愛を求む「それは求愛行動であると理解して行なっているのかね?」
ガンガディアの言葉にマトリフは固まった。寝起きで覚醒しきっていない頭が急激に動き出す。
「きゅう、あい??」
マトリフは知らない言葉のように繰り返す。半端に脱いだ寝衣をそのままにガンガディアを見上げた。
「そのように人前で服を脱ぐのは、我々トロルには求愛行動なのだよ」
マトリフは慌てて脱ぎかけの襟元を合わせた。マトリフは何の気なしに服を着替えようと思っただけだ。
「そ、そうなのかよ。知らなかった」
「そうだと思ったよ。まさかあなたが私に求愛するとは思わなかったからね」
ガンガディアは眼鏡を指で押し上げた。それがどこか寂しそうに見えてマトリフは急に罪悪感のようなものを感じる。知らなかったとはいえガンガディアも良い気分はしなかっただろう。
「お前だってオレに求愛されて嫌だったろ?」
マトリフは冗談めかして言った。これでガンガディアが「当たり前だよ」と言って笑いでもすれば、この気不味い雰囲気が終わると思ったからだ。
しかしマトリフの思惑は外れた。ガンガディアは真剣な顔でマトリフを真っ直ぐに見つめる。
「嫌ではない。あなたに求愛されたら嬉しいよ」
ガンガディアはそう言うとマトリフに背を向けて部屋を出ようとした。マトリフは慌てて引き止める。
「おい……そりゃどういう……」
「服を着替えるのだろう。私は出ていよう。いくらあなたにその気は無くても、私は気にする」
ガンガディアは部屋を出ていった。残されたマトリフの肩から寝衣がずり下がる。
「……嬉しいのかよ」
マトリフは呟いてから、自分も嫌な気がしていないことに気がついた。まだ寝癖のついたままの後頭部を掻いて思案する。
「オレも好きって……ことか?」
***
「お前らの求愛行動について聞きてえんだが」
マトリフはトロルに向かって尋ねた。そのトロルはガンガディアではない。たまたま見つけたダークトロルだった。
ダークトロルはマトリフの言ったことが理解できなかったのか、口を開けたままマトリフを見つめ返している。
マトリフはトロルの求愛行動を知るために情報収集をしていた。ガンガディア本人に聞くのが憚られたので、わざわざ遠くの荒野まで行ってトロルを探したのだ。そして見つけたダークトロルに求愛行動について尋ねていた。
「求愛行動だよ、求愛。お前さんたちは服を脱いで見せるのが求愛行動なんだろ?」
マトリフは服を脱ぐような動作をして見せる。しかしダークトロルは首を傾げてしまった。
「あー……人間の言葉がわかんねえのか。あいつが喋るから忘れてたぜ。トロルキングなら喋れるんだっけかな」
マトリフはぶつぶつと呟く。マトリフは面と向かって好きだの愛してるだのと言えるような性格ではない。だがどうにかガンガディアに好意を伝えられないかと考えた。その結果がまた求愛行動を取るというものだった。
だがガンガディアはマトリフの求愛行動を本気にしなかった。あれから何度もガンガディアの前で服を脱いでみたが、ガンガディアはその度に顔を背けて部屋を出てしまう。ガンガディアはマトリフが服を脱ぐのはただの着替えだと思っているようだった。
だからといってマトリフは「これは求愛行動なんだよ!」とは言えなかった。しかたなくマトリフは別の求愛行動がないか調べることにした。絶対に成功する求愛行動があればありがたい。
だがしかし。求愛行動を尋ねたくても、このトロルは人間の言葉が理解できないらしい。いや、会話が成り立つガンガディアのほうが珍しいのだと今さら思う。
「えーっと、だから……求愛だよ、求愛」
マトリフはなんとか身振り手振りで伝えようとする。だがトロルは意味がわからないらしい。マトリフは焦れて帽子とマントを脱ぎ捨てた。
「ほら、こうやって脱ぐやつだよ」
マトリフは法衣のベルトに手をかけて外す真似をした。これで伝わったかとトロルを見上げる。するとトロルの様子がおかしかった。目が血走っており息も荒い。トロルは自分の着ていた服を引きちぎった。
