心中デイト 大解散の折、裏切り事件を起こした獅子堂がどこかに連れて行かれてから、半年ほどが経った。渡瀬組という居場所を失った俺は、手元に残った金で細々と暮らしていた。そんなところに花輪という男が現れ、大道寺で管理者として働かないか、と誘われた。誘われたと言えば聞こえはいいが、バックにいるのは大道寺。つまり、実質俺に拒否権はない。曰く、あの件以来獅子堂はエージェントとして働いているらしいが、どうにも仕事に反抗的なため、俺に管理してほしいらしい。最初はあの事件が終わったあとで、もう一度獅子堂に会うことが怖かった。恨んでいると思った。しかし、俺のそんな予想に反して、エージェントと管理者として再会した獅子堂は、昔のように俺の指示に従い、仕事をこなし、エージェントとしての信頼を取り戻していった。一度、なぜ俺を呼んだのか聞いたことがある。返って来た言葉は単純なもので、俺が従うべき人は、今も昔もカシラだけです、と言った。
「カシラやないて。もうお前の上司でも若頭でもなんでもないんや、今の俺は。お前もそうや。やから、いつまでも俺に執着せず、自分の道を生きていけば……」
「俺の人生設計には、カシラ、あなたがおらんと成り立たないんです。……大道寺に来て、こんな未来もクソもない世界に落としておいて、って思うかもしれへんけど、カシラ、ずっと俺の人生の隣に居てください」
あまりに真っ直ぐなその言葉に、思わず返すべき言葉を見失う。もともと、獅子堂への恋心は自覚していた。向こうからの好意にも、薄々気づいてはいた。ただどちらも確信を持てずにこんなところまできてしまっただけだ。もう引き返せないところまで来て、あとは二人飛び込むのだけを待っている。背中を押してくれる何かを待っている。
「……言うたら、最期まで付き合えよ、獅子堂」
かと言って、大道寺で二人最期を迎えるのは嫌だ。仕事をもらい、給料ももらっている現状に不満はない。けれど、せめて最期ぐらいは二人で過ごしたい、なんて思ってしまう。あまりにも甘い理想だ。けれど、任務でいつ命を落としてしまうかわからない生活はもう嫌だった。命のやり取りは、今まで嫌というほど経験してきた。だからこそ大解散を起こし、ヤクザとしての道を断つつもりだった。暴対法があるからまだまともな職には就けないが、いつかはどこか俺の顔を知っている人がいない土地でゆっくり生活したい、と思っていた。そこに獅子堂がいてくれるなら、これ以上の幸せはない。
そう思った時、俺の選ぶべき道は一つしかなかった。大道寺からの逃亡、それ一つだ。計画は誰にも気取られぬように進める必要がある。任務で街に出た時に、獅子堂に相談することにした。ここなら隣の部屋に漏れ聞こえることもない。
「……逃げる、ですか。どこにですか」
「あんま考えとらんな。日本におってもいつか捕まるだけやし、海外とかどうや。渡瀬におった時に偽造パスポート作れるやつ、おったやろ。一か八かの賭けやけど、そいつに連絡とってみる」
「海外に逃げたとして、その後はどうするんですか」
「永住するには国同士のやり取りが必要になるから無理や。まあ、そのまま海外転々としたりとか、日本に戻ってみたりとか。まあ、いろいろ道はある」
「珍しいですね、カシラが思いつきで行動すんのは」
「まあ、半分自棄みたいなもんや。獅子堂、死ぬ覚悟はあるか?」
「あります。カシラと一緒に死ねるなら本望です」
「……そうか」
贅沢なことは言わない。二人で穏やかに暮らして、誰にも邪魔されず愛の言葉をささやきあって、たまに喧嘩して、仲直りして、いつかは老いてどちらかが先に死ぬ。そんなありきたりな幸せが叶うなんて思っていない。ヤクザという道を選んだその日から、獅子堂という男を拾ってから、その男に恋をしてから、一度たりともそんなことを願ったことはなかった。けれど今は強く冀ってしまう。今からでも遅くないなら、もう一度人生をやり直したい。その時に隣にいてほしいのは、獅子堂以外にいなかった。
「……お前が隣におるなら、どんな地獄でもええ」
獅子堂は何も言わずに俺の手を取って、抱き寄せた。確かなものなど何もないこの世の中で、この体温だけは信じていいと思った。
まずは大道寺で働き、十分な資金を作る。そして休暇を申請して、偽造パスポートを作りに行く。全部がうまくいくとは思っていない。海外逃亡が無理なら、どこかのド田舎か東京へ行こうと考えている。田舎は隠れることには適しているが地域社会に出るとどうしても身分がバレやすい。一方東京なら無駄なご近所付き合いもないし、何より木を隠すなら森の中、と昔からよく言っている。別に慣れ親しんだ大阪でもいいが、慣れ親しんだからこそ危ないというところが大きい。その計画を話すと、獅子堂は頷いた。カシラが言うんやから間違いない、と言い切り、すべての計画を俺に任せた。
その計画を思いついてから二年と少しが経った。幸い仕事で命を落とすこともなく、獅子堂はエージェントとして完全に信頼され、俺も大道寺の管理者の中でそこそこの地位についていた。休暇を取りたい、と花輪に持ち掛けると、少し渋い顔をされた。
