勇気の在処なんて「んだよ、こんなとこにいやがったのか」
言葉の乱暴さとは裏腹に、マトリフの声音は優しくまぞっほの耳に届いた。まぞっほはうずめていた顔を上げる。
「ほら、出てこいよ」
まぞっほが隠れていた狭い洞窟の入り口にマトリフが立っていた。マトリフはまぞっほに手を差し出している。しかしまぞっほは首を横に振った。まぞっほは小さな洞窟のさらに奥へと身を押し込める。そこはひと一人がやっと入れるくらいの、洞窟というより小さな空洞だった。まぞっほは魔物から逃げてこの空洞に身を隠していた。
「魔物ならマトリフの旦那が追い払っちまったぞ」
ディードックの声に、まぞっほはまた洞穴の入り口を見る。よく見ればディードックもそこにいた。逆光になってよく見えないが、マトリフもディードックも怒っていなさそうだった。
まぞっほはようやく空洞から出る決意をした。狭いので四つん這いで出ると、外に出た途端に後頭部を殴られた。マトリフの輝きの杖で叩かれたのだとすぐにわかった。
「いったぁ……ひどいよ兄者」
まぞっほは叩かれた頭を押さえる。いつもマトリフは杖でひとの頭を殴るのだ。
「ひでぇのはお前だよ、まぞっほ。オレたちを置いて逃げやがって」
「そうだぞ。魔物を倒すのより、お前を探すのに苦労したんだからな」
見ればマトリフもディードックもくたびれた顔をしていた。まぞっほたち三人が魔物に遭遇したのは夜が更けた頃だった。それが今は日がのぼっている。二人はずっとまぞっほを探してくれていたようだ。
「だって、おれなんかがいても足手まといだろう」
まぞっほは俯いて呟く。まぞっほは魔法使いに憧れて師匠の元に弟子入りした。だが師匠の元で修行をしているのは、まぞっほが逆立しても敵わないような人たちばかりだった。まぞっほは水晶で離れた場所を映し出すことが得意だが、それで魔物が倒せるわけではない。ギュータは強さが求められる。まぞっほは次第に自信を失っていった。
「ばぁか。なに言ってやがる」
マトリフはまた杖でまぞっほの頭を叩いた。マトリフはまぞっほの兄弟子にあたるが、この人こそ魔法の天賦の才を持って生まれた人だった。いくら修行の年数が違うとはいえ、まぞっほは自分が百年修行してもマトリフに勝てる気がしなかった。
「お前一人で魔物を相手にしてるんじゃねぇだろうが。お前はメラでもヒャドでもいいから出しとけばいいんだよ。まぐれで当たれば儲けもんだろうが」
マトリフはコツコツとまぞっほの頭を叩き続ける。それを不憫に思ったのか横にいたディードックが「旦那、そのへんで」と言うが、マトリフはそんな言葉はまるで聞かない。まぞっほは自分でも逃げ出したことを恥じていた。しかしそれは自分のためだけの行動ではなかった。
「でも」
「デモもストもあるか。お前がとんずらしちまったせいでオレたちがどんだけ─」
「まぞっほが見つかったのか」
厳しい声が響いてその場にいた全員が息を飲んだ。それが師匠の声だとわかったからだ。
「愚か者め」
音も影もなくバルゴートは姿を現した。全てを断罪するかのような鋭い眼差しがまぞっほに注がれる。
まぞっほ恐ろしさのあまり直立する。ディードックもマトリフも似たようにしているが、マトリフはしかめっ面で不機嫌を隠そうともしていない。バルゴートは三人を順番に見てから言った。
「三人とも夜に抜け出して冒険とは、昼間の修行では刺激が足りないようだな」
バルゴートの言葉にまぞっほは青褪める。バルゴートが弟子たちに過酷な修行を課して喜んでる、というのはマトリフの言葉だが、あながち間違ってもいないのではないかとまぞっほも思っていた。今回のお咎めはかなり厳しいものになるだろう。
「罰ならさっさと言えばいいだろ」
ケッとそっぽ向くマトリフに、まぞっほはある種の尊敬を覚える。バルゴートにそんな恐ろしい口をきけるのはマトリフくらいしかいない。
「マトリフ。お前が手本を示さねばならぬのに率先して規律違反を行ってどうする」
「意味のない規律なんてクソ喰らえなんだって教えてやったんだよ」
マトリフは普段から里の規律が厳しいと文句を言っている。特に夜間の外出が禁じられているのが不満らしかった。それでマトリフは夜の街で遊ぶためにまぞっほとディードックを誘って里を抜け出したのだ。
「それでそのクソ喰らえな規律を破った結果がこれか。反省するがいい」
