拝啓 春へ置き去りにしたあなたへ おしまいはほんとうに突然で、それはよく澄んだ、春のおわりだった。
「ご無沙汰しております」
警察官の夫と、私と、それから子犬のハロ。ふたりと一匹暮らしのマンションに突然訪れたのは、篤実そうな男性だった。
夫の部下だという男性は、『風見』さんと名乗った。彼と顔を合わせるのは確か、これが二度目。高い背丈と、あのひととは正反対に吊り上がった瞳がつよく印象に残っている。
どうぞこちらへ。そう室内へ促した私に、春の空気をまとった彼は、ただ首を横に振った。
「きょうは、こちらをお届けに伺ったんです」
そうして手渡されたのは、真っ白な陶器の蓋物だった。私の両手のひらにちょうどぴったり収まるほどの、つるりと丸くて軽いそれ。薄い生成りで包まれているのに氷みたいに冷たくて、受け取った途端、言いようのない焦燥感が背を駆け抜けた。
弾かれるようにして、風見さんを見上げる。固く閉ざした口を、彼は意を決した面持ちで開いた。
「ご主人が、……殉職されました」
カラン。聞きなれない渇いた音が、両手のなかで長く響く。指先に伝うのは体温のない、無機質なばかりの振動。この箱に入れられているものがなんなのか。訊かなくたって、分かってしまった。
「……零さんが? ……亡く、なったんです……?」
風見さんの口にした『ジュンショク』の意味が、どうか想像と違うものでありますようにと、そんな思いを込めて問いかける。どうか、どうか嘘だと言ってくださいと。
けれども彼は、くすんだ声色で
「はい。申し訳、ありません」
そう首肯して、ただ、あまりにも低く頭を下げた。
冬が深まるころ。夫──降谷零さんは、いつもと同じようにここを出た。
「いってきます」
彼は普段と変わらず穏やかに笑んでいた。その背に負うものの大きさを、微塵も感じさせないくらいに。
それ、なのに。
「葬儀はすべて、我々で済ませました。ご連絡もできず……ほんとうに、申し訳ありません」
「……いえ」
「ご存知の通り、我々がお話できることは多くありません。しかし、お伝えできることもあります。……旦那様がどちらでどのように亡くなられたか、お聞きになりますか」
理解しているつもりだった。彼の仕事も、崇高な志も、その秘匿性も。けれども空っぽに近い箱のなか、か細く鳴りつづけるそれに、私は無知を突きつけられる。
箱が泣くのは私の指先が震えているからだと、ようやく知った。
「……ごめんなさい、いまは、ちょっと……」
気がつけば、小さなそれを抱きしめていた。ひんやりとした冷たさが肌を刺す。
突然、頭のなかを、亡骸になったあのひとが掠める。血に塗れ、硬い地面に打ち付けられる零さんの肢体だ。私は彼のそんな姿を、見ていないはずなのに。
太陽を連想させる零さんの肌。それも血が通わなくなってしまえば、この陶器と似た温度なのだろうか。
全身が恐怖に凍てついてしまいそうで、そんな思想を引き止めるように、風見さんが私を強く呼び止めた。
「奥様、」
言伝を。そう聞こえて、やっとのことで彼を見つめる。
「……言伝……?」
「はい、ご主人から預かりました。『部屋の引き出しを開けてほしい』……と」
彼と選んだ、陽当りのいいこの3DK。ひと部屋はふたりの寝室で、もうひと部屋は、なにかと機密性の高い職にいる彼のためだけの書斎だった。短い言伝に浮かんだのは、その書斎のローデスクにひとつだけある、鍵のかかった引き出し。
なにがしまってあるのと尋ねても、彼は「大切なもの」と、いつも私をはぐらかした。
「それから……突然こんなことになって、大変なことばかりかと思います。お困りごとがあったら、こちらまでご連絡を。我々がお力になります」
