孵る 波は穏やかだった。しばらく晴れているから海も濁っていない。しかし垂れた釣り糸は静かなままだった。
マトリフは釣竿をあげる。釣り針に付けた餌は無くなっていた。餌を付け直そうと引き寄せるが、それに手を伸ばす小さな青い手があった。マトリフはその小さな手より先に釣り針を掴む。
「あー」
マトリフの膝の上で声が上がる。小さな青いトロルは短い手をいっぱいに伸ばしていた。小さいといっても、背丈はマトリフの半分ほどある。
「もうちょい待ってな」
餌を付けた釣り針を海に投げ込む。小さなトロルはそれを目で追った。腹を空かせているのか、その口からは涎が垂れていた。それを拭ってやろうと手を伸ばすと、その手を掴まれる。小さなトロルはマトリフの手を口の中へと入れると、まるで乳でも吸うように指をしゃぶりはじめる。
「吸っても何も出ねえぞ」
よほど腹が空いているのか、指は返してもらえなかった。すると静かだった浮きが沈む。引けば手応えがあった。
「おい、釣れそうだぜ」
引き上げた釣り針には魚がぶら下がっていた。大物で、これなら二人で食べるにちょうどいい大きさだった。
まだ跳ねる魚から釣り針を外す。小さなトロルは魚を見て丸い目を輝かせていた。それが可愛く思えて、絞めた魚を持たせてやる。
「手っ取り早く焼いて食うか」
薪に火をつけようと思い、小さなトロルを膝から下ろす。座りっぱなしで固まった腰を伸ばしていると、バリバリムシャムシャと音がした。
見れば小さなトロルは魚に齧り付いていた。頭から齧ったらしく、もう半分ほどなくなっている。マトリフが呆気に取られているうちに魚はペロリと食べられてしまった。それでも足りなかったのか、小さなトロルはじっとマトリフを見上げてくる。
「もっと食いてえのか?」
小さなトロルは表情を明るくさせて頷く。そして急かすように釣竿を叩いた。マトリフはやれやれと呟きながら腰を下ろして釣竿を手に取る。それを待っていたように小さなトロルはマトリフの膝に座った。
「釣竿より網の方がいいかもしれねえな」
小さなトロルは次の魚が待ちきれないのか、またマトリフの手を掴んでしゃぶっている。その食欲に、たった数日前に卵から孵ったのが嘘のように思えた。マトリフの手は唾液でべたべたになっていく。
すると突然の痛みが手に走った。思わず飛び上がりそうになって見れば、小さなトロルがマトリフの手に噛みついていた。手からは血が滲んでいる。しかし小さなトロルも驚いた様子で、マトリフの手をじっと見つめていた。その目が今度はマトリフの顔を見る。マトリフが痛がっていることに気づいたのか、小さなトロルは泣きそうに顔を歪ませた。
「平気だ」
マトリフは手に回復呪文を唱える。痛みは引き、傷口は塞がっていく。きっと小さなトロルに悪気はなかったのだろう。つい勢いで噛みついてしまったに違いない。
「ほらな、もう大丈夫だ」
手は元通りになった。だが噛みつかれた跡が薄らと残っている。若ければ傷跡もなく治るが、年齢を重ねた皮膚は傷跡も残りやすい。見ればわかるほどの跡が手に残っていた。
小さなトロルは自分のやったことを悪く思っているのか、目にいっぱいの涙を溜めていた。それがポロポロと溢れていく。
「なにも泣くことはないだろ」
その小さな体を抱き寄せる。背を撫でてやれば小さな手でしがみついてきた。
「こんなのちっとも痛くねえよ」
お前はもっと痛かっただろう、と胸の内でつぶやく。半身を吹き飛ばされた痛みとはどれほどだっただろうか。
「大丈夫だ、ガンガディア。もう泣くんじゃねえ」
ガンガディアが燃え尽きた灰の中に卵があった。黒く煤けたそれを持ち帰って温めたのは罪悪感のためだが、わずかな希望を持ったためでもあった。
温めた卵から孵ったのは青いトロルだった。その赤ん坊のトロルを、マトリフは抱き上げて思った。こいつはガンガディアがオレに残したものだと。
マトリフは赤ん坊のトロルを連れて洞窟で暮らすことにした。ここなら誰かに邪魔されることもない。
***
マトリフは天井を見上げていた。といっても寝転んでいるのはベッドではなく、硬い床だった。
ばさ、ばさ、という音が断続的に聞こえる。それはガンガディアが本棚から本を抜き出して床に落とす音だった。
マトリフの足元に本が落ちてくる。今のマトリフにはそれを拾うことすらできなかった。
ガンガディアはずっと本棚から本を抜き取ることを繰り返している。ずっとだ。昨夜、マトリフが本棚から本を取った時からずっとだ。時間にして十二時間ほどが経っている。その間ガンガディアは一睡もしておらず、それに付き合っているマトリフももちろん寝ていなかった。
