プロポーズ マトリフは口付けられた手を呆気に取られて見ていた。ガンガディアは恭しく膝をつき、マトリフの手の甲に口付けている。
「おまッ……なにやってんだ」
マトリフは焦ってる手を引くが、ガンガディアの力には敵わないので失敗に終わる。ガンガディアはマトリフの手から唇を離すと顔を上げた。
「あなたに愛を誓っている」
「だからなんで……おまっ、それ、プププ」
「プププ?」
「まさかプロポーズじゃねえだろうな?」
マトリフの声は裏返っていた。ガンガディアは魔王軍の幹部であり、マトリフにとっては敵だ。地底魔城の闘技場で戦っていた二人だが、先ほど勝敗が決まった。勝ったのはマトリフだ。するとガンガディアは負けを認めた上で、マトリフの前に跪き、手を取って口付けた。
「勝負は私の負けだ。ということは私はあなたのものだ。一生の愛をあなたに誓う」
「意味わかんねえこと言ってんじゃねえよ。お前らには負けたら勝った相手にプロポーズするって習わしでもあんのかよ」
まさか、という気持ちでマトリフは言ったが、ガンガディアは当然だというふうに頷いた。
「その通りだ」
「そんなつもりでお前に勝ったわけじゃねえよ!」
マトリフの叫びは闘技場に響くがガンガディアには聞き入れられなかった。ガンガディアは意気揚々とマトリフを抱き上げる。
「さっそくハドラー様に報告に行かなくては」
「は!? 待てよ、もしアバンが脳筋魔王に勝ってたらどうなんだよ」
「もちろんハドラー様が勇者にプロポーズしているだろうね」
嘘だろ、とマトリフは呟く。
ガンガディアに抱えられたマトリフがハドラーのプロポーズを見て爆笑したのはすぐ後のことだった。
***
静かな夜だった。風が緩やかに吹いていて、波も穏やかだ。
マトリフは洞窟の外の、小高い岩の上に腰掛けていた。ちょうど月が満ちる頃で、酒でも飲みながら眺めようと出てきた。
マトリフは手酌で小さな杯に酒を注ぐ。いつも飲む酒とは違う白く濁った酒だった。それを舐めるように飲みながら、マトリフは月ではなく隣にいるガンガディアを見ていた。
ガンガディアはじっと空を見上げている。手には天文学の本が広げられていた。マトリフが月を見ると言ったら、では一緒にと言ってついてきた。それでいて一緒に酒を飲むでもなく、本を片手に空ばかり見上げている。
ガンガディアがマトリフにプロポーズしてから十数年が経つ。だが二人は人間で言うところの恋愛関係ではなかった。
魔族には人間には理解の及ばない習わしがある。それが戦いの後のプロポーズだった。負けた方が勝った方に永遠の愛を誓う。だがそれは、恋愛というよりも主従関係に近いとマトリフは思っていた。
プロポーズしてからというもの、ガンガディアはマトリフに尽くしている。マトリフの生活を補助し、様々なことに気を配っていた。それが愛なのだとガンガディアは言う。人間もそのような献身的な行為を愛と呼ぶが、やはりどこか人間が言う愛とは異なっていた。
だが、そうして十数年を一緒に過ごすうちに、マトリフはガンガディアに情を持ってしまった。そしてその感情を持て余している。ガンガディアからはマトリフが望むような気持ちは返ってこないとわかっているからだ。
マトリフは杯を傾ける。こんなことなら声もかけずに一人で飲めばよかった。たとえ一緒にいても、同じ月を見ていても、ガンガディアとマトリフの考えることは違う。マトリフは杯を乾かして息をついた。
「……月がきれいだな」
この思いは伝わらなくていい。そう思って遠回しに思いを乗せた言葉を、意外にもガンガディアは聞き逃さなかった。
「私もあなたと見る月を美しいと思う」
月を見上げたままガンガディアは言う。その言葉の意味をはかりかねて、マトリフは空になった杯を見つめた。
***
ガンガディアのプロポーズを徹底的に断ったマトリフだが、ガンガディアはそんなことは気にもしていなかった。
「ついてくるな」
マトリフは後ろを歩くガンガディアに言う。しかしガンガディアは立ち止まりもせずついてくる。
「何故?」
「なぜじゃねえよ。断っただろうが」
「あなたは不思議な人だ。そんな所にも強く惹かれる」
勝手にうっとりとなっているガンガディアにマトリフは舌打ちする。全然不思議ではないからだ。誰だってさっきまで殺し合っていた相手に突然プロポーズされれば拒否するだろう。だがそうマトリフが言ったら、ガンガディアは首を傾げながら言った。
「勇者はハドラー様のプロポーズを受けたが?」
こともあろうかアバンは魔王のプロポーズに頷いたのだ。私の言葉は絶対ですよ、もう二度と世界征服なんて言い出さないでくださいね、と笑顔で言いながら。
「そんなに私のことが嫌いかね?」
ガンガディアの気落ちした声にマトリフは足を止める。
「そういうんじゃねえよ」
「ではプロポーズを受けてくれ」
「そうはならねえんだって!」
その二択しかねえのかよ、とマトリフは頭を抱える。だいたい戦って負けたらプロポーズなんて習わしがあったら、魔界なんてカップルだらけになるだろう。
そこでマトリフはあることに気付いた。
「待てよ、そういやお前って負けたのは初めてなのか?」