「いくらあなたと彼がバディとはいえ、休暇まで揃えることはないでしょう。もし渡瀬組を復活させたいとでも思っているのなら、ここで二人とも処分しますよ」
「アホ言え。あいつはともかく、俺は大解散に賛成の立場やったんやで? それにお互いもう飽きてもうてん、人殺したり、血ぃ見たりすんのが」
「……まあ、命と精神を擦り減らす仕事ですからね。いいでしょう。休暇に関しては上司に相談しておきます」
「ああ、おおきに」
数日後、休暇申請は無事受理された。俺たちはさっそく支給されている携帯で、昔渡瀬で偽造の身分証を作っていた部下に電話をかけた。しかし、その電話が繋がることはなかった。
「まあ、そう上手くいかへんよなあ。獅子堂、どうする? この車は大道寺のもんやから、もしかしたら位置情報がバレてるかもしれん。携帯もや。身分証もあらへんから、車と携帯は新しく調達できへん。……獅子堂、お前にはどこまでの覚悟があるんや」
「カシラと一緒なら、どこへでもついていきます」
獅子堂の目に迷いはなかった。それなら、いいか。出発は夜にした。車に乗り込み、エンジンをかけ、山道を下っていく。車の中は静かだった。気まぐれにFMラジオをつけた。流行りの曲が流れていたが、ほとんど三年ほど俗世と離れていたので、知っている曲は一つもなかった。
もっと速く、もっと遠くへ。自由に駆ける足があるうちに、誰の手も届かない手つかずの世界へと飛んでいきたい。誰も知らない土地。誰もいない場所。そんなものはないと知りながら、山を下っていく。今まで手にしていた幸せを全部捨ててもいいから、獅子堂だけは隣に居てほしい。もう一度やり直したい。お前の隣で生まれ変わりたい。どこで道を違えたのだろう。カーナビは機能していない。ヘッドライトの光は手前しか照らさない。それでも走る。
山道を下りしばらくすると、吹田市のあたりに出た。大道寺の大阪支部は豊野のあたりにあるらしい。そのまま大阪湾方面へ向かう。嫌というほど見た大阪の繁華街は、淀川の向こうにあった。そちらへ行ってもいいか、と思ったが、淀川沿いに兵庫との県境を走った。
「カシラ、どこ向かっとるんです」
「んー、なあんも考えとらん」
「海外行くんと違いますか」
「せやなあ。どうしようなあ」
獅子堂は少し焦りを見せたが、大人しく助手席に座っていた。昔は逆だったな、なんてことをふと思う。大人になった今でさえも、正しい道なんてどれなのかわからない。ヤクザになったことが道を違えたことなら、そこで出会ったお前に恋することも間違いなのだろうか。わからない。確かなものなんて何もない。ずっとそれを見つけるために生きていくんだと思っていたが、案外答えは近くにあったらしい。
大阪と兵庫の県境あたり、淀川の河口付近に車を停める。川の水と海の水が混じり合う。ざざ、ざざ、と遠くから波の打ち付ける音が聞こえる。
「……こんなところに来て、どうするんですか、カシラ」
「このままどっかの漁船盗んで、違法入国するんもアリやな」
「ただのちっこい漁船で海外なんか行けるんですか」
「行けへん。言うてみただけや」
「それなら、尚更何をするつもりでっか」
「そうやなあ……」
秋の終わりの風は、無情に俺たちから体温を奪っていった。もうすぐ冬が来る。近年の冬は厳しくないとはいえ、路上生活するには酷な季節だろう。力のない者から死んでいく。そんな季節が来る。弱いものが淘汰される季節が。それで死ぬのは嫌だった。
「……大阪湾に沈めたろか、なんてベタなセリフ、言う時が来るとはな」
その言葉ですべてを察したのか、獅子堂は押し黙ったままだった。
「大阪湾は嫌か? 別に東京湾でも、博多湾でも、台湾でもかまへんで」
「カシラ、最後のは国です」
「知っとる。冗談や」
「……どこだっていいです。カシラと一緒なら、どこの海でも沈みます」
「なんや、案外簡単について来てくれるんやなあ」
獅子堂が俺の手を握る。少し冷たい体温を分け合う。
「……しみじみ、最期なんてもんを考えてまう。ヤクザっちゅう世界に出てから、いつ死んでもええと思っとった。でも獅子堂。お前に会ってからは、死ぬのがちょっと、惜しかった」
「そんなん、俺もです。カシラが死ぬ時が俺の死ぬ時や思ってました。でも本当はもっと、いろんな時間を過ごしたかった、って思ってしまいます。今更何言うても叶わへんけど、もっといろんな景色をカシラと見たかった、なんて思ってまいます」
「……五分でええか?」
「……何が、ですか」
繋がれたままの獅子堂の手を強く握る。
「俺の人生を五分だけ、お前にやる。その間俺はお前の言いなりや。恨みがあるなら殴ればええし、言いたいことがあるんやったら聞くし。好きにせえ」
獅子堂は途端に焦りだす。
「急にそんなこと、言われましても」
「もう十秒過ぎたで」
あと四分と五十秒で夢が覚める。その前にお前は何を願う?
