命がやどる「ぬぅ」
「どうしました、そんなにむくれて」
「じめじめが鬱陶しい」
「そりゃあ、部屋干ししてますから」
梅雨になると鯉登さんはご機嫌斜めになる。そのせいで何かに当たるといったことはないが、拗ねた子供のように面白くなさそうな顔をしがちだ。湿気で髪がまとまらなくなるとのこと。俺からすればいつもの変わりないように見えるが、本人にしか分からない拘りがあるのだろう。この時期は手鏡をよく見ている気がする。
さらに、今年は洗濯を部屋干しすることが多く余計に不快指数が上がったようだ。生憎と洗濯機の乾燥機能の調子が良くない。
「全部クリーニングなり、コインランドリーに持って行けばいいだろう」
「うちで洗濯できるのに勿体ないでしょうに。除湿機もあるんですから、当てておけば数時間で乾きますよ」
「ぐぬぬ。早く洗濯機を買い換えよう」
「お得な時に買いましょう」
シャツやら何やらを並べて干していく。まとめて干したせいで暖簾のようになった。暖簾の向こう側で鯉登さんが立ち上がり、こちらへ歩み寄ってくる。両手を合わせる形で隙間に挟み込みズパァと開く。
「洗濯終わったか」
「はい、もうこれで」
「じゃあこっちに来い」
「はいはい」
鯉登さんは洗濯で冷えた俺の指先を握った。早く早くと急かされるようにソファへ誘われ、鯉登さんの膝に座らされる。いつもこれをされるが重くないのだろうか。そのうち骨にひびが入らないか心配である。
鯉登さんは俺のうなじに鼻先を埋めすんすんと匂いをかいだ。
「月島ぁん」
「はい……ちょっと、くすぐったいです」
「うふふ」
「もう」
くすぐったくなった肌に甘く葉が立てられた。どうやら、ご機嫌を取り戻してくれそうだ。
「なぁ、あれなんだ」
「ん……なんです?」
互いに気だるさを隠さず、ソファの上で重なりあっていると鯉登さんが視線を持ち上げた。視線の先には先ほど干したばかりの洗濯物がずらりと並んでいる。時折、除湿機の風が当たり揺れていた。
鯉登さんはそれを指差し、さらに続けた。
「月島はあんな服持っていたか。私は持ってないぞ」
「……どれ?」
「あの黒い線が入った」
示す先には見慣れた服がぶら下がっているだけだ。鯉登さんのシャツ、俺のTシャツ。タオルや靴下であるとか、いつもの同じものしかない。鯉登さんは目を擦りそこを凝視している。
「ストライプ……ではないな。黒い線が何本か引いてあって曲がったりしてる。何か漢字も書いてある」
「……気のせいですよ。俺には見えません」
「お前、私の視力を知っているだろう。じゃあ何だ、あれは服の幽霊か?」
確かに、鯉登さんの視力はしっかり2.0ある。どこぞの民族のようにかなり遠くにあるものも見通せ、たまに驚かされる。さてどうしたものか。
「……あんまりはしゃぎすぎて、おかしくなっちゃったんですかね」
「む、言うじゃないか」
「怒りました?」
「うん。どうしてくれるんだ」
「じゃあ」
首に腕を回し引き寄せると、鯉登さんは驚きつつもすぐに吸い付いてきた。艶のある髪が顔にかかり視界がわずかに狭まる。舌を絡めながら髪の隙間から向こうを見やると、おぞましい刺青が間抜けに揺らめいていた。
生き物の、人の形をしていないものは果たして幽霊なのか。あれは人の形をしていないが、人そのものだ。生きている人間を包んでいた正真正銘の。鯉登さんはあれの正体に気づいていない。気づかせてはいけない。決して。