「ちょ、待っ!」
逃げる間も無くマトリフはトロルに押し倒された。生暖かい息が首筋に当たる。
「違う違う、お前を誘ったんじゃねえ!!」
マトリフは抵抗するがトロルの力には敵わなかった。トロルの濡れた舌がねっとりとマトリフの顔を舐める。その感触にマトリフは背筋が凍った。
だが次の瞬間、トロルが吹き飛んだ。
「何をしているのかね大魔道士」
すぐそばにガンガディアが降り立った。ガンガディアは怒気を纏って顔中に血管を浮き上がらせている。
「た、助かったぜ」
マトリフは濡れた顔を拭って立ち上がる。吹き飛んでいったトロルはそのまま逃げていった。
「お楽しみを邪魔してしまったかね」
「お前にはお楽しみに見えたのかよ。勘違いからの事故だっての」
ガンガディアは長いため息をつくと、少し落ち着いたように眼鏡を押し上げた。
「助かったけどよ、お前なんでここにいるんだ?」
「……偶然通りかかった」
ガンガディアはマトリフに背を向けると落ちていたマントと帽子を拾い上げた。
「送っていこう。あなたの危なかしい行いは見ていて心臓に悪い」
「……さっきの見てたのか?」
トロルに押し倒されたマトリフをガンガディアは間髪を入れず助けた。それはまるでずっとマトリフとトロルの様子をどこかで見ていたかのようなタイミングの良さだった。
ガンガディアは答えずにマトリフの手を掴むとルーラを唱えた。だが向かった先はマトリフの洞窟ではなく、森の中の泉だった。しかもガンガディアは泉の中に着水したので派手な水飛沫が上がった。
「うわッ、おい!」
マトリフはいきなり水の中に落とされてもがいた。だがすぐに大きな手に掴まれて引き上げられる。
「げほっ……なんなんだよ」
マトリフが濡れた髪をかき上げると、ガンガディアの暗い顔が覗き込んできた。
「……私の前で他の発情した男の匂いを纏うなんて」
ガンガディアの顔は影になってよく見えないが、その血走った眼だけが欲望の光を帯びていた。それがさっきのトロルと重なって見える。マトリフは反射的に身体を強張らせた。
「匂いなんて付いてるのか?」
マトリフはわざと音を立てて鼻を鳴らす。どうやら匂い消しのために冷たい泉に放りこまれたようだ。
するとガンガディアの大きな指がマトリフの頬を拭った。それはさっきトロルに舐められたところだった。
「他の男がいいならもう邪魔はしない」
ガンガディアはマトリフを水から引き上げた。
「んなこと言ってねえ……オレは」
しかしガンガディアはマトリフの言葉を聞かずに飛び去ってしまった。風が吹いてずぶ濡れのマトリフは身を震わせてくしゃみをする。
「……寒ぃんだけど」
***
尊敬するという気持ちは愛で薄まるのだろうか、とガンガディアは苦悶した。
ガンガディアはマトリフを尊敬している。それはガンガディアにとって清水のさらに上澄みのように純真な気持ちであった。
だが愛は、ガンガディアにとっては醜いものだった。どうしても欲望と結びついてしまうからだ。ガンガディアは本能を恐れている。荒々しい欲望の暴走は、ガンガディアが何としてでも抑えておきたいものだった。
だからガンガディアは愛なんていらなかった。だがガンガディアはマトリフに愛を感じてしまった。もっと明け透けに言うならそれは性欲だった。それを同義とすることをガンガディアは好まないが、頭で感じた愛を、身体は性欲と受け取ってしまう。マトリフをもっと知りたいと思う気持ちは、その身体に触れたという気持ちに変化して、やがて性交がしたいと思うようになった。
それは憧れという崇高な気持ちが汚されたようであった。あるいは美しい色水にただの水が大量に注がれて、すっかり台無しにされたような気分だった。
マトリフを愛したくなんてなかった。こんな思いをするくらいなら、ずっと憧れだけを抱いていたかった。マトリフに向ける気持ちは綺麗なものだけでよかったのだ。