「いいや。ハドラー様に負けている」
「は? でもハドラーにはプロポーズしてねえんだろ?」
「いいや。している」
「はあ!?」
マトリフは思ってもみない返答に素っ頓狂な声を上げた。
「てめえ浮気かよ!?」
「浮気ではない」
「先にハドラーとくっついてんなら、オレとの関係は……不倫……いや、そしたらオレが間男ってことか?」
「落ち着いてくれ」
「ちょっと待てよ。オレとハドラーが穴兄弟ってことに……いや……ヤッてねえし! 違うからな!」
焦りながら捲し立てるマトリフをガンガディアは手を上げて制す。
「……勘違いしないでもらいたいのだが、私たちの愛の誓いは人間のそれとは違う。人間は愛を誓った相手とのみ繁殖行動を行うが、魔族にはそんな風習はない。魔族は愛を誓った相手を繁殖相手にはしないものだ」
マトリフはガンガディアの言葉に一旦冷静になった。とりあえず最悪の事態は避けられたようだ。
どうやら魔族の愛の誓いはマトリフが考えていたものとは随分と違うようだ。人間の恋人や夫婦のような関係を想像していたマトリフは肩透かしをくらう。
「そんならいいんだけどよ」
「ではプロポーズを受けてくれるかね」
「そうは言ってねえよ」
マトリフは言いながら山小屋が見えたことに気付いた。戸口に立つと解錠の呪文を唱える。
「ここは?」
ガンガディアは小屋を眺めながら言う。
「オレの家だよ。魔王軍討伐の旅は帰るまでが旅なんだよ」
マトリフは小屋の中に入りながらマントを脱ぐ。そして外に立ったままのガンガディアを振り返った。
「……まあ入れよ。茶くらいは出してやる」
「お邪魔する」
ガンガディアは小さくお辞儀してからマトリフの家へと入っていった。
***
マトリフはわかりやすくムスッと不機嫌な顔をして頬杖をついていた。広いテーブルには紅茶が置かれてある。
マトリフは地底魔城にいた。アバンがハドラーに勝ってから魔王軍は解散となり、今ではハドラーと少数の部下のみが暮らしている。
「ケーキもどうぞ」
アバンはエプロンをつけたままマトリフの前にケーキを置いた。アバンはときおり地底魔城へと訪れており、今日はそれにマトリフも同行していた。
マトリフは添えられたフォークを手に取ってテーブルの端に座る人物に目を向ける。
「あいつはいいのか?」
マトリフは持ったフォークをその人物に向ける。この城の城主、そして元魔王のハドラーが目を吊り上げてマトリフを睨んだ。
「黙れ老ぼれ」
ハドラーの前には紅茶もケーキもない。その割には律儀にテーブルの前に座っていた。
「お仕置き中なんですよ。故意にお皿を何枚も割ってしまって」
「オレは悪くない!」
「少し反省をしてもらおうと思って」
その二人の様子はまるで親と幼児のようだった。これじゃ参考にならねえとマトリフは思う。
マトリフはガンガディアとの関係に悩んでいた。魔族と人間の風習はあまりにも違う。共に生活していくうちにその違いを大きく感じるようになっていた。それで参考にしようとアバンとハドラーの様子を見にきたが、全く参考にならない。
「よかったらこれを読みますか?」
不貞腐れるマトリフにアバンは一冊の本を差し出した。
「なんだこれ」
「魔族の風習に関する本ですよ。祖父の書斎にありました」
マトリフは受け取った本をさっそく開いてみる。目次にさっと目を通すと、そこにはマトリフが知りたかった項目が並んでいた。マトリフは一番気になっていることを調べるためにページを捲る。それはあの愛の誓いについて書かれたところだ。
そこに書いてあったことはガンガディアから聞いたことと殆ど同じだった。だが読み進めていくとマトリフが知りたかったことが書いてあった。
愛の誓いは勝負に負けた方が勝った方に行う。しかし、誓いの後に別の人物と勝負をして負けて、新たに愛の誓いを行ったのなら、先に立てた誓いは無効になるという。つまりガンガディアは過去にハドラーに愛の誓いを立てたが、マトリフに負けて愛の誓いを立てたのでハドラーとの愛の誓いは解消されたということらしい。
マトリフは本から顔を上げると音もなく息をついた。マトリフはガンガディアがハドラーに愛の誓いを行ったことを気にしていた。しかしガンガディアに詳しく訊くこともできずに悶々としていた。
「よかったですね」
アバンはマトリフににっこりと笑いかける。マトリフが読んでいた箇所をアバンは見たようだ。マトリフは気のない風を装って肩をすくめる。
「オレはややこしい関係は嫌だっただけだ」
「略奪愛ですね」
アバンは眼鏡を光らせながら言う。マトリフは飲んでいた紅茶で咽せた。
「お前までそんなこと言うのか!?」
「冗談ですよ」
アバンはからからと笑いながらマトリフの肩を叩く。するとハドラーが鼻で笑った。
「なんだ、貴様そんなことを気にしていたのか」
ハドラーは呆れたように言う。アバンとマトリフの会話からマトリフの懸念を察したらしい。ハドラーは意地悪く笑うとマトリフを見た。
「オレからガンガディアを奪っておきながら腑抜けた奴だ」
「そんなつもりはねえよ」