懐から取り出した手帳の一ページを切り取って、風見さんは私に差し出す。綴られているのは恐らく、彼のビジネスナンバー十一桁。
思考は鈍っているのに、私はちゃんとあのひとの妻だった。「必要ありません」と、咄嗟に指先を引き込めていた。
「ありがとうございます、でも、お気持ちだけで十分です」
「……旦那様がそう言うようにと?」
「いいえ。あのひとならきっと、周囲を頼るよう勧めてくれます。ただ私は……彼の仕事の重さを、ほんのわずかですが見ていましたから」
夫から垣間見えた職務は多忙極まりないものだった。風見さんもきっと、彼とおなじ。連絡先を受け取れば、余計な負担を強いることになってしまう。
彼は私の言わんとすることを飲み込んでくれたようで、メモを持つ手をすぐに引いた。
「降谷さんは、お強いですね」
その言葉に、どうにも答えられないでいたときだ。
──くぅん、アン、アン。
「あぁ……ワンちゃん」
風見さんの足元に、リビングで眠っていたはずのハロがじゃれつく。それも、零さんに遊んでもらおうとするときの仕草そっくりに。
「ハロ、こっちへおいで」
初めて会うひとには警戒を怠らない子なのに。ハロを抱き寄せて風見さんに謝るけれど、彼は私たちを見据えたまま、少しのあいだ動かないままで。
「……本日はこれで。また伺います。……ほんとうに、申し訳ありません」
最後にもう一度ふかく腰を折った風見さんを、玄関の扉が重い音を立てて見送った。
途端に部屋のなかは静まり返る。このたった数分で崩れ、これから消え去ろうとしている私の日常。怒りや哀しみなんてない。それどころか、全身が真っ白になったみたいに、一切の感覚がおぼろげだ。
この子にも、あのひとが亡くなったと伝えなくては。腕のなかでしきりに鼻を鳴らすハロと目線を合わせて、しかし私はなにも言えずに固まってしまう。
「……だいじょうぶ。大丈夫だからね……」
代わりに振り絞ったのは、確証なんてない言葉だけ。不思議そうに首を傾げたハロの頭を撫ぜて、フローリングへそっと降ろした。
「つくえの引き出しを開けてほしい」
風見さんがおしえてくれた言伝だけが、いまの私を突き動かす。数カ月、使われることのなかった彼の書斎。無意識に扉をノックしてしまったのは、ここを訪れるときの癖だ。
「あれ、どうした……って、もうこんな時間か。ごめん、もしかして夕食に呼びに来てくれた?」
そんな零さんの声がいまにも聞こえてきそうな、たった四畳半の和室。中身はほとんど空っぽで、ローデスクとスタンドライト、必要最小限の書物だけが置かれている。リビングはふたりが気に入ったインテリアでめいっぱい彩ったくせに、彼は「僕が仕事するだけの場所だから」と、この部屋に生活感を持ち込むことはしなかった。
春なのに冷たい風が、開け放していた窓からひゅるひゅると舞い込んでいる。
デスクに陶器の箱を置くと、風と一緒に滑り込んだのだろう、どこかの桜の花びらが生成りのうえを音もなく撫でた。
零さんのいう〝引き出し〟はきっと、部屋の隅に置かれたローデスクの収納、そのいちばん上だ。差し込む形の鍵の代わり、取っ手のとなりにダイヤルがはめ込まれているシンプルなもの。ダイヤルは決められた四桁の番号に揃えないと開かない。開けてほしいと言うくらいなのだから、私にも分かる数字が鍵に違いないとは思うけれど。
試しに、彼の誕生日に合わせてみた。これはちがう。
つぎは、彼の愛車のナンバー。……これもちがう。
それから、彼が警察学校を卒業した日。……これも、ちがう。
カチカチと回すダイヤルの数字を考えながら、その一方で私はどこか凪いでいた。零さんがこの世を去った実感がまるでない。だって私は彼の葬儀もあげていない。死に顔すら、見ていない。
「……ほんとうに……」
ほんとうに、彼は亡くなってしまったの?
