夏橙1 ミーンミンと夏を象徴する鳴き声をBGMに、脳天からジリジリと強い日差しが容赦無く降り注ぐ。降水確率0%最高気温38度と予報された本日のはばたき市は夏真っ盛りといった気候だ。そんな真夏日に上下黒のスーツを着込み、あまり使用機会に恵まれない同色の革靴を履き、焼けた鉄板のように熱されたアスファルトの上を御影小次郎は歩いていた。駅から続くゆるやかな坂道を登っていく途中で、つきあたりに白地に黒の筆文字で書かれたシンプルな立て看板が見えてくる。看板には「橘家式場」とある。そう、今日は彼の同僚の告別式なのだ。
御影がその知らせを受けとったのはその日の受け持ち授業を全て終え、畑の様子でも見に行くかと早速理科準備室でスーツからいつものツナギ姿に着替え終えた頃だった。デスクの上、採点中の期末テストが扇風機の風で飛ばないよう重し代わりに置いていたスマートフォンがブブッと震えた。適当な本を代わりに置いてスマートフォンを持ち上げた御影は、通知画面に表示された送信者の名を見て首を傾げた。
「教務主任から?……なにかあったかな」
夏季休暇の課題方針も、次回の課外授業計画も学年主任を通して提出済で不備はないはずだ……たぶん。学期はじめや大きな学校行事前にしか連絡を回してこないはずの上司からイレギュラーなメールが届いたとなると、嫌な予感しかしない。
恐る恐るメールアイコンから仕事用のアドレスを呼び出して新着メールを開封した御影は「え」と自分でも気づかぬうちに声を発していた。メールの内容は美術を担当していた橘先生が亡くなったことを知らせるものだった
交通事故だと聞いていたわりにその死に顔は綺麗に整っていた。もちろん納棺師の働きも大きいのだろうが、なるべく苦しまずにいけたのならその方がいいと思う。
職員室特有のピリついた空気に慣れなくて、なにかと理由をつけ単独行動ばかり選んでいた御影と同じ理由か、はたまた別に理由があったのかは分からないが、橘先生もまた自身のテリトリーである美術室から滅多に出てこないタイプの教師だった。年齢差が3つほどしかないこともあり、相手が副教科担当で話す機会こそ少なかったものの、御影が一方的に親近感を感じていた人だった。
(人の命が他の動物の命より重いとは思わない。だけど、人ひとりが死ぬということはこれだけ多くの人間に影響を及ぼすことなんだよな)
沈痛な面持ちで弔辞を読み上げる故人の家族や、自分と同じ立場の同僚に、彼を慕っていた美術部員たち。あまりに突然訪れた彼との別れに対する悲しみが会場全体を包み込んでいる。僧侶が読み上げるお経を聞きながら、皆が視線を落とし時折涙を拭ったりと故人を悼む様子を見せる中、一人だけピンと背筋を伸ばし、真っ直ぐに前方を見つめる女性がいた。
御影の右斜め前に座っていた桃色の髪の女性は自分の番がまわってくるとすっくと椅子から立ち上がり、遺族の方に一礼して落ち着いた様子で作法に倣い焼香を済ませると、元の場所へと帰ってきた。席へと戻ってくる際に見えたその顔を見て、彼女の正体に気付いた御影はハッとする。
小波美奈子──橘先生を一番に慕っていた元美術部員だ。二年前はばたき学園を卒業したのち、一流美術大学に進学してからも精力的に作品作りに取り組んでいると風の噂で聞いていた。
自分が三年間受け持っていた卒業生との思わぬ形の再会に御影はわずかながら動揺した。在学中にそこまで深い関わりは持たなかったものの、相手も流石に数年間毎朝HRで顔を合わせ、学校行事も共にしてきた担任の顔を忘れるほど薄情ではないだろう。となれば、現役教師である自分が話しかけない選択肢はない。でも……よりによって再会の場が葬儀場になるなんてな。
斜め前の席へと戻ってきた彼女は再び、会場前方に飾られた遺影をまっすぐに見つめている。美術部のホープと謳われていた彼女がどんな顔をしているのか、どんな気持ちで亡き恩師を眺めているのか、今の御影に想像することは難しかった。
参列者全員が献花を済ませ、棺の蓋が閉じられる。棺が乗せられた霊柩車が式場を発つのを見送った。これから彼の肉体は炎で溶かされ灰となり、彼と近い親しい者たちによって骨を拾われ、あるべきところに納められる。自分が立ち会えるのはここまでだ。辺りを見回すと、同僚やはば学の生徒たちも徐々に帰り始めているようだ。
(そういえばあの子は?)