ガンガディアは手の届く範囲の本は片っ端から抜き取っていく。そして全部抜き取ると、マトリフに本を戻させる。どうやらガンガディアは本が読みたいのではなく、本を抜き取ることに楽しさを感じているらしかった。
「あー」
ガンガディアがマトリフを見て声を上げる。マトリフはのっそりと起き上がると、落ちている本を拾って本棚へと戻していく。何度これを繰り返しただろうか。もう数えきれない。途中で本を抜き出すことをやめるように説得もしてみたが、ガンガディアは頑なに本へと固執した。他の遊びを提案してみたり、美味しそうなもので釣ったりしてみても、ガンガディアは本棚から離れなかった。
マトリフは諦めてガンガディアの好きにさせていた。いずれ飽きるだろうと思うが、今はまだその兆しはない。頭がクラクラする。肉体の疲労よりも、この果てのない意味のわからない行動を繰り返すことを脳が拒否していた。
「……もう勘弁してくれ」
ガンガディアはマトリフが本を入れたそばから落としていく。落とされる本は痛んでいくが、それに対する感情は既に失せていた。
「おーい、マトリフいるか?」
その声がマトリフには福音のように聞こえた。それは聞き間違えるはずもないロカの声で、続いてアバンの声もする。
「お邪魔しますね」
マトリフは掠れた声で返事する。すると二人が本棚のほうまでやってきた。アバンは散らばった本を見て目を丸くさせている。ロカは苦笑しながら頷いていた。
「大丈夫かマトリフ。やつれてるぜ」
「見ての通り大丈夫じゃねえよ」
「そのようですね」
久しぶりに友の顔を見てマトリフは気持ちが晴れていくのを感じた。するとローブがぐいと引っ張られる。見ればガンガディアがマトリフの後ろに隠れてローブを引っ張っていた。アバンは屈んでガンガディアのほうを見る。
「随分と大きくなりましたね。以前見たときはまだ目が開いてませんでしたし」
「ああ、最近は食欲旺盛だし活発に動くし……っておい、なにしてんだ」
マトリフの後ろに隠れているガンガディアは、マトリフのローブを捲り上げてその中に頭を突っ込んでいる。しかしマトリフのローブにはガンガディアが入れるほどのスペースは余っていなかった。マトリフは捲られたローブを押さえる。
「やめろって、おい」
「人見知りしてるんじゃないか?」
ロカが言う。マァムにもあっただろ、と言われて、マトリフは一時期マァムに会うたびに泣かれたことを思い出した。
ガンガディアはマトリフのローブに頭を入れて脚にしがみついているが、尻は丸見え状態だった。だが本人は隠れられていると思っているらしい。側から見れば大変に滑稽な状況だった。マトリフは深いため息をついてあらゆることを諦めた。
だがアバンもロカもそんな二人を見て微笑ましいと思っても笑いはしなかった。
「マトリフ、あちらのテーブルに差し入れを置いておきますね。食べやすいものを作ってきたので」
「飯を食ってる間はオレたちがそいつのことを見ておくから」
「お前ら……」
マトリフはじわりと熱いものが込み上げてきた。そうすると急に空腹を覚える。マトリフは鼻を啜った。
「じゃあ朝飯にするか。おいガンガディア、飯だぞ」
ところがガンガディアはうんともすんとも言わない。マトリフの脚にしがみついたまま動ことしなかった。
「……こっちに持ってきましょうか」
マトリフはガンガディアにしがみつかれたままアバンの作ったサンドイッチを食べた。
そしてアバンとロカが帰ってから、ガンガディアはようやくマトリフのローブから出てきた。ガンガディアはあたりを見渡して、マトリフ以外に誰もいないと確かめているようだった。
「サンドイッチ食うか?」
マトリフはサンドイッチが入ったバスケットをガンガディアに見せる。ガンガディアは見慣れないからか、サンドイッチを警戒しているようだった。マトリフはサンドイッチをひとつ手に取って、ガンガディアに見せるように一口食べた。
「美味えぞ」
するとガンガディアは安心したのか、サンドイッチを鷲掴みにした。大きく口を開けて一口で食べる。するとガンガディアは目を輝かせた。
「全部食っていいぞ」
ガンガディアは手を伸ばしてはサンドイッチを掴み口へ運んでいく。その食べっぷりは見ていて気持ちのいいものだった。
あれはオレの真似だったのだろうかとマトリフは思う。昨夜、マトリフは本を読もうと本棚から本を抜き取った。ガンガディアはそれをじっと見ていた。そこからガンガディアの本の抜き取りが始まったのだ。
ガンガディアは実によくマトリフのことを見ている。それは嬉しいような後ろめたいような気分だった。正しい模範など示せるはずもなく、またそんな気もない。
ただ、ガンガディアが幸せであってほしい。マトリフはそれだけを祈っていた。
***
「ほれ、焼けたぞ」
