プロポーズ マトリフは口付けられた手を呆気に取られて見ていた。ガンガディアは恭しく膝をつき、マトリフの手の甲に口付けている。
「おまッ……なにやってんだ」
マトリフは焦ってる手を引くが、ガンガディアの力には敵わないので失敗に終わる。ガンガディアはマトリフの手から唇を離すと顔を上げた。
「あなたに愛を誓っている」
「だからなんで……おまっ、それ、プププ」
「プププ?」
「まさかプロポーズじゃねえだろうな?」
マトリフの声は裏返っていた。ガンガディアは魔王軍の幹部であり、マトリフにとっては敵だ。地底魔城の闘技場で戦っていた二人だが、先ほど勝敗が決まった。勝ったのはマトリフだ。するとガンガディアは負けを認めた上で、マトリフの前に跪き、手を取って口付けた。
「勝負は私の負けだ。ということは私はあなたのものだ。一生の愛をあなたに誓う」
「意味わかんねえこと言ってんじゃねえよ。お前らには負けたら勝った相手にプロポーズするって習わしでもあんのかよ」
まさか、という気持ちでマトリフは言ったが、ガンガディアは当然だというふうに頷いた。
「その通りだ」
「そんなつもりでお前に勝ったわけじゃねえよ!」
マトリフの叫びは闘技場に響くがガンガディアには聞き入れられなかった。ガンガディアは意気揚々とマトリフを抱き上げる。
「さっそくハドラー様に報告に行かなくては」
「は!? 待てよ、もしアバンが脳筋魔王に勝ってたらどうなんだよ」
「もちろんハドラー様が勇者にプロポーズしているだろうね」
嘘だろ、とマトリフは呟く。
ガンガディアに抱えられたマトリフがハドラーのプロポーズを見て爆笑したのはすぐ後のことだった。
***
静かな夜だった。風が緩やかに吹いていて、波も穏やかだ。
マトリフは洞窟の外の、小高い岩の上に腰掛けていた。ちょうど月が満ちる頃で、酒でも飲みながら眺めようと出てきた。
マトリフは手酌で小さな杯に酒を注ぐ。いつも飲む酒とは違う白く濁った酒だった。それを舐めるように飲みながら、マトリフは月ではなく隣にいるガンガディアを見ていた。
ガンガディアはじっと空を見上げている。手には天文学の本が広げられていた。マトリフが月を見ると言ったら、では一緒にと言ってついてきた。それでいて一緒に酒を飲むでもなく、本を片手に空ばかり見上げている。
ガンガディアがマトリフにプロポーズしてから十数年が経つ。だが二人は人間で言うところの恋愛関係ではなかった。
魔族には人間には理解の及ばない習わしがある。それが戦いの後のプロポーズだった。負けた方が勝った方に永遠の愛を誓う。だがそれは、恋愛というよりも主従関係に近いとマトリフは思っていた。
プロポーズしてからというもの、ガンガディアはマトリフに尽くしている。マトリフの生活を補助し、様々なことに気を配っていた。それが愛なのだとガンガディアは言う。人間もそのような献身的な行為を愛と呼ぶが、やはりどこか人間が言う愛とは異なっていた。
だが、そうして十数年を一緒に過ごすうちに、マトリフはガンガディアに情を持ってしまった。そしてその感情を持て余している。ガンガディアからはマトリフが望むような気持ちは返ってこないとわかっているからだ。
マトリフは杯を傾ける。こんなことなら声もかけずに一人で飲めばよかった。たとえ一緒にいても、同じ月を見ていても、ガンガディアとマトリフの考えることは違う。マトリフは杯を乾かして息をついた。
「……月がきれいだな」
この思いは伝わらなくていい。そう思って遠回しに思いを乗せた言葉を、意外にもガンガディアは聞き逃さなかった。
「私もあなたと見る月を美しいと思う」
月を見上げたままガンガディアは言う。その言葉の意味をはかりかねて、マトリフは空になった杯を見つめた。
***
ガンガディアのプロポーズを徹底的に断ったマトリフだが、ガンガディアはそんなことは気にもしていなかった。
「ついてくるな」
マトリフは後ろを歩くガンガディアに言う。しかしガンガディアは立ち止まりもせずついてくる。
「何故?」
「なぜじゃねえよ。断っただろうが」
「あなたは不思議な人だ。そんな所にも強く惹かれる」