自分のすぐ近くに座っていた卒業生の存在を思い出し、御影は彼女がまだこの場を去っていないのか確かめるため会場内に視線を巡らせたが、その特徴的な桃色髪の後ろ姿は案外すぐに見つかった。
影ひとつないカンカン照りの石畳の上で彼女はひとりポツンと佇んでいた。先ほど会場で見かけたときあんなにも堂々としていた態度が嘘みたいに、まっすぐ伸びていた背を小さく丸め、どこか遠くを見つめている。彼女の視線は彼を乗せた霊柩車が去っていった方角を追っているようにも思えた。
熱された地面から立ちのぼる陽炎に釣られるように彼女の小さな背中がゆらゆらと揺れる。その光景を目にした御影は、彼女が目を離せば消えてしまう幻のようだと、根拠のない危機感のようなものを感じた。
気付けば、御影は二年ぶりとなる元教え子の名前を呼んでいた。
「小波! 久しぶりだな」
「え……御影先生?」
「あぁ、覚えててくれたか」
「ふふ、そう簡単に忘れませんよ? せんせぇみたいな人は珍しいですから」
「おいおい、それどういう意味だよ」
彼女の卒業式ぶりとなる会話は思いのほか和やかに始まった。そうだ、こういう話し方をする子だったな、真面目ちゃんは。久方ぶりの「せんせぇ」という彼女の呼び方に御影は懐かしさを感じざるをえなかった。
「少し時間あるか? ひさしぶりにおまえの話が聞きたくてさ」
「え。……いいんですか? はば学の先生や在校生と一緒に帰らなくて」
「今日はいいんだよ。先生としてじゃなくて、橘先生の同僚の御影小次郎として出席してるから」
それにもう俺たち以外学校関係者は帰っちまったみたいだし、と続けた御影の言葉を聞いて、それなら……と彼女は誘いに応じた。
駅から近いファミリー向けのレストランやファーストフード店ではなく、あえて式場と駅の間の中途半端な位置に建つ小ぢんまりとした喫茶店を御影が選んだのは、無意識に同じ学校の知り合いと出くわすことを避けてのことだったのかもしれない。
注文から間もなくして、アイスコーヒーとアイスティーを昔ながらのステンレストレイに乗せて、店員のおばあさんが運んできてくれた。どうやら老夫婦ふたりで経営している店のようだ。席数やメニュー数は多くないものの、控えめの音量でクラシックが流れ、染みついたコーヒーの香ばしい香りがどことなく歴史を感じさせる店内の居心地はなかなかのもので、御影は心の内でいい店だなという感想を抱いた。
「わたしの話を聞きたいってことでしたけど……。御影先生はいったいどんな話が聞きたいんですか?」
呑気にストローからよく冷えたアイスコーヒーを啜っていた御影は、向かいの席に座る彼女からの突然の問いかけにパチパチと目をしばたたかせた。
「べつになんでも? 近況報告でも作品の制作秘話でも。悩み相談だって俺でよければ受け付けるぜ?」
わざと軽く聞こえる口調で応じる御影の言葉に「相変わらずだなせんせぇは」とひとつ笑いを漏らした彼女は、しばらく口を閉ざして迷う素振りを見せたのち、こう切り出した。
「わたしの……友達の話なんですけどね」
「その子には好きな人がいたんです。彼女より年上で……先生をやっている人でした。あるときからその子は先生に絵を教わるようになって──どんどん絵の世界と彼自身にのめり込むようになりました」
「先生の教えもあって、先生の母校でもある美大に合格したその子は、卒業を機に告白をしました。でも、先生は首を縦に振らなかった。当たり前ですよね、それまで一度もそういう素振りは見せずにただのいい生徒として振舞っていたんだから……」
「でもね、先生は卒業後もその子が先生を先生として慕うことを咎めはしなかった。だから、大学生になってからも彼女は頻繁に会いに行っていたんです、先生のアトリエに。画材とスケッチブックとF6キャンバスを詰め込んだ大きなバッグを引っ提げて。高校時代の大半を費やした美術室での時間と同じように彼の前で絵を描きました」