不安とは違った焦りが胸の内側で轟くのを、息を殺して耐え忍ぶ。少しずつ、少しずつ、思考が理解に追いつこうとしているのだ。
目に入った左手の薬指には、結婚指輪と婚約指輪がひとつずつ。ふたつを重ねづけた指が凍えている。引き出しは、固く閉ざされたまま開かない。
あのひとのことだから、私にも予想できる数字にしていると思ったのだ。私とまったく関わりのない、あるいは彼と同等の推理力が必要になるような番号にするとは考えづらい。だからほかに思いつく四桁といえば、彼と私の記念日くらい。
一縷の望みに賭けて、結婚記念日に合わせてダイヤルを回す。私の人生のうち、もっとも幸せだった日のひとつ。いっそ違う番号だったらなんては、やけにあっさりとした解錠の音に虚しく打ち砕かれてしまう。
「……うそでしょ?」
かすかに漏れ出した声は、彼が定めた四桁に対してと、引き出しに収められていた中身に向けたのと。だってそこに詰まっていたのは、思いもしないものばかりだった。
桜色のちいさな封筒と、見たことのない預金通帳、それから……A4用紙が収まっている透明のファイル。
通帳は、いつも利用しているのとは違う銀行のものだ。彼の苗字をもらった私の名前が表紙に記されている。もちろん、自分で作ったものじゃない。
「僕と、一緒になってくれますか」
根がまっすぐな零さんだから、プロポーズも真摯すぎるくらいだった。私が断るはずないのに、自信家な彼にしては珍しく、瞳が不安げに揺れていて。迷わず頷いた私に婚約指輪を丁寧な仕草で嵌めながら、あの日、彼は重ねて囁いた。
「精一杯きみを大切にする。でも、身勝手だけど、きみを置いていかない約束はできない」
……あぁ、そっか。こういうことだったんだ。
いつの間にか彼でいっぱいになっていた人生が、こんなにあっけなく、とつぜん脆く崩れ去る。どうしよう、どうすればいい? 冷えた指先の感覚はおぼろげだ。
私の理解も、覚悟も、なにひとつ間に合っていない事実が余計に首を締めあげた。
どくどくと騒ぎ立てる心臓には気づかないふりをして、引き出しから薄い冊子を取り上げる。記憶のなか、彼の声が蘇るようだった。いつだかに交わした日常の隙間。
故人の通帳は凍結される。死後、現金を引き出すには手続きが必要になってしまうから、遺産を渡す相手の名義で通帳を作っておくのがいちばんいい。僕なら、きみの誕生日を暗証番号にして、それを作る。
「まぁ、僕が死んだときはきみに償恤金が入るだろうし、お金の心配は少ないだろうけどね。それさえ受け取ってくれたなら、姻族関係終了届を出すも出さないも、後はきみに任せるよ」
「……姻族関係、終了届って」
「死んだ僕と離婚するための届け。僕はいやだけど……きみがほかの誰かと結婚を考えることがあれば、必要かもしれないだろう?」
そう言われて、私はなんて答えたんだろう。縁起でもないこと言わないでと声をおおきくしてしまって、彼にひどく驚かれたっけ。
浅く息を逃がし、通帳を開く。きっと彼はいまのために、あの会話で私に教えようとしてくれていた。手のひらサイズの冊子には案の定、私の給与ではない一定額が毎月決まった日に振り込まれている。はじまりは、彼と婚約をしたあたりから。私とハロがしばらく生活をするのには十分すぎるほどの額。振込人の名義に見覚えはない。でも私のためにこうしてくれるひとは、両親か、彼以外に浮かばない。そして私の両親には、偽名をつかう理由なんてなかった。
現実味を帯びていく生々しい焦りが、鼻の奥を熱く焼く。私は震える手で、ファイルの中身をデスクのうえにひっくり返した。出てきたのはこのマンションに関係する書類だとか、いろんな契約書だとか、私がこれからひとりで生きていくために必要なものたち。それから──。
「提出するときは、風見に預けてほしい」
そう付箋で書き添えられた、白い紙が一枚。たくさん並んだ枠のなか、提出の日付だけが空欄で、ほかの欄はすべて、彼の字で丁寧に埋められている。用紙の左上には、姻族関係終了届の文字。届を出すも出さないも、きみに任せるよ。零さんの言葉がまた、彼の声そのままで頭に響く。
「……やだ、」
