fog 煙のような人だ、と思った。そこにいるはずなのに掴めなくて、どんな姿にも見えて、その実何もない。
「……あれ、ふわっち、煙草吸うんだ」
事務所の中にある喫煙室に、見知った銀髪を見かけたから扉を開けた。煙草特有の顔を顰めたくなるような匂いが肺を満たす。
「あきな、わ、ちょっと待って」
ふわっちは少し慌てたように右手に持っていた吸いかけの煙草の火を消そうとする。
「あ、いいよ別に。最後まで吸ってもろて」
「いやなんか、明那吸わんのに申し訳ないやん」
そうは言いつつも火を消そうとしていた手は止まり、とん、と灰を落とした。あからさまに残ってる分がもったいないとか、そういう表情だ。
「いいって。ふわっちの煙草吸ってるのレアだから見させてよ」
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
ぼう、と先端の火が強くなるのをじっと見つめていると、やがて煙を吐き出したふわっちが、はずい、とこぼした。
「なんかはずいやん、あんま見ないで!」
茶化して言うが、結構ふわっち的に本気で恥ずかしいのか、いつもより頬が赤い。珍しい一面だ、と思ってさらにからかいたくなる気持ちもあるが、大人しく引き下がる。
「なんで恥ずかしいん? 別にふわっちが煙草吸っててもいいじゃん、未成年じゃあるめえし」
「んー……なんか、言ってなかったから、かなあ」
「繊細か?」
「意外とそうだね」
確かに、ふわっちから煙草の匂いがしてきたことはあんまりなかった。ライバーとして事務所で会う時もそうだし、プライベートでご飯に行ったり、家に上がったりした時もそうだ。余程消臭を徹底してるんだな、それぐらいするなら吸わなきゃいいのに、なんて他人事に思う。
「美味しいの、煙草って」
「いやあ〜、あきにゃにはまだこの味は分からんよ」
「俺だってハタチ過ぎてますけど?」
そう反論するとふわっちは、妖しげににこりと笑んで、また紫煙を吐き出した。
「分からんくていいよ」
恋人になってもなお、ふわっちとの距離感はよく掴みきれない。たまに人と距離を置きたくなる時があるとか、そういうところは俺と似ているような気がしなくもないけど、まったく同じかと言われるとノーだ。
喫煙所の端と端に座って向かい合う。近くにいるのに煙が邪魔をする。もっと深い煙に包まれてしまったら、その時俺はふわっちを見つけられるだろうか。
二人の間に煙が流れる。ふわっちの吐き出した煙だ。
ぐり、とふわっちが煙草の先を灰皿に押しつけて、火が消える。俺はついぼうっと考え込んでしまったことに気づいて、慌てて咳払いをする。
「ほら、やっぱり身体に良くないって。だから消すよって言ったのに」
「や、別に煙くてしたわけじゃ……、服からめっちゃ煙草の匂いする」
「んははぁ、俺のマーキングやなぁ」
ふわっちは俺に退室を促し、素直に従う。ふわっちも喫煙室を出て、ぱたん、と背後で扉が閉まる。
「あー、やっぱ臭えわ。あんま外では吸わんようにしてたんだけどなぁ」
「いつもは家で吸ってんの?」
「だいたいね。それか店とかで吸ってるよ。まあホスクラで働いてりゃ自分が吸わなくても、客が吸ってたら匂い移るけどさ」
「あー……よくわからんけど、そうなんだ」
今まで俺に見せてくれなかった顔だ。俺が知るはずのなかった匂いだ。見苦しい嫉妬を知られたくなくて、慌てて笑顔を貼り付ける。
「なんか、煙草吸ってるふわっち大人っぽくてかっこいいじゃん」
「普段は大人っぽくなくてかっこよくないんかぁ~?」
ふざけてわき腹をつんつんとつつかれる。くすぐったくて思わず笑うと、追い打ちをかけられていよいよ笑いが止まらなくなる。
「あはは、かっこいい、かっこいいて!」
「それでよし」
ふわっちは満足げに笑う。なんだか甘えたくなって、俺をつついていた腕を引き寄せ、自分の腕に絡めた。
「明那、ここ事務所やけど……」
「いいじゃんたまには。重たい俺は嫌だ?」
「嫌じゃないよ。……今日この後暇?」
ふわっちの声がひそひそ話の低いトーンになって、少しどきりとする。あんまり聞かない声色だけど、きっと俺だけが知らない声じゃない。俺だけが知れる顔を見せてくれたら、この靄のかかった気持ちは晴れるんだろうか。
「……暇だよ。うち来る?」
「いいねぇ~。明那の家行くの久々やわ」
「途中でさ、コンビニ寄っていい?」
「いいよ。メシ買うん?」
「いや、それもあるけど……ふわっちの吸ってたやつ、教えてよ。どんな感じなのか気になった」
「喉痛めるよ?」
「俺だって知りたいし」
それに、と続けようとした言葉は、唇の間に消えてしまった。コートの襟を立てて、周りから見えないようにして、キスをされた。苦い味がした。
「……これで勘弁な」
踏み込んだと思ったら、たちまちのうちに消えて、霧散してしまう。本当に、煙のような人だ。いつかその霧が晴れた後に、ぼやけた像がはっきりと線になった後に、もう一度知りたいと言ったら、その時は……。