「そうして、大学とアトリエを往復して絵を描き続けているうちに彼女は大きな賞を取りました。先生ももちろん喜んでくれました。お祝いをしてくれると言うので、じゃあ先生とふたりでどこか出かけてみたいとその子が言うと、先生は『じゃあ君が成人したら一度デートでもしてみましょうか』って困ったように笑ったんです。翌月二十歳になる予定だった彼女は、それはもう舞い上がりました」
──『友達の話』というのは自分に関する言いづらい悩み事やエピソードを相手に打ち明ける際の常套句だ。交友関係の狭い御影でもそのくらいの知識は持っている。それゆえに、彼女が「好きな人がいた」と話し始めたときから、御影には既にこの話の終着点がなんとなく見えてしまっていた。それでも、話が進むにつれ、あぁなんてことだと絶望せずにはいられなかった。
御影は自分は記憶力がいい方だと自負している。実際に彼の脳内には一度担任を持ったことのある生徒の顔、名前、生年月日、部活動、アルバイト先がもれなく記憶されている。記憶違いでなければ、彼女の誕生日は──
「7月20日。……今日、誕生日だったんです、わたし」
「小波……」
「あ、わたしって言っちゃった。……もう、いいか」
あははと笑いながら、誤魔化すようにアイスティーを混ぜる右手がかすかに震えている。御影が先ほど、彼女の後ろ姿を見て感じた危うさは間違いではなかったのだ。きっと、会場で座っていたときも、棺の中に白百合を供えたときも、霊柩車が自分たちを置いて走り去るのを見送るときも、ずっと彼女は耐え忍んでいたのだろう。
「……辛いな」
「はい……。その筈なのにどうしてでしょう、全く泣けないんです。先生が亡くなったと聞いた日から今日まで、一度も。あまりに……突然のことで」
「……心が現実に追いついてないのかもな」
「そうかも、しれません」
カランと下に沈んでいた氷が溶けて崩れる音が鳴る。高校時代のキラキラした思い出という面はさておいて、人生経験だけは教え子よりも5年以上のリードがあるゆえに何かアドバイスの一つでもできるかもしれないと考えた自分が浅はかだったと、御影は己の軽率な判断を恥じた。身近な人物の突然の訃報に呆然としている若者を前に、二年もの間彼女から離れていた部外者がかけれる適切な言葉なんて無いに等しい。
「……ごめんな。なんでも聞くなんて言っておきながら、なにも言葉が出てこねぇ」
「いいんです。それにせんせぇが声を掛けてくれなかったら、わたし誰にも話せなかった」
「誰にも話したことなかったのか?」
「はい。わたしのせいで橘先生に悪い噂でもたったら申し訳ないですし……」
でも──と続ける彼女のまなざしには涙こそ見えなかったものの深い悲しみが滲んでいた。
「ただの生徒じゃ……骨も拾わせてもらえないんですね」
もっと早く、彼女の気持ちを、ふたりの築いてきた関係を知っていたら、なにかしてあげられていただろうか。いや、きっと何もできなかっただろう。あの場でもし自分ひとりが事実を知っていたとしても、それを遺族に打ち明けて火葬場にまでついていくなんて真似、彼女が望むはずがない。
始業式後の初ホームルーム恒例の質問タイム、ときおりよそ見や居眠りを叱った授業中、進路相談室で交わした将来についてのやりとり。そのいずれの思い出も差し置いて、今この瞬間、御影ははじめて小波美奈子という人間と真正面から対峙しているように感じた。
「……そろそろ出ましょうか」
彼女の言葉に御影が店内の古びた壁掛け時計を見上げると、気付けば入店してからもう一時間近くが経過していた。
遠慮する彼女をなんとか言いくるめ、二人分の会計を済ませた御影はさりげなく道路側を陣取ると彼女に合わせてゆっくりと坂道を下り始めた。蒸し暑い昼下がりの空気に晒されて、涼しい店内で一度は引いた汗が再びスーツを纏った背中に滲みだす。隣を歩く彼女に悪いと一言断りを入れてから、御影はその場で上着を脱ぎ、腕にかけた。Yシャツ姿になったことで視界効果的意味でも随分暑さが軽減したように感じられる。