ガンガディアはマトリフへの愛を抑え込むようにした。マトリフのそばにいるために。
しかしマトリフはそんなガンガディアの気も知らずに、平気でガンガディアの前で服を抜いだりする。それがトロルにとっては求愛行動なのだと伝えたが、マトリフはまるで気にしていないようだ。それもそうかもしれない。人間にとってはただの着替えなのだから。
だがガンガディアはたとえそれがただの着替えだとしても、感情を乱されてしまう。だからせめて見ないようにと部屋を出るしかなかった。
しかしそれで平静が保たれるわけではなかった。無理に押し込めたマトリフへの思いが暴走をはじめていた。ガンガディアはマトリフに会いたくて洞窟のそばで行くが、やはり会えないと思い直して引き返した。会えば自分がマトリフに何をするかわからないからだ。だが会いたい気持ちは消えない。会いたいと願う本能と、会ってはいけないと抑制する理性が葛藤していた。ガンガディアは洞窟のそばを行ったり来たりと繰り返していた。
するとマトリフが洞窟から出てくるのが見えた。マトリフはガンガディアには気付いていない。マトリフはルーラでどこかへ飛び立っていく。ガンガディアは無意識に後を追うようにルーラを唱えていた。
そして見たのはマトリフがトロルに話しかけている姿だった。気付かれないように離れていたので会話の内容はわからない。だがマトリフが帽子とマントを脱ぎ捨て、ベルトにまで手をかけたときは驚いた。こんな場所で着替えるはずはない。それは間違いなく求愛行動だった。
ガンガディアはトロルがマトリフを押し倒すのを呆気に取られて見ていた。湧き起こる感情が怒りなのか戸惑いなのかわからない。だが気が付いたらトロルを殴り飛ばしていた。
その後のことはよく覚えていない。マトリフから別のトロルの匂いがすることに、言いようのない感情が押し寄せてきた。許せないと思ったのかもしれない。マトリフが誰を愛そうとガンガディアには関係のないことだ。それが別のトロルであったとしてもだ。だが感情は理性を押し除けて暴れ回った。
ガンガディアはずぶ濡れになったマトリフを置いて自分の館へと戻り閉じこもった。部屋の隅で大きな体を丸めて、己の愚かさを悔いた。マトリフはガンガディアに呆れ果てただろう。深い後悔を感じる。本能を抑えられない自分が情けなかった。
それから数日後、ガンガディアの館にノックの音が響いた。ガンガディアの館は森の奥深くにあって人が来るような場所ではない。場所を知っている人物も限られていた。
もしやマトリフが来たのかとガンガディアは立ち上がった。ずっとうずくまっていた体が軋んでいる。どんな顔をしてマトリフに会えばいいのかわからなかった。だが会いたいと思う。
ガンガディアは扉を開けた。外は晴れているらしく眩しい光が差し込んでくる。ガンガディアは手をかざして陽の光を遮った。
「こんにちは、ガンガディア」
そこに立っていたのは勇者アバンだった。
***
「私はあなたがそんなふうに悩んでいることを嬉しく思いますよ」
アバンの言葉にマトリフは口元を歪めた。額に乗っている温くなった手拭いを掴んで投げようとして、それすらも億劫になってやめた。アバンはマトリフの手から手拭いを抜き取ると、桶に張った水で濡らして、またマトリフの額に乗せた。
「少しは楽ですか?」
マトリフは数日続いた発熱のせいですっかり参っていた。ガンガディアに泉に落とされて濡れ鼠で洞窟に帰ってから体調を崩して寝込んでいる。たまたま訪れたアバンが甲斐甲斐しく世話を焼くが、マトリフは不貞腐れているのでろくに口も聞かなかった。
「昼食はお粥にしましょうか」
そんな提案にすら答えずにマトリフはアバンに背を向ける。アバンもマトリフが機嫌が悪い理由を察していた。
「……オレは悩んでなんていねえ」
マトリフはそれだけ言った。アバンはマトリフが悩んでいると言ったが、マトリフは悩んでなどいない。ただガンガディアとの関係がどうにも思うようにいかなくて不満なだけだった。