呼びかけるものの、ガンガディアは洞窟の入り口から動こうとはしなかった。マトリフは焚き火で魚を焼いている。しかしガンガディアはそれを遠くから見ていた。
串に刺した魚はいい焼き色が付いていた。ガンガディアはいつも魚を生で食べているが、たまには焼くのもいいだろうとマトリフは思ったのだ。この魚は脂が多いから焼けば煙が多く出る。マトリフは洞窟の外に出て薪に火をつけた。それを見ていたガンガディアは洞窟の入り口に立ったままこちらへ来ようとしなかった。いつもは食欲旺盛なのに魚が焼きあがってもピクリとも動かない。それどころか何かに怯えた様子でこちらを見ていた。
「どうした?」
もうすぐ夜になる。とっくに腹を空かせている時間だった。マトリフは焼いた魚を手にガンガディアのそばまで行くが、ガンガディアは逃げるように洞窟の中へと走っていく。
「おい、ガンガディア」
何を恐れているのだろうかとマトリフは首を傾げたが、焚き火を見てハッとした。
ガンガディアは火が怖いのだ。ガンガディアは爆発して燃えた。もしかしたらそれが原因で火が怖いのかもしれない。
マトリフはすぐさま焚き火を消した。燃えかすから煙が上がる。
「ガンガディア」
マトリフは洞窟内でガンガディアを探した。食料棚にも本棚にもいない。最後に開けた寝室で、ガンガディアはベッドの上でシーツにくるまっていた。
「ガンガディア、悪かった」
シーツを被った背に触れる。するとガンガディアはマトリフに抱きついてきた。火は怖いのに、その火を放ったマトリフを拠り所にしている。それは矛盾しているようだが、ガンガディアには他に頼る相手はいない。
「もう火は使わねえから」
ガンガディアはぐいぐいと顔をマトリフの胸に押し付けてくる。そのしがみつく力の強さで骨が折れそうだった。
「あー! あー!」
それが怒りなのか恐怖なのかわからない。ガンガディアはまだ意味のある言葉を喋れなかった。赤子の喃語のような発声に、それでも意思を感じる。
「怖かったな。怖かったんだよな」
トロルの成長は充分に研究されていない。トロルどころか魔物の記録は人間の書物に少なかった。マトリフはこれまでトロルについての書物を読み漁ったが、トロルの、しかもデストロールの単為生殖についての記載などあるはずもなかった。
だが、あの灰の中から卵を拾い上げたあの時から、孵るのが誰であろうと守り続けるとマトリフは決めていた。
「焼いてない魚はまだあるぞ。それを食うか?」
しかしガンガディアはマトリフにしがみついたまま離れなかった。マトリフはもう何も言わずにガンガディアを抱きしめ続けた。
やがて寝息が聞こえてくる。その寝息が深くなるのを待って、マトリフはガンガディアをベッドへと寝かせた。ガンガディアはマトリフが抱き上げられる重さを超えている。ただ持ち上げるだけでマトリフは息が切れた。
ガンガディアの腹に布団をかけてやる。少し前までは一緒に寝ていたベッドは、ガンガディア一人でいっぱいになっていた。マトリフはベッドのそばに座ってガンガディアの手を握る。
ガンガディアの目尻に涙が乾いた跡があった。マトリフはそっとガンガディアの顔に手を触れる。
このガンガディアには顔から首にかけての刺青はない。卵から孵ったこいつが、ガンガディア本人であるはずがなかった。だがマトリフはガンガディアであると思いたかった。
「……そんなに早く大きくならなくたっていいんだぜ」
その成長を嬉しく思いながら、どこか寂しくもあった。ガンガディアは自分だけを頼っている。それを失いたくなかった。
そのままマトリフも眠ってしまった。翌朝、軋んだ体を起こせば、ガンガディアが寝ていたベッドは空になっていた。
「ガンガディア」
よろけながら立ち上がる。ガンガディアを呼びながら洞窟内を探していると、外に人影があった。朝陽が差し込んでいてその姿がよく見えない。
「ガンガディア?」
マトリフの声にその人影が振り向く。だがそれは大きな姿だった。あまりの大きさにマトリフは見上げる。
それはガンガディアだった。マトリフが見上げるほど大きな姿で、筋肉質な体をしている。それはあの闘技場で最後に見たガンガディアと瓜二つだった。
「あー!」
ガンガディアは屈託のない笑みを浮かべている。しかし顔に刺青はなく、眼鏡もない。それにガンガディアはこんな顔でマトリフを見はしなかった。
「ここにいたのかよ、ガンガディア」
裸じゃねえか、と手を伸ばす。すると何の迷いもなくガンガディアはマトリフの手を掴んだ。
***
ふわりと暖かいものを感じて目を開ける。肩にブランケットがかけられていた。見ればそばにガンガディアが立っている。
「ここで、寝る、だめ」