「スーツ暑いですよね。今日も35度超えるって言ってましたし」
「まぁな。これでも夏用の生地なんだけどなぁ」
元々どちらかといえば薄着を好む暑がりの御影に対し、黒いワンピースの上に五分袖の上着を羽織っている彼女の方は汗一つかかず涼しげな顔をしている。そのことが余計に陽炎に立つ彼女の姿を生気のないものに見せたのかもしれない。
駅に着き、反対方面の電車に乗るという彼女をそのまま見送るか迷った末、彼女が背を向けた瞬間、御影はとっさにその身を呼び止めた。
「なぁ! おまえ誰にも今日のこと話せないって言ってたよな」
「……まぁ、はい。この先話すつもりもないです」
「あのさ、もし……もし、今日みたいにひとりで抱えきれなくなったら俺に連絡して来いよ」
「え?」
「あぁ、連絡先もう知らねぇか。えぇと…」
電話番号とメールアドレスを紙に書いて渡すという、実に古式ゆかしい方法を取ろうとする御影の姿を、はじめはポカンと見つめていた彼女は思わずといった様子で笑いを溢した。
「せんせぇ、LIMEは入れてます?」
「あ、あぁ。全然使ってねぇけど……」
「今はねこうやって簡単に連絡先交換できるんですよ。ほら、見て覚えてくださいね」
自分のスマートフォンと御影のスマートフォンを両手に持ち、慣れた手つきで器用に操作する姿はさすがの現役女子大生といった様子だ。
「ほら、これで友達にわたしが追加されたでしょう?」
確認のために送られたスタンプがポコンと音を立て、御影側のトーク画面に表示される。丸くデフォルメされた名も知らぬ牛のキャラクターが笑顔で手を振っている。
「ありがとな。悪ぃなこういうの、なれてなくてさ」
「意外ですね。せんせぇ百戦錬磨みたいな風にも見えるのに」
「おぉーい、それどういう意味だよ」
「ふふ、冗談です。せんせぇが真面目ないい人だってことくらい、わたしも知ってますよ」
ニコリとほほ笑む彼女を見て、御影は仕方ないなといった調子で眉を下げ笑った。落ち込んで言葉を発せないよりかは冗談でも言って笑ってくれてる方がずっといい。
「今更ですけど、ずっと先生って呼ぶのもなんか変な感じですね」
「あぁ、そうか? 気になるなら好きに呼んでくれていいぜ。もう卒業したんだしな」
「んーじゃあコジコジは?」
「それは……勘弁してくれると助かるなぁ」
「ふふ、冗談です」
本日二度目の冗談を披露した彼女はそうだなぁ……と間を置いて、はじめての呼び名を口にした。
「御影さんっていうのも他人行儀過ぎるので……小次郎さん、っていうのはどうですか?」
今まで自分を先生と呼んできた教え子から下の名前で呼ばれるというのは、なかなかドキリとさせられるものだ。たとえ彼女が自分の恋愛対象でなかろうと。
不意に跳ねた心臓を誤魔化しながら、御影はいつもの調子で言葉を返した。
「じゃあ、お返しにこっちは……美奈子、とでも呼べばいいか?」
「わたしは別に構いませんよ。小次郎さんが呼びにくくなければ」
「よし、じゃあ決まりな。まぁ、おまえも忙しいと思うけどあんまり無理すんなよ。この暑さだし」
「はい。小次郎さんも暑いからって裸で寝て風邪引かないように」
「……なんでバレてんだ」
「ふふ、わたしの情報網結構凄いんです」
昨年犯した失態をどこぞの誰かに笑い話として披露したのが悪かったのだろうか。なぜか卒業生にまで知られていることにいささかの居心地の悪さを感じながら、戒めとして今夜はちゃんと服を着て寝ようと、御影は心の中で誓いを立てた。
「今日はありがとうございました。……またね、小次郎さん」
「あぁ、気を付けて帰れよ……美奈子」
まだ馴染みが薄い互いの呼び名が、この夏始まった新しい関係を予告していた。