勝手にうっとりとなっているガンガディアにマトリフは舌打ちする。全然不思議ではないからだ。誰だってさっきまで殺し合っていた相手に突然プロポーズされれば拒否するだろう。だがそうマトリフが言ったら、ガンガディアは首を傾げながら言った。
「勇者はハドラー様のプロポーズを受けたが?」
こともあろうかアバンは魔王のプロポーズに頷いたのだ。私の言葉は絶対ですよ、もう二度と世界征服なんて言い出さないでくださいね、と笑顔で言いながら。
「そんなに私のことが嫌いかね?」
ガンガディアの気落ちした声にマトリフは足を止める。
「そういうんじゃねえよ」
「ではプロポーズを受けてくれ」
「そうはならねえんだって!」
その二択しかねえのかよ、とマトリフは頭を抱える。だいたい戦って負けたらプロポーズなんて習わしがあったら、魔界なんてカップルだらけになるだろう。
そこでマトリフはあることに気付いた。
「待てよ、そういやお前って負けたのは初めてなのか?」
「いいや。ハドラー様に負けている」
「は? でもハドラーにはプロポーズしてねえんだろ?」
「いいや。している」
「はあ!?」
マトリフは思ってもみない返答に素っ頓狂な声を上げた。
「てめえ浮気かよ!?」
「浮気ではない」
「先にハドラーとくっついてんなら、オレとの関係は……不倫……いや、そしたらオレが間男ってことか?」
「落ち着いてくれ」
「ちょっと待てよ。オレとハドラーが穴兄弟ってことに……いや……ヤッてねえし! 違うからな!」
焦りながら捲し立てるマトリフをガンガディアは手を上げて制す。
「……勘違いしないでもらいたいのだが、私たちの愛の誓いは人間のそれとは違う。人間は愛を誓った相手とのみ繁殖行動を行うが、魔族にはそんな風習はない。魔族は愛を誓った相手を繁殖相手にはしないものだ」
マトリフはガンガディアの言葉に一旦冷静になった。とりあえず最悪の事態は避けられたようだ。
どうやら魔族の愛の誓いはマトリフが考えていたものとは随分と違うようだ。人間の恋人や夫婦のような関係を想像していたマトリフは肩透かしをくらう。
「そんならいいんだけどよ」
「ではプロポーズを受けてくれるかね」
「そうは言ってねえよ」
マトリフは言いながら山小屋が見えたことに気付いた。戸口に立つと解錠の呪文を唱える。
「ここは?」
ガンガディアは小屋を眺めながら言う。
「オレの家だよ。魔王軍討伐の旅は帰るまでが旅なんだよ」
マトリフは小屋の中に入りながらマントを脱ぐ。そして外に立ったままのガンガディアを振り返った。
「……まあ入れよ。茶くらいは出してやる」
「お邪魔する」
ガンガディアは小さくお辞儀してからマトリフの家へと入っていった。
***
マトリフはわかりやすくムスッと不機嫌な顔をして頬杖をついていた。広いテーブルには紅茶が置かれてある。
マトリフは地底魔城にいた。アバンがハドラーに勝ってから魔王軍は解散となり、今ではハドラーと少数の部下のみが暮らしている。
「ケーキもどうぞ」
アバンはエプロンをつけたままマトリフの前にケーキを置いた。アバンはときおり地底魔城へと訪れており、今日はそれにマトリフも同行していた。
マトリフは添えられたフォークを手に取ってテーブルの端に座る人物に目を向ける。
「あいつはいいのか?」
マトリフは持ったフォークをその人物に向ける。この城の城主、そして元魔王のハドラーが目を吊り上げてマトリフを睨んだ。
「黙れ老ぼれ」
ハドラーの前には紅茶もケーキもない。その割には律儀にテーブルの前に座っていた。
「お仕置き中なんですよ。故意にお皿を何枚も割ってしまって」
「オレは悪くない!」
「少し反省をしてもらおうと思って」
その二人の様子はまるで親と幼児のようだった。これじゃ参考にならねえとマトリフは思う。
マトリフはガンガディアとの関係に悩んでいた。魔族と人間の風習はあまりにも違う。共に生活していくうちにその違いを大きく感じるようになっていた。それで参考にしようとアバンとハドラーの様子を見にきたが、全く参考にならない。
「よかったらこれを読みますか?」
不貞腐れるマトリフにアバンは一冊の本を差し出した。
「なんだこれ」
「魔族の風習に関する本ですよ。祖父の書斎にありました」