「ではオレがまたガンガディアを負かしてオレのものにしてやろう」
「はあ!?」
マトリフは勢いよく立ち上がった。ハドラーは余裕ぶった顔でマトリフをせせら笑う。
「愛の誓いで得た者を他者に奪われないように守るのも、誓いを受けた者の役目だ」
「オレは誓いを断ったんだ!」
「ではオレがガンガディアをどうしようと構わないのだな」
ハドラーの言葉にマトリフはぐっと言葉を飲み込む。マトリフは手を握りしめて震わせた。
「……てめえに盗られるなんて髪の毛一本でも御免だぜ」
「ガンガディアのプロポーズを断ったのだろう」
「うるせえ! 断ってはねえよ。保留だ保留!」
マトリフはケーキを一口で食べて紅茶で流し込む。そして慌ただしく外に出るとルーラを唱えた。向かったのはもちろんガンガディアが待つ家だった。
***
夜明け前から雨が降っていた。その雨音で目覚めたマトリフは、ぼやけた視界に青色の巨躯を見る。窮屈そうに膝を折り曲げて座るガンガディアは、じっとマトリフを見ていた。
マトリフはその視線から逃れるように背を向けた。眠ろうと思ったものの目は冴えてしまった。
ガンガディアからのプロポーズをマトリフは断った。だがガンガディアは構わずマトリフの家までついてきた。どうせすぐに諦めるだろうと思ってマトリフはガンガディアを家へと入れたが、その結果がこれである。
ガンガディアはマトリフの身の回りの世話をすると言った。家に帰った翌日から、まずは掃除だと言って天井に蜘蛛の巣を払った。数年間を本に閉じ込められ、その後すぐに旅に出たマトリフの家は荒れていた。ガンガディアは窮屈そうにしながらも、少しずつ家の中を整えていった。
そのガンガディアをマトリフはベッドの上で酒を飲みながら見ていた。ガンガディアの働きは実に勤勉だった。おそらく魔王軍でもそうだったのだろう。そんなことしなくてもいいとマトリフは言ったが、ガンガディアは「これが勤めだ」と言って休みなく働いた。几帳面に整えらえていく部屋を見ながら、まあ悪くはないなとマトリフは思った。家事手伝いが来たと思えばいい。しかも本人が望んでいるのだ。やりたいようにやらせてみようとマトリフは思った。
だが数日経つとマトリフは嫌になった。ガンガディアの几帳面さが鬱陶しくなったのだ。ベッドのシーツはシワひとつなく整えられ、本は細かく分類されて本棚に並ぶ。床にはゴミ一つ落ちておらず、窓は透き通っていた。本来なら喜ぶべきなのだろうが、どうも居心地が悪い。さらには常にガンガディアが家にいるという状態に、緊張が緩まなかった。ガンガディアを家に入れたのは監視の目的もあったからだ。
今さら命を狙われるとは思っていない。しかし、その大きな手に胴体を殴りつけられ骨が折れた音をまだ忘れたわけではなかった。
マトリフはまた寝返りを打った。やはりガンガディアはじっとマトリフを見ている。ガンガディアはさほど睡眠を必要としないらしく、夜の時間の殆どを何もせずに過ごしていた。
「眠れないのかね」
ガンガディアの言葉にマトリフは答えずにベッドから出た。そのままドアを開けて外に出る。
湿気を含んだむっとする空気が漂っていた。暗い空から銀糸のような雨が落ちてくる。
「濡れてしまう」
ガンガディアがマントを持って背後に立った。マトリフに雨が当たらないようにマントをかざしている。そのガンガディアは雨に濡れていた。
「お前、いつまでここにいるつもりだよ」
微かに胸に燻る苛立ちのままマトリフは言った。
「ずっとだ」
「ずっとなんてオレは嫌だぜ。息苦しいったらない。雨に濡れても外に出たくなる」
マトリフの言葉にガンガディアは考え込んだが、やがてひとつ頷いた。
「私が外に出よう」
「そのまま帰れよ。魔界かどこか知らねえけど」
「それは出来ない。あなたの側にいる」
「鬱陶しいって言ってんだよ」
「だから私は外へ出ている。あなたは部屋の中へ戻るといい」
「ならずっと家の外にいろよ」
「それは命令かね」
「は?」
マトリフは予想外な言葉にガンガディアを見返す。ガンガディアは至極真面目な顔で言った。
「あなたの命令なら従う」
「なんだよ命令って。オレが命令すりゃあ何でも聞くのかよ」
「ああ。私はあなたに愛を誓った。命令があれば言ってくれ」
マトリフは自分でも理由のわからない衝撃を受けていた。ガンガディアがマトリフについてきたのは、ガンガディアの意思だと思っていたからだ。しかしガンガディアは、そうするのが当然であるから実行しているに過ぎない。戦いに負けて愛の誓いをしたのはそれが習わしであるからで、マトリフに尽くすのはそれが愛の誓いをした者の勤めであるからだ。マトリフの言う事を聞くのも、それが命令だからで、そこにガンガディアの意思は存在しない。
マトリフは踵を返して家に戻るとドアを閉めた。雨の音が強くなった気がした。そのままベッドに戻って寝転がる。ガンガディアは家の中には戻ってこなかった。
昼頃になってマトリフは目が覚めた。家の中にガンガディアはいない。これで諦めただろうと思って欠伸をする。まだ外は雨が降っているらしい。その様子を見ようと窓を覗く。すると外にガンガディアが立っているのが見えた。