いやだ、いやだ。どうして、ねえ、零さん。──勝手にひとりで、行かないでよ。
衝動的に、狂ったように書類の束を叩きつけ、最後に震える指で封筒を開いた。
薄い。中身は便箋一枚きり。どうか、手の込んだいたずらだと種明かしをしてほしかった。彼はまだ生きていると、もうすぐここへ帰ってくると、そういったことが書いてあるように祈った。
けれどもそこにあったのは、右肩上がり、やや癖のある文字が、真ん中に一行だけ。
──ごめん。愛してた
たった、八文字。
彼から手紙を受け取ったのはこれが初めてなのに、こんなにあっけなく、彼は筆を置いてしまった。
「……零さん……?」
だれより失くしたくなかったひとの名が、震えるくちびるから零れ落ちる。ひとりよがりな〝さよなら〟だけを置いて、お別れすらさせてもらえないまま、彼はひとりで逝ってしまった。私に勘づかれないようにしながら、自分がいなくなったあとの全部をこんなに整えて。
最後にこの家を出た日。彼はもう、帰ってこられないと分かっていたのだ。
「っぅ、……ふ、っぐ、……う、あ、あぁ…………!」
堰を失くしてしまったように、嗚咽が喉を突き破る。は、は、と千切れる呼吸だけがやっとで、瞼を閉じてもいないのに、涙はひとりでに頬を滑っていった。
たまらない。いまだけ何かに縋りたかった。思わず、デスクの隅に追いやられた陶器の箱を搔き抱いた。肌を刺すのは変わらず、固くて冷たい感触。ほんのひと欠片だろう彼が、箱の内でむなしく鳴るのだ。
こんなにちいさく成り果ててしまった、たったひとりの愛しいひと。
私のもとへ帰ってきたのはこれだけ。手元に彼の写真は一枚もない。愛するひとを看取ることも、弔うことすら許されなかった。お別れのことばすらも返せていない。零さんに愛されていた証明は、今となってはこの引き出しの中身だけ。
「……っ」
一方的に押しつけられた過去形の愛も、彼の遺財も、償恤金も。ぜんぶ要らない。ほしくない。彼さえいてくれたなら、私はいちばん幸せだった。他にはなにも望まない。それ、なのに。
本能だろう、涙の隙間で喘ぐように呼吸を繰り返す。すん、と鼻を鳴らしたときだ。熱のこもる鼻腔へ、淡い香りが飛び込んでくる。
それは紛れもなく、彼の、
「……っ!」
胸を内から殴りつけられるような衝動に耐え切れず、私は素早く立ち上がる。走るように窓へ駆け寄り鍵を締め、カーテンを手繰り寄せて畳にへたり込んだ。この部屋の窓を開けた今朝の自分を、私は心底、恨めしく思う。
だってこれじゃ、彼がここに居た微かな証までもう、消えてしまう。
◇ ◇ ◇
夜に片足を踏み込むころ、風見は警視庁へと戻った。
緊張に急く足で一本の長い廊下を進み、ある事務室のドアを開ける。ドアプレートに「公安部」と記された部屋の片隅には、ここの所属ではないひとりのため、パーティションで簡易的に作られた半個室があるのだ。ドアもないそこをノックして声を掛ければ、
「入れ」
低い声の合図が戻ってきた。
「……ただいま戻りました」
「遅かったな」
「申し訳ありません、すこし話し込みまして」
間仕切りのなかにはデスクと椅子、それから小さな書類棚が備え付けられている。窓辺に置かれた申し訳程度の観葉植物はいつからあるのかも分からない。デスクに書類を積み上げた風見の上司は、緩慢に、こぼれそうなほど大きな瞳で彼を見上げた。──妻には「亡くなった」と知らされたはずの降谷零、そのひとだ。
透き通った双眸の下にここ最近できたのは、彼の容貌に似つかわしくないくすんだ隈。潜入先の喫茶店でアルバイトをしていたころ、アイドルのように騒がれていた男性とは思えない。
彼の顔を見た風見の脳裏に、彼の妻の姿が蘇る。頼りない指先があの陶器を受け取る瞬間や、自分の言葉でどんどん温度を失ってゆく表情や、芯を通そうとする声が震えていたさままで、すべて。これまでに対処したどんな仕事より、罪悪感で身が焼ききれてしまいそうだった。
「彼女は? 元気だったか」
「……はい。ワンちゃんも、変わりはなさそうでした」
「うん、それならいい。すまないな、損な役回りを押しつけて」
損な役回り。