ひとつひとつの言葉を区切るようにガンガディアは言った。生真面目そうな表情に思わず笑みが浮かぶ。
「ああ、そうだな」
書物をしていたがいつの間にかうとうとしていたらしい。インク瓶を遠ざけてから背伸びをした。眠っていたはずなのに体は重苦しい。マトリフは書きかけの本を閉じて立ち上がった。
「……もう夕方か」
洞窟には緋色の光が差し込んでいた。ガンガディアは屈んでマトリフのローブの端を掴んだ。
「マトリフ、ごはん」
「そうだな」
ガンガディアの意思表示は随分と上手になった。今では感情的にならずに言葉で伝えることが出来る。
ガンガディアの体が急激に成長してから十数年が経つ。あれからマトリフはガンガディアに言葉を教えてきた。ガンガディアは多くの単語を覚えたが、それらを滑らかに繋げて喋るのはまだ苦手だった。以前のガンガディアがどのように言語を習得したかはわからないが、それは簡単ではなかったはずだ。
何か食べるものはあっただろうかと棚を覗く。マトリフだけなら数日はもつ食料が、ガンガディアには一回分の食事だった。昨日森で採ってきた果物は既に無くなっている。
「今から釣りってわけにもいかねえしな」
「私、森、行く」
「それなら一緒に行くぞ」
「大丈夫、マトリフ、疲れる」
ガンガディアはマトリフの肩に手を乗せるとゆっくりと撫でた。歳を重ねるごとに体は思うように動かなくなっている。特に今日は疲れが溜まっているようだ。
「じゃあ気をつけるんだぞ。魔物に会っても人間に会っても、逃げてこいよ」
「わかる、私、できる」
ガンガディアは何度も頷いて洞窟を出ていった。ガンガディアは賢い。言葉が上手く出ないだけで、多くのことを利口に考えることができた。
マトリフは洞窟に戻って椅子に腰掛けた。書きかけていた本を開く。それはガンガディアに宛てて書いたものだ。マトリフは自分の死後に残されたガンガディアが困らないようにとこれを書いていた。ガンガディアなら一人でだって生きていけると信じている。だがマトリフはガンガディアを残していくことが怖かった。こんな本で助けになることなんて無いかもしれない。だがもし、ひとりぼっちになったガンガディアを少しでも支えることができたらと、そう思うと書かずにはいられなかった。
だが書き始めてみると、何を書けばいいのかわからなかった。この世界で起こるあらゆることは理不尽だ。助けになる言葉など思いつかない。
マトリフはペンを手に取る。頭を悩ませながら、金の儲け方についていくつか書いていく。非合法すれすれな方法についてまで書いたところで、ふとガンガディアの帰りが遅いと気付いた。
外を見れば日は沈んでいた。波の音は絶え間なく続く。それがなぜか不安を掻き立てていた。
「……なにかあったのか」
森は洞窟のすぐそばだ。迷うこともないし、この時間帯なら人間は近寄らない。魔物に出会ったとしても、大抵の魔物ならガンガディアを見ただけで逃げ出してしまう。
大丈夫だと思いながらも、マトリフは呪文で浮き上がって森に向かって飛んでいた。暗い森へと入り、木々を避けながら飛ぶ。マトリフに驚いた魔物たちの声が聞こえた。
「ガンガディア!」
ガンガディアなら遠くからでもマトリフの声が聞こえるはずだ。マトリフは何度も大きな声でガンガディアを呼んだ。だが返事はなく、その姿も見えなかった。
***
嫌な想像ばかりが頭を過った。ガンガディアの名前を呼ぶが、森は嫌に静かだった。息を吸い込むと肺が軋む。自分の声が必死さを帯びていることに気付く冷静さが、ガンガディアに何かが起こったのだと告げていた。
森は奥へと行けば行くほど険しくなる。細かな枝が頬を引っ掻いた。マトリフは手をかかげると呪文を唱える。するとあたりは煌々と照らされた。
マトリフは目を凝らす。すると遠くの木々の隙間に青い巨体が見えた。
「ガンガディア!」
一直線に飛んで木々を避けると、青い巨体が振り向いた。マトリフは安堵して伸ばした手をぴたりと止める。
それはガンガディアではなかった。だがデストロールだ。ガンガディアに似ているが、顔や体付きは違う。体はガンガディアよりも大きかった。
「人間か」
デストロールが言った。ガンガディアの他にもデストロールが存在したことにマトリフは驚く。
するとそのデストロールの影にガンガディアがいるのが見えた。ガンガディアはしゃがみ込んでいる。
「ガンガディア!」
マトリフはすぐさまガンガディアに駆け寄った。見たところ怪我は無さそうだ。
「大丈夫か」
「マトリフ……私、は」
ガンガディアは顔を上げるとデストロールを見た。
「彼、は、私、の……仲間」
辿々しく綴られた言葉にマトリフは目を見開いた。
「私と、彼は、同じだ」
ガンガディアは嬉しそうだった。デストロールも頷いている。