アバンがベッドのそばを離れてキッチンへと向かうのが聞こえた。扉が開いたままなのか、鍋を出す音や水の音が聞こえてくる。
マトリフは溜息をついて寝返りをうった。それだけで節々が悲鳴を上げる。風邪くらいで何日も寝込むだなんて歳は取りたくないと思いながら、いい歳をして恋だ愛だと心を迷わせていることに自分でも嫌になった。
いや、これは恋などではないのだとマトリフは思い直す。マトリフにとってガンガディアは好敵手だった。一度は失ったその存在が、再び隣にあることを純粋に嬉しく思っている。お互いに認めた存在と、日々のささやかな時間を共有していることだけで充分だったはずだ。
だがガンガディアの好意を知って、二人の関係に今以上の状態があることに気付いてしまった。それを望む気持ちが自分にあることに驚いたが、関係を変えた自分たちの姿を想像することは楽しかった。
だがここ数日、ガンガディアは姿を見せなかった。最後に会ったときガンガディアは怒っているようだったが、その理由がマトリフにはわからなかった。そもそもマトリフがいくらガンガディアに求愛行動をとっても気付かなかったくせに、こそこそとあとをつけてきて盗み見ていた。その結果マトリフは助かったのだから責められないが、ガンガディアが怒ることもないだろうとマトリフは思う。
「オレは悪くねえだろ」
マトリフはぽつりと呟いて天井を見上げる。ガンガディアに対して不満を感じているのに、その存在が恋しい。
「私が彼を呼んできてあげましょうか」
見ればアバンが立っていた。持ったトレイには湯気を上げる椀が乗っている。きっと美味そうな匂いがしているんだろうが、それはよくわからなかった。
「よせよ」
「寂しいのでしょう?」
アバンはトレイを置くと椀を手に持った。食欲はないがマトリフは体を起こす。額に乗った手拭いがぽとりと落ちた。
「私は嬉しいんですよ」
アバンの言葉にマトリフは怪訝な顔をする。アバンは湯気を上げる椀をマトリフに差し出した。
「少なくとも、あなたは他者と関わろうとしている。あのまま閉じこもって誰とも関わり合わない生き方をするのかもと心配していたんですよ。でもそうやって悩むということは、あなたが一人じゃないってことですよね」
マトリフはパプニカでのことを思い出したが、すぐに意識の外に追い払った。過ぎたことを思い出しても良いことはない。アバンの言うように、ガンガディアがいなければ自分はこの洞窟に閉じこもっていただろう。ガンガディアが毎日毎日飽きもせずこの洞窟を訪れたから、マトリフはそうならずに済んだのだ。
「あいつはオレのことを怒っている」
「本当に?」
「オレは惚れた奴を怒らせるのが得意らしい」
マトリフはアバンが差し出した椀を受け取った。スプーンを手に取って粥をすくう。だがそれを口に運ぶ気になれなかった。何か別のものを胃に押し込まれたように重い。だがアバンが見ているので粥を二、三口押し込んで残りはアバンに返した。そのまま寝転んで背を向ける。
「鍋に残りがあるのでお腹が空いたら温めて食べてください」
アバンは椀を片付けながら言った。マトリフは唸るような返事をする。熱が上がってきたのか頭がぼんやりしてきた。目を閉じていたら、額にひんやりとしたものが乗せられる。瞼を開けるとアバンがまた濡らした手拭いを乗せてくれたようだった。
「彼に言っちゃえばいいじゃないですか。好きだって」
そんなんじゃねえ、とマトリフは言ったつもりだが、発声できていたかはわからない。アバンの姿がぼやけて見える。
「惚れたって言ったでしょう。今は素直になるべきですよ」
うるせえ、と顔を背ける。そうやって正直に言えたらどれほど楽だったか。惚れた相手にそう伝えることができないまま終わった恋しかマトリフは知らない。そこから碌でもない経験しか積まなかった。今さら素直に愛など伝えられない。