マトリフは受け取った本をさっそく開いてみる。目次にさっと目を通すと、そこにはマトリフが知りたかった項目が並んでいた。マトリフは一番気になっていることを調べるためにページを捲る。それはあの愛の誓いについて書かれたところだ。
そこに書いてあったことはガンガディアから聞いたことと殆ど同じだった。だが読み進めていくとマトリフが知りたかったことが書いてあった。
愛の誓いは勝負に負けた方が勝った方に行う。しかし、誓いの後に別の人物と勝負をして負けて、新たに愛の誓いを行ったのなら、先に立てた誓いは無効になるという。つまりガンガディアは過去にハドラーに愛の誓いを立てたが、マトリフに負けて愛の誓いを立てたのでハドラーとの愛の誓いは解消されたということらしい。
マトリフは本から顔を上げると音もなく息をついた。マトリフはガンガディアがハドラーに愛の誓いを行ったことを気にしていた。しかしガンガディアに詳しく訊くこともできずに悶々としていた。
「よかったですね」
アバンはマトリフににっこりと笑いかける。マトリフが読んでいた箇所をアバンは見たようだ。マトリフは気のない風を装って肩をすくめる。
「オレはややこしい関係は嫌だっただけだ」
「略奪愛ですね」
アバンは眼鏡を光らせながら言う。マトリフは飲んでいた紅茶で咽せた。
「お前までそんなこと言うのか!?」
「冗談ですよ」
アバンはからからと笑いながらマトリフの肩を叩く。するとハドラーが鼻で笑った。
「なんだ、貴様そんなことを気にしていたのか」
ハドラーは呆れたように言う。アバンとマトリフの会話からマトリフの懸念を察したらしい。ハドラーは意地悪く笑うとマトリフを見た。
「オレからガンガディアを奪っておきながら腑抜けた奴だ」
「そんなつもりはねえよ」
「ではオレがまたガンガディアを負かしてオレのものにしてやろう」
「はあ!?」
マトリフは勢いよく立ち上がった。ハドラーは余裕ぶった顔でマトリフをせせら笑う。
「愛の誓いで得た者を他者に奪われないように守るのも、誓いを受けた者の役目だ」
「オレは誓いを断ったんだ!」
「ではオレがガンガディアをどうしようと構わないのだな」
ハドラーの言葉にマトリフはぐっと言葉を飲み込む。マトリフは手を握りしめて震わせた。
「……てめえに盗られるなんて髪の毛一本でも御免だぜ」
「ガンガディアのプロポーズを断ったのだろう」
「うるせえ! 断ってはねえよ。保留だ保留!」
マトリフはケーキを一口で食べて紅茶で流し込む。そして慌ただしく外に出るとルーラを唱えた。向かったのはもちろんガンガディアが待つ家だった。
***
夜明け前から雨が降っていた。その雨音で目覚めたマトリフは、ぼやけた視界に青色の巨躯を見る。窮屈そうに膝を折り曲げて座るガンガディアは、じっとマトリフを見ていた。
マトリフはその視線から逃れるように背を向けた。眠ろうと思ったものの目は冴えてしまった。
ガンガディアからのプロポーズをマトリフは断った。だがガンガディアは構わずマトリフの家までついてきた。どうせすぐに諦めるだろうと思ってマトリフはガンガディアを家へと入れたが、その結果がこれである。
ガンガディアはマトリフの身の回りの世話をすると言った。家に帰った翌日から、まずは掃除だと言って天井に蜘蛛の巣を払った。数年間を本に閉じ込められ、その後すぐに旅に出たマトリフの家は荒れていた。ガンガディアは窮屈そうにしながらも、少しずつ家の中を整えていった。
そのガンガディアをマトリフはベッドの上で酒を飲みながら見ていた。ガンガディアの働きは実に勤勉だった。おそらく魔王軍でもそうだったのだろう。そんなことしなくてもいいとマトリフは言ったが、ガンガディアは「これが勤めだ」と言って休みなく働いた。几帳面に整えらえていく部屋を見ながら、まあ悪くはないなとマトリフは思った。家事手伝いが来たと思えばいい。しかも本人が望んでいるのだ。やりたいようにやらせてみようとマトリフは思った。
だが数日経つとマトリフは嫌になった。ガンガディアの几帳面さが鬱陶しくなったのだ。ベッドのシーツはシワひとつなく整えられ、本は細かく分類されて本棚に並ぶ。床にはゴミ一つ落ちておらず、窓は透き通っていた。本来なら喜ぶべきなのだろうが、どうも居心地が悪い。さらには常にガンガディアが家にいるという状態に、緊張が緩まなかった。ガンガディアを家に入れたのは監視の目的もあったからだ。