「そうだとも。数少ない同胞よ」
そのデストロールは少しガンガディアに似ていた。トロルにはない知能を持っているという点では同じなのかもしれない。
「地上にデストロールがいると聞いて探していたのだが、ようやく会えたよ。そうだ、君。人間の……ああ、そうだ君だよ。どうやらこの彼は、そうガンガディアは、まだ生まれて間もないのだろう。まだ百年にも満たないようだ」
デストロールは鷹揚な様子でガンガディアとマトリフを見て言った。
「魔界には数少ないが私たち同胞がいる。よければガンガディアを魔界へ連れて行こう。見たところ、ガンガディアはデストロールとしての生き方を学べていないようだ。単為生殖はただでさえ記憶の引き継ぎが難しい。我々と一緒にいるほうが彼のためだと思うが、どうだろうか?」
デストロールは早口で捲し立てるとマトリフの回答を待った。マトリフは突然のことに否定の感情ばかりが浮かぶ。
「いきなり現れて魔界だと……」
マトリフはガンガディアを見た。ガンガディアは真っ直ぐにデストロールを見ている。
「ガンガディア」
マトリフは呼びかけた。ガンガディアの視線がこちらに向く。
「お前はどうしたい」
「私……私は」
ガンガディアはその頬に笑みを浮かべた。
「私は、仲間のところに、行きたい」
まるで初めて親を見つけたような眼差しでガンガディアはデストロールを見ている。信頼と喜び。そういった感情を含んだ目だった。
マトリフは自分でも信じられないほど傷ついていた。ガンガディアが選ぶのは自分だと疑いもなく思っていたからだ。これまでガンガディアと過ごした時間が走馬灯のように過ぎる。だがそれは一瞬だった。
「そうか」
笑みを浮かべようとして頬は引き攣った。情けないほどに胸の内は取り乱している。
「……じゃあ、元気でな」
手でも振ればいいかと思ったが、震えるその手を見せられなくてマトリフは手をきつく握った。
するとガンガディアは不思議そうに口を開いた。
「マトリフも、一緒……一緒に行こう」
ガンガディアはマトリフも一緒に魔界へ行くと思っていたらしい。マトリフは首を横に振った。
「オレは人間だ」
「知っている、マトリフは、人間。私とずっと一緒にいる」
「違う。お前はデストロールで、魔界へ行く。オレは人間で、ここに残る」
そこでようやくガンガディアは悲しそうな顔をして首を横に振った。
「私とマトリフは、ずっと一緒にいる」
ガンガディアは屈むとマトリフに向かって両手を伸ばした。ハグして欲しいときにガンガディアはこうする。だがマトリフはそれを拒否した。
「お前は仲間のところへ行け」
「マトリフも、一緒!」
「駄目だ。オレはもうすぐ死ぬ」
するとガンガディアは怒ったように近くの木を殴り倒した。
「マトリフも! 一緒! 一緒に行く!」
「いいか、ガンガディア。人間は長く生きても百年ほどだ。今すぐじゃないにしろ、オレは死ぬ。そうしたらお前は一人になっちまう」
「マトリフは、死なない! なぜそんなことを言う!」
ガンガディアは泣いていた。牙を剥き出しにして唸るように泣いている。悲しい思いなんてさせたくなかった。だがそれは早いか遅いかの違いでしかない。
「だからお前は仲間のところへ行け。これはいい機会だ。これでオレも肩の荷が降りる」
「嫌だ! マトリフも一緒に行く!」
ガンガディアは勢いよく手を伸ばすとマトリフを手で掴んだ。握り潰すほどの力でマトリフの体を掴む。
だがマトリフは手に魔法力を込めるとガンガディアに向かってマヒャドを唱えた。ガンガディアは驚きで手を離す。ガンガディアは驚きと恐怖を感じたようにマトリフを見ていた。マトリフがガンガディアに手をあげたのはこれが初めてのことだった。
「……あの洞窟には帰ってくるな」
そう言ってマトリフはルーラを唱えた。ガンガディアを置いて景色は遠ざかる。
洞窟の前に着地してマトリフは叫んだ。込み上げる感情を発散させるためだけの意味をなさない叫びは暗い海へと吸い込まれていく。
マトリフはいつの間にか流れていた涙を拭うと、洞窟に入って本を手にした。それはガンガディアのために書いていた本だ。
マトリフはその本を手にしたまま火炎呪文を唱えた。本は一瞬で炎に包まれる。
ガンガディアには自分しかいないのだとマトリフは思ってきた。だがそれは間違いだった。ガンガディアには彼を助けてくれる同胞がいる。あと少ししか生きられないマトリフより、ずっとガンガディアを助けてくれるだろう。
本の燃えかすが地面に落ちた。それをマトリフは足で踏み潰す。
「今度こそ本当の別れだな」
マトリフは洞窟を出るとルーラを唱えた。もしガンガディアがこの洞窟に戻って来ても、マトリフはいない。そう思わせなければいけなかった。