マトリフは熱に浮かされながら故郷を漂う夢を見た。過去の自分たちが歩いている姿を空中から見下ろす夢だった。それは永遠に続くかのように思えた青春の日々で、こうして見ていると苦笑をせざるを得ない。もっと上手くやれただろうと己に言ってやりたい気もしたが、不思議と後悔は感じなかった。
ひんやりしたものを感じてマトリフは夢から浮上した。またアバンが手拭いを替えてくれたのかと瞼を上げる。ぼんやりとした視界に青いものが見えた。それが何かわからなくて目を凝らす。
「すまない。起こしてしまったかね」
そこにいたのはガンガディアだった。ガンガディアの手がマトリフの額に乗っている。
「熱があるようだが、何か薬は飲んだかね」
これは夢だろうかとマトリフは思う。熱が見せる夢なら出来がいい。ガンガディアはマトリフの返答がないためか、眉間に皺を寄せていた。
「大魔道士、私の声が聞こえているかね」
久しぶりに聞いたガンガディアの声は耳に心地よかった。もっと聞いていたいが眠たくて目が閉じてしまう。ガンガディアがまた何か言ったが、それはただの音のように聞こえた。意識が溶けていく。けれどそれは苦しいものではなく、まるで海に漂っているかのようだった。
***
ガンガディアが洞窟に来たらマトリフは眠っていた。その額に触れれば熱く、発熱しているのだとわかる。
マトリフが体調を崩したと教えてくれたのはアバンだった。そしてその原因は自分にあるのだとガンガディアは思った。マトリフが他のトロルの匂いをさせていることにどうしようもなく嫉妬してしまい、マトリフを泉に沈めた。あの泉の水は人間には冷たかったのだろう。今思えばとんでもないことをしたと思う。
ガンガディアは急に怖くなった。人間の脆弱さを知っているからだ。人間は病ひとつで簡単にその命が終わってしまう。マトリフもその命が簡単に消えてしまう人間だった。
「大魔道士」
するとマトリフの瞼が開いた。呼びかけておきながら、起こしてはまずかったのだと気付く。眠って休息を取らねば回復もしない。
「すまない。起こしてしまったかね」
その声が聞こえているのかいないのか、マトリフは何も言わずにガンガディアを見つめていた。不安が膨らむ。ガンガディアはこれほど弱っているマトリフを見たことがなかった。
「大魔道士、私の声が聞こえているかね」
それにも答えずにマトリフは目を閉じてしまう。それが良い状態なのかわからなくて思わず背後にいたアバンを振り返った。するとアバンは無言で頷く。眠れるのなら大丈夫ということだろう。アバンは笑みを浮かべてマトリフを見るように促した。
見ればマトリフはガンガディアの手を掴んでいた。掴むといっての添えられる程度の力だが、その姿はまるでガンガディアを引き止めているように見えた。
アバンがガンガディアの背に手を触れた。小さな声で「あとは頼みます」と言ってそのまま洞窟を出ていった。
洞窟がしんと静まる。マトリフの寝顔は苦しそうではなく穏やかだった。マトリフは掴んだガンガディアの手に顔を寄せるようにしている。伝わる高い体温が落ち着かなくさせるが、これほど近くにマトリフを感じていることに不思議と心は穏やかだった。
ガンガディアは気休めでも構わないと思って回復呪文を唱える。少なくとも消耗した体力は回復するだろう。緑の淡い光はマトリフを包んでから消えた。やはり熱は下がらないが、眠るにも体力が必要だ。よく眠れば体調も回復するだろう。
「あなたのことが好きだよ」
傍にいられるだけでガンガディアは幸せだった。どうにもその存在を諦めたくないという執着が、元から綺麗な感情であるはずがなかった。だがその気持ちも言葉にするなら単純な二文字で済んでしまう。そこに込められた思いは一言で言い表せないが、伝えるなら一言でよかった。
「……オレも」
マトリフの口が小さく動く。瞼が震えながら開いた。その瞳がガンガディアに向けられる。