「……話、聞いてください。なんも答えんくてええんで、聞いとるだけ、聞いとってください」
すう、と獅子堂が息を吸う。視線を感じ、左隣を向く。獅子堂と視線がかち合う。真剣な目をしていた。今まで初めて見るぐらいに。
「……ずっと、好きでした。カシラのことが。俺を拾ってくれたあの日から、俺は全部をカシラ、いや、裕樹さんに捧げるつもりでした。裕樹さんが俺の人生のすべてです。あなたなしの世界なんて考えられへんです」
冗談なしの、本気の告白だった。何も言うな、と言われているから、俺は何も言わないでいた。すると、もう一度獅子堂が口を開く。あと三分と二十秒。
「ほんまは、もっと早く恋人になりたいって言うべきでした。でも、カシラとは意見の食い違いが起きて、結果こうなってまって、もうどこにも俺らの居場所はなくなってもうた。本当はもっと、もっといろんな裕樹さんを見たかった。いろんなところに出かけて、いろんなものを食べて、いっぱいいろんな時間を過ごしたかった。恋人やし、手ぇ繋いでデートしたり、その、それ以上のこととかしたり、いろいろ、やりたい、ことが、あって……」
言葉は途切れ途切れになってしまった。滅多なことで泣く男ではないのは知っているが、埠頭の倉庫の影で見えないことにしておいた。
「もうあと一分半や。最期の願いは何や?」
「……キス、してもええですか」
返ってきたのは、存外に可愛らしいお願いだった。黙って目を瞑る。ふっと獅子堂の匂いがしたかと思うと、唇にやわい感触が当たった。
「……最期に、この話は全部忘れてください」
「残念。時間切れや」
名残惜しそうな獅子堂の手を振り払い、車に乗り込む。続いて獅子堂も助手席に乗り込んでくる。
「あの、カシラ。最期が俺でええんですか」
「何の話や。忘れたんと違うんか」
「忘れたんですか、忘れてないんですか、どっちですか」
こんなもん忘れられるわけないやろ、とは言ってやらなかった。どうせすぐに泡沫に消える記憶だ。終わった夢を何度も追いかけるほど馬鹿じゃない。だからこうして、永遠にするのだ。車のエンジンをかける。草原を駆ける馬のように爽やかな気持ちだ。お互いかけるべき言葉はもうなかった。俺が賭けるのは安寧ではなく、永遠だ。この先にはもう何もない。もしも過去に戻って、獅子堂を拾う前に戻れたら。何度か考えたことだ。獅子堂と出逢わなければ、こんな最期もなかっただろう。でも、獅子堂と出逢わない世界なんて、いらない。必要ない。たとえこの先に何もなくても、もう十分すぎるぐらいに、お前からもらっているから。
埠頭からゆっくりとアクセルを踏み込み、車が発進する。海の方向へと向いた瞬間、アクセルを一気に踏み込む。ぎゅん、と加速して、重力がかかる。ばこん、と何かにぶつかった気がするが、もう関係ない。前輪ががくん、と沈み込む。映画のように上手くは飛び込めなかったか。そのまま海に投げ出される。じわじわと車内に水が満ちてくる。俺はハンドルから手を離し、獅子堂の手を握る。水が冷たいのか、お前の体が冷たいのか、もうわからなかった。ピー、ピーと何かの警報音が遠くで鳴っている。最初は呼吸を止めて抗ってみたが、すぐに肺を水が満たしていく。その頃にはもう意識なんて半分ぐらいなくて、ただ、永遠だけが広がっていた。この先が天国なのか地獄なのかはわからない。でも、どんな場所でもお前と一緒なら。
さようなら。
また。
どこかで。