暗闇のなかマトリフが降り立ったのは地底魔城の闘技場だった。星明かりだけであたりは真っ暗だった。
マトリフは屈むと地面に触れた。全て風が運び去ってしまい、何も残ってはいないだろう。だが燃え尽きたガンガディアの欠片が少しでも残っているような気がして、マトリフは地面に触れた。
「……早くオレを連れて行け」
その声に応えるように強い風が吹いた。それはまるで竜巻のように天へと昇っていく。
***
マトリフは風に導かれるように空を見上げた。何かがおかしい。張り詰めたような空気を感じて思わず空に舞い上がった。
するとさっきまでマトリフがいた場所に剣が突き刺さる。見ればアンデッドがいた。しかも一体ではない。暗闇から湧いて出たように闘技場を囲んでいた。向こうに敵意があるのは間違いないだろうが、ここで戦っても利はない。
マトリフは中空に浮かんだままルーラを唱えた。マトリフはアンデッドの中に人間を見た気がした。その人間がアンデッドを率いているように見えたのは見間違いだろうか。
マトリフは森の上空でルーラを解除した。先ほどまで静かだった森が喧騒に包まれていたからだ。魔物の呻き声や咆哮がいたる所から聞こえてくる。まるで全ての魔物が混乱でもしているかのようだった。
「……なんだってんだ」
異常事態であるのは一目瞭然だった。だがそれがどんな理由であるのかを考える前にマトリフは動いていた。
「ガンガディア!」
先ほどの場所まで飛んでいくとガンガディアはいた。蹲って震えている。だがデストロールはおらず、代わりに小さな魔族がいた。老人のような小さな魔族は耳障りな笑い声を上げている。
マトリフはガンガディアのすぐ横に降り立った。魔族に目を向けながらガンガディアを背に庇う。
魔族はマトリフに驚きもせずに癪に障る笑みを浮かべていた。その桁外れの魔法力に只者ではないとわかる。
「何者だ」
魔族はそれに答えずに視線をガンガディアに向けた。なんだと思う間もなく視界がぶれた。青い拳が体にめり込んでいる。ガンガディアに殴られマトリフは吹き飛んだ。
天地が何回転かして背が硬いものに叩きつけられる。一瞬気が遠くなったが、すぐに大きな声が響いた。
ガンガディアが咆哮を上げていた。それは叫びですらない。意味を成さない言葉が耳をつんざいた。
マトリフは気力を振り絞って顔を上げた。ガンガディアは何かに耐えるように地面を叩きつけている。それはまるで邪気に取り憑かれたかのようだった。
「……まさか」
強大な邪気は周囲にも影響を及ぼす。破壊衝動がそれの最たるものだった。その邪気を持つ者が地上に現れたということだ。
マトリフは自分に回復呪文をかける。だがその手を踏みつけられた。あの魔族が高い笑い声を上げている。
「いくらハドラー様の邪気が破格とはいえ、自我を保てないとは所詮はトロル。探し出すまでもなかったものを」
魔族の言葉にマトリフは瞠目した。魔王ハドラーはアバンが倒したはずだ。だが魔王ならこれほどの邪気も頷ける。おそらくこの魔族がデストロールに化けていたのだろう。
「あの野郎……また世界征服なんてくだらねえこと抜かしてやがんのか」
魔族は蔑んだ目でマトリフを見下ろした。そして踏みつけたマトリフの手をさらに踏みにじる。
「せいぜい喚くがいい。大魔王様の崇高な目的は人間などには理解できぬわ」
魔族はそう言ってからせせら笑うようにガンガディアを見た。
「……だいたい、あんな木偶の坊を軍団長になど出来るはずもない。いくら魔王軍古参であろうと、一度は人間に敗れておる。軍団長はワシが務めるのが最適であろうに」
魔族は苛立ちをぶつけるように手のひらに魔法力を高めた。それは渦巻く炎となって掲げられる。
「勇者一行の一人でも手土産にすれば、少しはワシの心象も良くなるじゃろう」
火炎呪文が振り下ろされる。呪文を相殺したくても、回復呪文すらかけられていない体では腕すら動かせない。
「マトリフ!」
***
マトリフは青い腕に抱えられていた。見上げればガンガディアの横顔が見える。地上から浮き上がっているのだと気付いて見下ろせば、先ほどの魔族が喚いているのが見えた。
「早く回復を」
ガンガディアの声は至極冷静だった。先ほどまでの凶暴さは見られない。マトリフは自分に回復呪文をかけてから自らの呪文で浮き上がった。ガンガディアの手がマトリフから離れていく。ガンガディアは眼下の魔族を睨め付けていた。
「あれの始末は私がつける」
言うなりガンガディアは魔族に向かって呪文を唱えた。マトリフはそれを信じられない気持ちで見つめていた。
生まれ変わったガンガディアは呪文を使えなかった。言葉が上手く発声できないためなのか、別の理由からなのか、何度試しても呪文は発動しなかった。