「オレもお前のことが好きだ」
撫でるような柔らかい眼差しだった。マトリフはガンガディアの手のひらに頬を擦り寄せると、また目を閉じてしまう。マトリフの言葉は何度もガンガディアの頭に響き渡った。
ガンガディアはマトリフをそっと抱きしめた。湧き起こるような衝動ではない。それは心の最深部に日が差したような温かさだった。
***
幸せな夢を見た。ずっとその夢の中にいたいのに意識が覚醒していく。マトリフはそれを嫌がるように温もりへと身を寄せた。
随分と長い時間を夢の中で過ごしていたように思える。その夢の中でマトリフはガンガディアといた。二人は恋人同士で、ガンガディアは優しく、マトリフの望むような言葉をくれた。マトリフもそこでは不思議と素直になれて、ガンガディアに好きだと言うことができた。それを聞いてガンガディアは嬉しそうに微笑み、大きさの違う手を繋いで、ずっと一緒にいようと言ったのだ。
こんな都合のいいことは間違いなく夢だとマトリフは思う。だが今はそんな夢の中にいたかった。
意識が徐々に覚醒していく。マトリフは暖かなものに包まれているようだった。使い古したベッドがこれほど心地良いはずがない。そう思うと目が一気に覚めた。
目の前にいたのはガンガディアだった。その腕にマトリフは抱きしめられていた。
「ガ……」
乾いた喉から掠れた声が出る。ガンガディアの手がマトリフの額に触れた。
「熱は下がったようだが、気分はどうかね」
ガンガディアはマトリフを抱くのとは反対の手でコップに水を入れた。
「飲むかね」
差し出されたコップを持ってマトリフは一気に水を飲んだ。まだ働かない頭をどうにか回転させる。確か寝る前にはアバンがいたはずだが、その姿はない。そういえばアバンがガンガディアを呼んでくるとか言っていた。止めたはずだが、アバンならお節介をしそうだった。
「食欲はあるかね。勇者が作っていった食事がある」
「ああ……食う」
「温めてくるよ」
ガンガディアはマトリフをベッドに下ろした。部屋を出ていくガンガディアの背をマトリフはぽかんとしながら見つめる。何がどうなっているかマトリフにはわからない。
マトリフはベッドを降りてキッチンへと向かった。熱が下がったからか体は軽い。キッチンではガンガディアが鍋に火炎呪文を当てていた。足音で気付いたのかガンガディアがマトリフを見る。
「起きて平気かね。食事はそっちへ持っていくが」
「なんでお前がいるんだ?」
マトリフは言ってから、もっと違う言い方ができたと思った。案の定ガンガディアの表情が曇っていく。
「私では不満かね」
「そうじゃなくて、お前がいつここへ来たか覚えてねえだけで」
「……では昨日の言葉も?」
ガンガディアの表情から、それが重要なことだとわかる。だがマトリフには全く覚えがなかった。
「言葉ってなんだよ。オレが何か言ったか?」
ガンガディアは静かに持っていた鍋を置いた。怒り出すのかと思ったが、ガンガディアは怒りはしなかった。
「……私に言ったのでは無かったようだな」
ガンガディアの悲しそうな表情を見てマトリフは理由もわからずに焦った。どうもガンガディアを傷付けたらしいが、その原因がわからない。
「なんだよ、オレが何を言ったっていうんだよ」
するとガンガディアは椅子にかけてあったマントを手に取ると、それをマトリフの肩にかけた。
「風邪がぶり返すといけない。体を冷やさないように。いや、そもそも私があなたを泉に落としたりしたのがいけなかった。すまない」
「風邪ひいたのはオレが濡れたまま着替えなかったせいでお前は悪くねえよ。それよりオレが何を言ったか教えてくれ。きっと寝ぼけてたんだ。悪気はねえよ」
なにか誤解があったのだとマトリフは思った。そんなことでガンガディアとの関係を悪化させたくはない。
ガンガディアは眼鏡を押し上げると頷いた。
「ああ、そうだろうね。あなたは寝ぼけてあんなことを言った。本気にした私が馬鹿だったんだ」