降谷は風見にそう言うけれど、いちばんに灰を被っているのは、他でもない彼自身である。
「降谷さん、ほんとうに……これでよかったのですか」
「なにがだ」
「あなたなら、あの方を悲しませず……もっと別の方法で、穏便に離れることだってできたでしょうに……」
そう、降谷はなんだって器用にこなせる。それはもちろん仕事だって、諜報だって、当然のように常人の何倍も。〝飛田〟として垣間見た探偵の彼は、情報をかすめ取るためほんのわずかに接触した対象との別れだって、尾を引くようにはしなかった。
あっけなく、対象が自身との繋がりや興味をぱったり失ってしまうよう仕向けるのだ。緻密にターゲットを誘導し、ほしい反応を引き出して、こころまで自在に操ってみせた。
あのひととの別れだって、そうしようと思えばできたはずなのに。
「そうだな」
「そうだなって……わざとそうしなかったんですか」
「ああ……だって僕の面も、彼女のまえじゃ役に立たないだろうから。あの子には
秒と待たず暴かれてしまうよ。……それに」
「それに?」
「……彼女が僕を好きでなくなってしまうことが、恐ろしくてたまらないんだ」
ほかの誰が敵になったっていい。ただ、あの子には、僕を好きなままでいてほしい。細い声でそう続けて、降谷はそのおおきな手で顔を遮ってしまう。
隠される寸前の面持ちがやっぱり彼の妻にどことなく似ていたから、風見は無意識に、ぐっと奥歯を嚙みしめた。
そりゃあ、あなたのわがままは叶うでしょう。でも、あのひとは? 風見の言伝を聞いて、いまにも消えてしまいそうに瞬きをした彼女を、夫であるこのひとは見ていないのだ。
──降谷零は殉職した。それは、降谷自身が人生を賭けて生んだ嘘。
彼は近く、かの組織を壊滅へ追いやるための作戦を主導する。自分ひとりの身だって守りきれるか危うい世界に降谷はいて、しかもパートナーはごく普通の女性だ。国を護るため骨を砕き身を粉にする彼は、ひと一倍に聡明だから。大事なものを抱えたままでは、それが真っ先に狙われてしまうことをよくよく知っていた。
切実な願いごと嘘で塗り固められた死は、形こそ歪であれ、降谷が最愛へ手向けた彼のすべてだった。
そんな降谷のやり方に納得ができないのは、部下である風見のほうだ。損な役回りで結構。職業柄、ヒールにされることにはもう慣れた。彼の妻にだってどう思われようが構わない。けれども。
「……いくらなんでも、お互い思い合っているのに離れてしまうだなんて」
「風見」
「は」
「くどいよ」
「……申し訳ありません」
「もう決めたんだ。僕のわがままが大きいけれど、彼女を巻き込まないためにはこれが最善だ。第一……僕が彼女と一緒になれたこと自体、奇跡みたいなものだったんだから……」
降谷は稀に、この世で最もうつくしいことのように、妻の話を風見に聞かせた。しかしその妻を無理やりみたいに手放して、ふたりに残るのは一生涯の痛みだけ。
いまならまだ止められるのに。あのひとをこれ以上、泣かせずに済むのに。
溶けきらない風見の念。それは降谷にすこしも届くことはない。こんなに大掛かりな噓なのだ、当然だけれど、彼の決意はひどく堅い。
「だいたい、僕はもうすぐ、ほんとうに亡霊になってしまうかもしれないんだぞ。噓が噓じゃなくなるかもしれない。そのときは風見、申し訳ないが頼んだよ」
「やめてください、縁起でもないことを」
「あぁ……それ、妻にもむかし同じことを言われたなぁ」
「まさか、奥様にまで『自分はいなくなるかもしれない』なんておっしゃったんですか?」
「だって本当のことだろう。例えばなしの延長線だよ。……でも、大丈夫。あの子は僕が思っているよりずっと、ずーっと強いから……」
まるで自分に言い聞かせているような、彼の言葉たち。
血も涙もない。抜きんでた手腕で身内からそう評される彼なのに、いまその面影はどこにある? 風見のまえで天井を仰ぐのは、血の通った男性だ。ただただ、たったひとりを不器用に守ろうとしているだけの。
大切なものばかりを置きざりに、彼らの春が暮れてゆく。
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