だがガンガディアは呪文を使っている。かつてのガンガディアが使っていたような呪文をだ。それに先ほどのやり取りも、邪気に支配されているようには見えなかった。強い意志があれば邪気に支配されることはないという。かつてのガンガディアもそうだったはずだ。
ガンガディアは魔族を追い詰めていた。呪文と肉弾戦を組み合わせて戦うガンガディアに、魔族のほうが押されていく。
「小癪な! 大魔王様に逆らうつもりか!」
魔族は叫ぶと懐から何かを取り出した。勝ち誇った表情から、それが危険なものだとわかる。
マトリフはルーラを唱えていた。ガンガディアの真横に降り立って止まることなくその体を掴む。そのまま更にルーラを唱えた。加速して夜空に向かって舞い上がっていく。
行き先のイメージが曖昧だったせいなのか、マトリフとガンガディアが降り立ったのは何もない荒野だった。
ガンガディアは自力で着地したが、マトリフは体に異変を感じて着地のバランスを崩した。体が痺れている。あの魔族は毒でも撒いたのだろう。マトリフは解毒呪文を唱えるが、すぐには回復しなかった。
「おまえは無事か?」
ガンガディアに向かって言ったが、返事はなかった。訝しんで見れば、ガンガディアは葛藤するようにマトリフを見ていた。その表情はこれまでと明らかに違う。マトリフに無条件の信頼を寄せていた表情ではない。
「ガンガディア」
「……大魔道士」
ガンガディアは手を顔へとやった。それはまるで眼鏡を押し上げるような仕草だった。だが眼鏡はない。ガンガディアもやってからそれに気づいたようだ。
「おまえ……記憶が」
「そのようだ。今ははっきりと以前のことが思い出せる」
その喋り方も以前のガンガディアと同じだった。突然変異種は交配相手がいないために単為生殖をするという。そのときに記憶も引き継ぐ場合があると書物にはあった。
マトリフは座り込んだままガンガディアを見上げた。まだ体が痺れていて動けない。
するとガンガディアはマトリフから背を向けた。
「気付いているだろうが、ハドラー様が復活された」
その態度からガンガディアの意思がわかった。さっきは魔族相手に戦っていたが、ハドラーと対立するつもりはないらしい。マトリフは深く息をついた。
「……らしいな」
「私はハドラー様を探す」
「へえ……何故だ?」
全てを思い出したのなら、ガンガディアはハドラーにつくだろう。わかっていたがマトリフは疑問を投げかけた。
ガンガディアは深く項垂れた。噛み締めていた口がゆっくりと開く。
「……私がトロルだからだ」
振り絞られた声は静かに空気を震わせた。マトリフは痺れて動かない手を見つめる。ガンガディアに言った言葉がそのまま返ってきてしまった。
「オレは人間だ」
「ああ。だからこそ、ここでお別れだ」
魔物と人間は共に生きられない。生き方が違うのだから、それぞれ干渉し合わないのが精一杯の譲歩だろう。それがお互いのためでもある。そして利害が一致しないのであれば、衝突は避けられない。
「今さら忠誠を誓うような相手なのかよ」
「一度誓った忠誠を覆すものではない。だから今度会ったとき、私たちは敵同士だ。あなたにも躊躇なく攻撃する」
拒絶を突きつけられ、一瞬だけ悲しみを感じた。それが痛みの余韻になる前に、マトリフは吹っ切れてしまった。
「じゃあ今ここでやってくれ」
マトリフの言葉にガンガディアが振り返った。目を見開いてマトリフを見ている。マトリフは微笑んでみせようと思ったが、やはり上手くはいかなかった。
ガンガディアと暮らした日々が脳裏を過る。夜が怖いと泣いていた姿が、魚を美味そうに頬張っていた姿が、屈託なく笑う姿が浮かんでは消えていく。
「オレはおまえを傷つけてられない。だからここで終わらせてくれ」
ガンガディアは何も言わずにマトリフのいるほうを見つめていた。しかしわざとマトリフと目を合わせずに、その向こうにある何かを見ているようだった。ガンガディアは冷静さを保とうとして表情がこわばっている。
「どうした、やらねえのか」
挑発ではなく、促すようにマトリフは言った。これまで何度もそうやってガンガディアに声をかけてきた。食べたり寝たりを共にしていると、どうしたってそんな言葉が多くなる。暗闇が怖かったガンガディアの瞼に手のひらをそっと載せて、暗くても怖くないのだと囁いた夜がどれほどあっただろう。
ガンガディアはマトリフに手を伸ばした。鋭い爪がこちらに向く。マトリフは目を閉じた。何も怖くはない。ガンガディアにだったら何をされても構わなかった。
「マトリフ」
伸ばされたガンガディアの手はマトリフを抱きしめていた。
「私は昔の私ではない。あなたに守られて育った私だ」