マトリフは誤解が解けたのかと思った。だがガンガディアは背を向けると出ていこうとする。マトリフは慌てて後を追った。だが暫く動かしていなかった脚がもつれる。
「ガンガディア」
声を上げてもガンガディアは立ち止まらない。洞窟から出てガンガディアは今にも飛び立とうとしていた。
「ガンガディア!」
行かないでくれと言いたかったのに急に言葉が出なくなる。それを言ったあとでガンガディアから拒絶の言葉が出るのが怖かった。一番傷つきたくない場所を晒したくない。だがそれよりもガンガディアを失うことのほうが耐えられなかった。
「お前のことが好きなんだよ!」
マトリフは声を枯らして叫んだ。
***
ガンガディアは振り返る。眼鏡が朝陽に反射してその目にどう見られているのかわからなかった。マトリフは壁に手をついてガンガディアの元へ行く。
ガンガディアは何も言わなかった。だが喜んでいないことはわかった。むしろ怒っている。マトリフは居心地の悪さを感じて口を曲げた。
「……なんとか言えよ」
「あなたの言葉は信用ならない」
ガンガディアの言い放った言葉にマトリフは頭に血が上った。
「それがお前の答えか」
ガンガディアは答えずに黙り込む。やはりガンガディアは怒っているようだ。マトリフは好きだと言ったことを後悔した。ガンガディアはマトリフから視線を外すと眼鏡を押し上げる。
「これ以上あなたに振り回されたくない」
ガンガディアの拒絶にマトリフは足元が揺らぐのを感じた。そうすると幸せだった夢が不意に思い出される。夢が幸せだったから余計に辛さを感じた。
「あなたは自分の言ったことを忘れたり、私が気にすると知っていて平気で私の前で服を脱ぐ」
「それは……その」
本気で誘ってたんだと口にするのは憚られた。マトリフは言い返せなくて俯く。ガンガディアを怒らせたことは悪いと思っている。だから正直に好きだと告白したのに、それを「信用ならない」と切り捨てられた。だったらどうすればいい。
「……夢の中ではオレのこと好きだって言ったくせに」
マトリフは独り言のつもりで吐き捨てたが、ガンガディアの耳はその言葉を拾った。
「それは夢ではない」
「え?」
マトリフは訳がわからずガンガディアを見返す。ガンガディアはやはりマトリフを見ないまま言った。
「私はあなたに好きだと言った。そうしたらあなたも好きだと返してきた」
そこでマトリフはようやくガンガディアが怒っている理由が見えてきた。どうやらマトリフが夢だと思っていたことは現実だったらしい。ガンガディアはそれをマトリフが覚えていなかった事を怒っているのだろう。マトリフは忘れたわけではなく夢での出来事だと思い込んでいたのだが、ガンガディアからすれば大差ない。
あれが夢でなかったと思うとマトリフは急に恥ずかしさを覚えた。
「じゃあ、ずっと一緒にいようって言ったのも夢じゃねえってのか?」
ガンガディアは怪訝そうに口を閉ざしてから、少し間を置いて「それは言っていない」と言った。
「は!?」
「夢の中の私はあなたにそう言ったのかね」
マトリフは自分が余計なことを言ったのだと気付いた。あの夢は全て現実だったわけではないらしい。ずっと一緒にいようだなんて、初心な十代でも言いやしない。それを夢に見るなんて体が燃えるほどの羞恥に襲われた。
「……ちくしょう……なんでオレばっか恥をかかなきゃいけねぇんだ」
耳まで赤くして項垂れたマトリフだったが、逆にガンガディアはマトリフに向き直った。ガンガディアの手がマトリフの両肩を掴む。
「大魔道士。私がずっと一緒にいようと言って、あなたは何と答えた?」
「……っ、う、オレもそうしたいって言ったんだよ」
途端にガンガディアはマトリフを抱きしめた。大きな体に抱きしめられてマトリフは息が詰まる。
「な、んだよ」
「嬉しい。たとえ夢の中の返事だとしても」
「……オレの言葉は信用しないんじゃねえのかよ」