マトリフは怒りすら感じて外を出た。ガンガディアはずぶ濡れになっている。近くには雨除けになりそうな大木すらあるのに、ガンガディアは家のすぐ側に佇んでいる。マトリフはガンガディアを睨み上げた。
「てめえいい加減にしろ!」
「何のことかね」
「さっさとどこか行っちまえ! オレにつきまとうな!」
「それはあなたの命令でも聞けない。側を離れてはあなたに尽くせない」
「命令命令って、それがお前らの言う愛かよ。そんなもんオレに押し付けるんじゃねえ!」
マトリフの怒鳴り声が響く。しかしガンガディアは困ったように表情を曇らせながら頭を下げた。
「すまない。私にはこのやり方しかわからない。あなたの命令なら何でも聞く。遠慮せず言ってくれないか」
ガンガディアにはマトリフの怒りが伝わっていない。なぜ怒っているかもわからないのだろう。わからなくて当然だ。マトリフは人間で、ガンガディアは魔物だ。風習も考え方も何もかも異なる。人間の愛をガンガディアに求めること自体が間違っていたのだ。
「……とにかく家に入れよ。風邪でも引いたらどうするんだ」
ガンガディアとは敵対しながらも、どこか解り合えるような気がしていた。同じ種族の人間にすら嫌われたマトリフを、ガンガディアは尊敬すると言ってくれた。それが嬉しくなかったと言えば嘘になる。勝手にガンガディアに期待したのだとマトリフは自嘲した。
「私は人間のようにひ弱ではない」
「いいから入れって」
マトリフは濡れた髪をかき上げる。歩み寄るには遠過ぎる距離だ。だがせめて、それを一歩でも縮めたかった。
***
どうせ自分は愛されない存在なのだと諦めて生きてきた。向けられるのは好意ではなく嫌悪や憎しみで、それならばと自分だけの軟い気持ちは固く覆って人には見せないように生きてきた。
マトリフは湯気をあげる朝食を見つめる。人間用の食事まで器用に作るガンガディアは、毎朝律儀にマトリフの朝食を作っていた。そんなふうに誰かに世話をされることがどうも性に合わなくて、マトリフは毎朝その朝食を珍獣でも見るように眺めていた。
マトリフはガンガディアに視線をやる。ガンガディアは自分が食べる用の肉を焼いていた。それも本来なら生で食べられるのに、そのような姿は理性のない魔物のようでマトリフが見たら不快に思うだろうからと、わざわざ調理して食べていた。
マトリフはスープを掬う。食べやすいようにと細かく切り揃えられた数種類の野菜が見た目にも美しい。口をつければ手間を惜しまずに作られた味がした。
これほどの行為を愛が無くして行えるものだろうかとマトリフは考える。そもそも、人間と魔族では愛の定義が違うのだろうから、そんなことをいくら考えても無駄なのだろうが。
「そのスープは気に入ったかね?」
「ああ、うめぇよ」
「ハドラー様もそのスープが好きだった」
ハドラーの名前が出たことにマトリフは苛立ちを覚える。ガンガディアは全く悪気なく言ったのだろうが、マトリフは元からハドラーが気に入らなかったし、ガンガディアが過去にハドラーにプロポーズしたことがあると知ってからは更に嫌いになった。
「脳筋にこの味がわかるのかよ」
「ハドラー様のことを悪く言わないでくれ。私が思うに、あなたたちは似ているところがある」
マトリフは口に含んだスープを吹き出しそうになった。それを堪えたために咽せてしまう。咳き込み始めたマトリフに、ガンガディアは慌てたようにその背をさすった。
「大丈夫かね」
マトリフは涙が滲んだ目でガンガディアを睨め付ける。
「誰が誰に似てるって?」
不機嫌に震えた声でマトリフが言う。その迫力にガンガディアはむしろ喜んだように口角を上げた。
「すぐに不機嫌になるところなど、そっくりだよ」
言われてしまってマトリフは言葉に詰まる。ここで言い返せばまた似てると言われてしまいそうだった。
そこでふと、マトリフはあることに思い至る。
ガンガディアがマトリフを尊敬してると言ったのは、マトリフがハドラーに似ていると思ったからなのだろうかと。
「どうかしたのかね?」
ガンガディアが心配そうにマトリフの顔を覗き込んでくる。だがそれさえも、ハドラーにも同じように接してきたのかと思うと、不快さが腹の底から湧き上がってきた。
「なんでもねえ」
マトリフはガンガディアを手で押した。力で敵うはずがないが、ガンガディアは押されるままに身体をどけた。
「マトリフ?」
「出かけてくる」
マトリフはそのまま家を出た。ガンガディアが追ってこないうちにルーラを唱える。
マトリフが向かったのはアバンの家だった。ジュニュアール家は相変わらず手入れが行き届いているのが外から見ても明らかだった。
アバンとマトリフは同じ立場にある。アバンもハドラーに勝ち、そのプロポーズを受け入れた。アバンならマトリフの気持ちがわかるだろう。魔族と人間の愛の違いに、アバンも戸惑っているかもしれない。
「あいつの部屋は……」
マトリフは呪文で浮かび上がる。魔法使いの悪い癖で、つい窓の外から入ろうとしてしまった。
「……は?」