あの穏やかで忙しない日々はガンガディアの中に残っていたらしい。ガンガディアは昔のように顔を擦り寄せた。
「私があなたを殺せるはずがない」
ガンガディアの震える声が耳をくすぐる。マトリフは動かない手を伸ばしてガンガディアの背に回した。
「馬鹿だな……どうするんだよ」
ガンガディアはゆっくりと首を横に振る。ガンガディアにはハドラーを裏切ることなんて出来ないだろう。
「とりあえず、あいつらを止めるか」
「あいつら?」
「魔王と勇者だよ。今ごろ殴り合いでもしてるかもしれねえ」
あの魔王なら復活してすぐにアバンを探すだろう。ならばそれを止めることがまず最初の一歩なのかもしれない。
***
見上げた木々の隙間から差し込む光が輝いて見えた。手のひらをかざすが、その眩しさを見たくて目を細める。流れの遅い雲のせいか、マトリフは眠気すら感じていた。
するとあたりが影った。すぐにその正体がわかってマトリフは顔を綻ばせる。影は次第に鮮明になり、やがて巨躯が地面に着地した。
「遅れただろうか」
「いいや。おまえはいつも時間通りだよ」
あまりにも退屈な会議を早めに切り上げて出てきたのはマトリフのほうだった。アバンは苦笑していたが、時間を有効に使えないあいつらが悪い。
「今日もいい報告が出来そうにない」
ガンガディアが申し訳なさそうに言うが、それはマトリフも同じである。人間の魔族への忌避感は深く根付いており、共生など夢のまた夢のように思える。
「ハドラーとバーンはどうしてる?」
「今は一緒にウェルザーのところへ。帰ってきたらダイ君と一緒に遊びたいと」
「あいつらだけは平和なんだよなあ」
何がどう転んだのか、今のバーンは地上を手に入れることよりも、ダイを強く育てることに執着している。そのバーンのお目付け役としてハドラーが一緒にいるのだが、ハドラーも強くなっていくダイを見て満更でもなさそうだ。本気で戦うのが楽しみだとガンガディアにこぼしているらしい。
「魔界にいる魔物の中には地上で暮らすことを望む者もいてね。話が進まないのはそのためだ」
地上の土地は限られている。今ある人間の土地を魔物に明け渡すことを許す人間は多くない。魔物は魔界にいればいいと憚りなく言う人間もいるくらいだ。
「ウェルザーもか?」
「ああ。だがそれはバーンとハドラー様がどうにかすると」
「長期戦だなこりゃ」
「私は初めからそのつもりだったよ」
ガンガディアはマトリフの横に座った。マトリフはそれを待っていたかのようにガンガディアの体にもたれかかった。
「……疲れているのかね?」
「まあな」
ガンガディアはマトリフの背に手を当てた。その背をゆっくりと撫でていく。それが心地よくてマトリフは目を閉じた。するとガンガディアが小さく笑う気配を感じた。
「これでは昔と逆だ」
「ああ? 昔ってほどじゃねえぞ」
マトリフはガンガディアを寝かしつけるために背を撫でたこともあった。確かに立場が逆転しているが、それがどうしたのだとマトリフは思う。
心地よい風が吹き抜けていく。ガンガディアは遠くを見ていた。
「私たちはお互いに認め合って必要としているが、それを世界に求めてもよいのだろうか」
ぽつりとこぼされた言葉に、マトリフは目を開ける。ガンガディアは言葉を続けた。
「人間も魔物も手を取り合って生きれたらいいと私たちが思うのは、私たちの関係を世界から認められたいからだ。だがそうあることを世界にも求めることは、あまりにも身勝手ではないだろうか」
「相変わらず小難しく考えてやがるな」
マトリフはガンガディアの手を掴むとその上に自らの手を重ねた。ガンガディアの大きな手に指遊びのように指を絡める。くすぐるように、誘うように、マトリフの手はガンガディアの手で気ままに動く。
「そうだろうか?」
「いがみ合ってるより、仲良しこよしのほうが良いだろ」
「そう望む者ばかりでもない」
「じゃあおまえはどう思うんだよ」
「私はあなたと一緒にいたいと思う」
「じゃあ答えは出てるだろ」
マトリフは手を天に向ける。手のひらから揺らぎが生まれ、風になって天へと昇っていく。木の葉も一緒に巻き上げられ、その様子がまるで竜のように見えた。
「オレはおまえとずっと一緒にいたいんだよ。そのためなら、なんだってする」
天に昇る風は輝きながら散っていく。風に氷の欠片が混ぜられていて、それが太陽の熱で解けて煌めいたからだ。ガンガディアはその美しさに目を見張る。
「あなたと一緒なら、私は嬉しい」
伸ばしたマトリフの手をガンガディアが包む。
長いあいだ二人は寄り添っていた。陽光は暖かい。夜には雨になるだろうと勇者は空を読んでいたが、今はまだ心地よい陽気で、夢が二人を長閑な丘へと連れていった。