今日ではない いつか死ぬ日がくる。だが今日ではない。
マトリフは長く生きた。並の人間より長く、己の師よりも長く生きた。
年齢で考えればいつ死んでもおかしくないほどだった。明日の朝に目覚めなかったとしても、次の瞬間に呼吸が止まったとしても、誰もが長く生きたと言うほどの年月だった。
いつか死ぬ。それは避けられない運命だ。だがしかし、それは今日ではないのだ。
海辺の洞窟はお世辞にも住み心地がいいとは言えない。穏やかな気候ではあるものの、海が荒れることもある。潮風は金属を腐食するし、身体を冷やす。そんな洞窟の奥深くの寝室の、ベッドの上に、少年が眠っていた。
少年はベッドに寝転んでだらしなく口を開けて寝ている。少年の名はポップといった。マトリフにとって最初で最後の弟子である。そのポップはいつの間にここへ来たのか、勝手に洞窟に入り込み、ベッドまで占領している。
マトリフはベッドの傍に置いた椅子に腰を下ろした。ポップはマトリフが帰ってきたことにも気づかずに、くうくうと寝息を立てて眠っている。その寝顔のなんと可愛いことか。
マトリフは釣ってきた魚を捌くのも忘れて、眠っているポップを見つめていた。幸せな夢でも見ているのだろう。ポップの表情はふやけていた。
ポップは髪質以外は母親似だという。今は閉じてしまっている目も、母親とそっくりらしい。まだ少年から抜けきらない年頃であるし、愛嬌のある顔をしているからか、ポップには男臭さがない。本人は気にしているかもしれないが、その子どもっぽい雰囲気は、ずっと長く生きたマトリフにとっては可愛さとしか映らなかった。
マトリフはこの弟子が可愛くて仕方がなかった。無論そんなことを言葉にすることは無かったのだが、内心では目に入れても痛くないと思えるほどに可愛いく思っていた。
その弟子がアホ面を晒して寝こけている。そんな今日が己の寿命の尽きる日であるはずがない。そんな根拠のない思いがマトリフの胸を満たしていた。
マトリフはそっとポップの頭に手を伸ばす。いい加減に起きろと揺するつもりが、年老いた手は少年の頭を撫でていた。癖の強い髪はいくら混ぜ返しても、変わらずにぴょこんと跳ねる。その手触りが面白かった。
ポップはまるで暖かな陽射しのように周りに暖かさをもたらしていく。そのぬくみが老いた胸までも暖かくした。すると消えようとしていた命の灯火までもが、揺らぎながらも勢いを強くする。まだ生きたいと思わせるのだ。
こりゃあ一種の健康法だな、とマトリフは胸の内で呟く。
マトリフはまだ起きる気配のないポップの頭をわしゃわしゃと撫で続けた。
***
海に浮かぶ舟は小さく揺れていた。不安定でありながら、どこか心地よい。ポップは小舟に座って釣り糸を垂れていた。
小舟は二人で座るにはちょうど良い。ポップはマトリフと背を合わせて座っていた。マトリフはさっきから黙り込んでいる。不機嫌でないことは短くない付き合いからわかっていた。
ポップは水面を見る。大渦から離れているので波は穏やかだ。だが魚は一向に釣れない。それはマトリフも同じようで、もう何時間も釣れないまま時間だけが過ぎていた。
「なあ師匠」
ついに沈黙に耐えきれなくなってポップが口を開いた。
「こりゃあ我慢比べなのかよ」
ポップは釣り竿を上げる。針の餌はなくなっていた。ポップは口を曲げると針に餌を付け直していく。
「これも修行のうちだ」
「師匠も釣れてねえじゃん」
「魚も腹が減ってねぇんだろ」
合わせた背が僅かに揺れた。マトリフは欠伸をしているらしい。全然集中してねえじゃねえかと思うものの、ポップの口にも欠伸がうつっていた。大きく口を開ければ、目尻に涙が滲んだ。
昼過ぎの暖かな陽射しは穏やかだ。ゆっくりと時間が流れていく。
「なあ師匠」
「なんだよ」
「釣れなかったら晩飯は何食うの?」
「酒飲んで寝るだけだ」
ぶっきらぼうな言葉にポップは苦笑する。背伸びをしようと腕を天に向けて伸ばした。身体がマトリフの背にのしかかる。
「重いんだよ」
「最近背が伸びたって言われたんだよな」
「どこがだよ。このあいだダイに背を抜かれたって騒いでたじゃねえか」
ポップは痛いところを突かれて顔を歪める。ポップは中腰になるとマトリフの隣まで移動した。舟が左右に大きく揺れる。
「狭いとこでジタバタすんな」
「おれだって成長してんだけどな」
「へーへー、よかったよかった」
まったく気のない言い方をするマトリフに、ポップは口を尖らせた。そのまま頭をマトリフの肩へと乗せる。
「なあ師匠」
「ったく煩え奴だな」
「オレの背が伸びきるまでちゃんと見ててくれよ」
「はあ? なんだそりゃ」
「……だから長生きしてくれよ」
「ばぁか。充分に長生きしただろうが」
マトリフの指がポップの額を弾いた。ぱちんと小気味良い音がする。
「痛ぇっ!」
ポップは思わず額を押さえた。その威力に百に近い齢は感じられない。
「いつまで甘えてんだよオメーは」
「痛てぇよ師匠」
「いつまでも手のかかる弟子だぜ」
マトリフは竿から手を離した。そのままごろりと寝転がって目を閉じる。舟は揺れたが、すぐにおさまった。
「ちゃんと晩飯を釣っとけよ」
「ええ、おれ一人で?」
「オレは長生きするために昼寝する」
「昼寝がどう関係すんだよ……」
二人を乗せた小舟は揺蕩う。今日はやけに時間の流れが緩りとしていた。弟子はちらりと師匠を見遣り、師匠はその視線を感じて片目を開けた。
「心配すんな。お前が大人になるくらいまでなら、見ててやる」
「じゃあおれがジジイになるまで見てて」
「馬鹿言ってんじゃねえよ」
今度こそ本気で寝るつもりなのか、マトリフはまた欠伸をすると目を閉じてしまった。
生温い風が吹く。ポップのバンダナがそれに吹かれて揺れていた。