「ああ。あなたは正直ではないが、今の言葉は信用できる」
ガンガディアの指がマトリフの赤く染まった首筋を撫でた。実にわかりやすい、とガンガディアが呟く。マトリフは言いようのない屈辱を感じつつも、そんなプライドを守ったところで仕方がないと思った。
「さっきお前に好きだって言ったのも本気だぞ」
「私もあなたが好きだ。知っていると思うが」
「オレに振り回されるのは嫌なんじゃねえのかよ」
「あの言葉は取り消そう」
「てめえ……オレがどんな気持ちだったのかわかってんのかよ」
「わからない。私はあなたのことがわからない。だからあなたの気持ちを聞かせてくれないか」
切実なその声に、マトリフは胸がぎゅっと詰まった。罵りたい気持ちがあるものの、愛おしさがそれを上回ってしまう。本心を無防備に表に出すことはマトリフの苦手とすることだ。だがそれも時には必要なのだろう。
「ガンガディア」
マトリフはガンガディアの背に手を回そうとして、到底届かないのだと気付いた。それでもめいいっぱい手を伸ばして抱きしめる。
「ずっと一緒にいてくれ」
夢の中ではガンガディアに言われた言葉を、今度はマトリフが伝える。それは夢の中で聞いた声よりも震えており、みすぼらしいものだった。
だがガンガディアは喜びに打ち震えていた。そこに愛を感じたからだ。
「嬉しいよ。私もあなたと一緒にいたい」
愛を求めて、求められて、たったひとつの愛を築いていく。たとえそれが長い道のりだったとしても、二人でだったら進んでいける。
「……とりあえずなんだけどよ」
マトリフの言葉にガンガディアは腕の力を緩めた。マトリフは締め付けられていた体が解放されて、大きく息をついた。
「なにかね」
「とりあえず……キスとかしとくか?」
マトリフはそわそわとしながらガンガディアを見る。何か恋人らしいことでもしたい気分だったからだ。しかしガンガディアは迷いもせずに言った。
「駄目だ」
「なんでだよ。オレとしたくねえのかよ」
「あなたは病み上がりだからだ」
「なんでぇ、キスくらい」
ガンガディアがキスを嫌がったわけではないことに安堵しながら、マトリフは照れを誤魔化そうと首筋を撫でる。そこは自分でもわかるほど熱くなっていた。初恋でもあるまいしたかがキスくらいで照れる自分が情けない。
するとマトリフの体が急に浮かび上がった。
「うわっ」
ガンガディアが突然にマトリフを抱き上げた。ガンガディアはそのままマトリフを寝室へと運んでいく。
「……っ、おい」
ガンガディアはマトリフをベッドに下ろした。そのまま覆い被さってくるガンガディアに、マトリフは焦った。キスでもするかと誘ったが、それ以上のことはまだ心の準備ができていない。
「待て……」
マトリフは抵抗するようにガンガディアの胸に手をついたが、マトリフの力などではガンガディアを止められない。
ガンガディアの手がマトリフの寝着にかかった。手は帯まで下りていき、解かれてしまう。焦りと期待という、一見反対の気持ちが交互に湧き起こる。じわりと汗が浮かぶのはわかった。急に喉が渇いた気がして落ち着かなくなる。
ガンガディアの手が寝着をはだけさせた。マトリフは覚悟を決める。恥じらうほどの歳でも性格でもない。あまりにも急だが、求められるのは嫌ではなかった。
「着替えるといい。昨夜は汗をかいていた。今日は晴れるだろうから洗っておく」
ガンガディアはマトリフから寝着を脱がして持っていってしまう。マトリフはぽかんと口を開けてガンガディアを見た。そしてガンガディアが洗濯用の桶を持っていくのが見えて、自分の勘違いに気付いた。
マトリフはトロルについて知識が浅い。だがガンガディアだって人間のことをよくわかっていないのだとマトリフは思う。
「相手の服を脱がすっていうのは、人間の間じゃ求愛行動なんだよ!」
時と場合によるけれど、と小さく付け足す。だが洗濯をしようと桶を持って外へ出たガンガディアには聞こえてはいなかった。