アバンの部屋を外から覗き込んだマトリフは思わず声を上げて、咄嗟に口を塞ぎ、窓から遠ざかった。薄暗い部屋の中で、ベッドの上で、二つの身体が重なり合っているのが見えたからだ。
マトリフは自分が見たものが信じられずに困惑する。覆い被さっていたのは魔族で、銀の長髪だった。そして空色の髪の、まさしくアバンと同じ色の髪の男が組み敷かれていた。
まさかハドラーの野郎がアバンを無理矢理に手籠にしやがったのかと思ったが、薄らと聞こえてくるアバンの声は行為を喜んでいるようだった。
マトリフはそのまま屋根まで飛び上がると座り込んだ。
魔族の愛は人間と違う。魔族は愛を誓った相手を繁殖相手にはしない。ガンガディアはそう言ったのだ。だがアバンとハドラーはああやって抱き合っている。
じゃあオレたちはなんなんだよ、とマトリフは空を仰ぐ。
ガンガディアは単にマトリフをそういった対象として見ていないだけなのだろう。よく考えなくてもわかることだ。年寄りとやりたいなんて魔族だって思わないということだ。
マトリフは長い溜め息をついた。息と共に吐き出す感情の多さに嫌になる。
愛した相手から愛されないことが、これほど辛いと思わなかった。マトリフは遠くの山々を眺めながら、居場所のない気持ちをどうにか絞め殺す。
***
すっかり日が暮れてからマトリフは家へと帰ってきた。森の中に潜むようにぽつりとある家からは、炊事の煙が上がっている。
最初は家にガンガディアがいることさえ受け入れ難かった。だがいつの間にかガンガディアがそばにいることが当たり前になり、今だってその存在がそこにあることを疑いもしなかった。
胸の内に感じる温かさを意識して面映い。誰もいない暗い家に帰ることなんて想像できないほどだった。
それでもマトリフは今朝のことがあるから、何も言わずに扉を開けた。扉の内から流れてくる暖かな空気が頬に当たる。
「おかえり」
すぐにガンガディアの声が聞こえてきた。マトリフは後ろめたさを隠しつつ中へと入って後ろ手で扉を閉めた。
「何か食べるかね。ちょうど……」
ガンガディアは途中で言葉を止めると訝しげにマトリフを見た。その剣呑な目つきにマトリフは足を止める。まさか見抜かれるわけがないと思っていた。
「なんだよ」
マトリフは後ろ暗いものだから逃げるように視線を逸らす。そのままガンガディアを避けるように寝室へと行こうとしたが、ガンガディアの手がマトリフの胴体を掴んだ。
「うッ……おい、加減をしやがれ」
思わず呻いてからマトリフはガンガディアを見上げる。しかしガンガディアの表情にマトリフは思わず息を飲んだ。表情を翳らせたガンガディアがマトリフを見下ろしている。まるでガンガディアが知らない魔物のように見えて、本能的に身体が竦んだ。
「なん……だよ」
「あなたから別の人間の匂いがする」
マトリフは不貞を言い当てられて口元を歪めた。不満を発散させようと街をぶらつき、飲み屋で知り合った名前も知らない相手を宿へ連れ込んだ。そのことに罪悪感を感じたのは一瞬で、むしろ、その行動がいかに正当であるかを言いたいほどだった。
マトリフはガンガディアの手を拳で叩く。しかしそれはびくともしなかった。
「だったら何だよ」
「あなたは私のプロポーズを受けた。このような行いは私への裏切りだ」
ガンガディアの静かな怒りがひしひしと伝わってくる。しかしマトリフは腹を立てた。それがあまりにも自分勝手な言い分だからだ。
「お前が言ったんだろ。オレを繁殖相手にはしねえって」
ガンガディアはマトリフに負けて一生の愛を誓った。だが、マトリフを繁殖相手にはしないとも言った。もとより子供ができる相手ではないから、ただ性行為はしないと言われたのと同義だ。
マトリフだってガンガディアが相手をしていたらこんなことはしなかった。拒まれたマトリフの気持ちなどガンガディアはわかっていない。そして拒んだ以上はマトリフが誰と寝ようが口出しするなど不粋だった。
「ともかく、湯浴みをしてくれないか。そばにいるだけで不愉快だ」
ガンガディアに掴まれた身体が痛い。ガンガディアはよほど怒っているのか、顔に血管を浮かび上がらせていた。
「ふざけるな。オレが何しようとオレの勝手だ。指図してんじゃねえよ」
「私はあなたの伴侶だ」
「だから何だってんだ。手を離せよ」
ガンガディアは呻くのを堪えるように喉を鳴らしてから、マトリフを離した。マトリフは自由になった身体をさすりながら息をつく。身体は微かに震えていた。
「……ともかく湯浴みをしてくれ」
ガンガディアは背を向けたが、その怒りが収まっていないのは一目瞭然だった。マトリフはガンガディアの筋違いの怒りなど相手にする気はない。そのまま扉を開けて外へ出た。
「一人で喚いてろ」
マトリフはルーラで飛び立った。
あんな奴を好きになるんじゃなかったと思うが、簡単に嫌えるなら悩みもしなかった。単純だと言われようが、ガンガディアとの生活はすっかりマトリフに馴染んでいて、そんな生活の中でガンガディアに好意を抱くようになった。
だが、ガンガディアがマトリフに向ける愛と、マトリフがガンガディアに向けるそれは違う。それがたとえ種族による違いだとしても、それほどの違いを平気で受け入れることはできなかった。
