そこにいる ポップはカゴに入れたパンや果物が濡れていないかと確かめた。マントに包んできたが、少し湿ってしまったかもしれない。
パプニカに珍しく長雨が続いているとレオナがぼやいていた。もちろんそれは彼女の個人的な不快感ではなく、自国の民を案じての言葉であったから、ポップも真面目な返答を心がけた。だがそうしていても、頭の片隅では自分の師のことを考えていた。不摂生を絵に描いたような人であるから、弟子としては心配が尽きない。
そうしてポップは昼の休憩になるとカゴに食料を詰め込んで、ルーラで海沿いの洞窟を訪れた。
ポップは濡れた髪を払いながらいつものように師匠と呼ぼうとして、ふと言いようのない違和感を覚えた。肌に触れる風のようでありながら、もっと頼りない気配のようなものが、体に触れたような気がしたからだ。
ポップは無言で洞窟を進んだ。洞窟には湿った冷たい空気が満ちている。重苦しいそれに足を取られるような気がして、ポップは水に浸した足を力ずくで前に進めるような気持ちで足を踏み出した。
「師匠」
マトリフは安楽椅子に腰掛けながら目を閉じていた。膝には毛布がかけてある。マトリフはポップの声に目を覚ましたように目を瞬くと、背もたれから体を起こした。
「……来てたのか」
ばさり、と音がしてマトリフの足元に魔導書が落ちる。マトリフはそれに気付いて本を拾い上げた。マトリフは毛布を手にして、それをじっと見つめてから、寝室へと足を向けた。
ポップはいつもしているように勝手に湯を沸かす。洞窟の中は不思議と暖かい。ポップはいつも飲む茶葉を探した。
「あれ、ねえぞ。師匠どこに片付けちまったんだ」
ポップが棚の中を探していると、奥の方に目当ての茶葉を見つけた。高い棚の一番奥なんてポップでも届かないのに、マトリフはどうやってしまいこんだのだろうか。
そうこうしている間に湯が沸く。カップを用意しようとして、ポップはそれがいつもの場所にないと気付く。見れば二つのカップが洗って伏せてあるのを見つけた。まだ少し濡れているから、先ほどまで誰かが来ていたのかもしれない。
「何か持ってきたのか」
マトリフが戻ってきてカゴの中をのぞいている。
「この雨だと釣りもできねえだろ」
「気がきくようになったじゃねえか」
「体の調子はどうなんだよ」
「平気だっての」
マトリフはカゴから林檎を手にして齧りついている。食欲があるなら平気だろうと、ポップはポットに茶葉を入れて湯を注いだ。
「そういや誰か来てたのか?」
ポップはカップを手にしながら訊ねた。人嫌いの師の元を訪れる人は少ない。きっと来たのはアバンだろうと予想していた。
「いや……今日は誰も来てねえよ」
「あれ、そうなのか」
変だな、と思いながらもポップはそれ以上は追求しなかった。カップに茶を注いでテーブルに置く。雨音が小さく洞窟の奥まで届いていた。
ポップは世間話をしながら来た時の違和感を思い出していた。マトリフが時折り、ポップの話を聞いていないような素振りを見せたからだ。ただぼんやりしている訳ではなさそうで、まるで遠くの音に気を取られたかのようにしていた。
「聞いてるのかよ師匠」
ポップはマトリフの腕をつつく。マトリフはポップに視線をやると「聞いてら」と低い声で呟いた。
やがてポップの昼休憩が終わる時間になる。またパプニカ城に戻って長雨の対策をレオナと話し合わねばならない。
「じゃあ行くわ」
「おう」
ポップは空になったカゴを手に洞窟を出る。そのときにやはり何かが気になって振り返った。
マトリフは安楽椅子に座ったまま、視線を天井に近いほど高い位置に向けている。だがその視線の先には何もない。だがマトリフの表情が、何もないものを見ているとは思えなかった。
ポップは雨空に向かってルーラを唱える。途端に体を覆っていた重苦しい空気から解放された。まるで洞窟に入る者を拒むようだったとポップは思う。
いや、あの洞窟にはマトリフの外には誰もいなかった。ポップはそう思おうとして、冷えた体をさすった。