day 1「不束者ですがよろしくお願いします、フロイド」
「う、うん……よろしく、ジェイド」
簡単な挨拶でこの喜劇は幕を開けた。
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「…………これはひどい」
いつもの余裕のある笑顔のメッキが剥がれかけてひきつっている。それぐらいフロイドが住まいとしているこの部屋はひどい。
瓶が部屋の隅に纏められてスペースを圧迫し、ソファの上にはぐちゃぐちゃのブランケットとクッションがころころとしている。テーブルの上はもちろんゴミが散乱していて、しかもところどころシミのようなものも見える。
「片付け苦手…………」
「ゴミを捨てるぐらいはできるでしょう?」
「うーん、まあ、うん……」
「よくもまあ……生活できました、ねっ」
ぷちりと手に持ったティッシュから伝わる命を潰す感覚にさすがのポーカーフェイスも崩れた。
「………………とにかくまず、片付けましょう」
「はい……」
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「こんなものでしょうか」
「疲れたぁ~……」
帰宅したときは十八時だった卓上のデジタル時計が今は二十一時を指している。たっぷり三時間かけてどうにか玄関からリビング、シャワールーム、キッチンはあるべき生活維持を行うための形を取り戻した。とはいってもほとんどが放置されたゴミで、フロイド自身のものはほとんどなく、玄関とリビングの隅にゴミの袋が置いてある以外はかなりシンプルな――生活できているのが不思議なぐらいの部屋であった。
「普段から少しずつ片付ければいい話ですよ」
「…………」
「こら、目を逸らさないで」
「……あっ、ジェイドお腹すいてない?」
「ええ、ペコペコです」
「んじゃあなんか……アッ、ちょっとまって、もしかしたら……」
「…………あー……そういうことですか」
ゴミがあると言うだけで生活感が薄いこの部屋に申し訳程度に鎮座している冷蔵庫に食材が保管されているわけもなく、開ければミネラルウォーターのボトルが数本転がる空白だらけの空間。ボトルを二本取り出すと一つをジェイドに渡す。パキパキと音をたてて蓋を捻り、中の水で喉を潤す。
「近くにファミレスがありましたよね、それとスーパー」
「へー……」
「あなた……近所のこと何も把握してないのですか?」
「寝に帰ってるって感じだし、帰る時は大体夜中だったり……あっ、コンビニは知ってる」
纏めたゴミの大半はタバコの吸い殻とアルコールの缶や瓶。どれだけ不摂生をしていたのかと不安まじりの批難の目を向ける。そんなジェイドの視線にもどこ吹く風のフロイドはくたくたの長財布とキーケースを引っ掴み「とっとと行こーよ、オレもお腹すいた」とサンダルを引っ掛ける。それを追いかけるようにジェイドもシューズラックからサンダルを取り出した。
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チーズの入ったデミグラスソースのハンバーグに小さいライ麦パンが二つのところをジェイドはたっぷり六つを頼んで綺麗にソースをつけたりバターを乗せたり楽しみながら完食した。この場にアズールがいれば卑しいだのと文句の一つや二つ出ただろうが二十一時も過ぎたファミレスにはそれを咎めるような視線もない、むしろ酔っ払った近所の学生が少し騒がしいぐらいだ。しかしそんな騒ぎよりもトマトと生ハムが乗ったバジルソースの冷製パスタをフォークでくるくるまわしながらニコニコと眺めるフロイドの視線の方がジェイドには気になった。
「そんなに眺めて楽しいですか?」
「うん、するするーって入ってくのちょー面白い。……あっ、コレ食べる?」
「…………一口いただきます」
綺麗に巻き取ったパスタをジェイドに向ければ、少しの逡巡ののちに黒い一筋長い髪を耳にかけ、ぱくりと食いつく。少し恥ずかしそうに、しかし、しっかりとパスタの味を楽しむ。もぐもぐと少しの間をおいて「おいしいですね」と一言こぼす。
「この味好き?」
「ええ。……いえ、もう少しソースの塩味を抑えた方がいいですね」
「それ、ジェイドの好み?アズールの好み?」
「……店に出すなら、ですね。僕はこのぐらいの塩味が好きです」
「よく言えました」
フロイドが本当に知りたいこと、覚えたいことはジェイドの事なのだ。店に出す味なんてその他大勢のための味が知りたいわけじゃない。それなのにジェイドはフロイドが正しく聞き出さない限り、飲み込んで腹の奥にしまい込んでしまうのだからいつだって難しい。それがジェイドなりの甘えだったりするのだが。
「そういえば……相変わらず店の方は順調ですか」
「うーん…………まあぼちぼち? でも二号店出してちょっとは客がそっちに流れたのかあの狂ったような忙しさはなくなったよ」
「それは……働きやすくなったのでは?」
「まあね。そのぶん暇になって考えたくもない事、考えちゃうけど」
伏せた目に睫毛の陰が落ちる。ジェイドはその感情の読めないフロイドの微笑みを美しいと感じた。ジェイドにとって二十年寄り添っていながら初めてみたフロイドの表情。暫く離れている間にもジェイドの脳内で時の止まっていたあのあどけない片割れは、こんなにも陰のある、しかし人を魅了する深い苦みのある表情もできるようになっている。
「なに?」
「はい?」
「ジーっと見つめちゃってさ、惚れ直したの?」
「ええ、ずっとドキドキしてますよ」
「なぁにかわいいこと言ってるの」
「確認します?」
「……シツレイシマス」
身体ごと腕を伸ばしジェイドの胸に触れる。
「……わかんね」
「おや、嘘ではないんですが……」
「実は脈ナシ?」
「恋人になんて言い種ですか」
少し大人気なくむくれたジェイドがフロイドのパスタをスプーンとフォークで攫って自分のステーキ皿に乗せる。自分の皿からごっそりと減ったパスタに「[#「」は縦中横]!」という叫びをあげたフロイドをもろともせずに大きな口でパスタを頬張る。
「ったく、あげるから急に取るなよ」
「……」
「聞いてる?」
「…………」
「口にたくさん入ってれば喋れないかぁ」
「……脈ナシなんていうヒトなんか知りません」
「ごめんって。お詫びに明日の朝ごはん好きなの作ったげる」
「…………あなたが作ったものなら何でもいいです」
「うっわ、一番ハードル高いやつだ!」
うんうん唸り出すフロイドの姿と口の中のしょっぱいパスタに笑みが溢れる。多少離れたところでお互いがお互いに一途なのは変わらず、それだけは本当に取り零すことがなかったことに安堵する。
「フロイド」
「なぁに」
「愛してますよ」
「っ!? あ、うん!」
「フロイドは?」
「うん、うん……大好きだよ」
「……ふふ、わかってますよ」
「なにそれ……」