十二月十八日、夜――。
『親が夜勤だから、来るか?』
届いたショートメールをみて、慌てて上着を羽織る。どうせ何事かと止めるような親はいない。ペケJのエサと水だけ取り替えて、鍵をしめるのもそこそこに場地さんの家がある五階へ一気に駆けあがった。
おそるおそるチャイムを鳴らせば、しばらくの間を置いて、傾いだ音を立てながらドアが開く。出迎えてくれた場地さんは、僅かに驚いたように目をぱちぱちとさせて、フッと破顔した。
「すげぇはえーな、おい」
「は、はいっ」
「三分たってねぇゾ、オマエ本当にオレのこと好きだな」
そんなことはない、と言うことはできなかった。全開の笑顔で迎えられて、顔が熱くなった自覚はあるし、ぐしゃぐしゃと頭を乱暴に撫ぜる手もただ嬉しくてそれ以上何も言えなくなる。
「冷えちまうから、さっさと入れ」
「ハイ、お邪魔します!」
「そんなかしこまらなくていいって言ってんだろ」
「あ、すんません」
しょうがないな、と言う代わりに、オレよりでかい手の平がぽんぽんと頭を軽く撫で回して離れる。もっと撫でてほしい、なんていう考えがよぎって、慌てて振り払った。
通された先は場地さんの部屋だ。
この辺はいわゆるファミリータイプの団地で、一人っ子の場地さんは自分の部屋をもらっている。
普段の外出先でみるよりゆるい私服は、随分と隙がある。部屋着なんだろうなと思って、そういえばオレもパジャマ代わりのシャツとハーフパンツだと気付いた。場地さんはいいけど、オレはもう少しまともな服を着てくるべきだったかと溜息を吐く。でも、せっかく呼んでもらえたのだから、少しでも早く場地さんの元へたどり着きたかったから仕方ないとひとりごちた。
うちと間取りは同じはずの部屋なのに、雰囲気は随分と違う。
どこか温かみのある空気を取り巻いているこの場所は、初めて通された時からずっと大好きな場所のひとつだ。
お互い夕食は済んでいたけれど、小腹が空いていたのでお湯を沸かしてくれた。ペヤングを一口ずつ啜るのは、いつものことだ。
本気でこれ以上の留年はヤバいと考えている場地さんに、勉強を教えることもある。自分の復習にもなるせいか、このところテストの成績だけは大分上がっていた。出席日数や授業態度は最悪だから通知表の結果は芳しくないけれど、模試でもそれなりの偏差値をたたき出していた。やっぱり基礎って大事なんだよな。
教えられてばかりだと遠慮された時には、その話を出すと場地さんもおとなしく助言を受け入れてくれる。
お互い良い方向に向かっているならと、互いの親からもこういうやりとりを止められてはいない。元々、お互い夜ひとりになることが多いのもあって、むしろ夜遊びしなくなってよかったなんて場地さんのお母さんから言われたことがある。
勉強ばかりじゃなく、ゲームしたりして遊ぶこともあるし、特に何をするでもなく、お互い好きに過ごすことも多い。
今日はどちらかというとそういう日だった。場地さんは雑誌を読んでいて、オレはぼんやりテレビを眺めて、ふたりの間に会話はなかったけれど気まずいわけじゃなく、空気はただ優しい。
――日付が変わるとほぼ同時に、携帯が震え出した。
メールの着信を告げる音はやむことなく、メールの訪れをずっと響かせ続ける。
真夜中だってのに遠慮がねえなとクスクス笑いながら携帯を手に取ったオレを、場地さんが訝し気に見やる。
「なんだぁ、こんな時間に」
するりと伸びてきた長い腕が、慣れた風にオレの肩を抱き寄せた。画面をのぞき込んでくる場地さんにどきりとする。
他のヤツだったら絶対許さない舐めた真似も、場地さんだったら嬉しいと思う。
「あー、すいません。うるさくしちまって」
「別にいいけど、なんだ?」
僅かに硬い声に、ああ、何かトラブルが起きたとでも思われたかな、と慌てる。
「いや、あの、今日オレ誕生日なんで……それっス」
「誕生日……?」
「はい。だからなんかあったわけじゃないんスよ」
受けたメールを返しながら、いまだ肩に回されたままの腕に緊張が崩せない。
このまま体重を預けていいものかどうか悩んだけれど、場地さんはまだ雑誌に目を向けている。だったら邪魔にならないように、と居住まいを正した。
そういえばずっと聞きたかったことをきける良いチャンスかもしれない。
「あの、場地さんって、誕生日はいつなんですか?」
「アァ?」
「聞いてなかったな、と思って」
「そういやそうだったか」
普段、気にしてねぇしなぁ、と本当にまったく気のない様子の場地さんに思わず笑ってしまった。
「十一月三日」
「え……」
場地さんの視線は雑誌に向けられたまま、さらりと告げられた日付。
――十一月三日。……それって!
「もうとっくに過ぎてるじゃないっスか!」
「おー」
「いや、おーじゃなくて、なんで言ってくんなかったんですか? オレ、場地さんの誕生日に何もできなかったんスけど……」
そんなのアリか?
たかが中学生のガキにできることなんてそうはないけど、知っていたならドラケンくんにテキヤのバイト回してもらったりクラスのヤツらにテストのヤマ売ったりして多少なりとカネを用意したのに!
ハァア……。
盛大な溜息を吐くと、場地さんがちらりとオレに視線を向けてきた。
「オレだって千冬の誕生日なんもしてねぇじゃん」
「それは別にいいんです! オレがアンタの誕生日を祝ってないってのが問題なんです!」
「わけわかんねぇワ」
面倒なヤツだと言わんばかりに小さく嘆息して、向けられていた視線はまたすぐに雑誌へと戻ってしまう。
だけどオレは気づいていた。普段あまり漫画でも雑誌でも、隅から隅まで読んだりせず、読み飛ばすことの多い場地さんの手がずっと同じページで止まっている。
どちらかというと、何かを思案しているように感じていた。
しばらくの間を置いて、場地さんが雑誌を閉じて床に放ってオレの方へと向き直った。思わず居住まいを正せば、オレが一番好きな笑顔があらわれる。唇の片端だけ僅かにあげる不敵な笑みに、どきりとした。
「ったく、めんどくせぇ。千冬ぅ、小指出してみ」
「はい?」
「いいから、ほら」
場地さんが、握った拳の小指だけを立てて俺に向けている。
「来年の誕生日、祝え。約束な。ゆびきりしといてやっから」
「なんですかそれ……ちっちゃい子じゃないんスけど」
「ちっちゃい子供にんなことしねぇワ」
千冬だからだろ、と続けられた言葉に、心臓がドクンと跳ねる。きっとその言葉は他意はなく、言葉通りのものでしかないのに。
場地さんて、ほんっと……。
そっと絡めた小指は、オレの指先よりずっと熱かった。
「……来年の、千冬の誕生日はオレが祝ってやる」
「いや、それは」
「約束、な」
十一月三日、夕暮れ――。
「馬鹿の一つ覚えみたいで、すんません。でも、他に何も思い浮かばなくて」
墓前に置かれた、半分だけ残したペヤング。
アンタが遺した最期の言葉は、オレだけに向けられていた。
「もっと盛大に祝いたいけど、わかんなくて」
何度も何度も繰り返し、腕の中にいた時のアンタの言葉を思い出す。
「誕生日、おめでとうございます」
――他に、なにも思い浮かばないんだ。