今さら命を狙われるとは思っていない。しかし、その大きな手に胴体を殴りつけられ骨が折れた音をまだ忘れたわけではなかった。
マトリフはまた寝返りを打った。やはりガンガディアはじっとマトリフを見ている。ガンガディアはさほど睡眠を必要としないらしく、夜の時間の殆どを何もせずに過ごしていた。
「眠れないのかね」
ガンガディアの言葉にマトリフは答えずにベッドから出た。そのままドアを開けて外に出る。
湿気を含んだむっとする空気が漂っていた。暗い空から銀糸のような雨が落ちてくる。
「濡れてしまう」
ガンガディアがマントを持って背後に立った。マトリフに雨が当たらないようにマントをかざしている。そのガンガディアは雨に濡れていた。
「お前、いつまでここにいるつもりだよ」
微かに胸に燻る苛立ちのままマトリフは言った。
「ずっとだ」
「ずっとなんてオレは嫌だぜ。息苦しいったらない。雨に濡れても外に出たくなる」
マトリフの言葉にガンガディアは考え込んだが、やがてひとつ頷いた。
「私が外に出よう」
「そのまま帰れよ。魔界かどこか知らねえけど」
「それは出来ない。あなたの側にいる」
「鬱陶しいって言ってんだよ」
「だから私は外へ出ている。あなたは部屋の中へ戻るといい」
「ならずっと家の外にいろよ」
「それは命令かね」
「は?」
マトリフは予想外な言葉にガンガディアを見返す。ガンガディアは至極真面目な顔で言った。
「あなたの命令なら従う」
「なんだよ命令って。オレが命令すりゃあ何でも聞くのかよ」
「ああ。私はあなたに愛を誓った。命令があれば言ってくれ」
マトリフは自分でも理由のわからない衝撃を受けていた。ガンガディアがマトリフについてきたのは、ガンガディアの意思だと思っていたからだ。しかしガンガディアは、そうするのが当然であるから実行しているに過ぎない。戦いに負けて愛の誓いをしたのはそれが習わしであるからで、マトリフに尽くすのはそれが愛の誓いをした者の勤めであるからだ。マトリフの言う事を聞くのも、それが命令だからで、そこにガンガディアの意思は存在しない。
マトリフは踵を返して家に戻るとドアを閉めた。雨の音が強くなった気がした。そのままベッドに戻って寝転がる。ガンガディアは家の中には戻ってこなかった。
昼頃になってマトリフは目が覚めた。家の中にガンガディアはいない。これで諦めただろうと思って欠伸をする。まだ外は雨が降っているらしい。その様子を見ようと窓を覗く。すると外にガンガディアが立っているのが見えた。
マトリフは怒りすら感じて外を出た。ガンガディアはずぶ濡れになっている。近くには雨除けになりそうな大木すらあるのに、ガンガディアは家のすぐ側に佇んでいる。マトリフはガンガディアを睨み上げた。
「てめえいい加減にしろ!」
「何のことかね」
「さっさとどこか行っちまえ! オレにつきまとうな!」
「それはあなたの命令でも聞けない。側を離れてはあなたに尽くせない」
「命令命令って、それがお前らの言う愛かよ。そんなもんオレに押し付けるんじゃねえ!」
マトリフの怒鳴り声が響く。しかしガンガディアは困ったように表情を曇らせながら頭を下げた。
「すまない。私にはこのやり方しかわからない。あなたの命令なら何でも聞く。遠慮せず言ってくれないか」
ガンガディアにはマトリフの怒りが伝わっていない。なぜ怒っているかもわからないのだろう。わからなくて当然だ。マトリフは人間で、ガンガディアは魔物だ。風習も考え方も何もかも異なる。人間の愛をガンガディアに求めること自体が間違っていたのだ。
「……とにかく家に入れよ。風邪でも引いたらどうするんだ」
ガンガディアとは敵対しながらも、どこか解り合えるような気がしていた。同じ種族の人間にすら嫌われたマトリフを、ガンガディアは尊敬すると言ってくれた。それが嬉しくなかったと言えば嘘になる。勝手にガンガディアに期待したのだとマトリフは自嘲した。
「私は人間のようにひ弱ではない」
「いいから入れって」
マトリフは濡れた髪をかき上げる。歩み寄るには遠過ぎる距離だ。だがせめて、それを一歩でも縮めたかった。