マトリフは海辺に降り立つ。寄せては返す波がマトリフの靴を濡らした。
***
「ここにいたのかね」
音もなくそばに降り立ったガンガディアにマトリフは答えなかった。もうすぐ朝日が昇ろうとしている。夜の海風は頭を冷やすのには充分だった。
マトリフはガンガディアを横目で見ながら、まだ気持ちが揺れてしまうことに気づく。感情と思考を切り離すことの難しさに奥歯を噛み締めた。
「なんだよ。オレのそばにはいたくねえんだろ」
「そんな格好では身体を冷やす」
ガンガディアは自分のマントを外すとマトリフの身体を覆った。その温かさと匂いに安らぎを覚える。手はマントを握りしめて引き寄せていた。
ガンガディアの様子はいつもと変わらない。マトリフが頭を冷やしている間に、ガンガディアも落ち着きを取り戻したのだろう。
「あなたに謝りたい。暴力的な行いをしてすまなかった」
「それはもういい。オレも煽って悪かったよ」
飲み屋で行きずりの相手を見つけたのだって、ガンガディアへの当てつけのためだった。がっつくほどの歳でもないのに相手を探して、埋まるはずがない虚しさを満たそうとした。
「……オレとしたことが、だっせぇな」
マトリフにはこの感情が恋なのか執着なのかもわからなくなっていた。だがみっともない行いをしているのは確かだった。
マトリフはマントを掴んでいた手を離す。マントは肩を滑って落ちていった。
「マトリフ?」
「オレたちの関係を終わりにしないか」
大きな波が二人の足を濡らした。飛沫が散って朝日を受けてきらめく。
それはマトリフが夜通し海を見ながら考えていたことだった。今のままではお互いに窮屈だ。マトリフは同じような愛情が返ってこないことが辛いし、ガンガディアにとってもマトリフの行動は不可解だろう。
ガンガディアは眼鏡を押し上げるとぽつりと言った。
「関係の解消? そんなことはできない」
「なんならオレが誰かと戦って負けるとか、そういうやり方でもいい。オレたちはこういう関係じゃないほうがいいと思うんだ」
たとえプロポーズしていても、別の相手との勝負で勝敗がつけば以前の相手とのプロポーズは無効になるという。ガンガディアとの関係を終わらせるためにそういった小細工が必要なら、マトリフはやるつもりだった。
しかしガンガディアは拒絶するような冷たさで言った。
「あなたは私の伴侶だ。誰にも奪わせない」
「だから便宜上そうするだけであって……おめえだって、オレにいつまでも尽くすのは嫌だろう」
「嫌ではない。私はそれを望んでいる」
「だから、それはお前がオレに愛を誓ったからであって、お前が本来持ってる願望じゃねえだろ」
「それがどう違うのかね。私はあなたに負けて愛を誓った。だからあなたに尽くす。これは私の望みであり喜びだ」
「だからよ……」
どう説明すれば伝わるのだろうか。その言葉を探すことさえ虚しく思える。
朝日がゆっくりを顔を出して二人の後ろの影を長くしていく。マトリフはそれを視界に入れながら決定的な決別の言葉を発しようとした。だがそれより先にガンガディアが口を開く。
「実はあなたに謝ることがもう一つある」
ガンガディアの言葉がマトリフの別れの言葉を押しとどめた。
「謝ること?」
「あなたの家が……」
ガンガディアは珍しく言葉を濁した。指は眼鏡を押し上げたまま動かない。それが動揺を隠すための仕草であることはマトリフにはわかっていた。
「オレの家がどうしたってんだ」
「あなたが出ていった怒りで思わず家を壊してしまった」
「家を? 壊しただと!?」
思ってもみなかった発言にマトリフは目を剥く。ただの木造の家だから、ガンガディアの拳一つで簡単に壊れてしまうだろう。
「すまない。代わりの家を探す。地底魔城へ行けば私のかつての部屋があるから、ハドラー様に頼んで住まわせてもらうのはどうだろうか」
「嫌に決まってんだろ! あいつと同じ城になんて住めるか!」
「しかし住む場所がないと」
「だったらこの洞窟に住むほうが百億倍いいぜ」
マトリフはすぐそばにあった洞窟を指差す。そこは以前に使っていた洞窟で、パプニカ王から正式に譲り受けたものだ。
ガンガディアは洞窟の中を覗き込んでいる。
「少々狭いから後で広げることにしよう。では家にあった荷物をここへ運んでこないと」
「あっちにだって結構な量の本を置いてあったんだぜ。何往復すりゃいいんだ」
「心配せずとも私が全部運ぶよ。あなたは洞窟で休んでいてくれ」
それからガンガディアはマトリフに温かいお茶を淹れてからルーラで飛び立った。そして何回かに分けて荷物を運び込む。マトリフは椅子に深く腰掛けながらそのてきぱきとした動きを見ていた。
ガンガディアは数時間で荷物の移動を終わらせて、それを綺麗に洞窟の中へと収めていった。
「これでいいだろうかマトリフ」
「ああ、あんがとよ。あと、この洞窟では怒っても壁を殴るんじゃねえぞ。崩れて生き埋めだからな」
「そのときは私があなたを守るよ」
「怒んなきゃいいんだよ」