バルゴートはマトリフに向かって手をかざした。魔法の輝きに目が眩む。その輝きが止むとマトリフは両手で口を覆っていた。バルゴートがまぞっほに向かって言う。
「マホトーンだ。マトリフの呪文に頼らずに三人で協力して帰ってこい」
「そ、そんな無茶です!」
この森は里の下にある森で、呪文の使い手がいないと抜けるのが困難な場所だった。里の防衛のためにバルゴートが無数のトラップを仕掛けてあるからだ。しかもそのトラップは呪文でないと対処できない。ディードックは腕っぷしは強いが魔法はからっきしだ。マトリフの呪文がなければこの森を戻ることなんて出来るはずがなかった。
まぞっほは地面に膝をついて頭を下げた。
「師匠、おれをここで破門にしてください」
マトリフが驚いたようにまぞっほを見た。マトリフには黙っていたが、まぞっほがこの森に来たのは夜逃げをするためだった。
「……おれなんかがいたら、余計に兄者たちの足を引っ張ってしまう。おれがいなかったら、ディードックと兄者だけなら大丈夫だ。師匠、お願いです。おれを破門にしてください」
「まぞっほ……お前、まさか魔物から逃げたときも」
ディードックがまぞっほを見て言った。まぞっほは頷く。マトリフは苦虫を噛み潰したような顔でまぞっほを見ていた。三人で魔物と戦ったとき、まぞっほはマトリフやディードックに守られていた。自分がいなかったら二人はもっと楽に戦える。まぞっほはそう思って魔物から逃げ出した。
「わかった。いいだろう」
バルゴートはそう言って頷いた。まぞっほが安堵しかけたそのときに、バルゴートはディードックに向けて呪文を唱えた。それは攻撃力を下げる呪文で、ディードックは持っていた武器さえ落としてしまった。これでマトリフもディードックも戦えなくなってしまった。
まぞっほは震えながらバルゴートを見上げる。バルゴートは朝靄を纏う古木のように佇んでいた。
「いいか、まぞっほ。勇気とは言い訳をするためのものではない。自分が弱くて逃げ出すことを仲間のせいにするな」
バルゴートは長駆を折るように身を屈めて、まぞっほの胸を指差した。
「そして真の勇気とは相手や状況によって都合よく存在が消えるものではない。いつもここにある」
バルゴートの細長い指がまぞっほの肋骨あたりを押す。それは確かな圧迫となってまぞっほを追い詰めた。
「おまえが助けねば兄弟子たちが死ぬ。もう逃げられないぞ」
その声だけ残してバルゴートは姿を消した。わずかなルーラの軌道だけが残る。横でマトリフが憤慨しているが、声が出ないせいで何が言いたいのかわからなかった。
「どうしよう」
まぞっほは呟いて立ち尽くす。しかしすぐにマトリフに尻を蹴り飛ばされた。マトリフが身振り手振りで何かを訴えている。それをまぞっほはなんとか読み解いた。
「ええっと、とにかく走る?」
頷いたマトリフがまぞっほの手を掴んだ。魔法も攻撃も使えない。だったら走って逃げるしかなかった。この森に仕掛けられた様々な魔法トラップを、ひたすら走って駆け抜けて里を目指す。
「そんなの無理だよ!!」
まぞっほは叫びながらもひたすら走った。幸いまぞっほは逃げ足が速く、バルゴートが仕掛けたトラップをなんとかすり抜けていく。
それから三人は命からがら里まで帰りついた。法衣はぼろぼろ、もう一歩も歩けないというほどの疲労困憊であった。里は夕焼けに染まっている。まぞっほは汗と涙に塗れた顔でその夕陽を見ていた。
やはり自分には勇気の欠片すらないのだとまぞっほは思う。結局自分にできるのは逃げることだけだった。
まぞっほはそれから間も無く里を出た。夜の間にこっそりと抜け出して森を進む。水晶は森のトラップを避けるのにはとても役立ってくれた。
それからまぞっほは自分には勇気なんて存在しないと思って生きていた。胸を張れるような生き方ではなく、バルゴートの叱責がどこからか聞こえるような気がした。
やがて時は流れた。まぞっほはある少年と出会った。その少年は魔法使いで、どこか若い頃のまぞっほに似ていた。まぞっほは過去の自分を見ているような気がした。
だがそれだけなら手を貸そうとは思わなかった。まぞっほが苦い思いを掘り起こしてまで師の言葉を伝えたのは、その少年の胸にはまだ勇気が残っているように思えたからだ。
まぞっほの勇気の火は魔法使いの少年へと分け与えられた。そしてその勇気はやがて世界を救う一端を担う。まぞっほの勇気の火はずっとその胸で燃え続けていたからだ。