1351年にも瘴奸がいて良かった〜2 蟻柄のふざけた直垂が赤く染まっていた。政長は思わず弓を手放して崩折れそうになる瘴奸の体を支えた。
「賊は林の方に逃げて行きました。深追いはせずに守備を固めてください」
瘴奸は荒い息を吐きながら言う。腕は腹を押さえているが、血は流れ続けていた。
「もういい、喋るでない!」
政長はゆっくりと瘴奸を横たえると、己の直垂の袖を破いて瘴奸の腹に当てた。それもすぐに赤く染まってゆく。倒れた瘴奸を見て兵が集まってくるが、瘴奸はそれを追い払うように守りにつけと声を張り上げた。
賊の侵入は瘴奸の予想通りであった。しかし風間玄蕃の見たこともない術に翻弄され、多くの兵糧を失ってしまった。なんとか賊を追い払うために瘴奸は政長の側を離れたが、戻ってきた瘴奸は深い傷を負っていた。
「面倒な場所を刺されよって。新三郎!新三郎はどこだ!」
風間玄蕃と彼の率いる者たちは、武士のものではない戦い方をした。それは政長たちを混乱させるのに充分な威力を発揮したが、逆を言えば瘴奸のような手練れの武士に太刀打ちできる戦力は無かった筈である。
すると瘴奸が血濡れの手で政長の手を止めた。
「もうよいのです」
「何がだ」
「この傷では助かりますまい」
瘴奸は憑き物の落ちたような顔をしていた。すると一人の郎党がやってきて、毛皮を瘴奸にかけた。それは瘴奸がいつも着ているものだった。
「……なんで避けなかったんすか」
郎党の言葉に、瘴奸は答えずに天を見ていた。白み始めた空には薄い月が浮かんでいる。
何の話だと政長は郎党を見た。するとその郎党は、瘴奸がわざと刺されたのだと言った。
風間玄蕃が率いていたのは、中山庄の孤児だという。そしてその中山庄は、瘴奸が最後に掠奪を働いた地であった。
その事に気付いた孤児がいた。そして瘴奸に問いただした。なぜ中山庄を襲ったのかと。
奪うことが楽しかったからだと瘴奸は答えた。
孤児は落ちていた太刀を拾って瘴奸に斬りかり、充分に避けられたはずのそれを、瘴奸は避けなかった。
「馬鹿者が!」
瘴奸は遠い目をしていて、政長の声を聞いていないようだった。政長は急に恐れを感じて瘴奸を揺さぶった。
「勝手に死ぬでない!許さぬぞ!」
するとようやく瘴奸が政長を見た。
「……もうよいのです。あなたは立派になられた。私の役目も終わりでしょう……きっと大殿も私を褒めてくださる」
「私の弓を認めぬのではなかったのか、父上には遠く及ばぬのだろう!」
すると瘴奸は政長に向かって手を伸ばした。その指が頬に触れる。
「……私は、はじめからあなたを能力を評価していたのですよ」
瘴奸が笑ったように見えた。これまでにない、穏やかな笑みだった。
政長は瘴奸の手を取ろうとしたが、その前に瘴奸の手は力を無くして落ちた。
夜が明けて朝がはじまろうとしている。瘴奸の瞳は明るい空を見つめていた。
「何が私の役目は終わりでしょう、だ……」
政長は苛立ちのまま矢を放った。矢は風を切りながら走り、的を粉砕した。父貞宗から引き継いだ四人張りの威力に、見ていた瘴奸は感嘆の声を上げた。
「見事ですな、政長殿」
だらしなく寝転んだ瘴奸に、政長は小さな目を向ける。その射殺さんばかりの迫力に、瘴奸は肩をすくめて手で腹を押さえた。
「まだ傷が……」
「もうその手には乗らぬからな!」
えぇ、と不満そうな声を上げる瘴奸は、直垂に片手を突っ込んでいる。深いかと思った傷は浅く、瘴奸はピンピンしていた。瘡蓋になった傷口が痒いらしく、音を立てて腹を掻いている。その瘴奸の様子に、政長は本気で殴りそうになった。
するとやって来る入道があった。その入道は袈裟を払うと、瘴奸を蹴飛ばした。
「経を上げてやろうと来たのに、生きているではないか」
出家して頭を丸めた常興に、瘴奸は負けじと言い返した。
「あなたに上げて貰わずとも、経なら自分で読めますので」
「お前が読経する姿など見たことがないわ」
寝そべるな、だらしない!と常興の厳しい言葉が響く。瘴奸は煩そうに耳を塞いでいた。そこへ声を聞きつけてやって来た新三郎も加わり、誰が持ち込んだのか酒を飲み始めてしまった。
その騒がしい様子に政長は小さな目を細める。そして息をついて天を仰いだ。
見ていますか、父上。小笠原は今日も平和です。