マトリフは大きなため息をついて椅子の背にもたれる。そして別れ話が有耶無耶になっていたことに気付いた。だが今もせっせと本棚を整頓しているガンガディアの背を見たらどうでもよくなってしまった。
「酒くれよ」
***
マトリフがガンガディアと共に過ごして十数年が経った。マトリフはふと考えることがある。ガンガディアと過ごした年月の中で、マトリフが享受したものと、諦めたものを天秤に乗せたら、どちらに傾くのかと。
マトリフがガンガディアとの関係で諦めたのは、いわゆる恋人としての触れ合いだった。手を繋いだり抱きしめあったり、もっと性的なことも含めて全て諦めた。それはマトリフからすれば大変なことだった。けれどもガンガディアが望まないのであれば、諦めるしかなかった。
代わりにマトリフは幸せな生活を得た。ガンガディアはマトリフによく尽くしてくれたし、魔法という共通する興味があるから話は尽きなかった。二人で様々な場所へ出かけ、多くの本を読み、時間を忘れて語り合った。魔法の実験をして、二人で一つのオリジナルスペルを作りあげた。それはマトリフの百に近い年月の中で、非常に穏やかで満ち足りた時間だった。
「お前ら意外と長続きしたな」
つまらなさそうに言われたが、マトリフはまるで気にしないというふうに茶を飲んだ。言った本人であるハドラーの方が、くだらないことを言ったとばかりに不機嫌そうに口を歪めている。
「お前らのとこもな」
マトリフに言われてハドラーは鼻で笑った。そして新鮮な野菜が山盛りになった籠を机へと置いた。地底魔城の闘技場だった場所は元魔王の家庭農園になっており、アバン指導のもと沢山の野菜が育てられている。そして収穫時期になるとお裾分けとしてマトリフたちの洞窟に届けられた。いつもはアバンが持ってくるが、今日は何を言われたのか元魔王様が直々に野菜を持ってきていた。
そして生憎ガンガディアは不在だった。仲の悪い二人が睨み合う。
「オレたちは最初から上手くいくとわかっておったわ」
ハドラーが偉そうに言うものだから今度はマトリフが鼻で笑った。いったいこの二人が何度喧嘩をしたのか数えてやろうかと思ったほどだ。だがその度に仲直りしたのも事実であるから、マトリフは何も言わないでおく。
「それ置いてさっさと帰れ」
「言われなくともそうする。ガンガディアに早く老ぼれと別れろと伝えておけ」
言い捨てて背を向けたハドラーにマトリフは中指を立てる。ガンガディアがマトリフと別れることなんて無いのだから、寝言は寝てからにしてもらいたい。
「残念だな。お前ら魔族の愛の誓いとやらのおかげで別れねえんだよ」
「そんなものをさっさと解消しろと言っておるのだ」
「……できるのか?」
マトリフは思わず訊ねていた。マトリフは魔族の愛の誓いは相当に固い誓いなのだと思っていたからだ。
「当たり前だろう。主が関係の解消を言えば成立する」
ハドラーはさも当然と言わんばかりに言った。それはマトリフが聞いていた話と違う。マトリフは一度ガンガディアに別れを切り出していた。だがガンガディアはそんなことはできないと言ったのだ。
「勝敗が決した時点で愛の誓い、さらに相手を解放するのが通常だ。いちいち愛の誓いなぞ受けていたら魔界はカップルだらけになると思わんのか」
思ったんだよ、とは言い返さず、マトリフはあの時のガンガディアのことを思い返した。ガンガディアは頑なにマトリフの別れ話を受け入れようとしなかった。それは普段の柔軟な聞き姿勢からはかけ離れていた。
「あいつはオレが別れるって言っても聞かなかったぞ」
ガンガディアは魔族の愛の誓いについて間違った認識をしていたのか。あるいは知っていたのか。マトリフはガンガディアの真意をはかりかねた。
それが表情に出ていたのか、ハドラーは苛立ったようにマトリフに言った。
「わからんのか。あいつはお前と一緒にいたいのだ」
「なんでだよ。あいつはオレに負けたからプロポーズして、仕方なくオレと一緒にいるんだ」
「本気でそう思っているのか。オレたち魔族に感情がないとでも?」
怒気を含んだ声にその場の空気が緊張したものになる。ハドラーは最近では珍しく本気で怒っているようだった。
「ガンガディアは元々感情の起伏が激しい。それを押さえ込む努力をしてきたのだ。今は抑えすぎているのだろう」
「何が言いたい」
「言わんとわからんのか。あいつを見ていれば、あいつが貴様にどんな気持ちを向けているかくらいわかるだろう」
「勝手言いやがって……気持ちなんざわからねえよ!」
「何を騒いでいるのかね」
その声にマトリフははっと戸口を見る。ガンガディアが姿を見せた。ハドラーが驚いていないということは、ガンガディアが帰っていたことに気付いていたのだろう。
「オレは帰る」
そのまま帰ろうとするハドラーのマントを踏みつける。しかしマトリフの足止めなんて足止めにならず、ハドラーはさっさと出て行こうとした。
「待てよハドラー」
マトリフは今この状況でガンガディアと二人きりになりたくなかった。ガンガディアがどこから聞いていたか知らないが、面倒になるのは明らかだった。
だがハドラーはにやりと笑って洞窟から出ていってしまった。マトリフはルーラの軌跡を恨めしく見る。
