逃してくれたらしい。
カノンが命を終わりまで勇者のために使っていたのだと知ったのは、その命が終わってからだった。どっちが厄介なのだとマトリフは思う。カノンは正しくバルゴートの教えを守ったのだ。勇者のために生きろという師匠の言葉通りに生きた。
マトリフは魔導書を開くと地面に魔法陣を描いた。呪文の契約は久々だ。今の自分が精霊に嫌われないかと気にかかる。契約できない呪文では使いようがない。
マトリフは法衣を脱ぐと魔法陣の上に立った。それだけで神聖な空気が体を包む。すると光のきらめきのような精霊の囁きが聞こえてきた。マトリフはその声に耳を澄ませる。
精霊はマトリフにこの呪文を使う覚悟があるのかと問いかけてきた。
「当たり前だろ」
マトリフは即答した。声に出さずとも、精霊には伝わる。だが自分の覚悟を確かめたくてマトリフは呟いた。
「オレは勇者の魔法使いなんだ。この命の最後まで勇者のために生きる」
すると精霊の声が止んだ。まばゆい光が体に吸い込まれていく。それが契約完了の合図だった。
マトリフは息をつくと己の手を見た。呪文は契約できたが、果たしてこの命で勇者を守れるだろうか。自問の答えは出ない。残り少ない命ならいくらでもくれてやる。だが無駄死にでは駄目なのだ。
すると背後に人の気配を感じた。振り返るとアバンが立っていた。その表情に、少しの気恥ずかしさが見て取れる。どうやら居眠りを恥じているらしい。
その姿を見ていると、勇者だとか魔法使いだなんてことを忘れてしまう。
マトリフはただ、アバンを守ってやりたかった。
師匠の教えや、己が感じた使命など建前だった。マトリフ自身が、そうしたいと思っている。まだあどけない顔で眠るこの少年が、未来を生きられるようにしてやりたかった。