「マトリフ」
ガンガディアに呼ばれてマトリフは顔をしかめた。
「中で話そう」
「まさか最初から聞いてたなんてことはないよな?」
「盗み聞きするつもりではなかった。ただあなたとハドラー様の声が洞窟の外まで響いていたのだよ」
ガンガディアはマトリフの椅子を引くと座るように促した。そしてそのまま湯を沸かすと、いつも飲んでいる茶を淹れはじめた。漂ってくる香りはマトリフを少し落ち着かせる。
ガンガディアはマトリフの向かいに座るとカップを手渡した。そのカップを持っているだけで手のひらがじんわりと温まってくる。お互いにカップに口をつけたが、それは話し出す前の儀式のようだった。
「……さて、あなたは私に言いたいことがあるだろうか」
ガンガディアは落ち着き払っていた。どんな質問にでも答えるというような余裕さえある。いつかはこんな状況になるとわかっていたかのようだ。
「聞きてえとこは山ほどあるが」
マトリフはカップの中の茶を見つめる。透き通った琥珀色の、ほろ苦い茶は不安そうなマトリフの顔を映していた。
「オレが一番聞きたいのはよ、お前はオレを愛しているのかってことだ」
「勿論だ。あなたを愛している」
その眼差しの真摯さは、あのプロポーズのときからずっと変わらない。ガンガディアはずっとマトリフを愛している。だったら何故、と疑念は積み重なった。
「お前はこれまでにオレに嘘をついたか?」
マトリフはガンガディアの顔が見られなかった。見れば余計に冷静さを失ってしまう気がした。
「……いくつかの嘘があったことは認める。だがそれはあなたを失いたくなかったからだ」
ガンガディアは愛の誓いの解消が出来ないと言ったことを嘘だったと認めた。さらには過去にマトリフの家を壊したと言ったことも嘘だったらしい。マトリフに別れ話を切り出されて、引き止めるために嘘をついたという。地底魔城に住まないかと誘ったのも、いっそマトリフを閉じ込めてしまえばいいと思ったからだという。それは憧れと呼ぶには強すぎる感情のように思えた。
「それがお前の言う愛なのか」
ただの憧れならば、縛りつけるほどの執着など持たないはずだ。マトリフはその執着を愛と呼んでも構わない。むしろ、ガンガディアがマトリフに向ける執着を愛だと思いたかった。
マトリフはそっと顔を上げる。ガンガディアは怒っても悲しんでもいないようだった。
「私はあなたを愛している。一緒にいたいし、そばでずっとあなたを見ていたい。人間もこのような感情を愛と呼ぶのだろう?」
「見るだけでいいのか。喋ったり、一緒に飯を食ったりするだけで満足なのか。それだったらダチでもいいじゃねえか」
性行為の有無だけで愛情をはかれるとは思わない。だが、友人に向ける愛情と、恋人に向ける愛情はやはり違う。性行為はその線引きのようだとマトリフは思ってきた。
マトリフはこれまでガンガディアに性行為を望むことを匂わせてきたこともある。だがその度にガンガディアはやんわりとした嫌悪感を表してきた。
「……あなたがどうしても望むのなら、そういった行為をしてもいい」
その言葉にも薄っすらと拒否の気持ちが滲んでいる。胸がすっと冷えていくような感覚がして、マトリフは早くこの話を終わらせたくなった。
「そんなに嫌なんだな」
「私はあなたと低俗な行為で結びつく関係にはなりたくない」
「低俗な行為か……オレはその低俗な行為が好きだぜ。お前のことも好きだしよ。じゃあヤリてぇじゃねえか。そんなごちゃごちゃ考えることでもねえだろ」
盛るほどの歳でもないのに、愛されている確証が欲しくて行為を望んでいる。あと数日でも生きれれば御の字というほど生きたくせに、まだ愛されたいと思う。種族も違えば生きる年月も違う。だが一緒にいる今だけは自分だけを愛して欲しかった。
「抱けよ……お前の愛してるって言葉を信じさせてくれ」
「性行為なら愛など無くても出来る。そうではないのかね」
「ああくそっ……そりゃそうだけどよ」
マトリフは自分が何にそれほど拘っているのかわからなくなってきた。欲しいものはわかっているのに、それを無理に手に入れようとすれば、全てを台無しにしてしまう。
ガンガディアは立ち上がると、マトリフの前まで来て膝をついた。それでもまだマトリフが見上げるほどにガンガディアは大きい。
ガンガディアは恭しくマトリフの手を取った。その手の甲にそっと頬を寄せる。
「あなたを愛している。私たちがこれまで一緒に過ごした時間がその証明になることを願う」
いっそ神聖さを感じるほどの愛の誓いを、マトリフは素直に受け取れなかった。まるで自分が透明になって、言葉が通り抜けていくように感じる。
そこでマトリフはついに悟った。これは叶わぬ恋だったのだと。お互いに愛しているはずなのに、二人が噛み合うことは絶対にない。
「オレもお前を愛してる」
塵芥より軽い言葉で愛を囁く。お前にこの愛は届かない。せめて言葉くらいは愛を誓うその唇に触れたかった。
マトリフはガンガディアの手を取る。その手の甲に口付けを落として、誰にでもなく誓いを立てる。この愛は永遠だ。