サキュバスくん、逆襲される。 僕の搾精対象である人間・渚カヲル君はとってもかっこよくて、性格だって優しいし、何不自由ない暮らしをさせてくれるし、所謂『当たり』の部類なのだと思う──たった一つのことを除けば。
「碇君、君がそうして涙目になりながら僕に跨っているのは本当に煽情的だし、いつまでだって眺めていたいと思っているよ」
「ならっ、いい加減勃起してよ!」
「……面目ないね」
申し訳なさそうに謝る渚君に、僕も何も言えなくなって口をつぐむ。分かっている、渚君が悪いわけじゃない。彼だって自分が不能であることに悩んでいるのは知っているし、そもそも責めてたって仕方のないことだ。そう、分かってはいるけれど。
むすっと頬を膨らませながら、渚君に身体を預けるようにして寝そべる。もう何日、精子を摂取していないだろう。代わりに人間界の食事だったり渚君の体液──主にはよだれ──を摂取しているけれど、それらはあくまでも代替品。強い魔力を手に入れるための修行として餌場である人間界へ降りたのに、こんなんじゃ天界にいた方が豪華な暮らしをしていたに違いない。
不機嫌な僕に、渚君は緩く抱き締めると頭にキスを落としてくる。……別にそんなことされたって、腹の足しにもならないのに。
「僕が君のことを愛しているという強い気持ちが栄養にならないだなんて、この世は本当に不完全だね」
「……またそういうこと言う。僕、サキュバスだよ?」
「種族なんて関係ないさ。僕は渚カヲルで、君は碇シンジ。それが全てだろう?」
今まで紫外線なんて一度も浴びたことがありません、と言わんばかりの真っ白な肌はシルクのように滑らかで、顔立ちは完璧な調和を保っている彼に対して冗談でしょ、なんて軽口を叩けない。だってサキュバスの僕でさえ見とれてしまうその美しさが一番の冗談のようなものだからだ。今まで何人の恋心を盗んできたのだろう。きっと恋泥棒なんて職種があるのならば、彼の天職はそれに違いない。
(……まぁ、僕は恋なんてしないけど)
人間の精子を餌とするサキュバスには、誰か特定の人物に対して執着するという感情はない。昔はあったらしいのだけれど、餌に恋なんてしない方が効率が良いので進化の過程で失われてしまったらしい。それを渚君には何度も言ったのだけれど(流石に望みのない想いを抱かせ続けるのは申し訳ないし)、渚君は「それでも構わないよ」と言うだけだった。よく分からないけれど渚君がそう言うなら別にいいやと思って、聞き流したり適当に突っ込んだりしている。
「さぁ、ご飯でも食べようか。今日は何を作ったんだい?」
「……料理が上手いサキュバスなんて、皆にからかわれるよ」
「それは単なる僻みだよ。君の料理を食べられるのが僕だけだということの、ね」
……またそういうこと言うんだから。
意識的に口を尖らせながらキッチンへ向かう。僕が来るまでは埃をかぶっていたそこは僕の手によって整備され、どこに見せても恥ずかしくないほど器具や材料が充実するようになった。……ここを開拓する目的で来たんじゃないのに。
* * *
さて、僕だって渚君をこのまま放置するわけにはいかない。今までは道具や僕の魔法に頼っていたけれど、それ以外の方法も考えないと。
(強制的に発情させる魔法でも勃たない……ってことは、僕の魔法が渚君には効きにくいのかも。そもそも、やっぱり女性の身体の方が興奮しやすいかなぁ)
僕の身体は人間界の男性と同じ姿をしている。身体の性別を変える魔法もあるけれど、かなり負担のかかる魔法なので餌を十分に食べることができていない今、それを使っても数分で解けてしまうだろう。初めて会った時から好きだと言われたからこの姿のままがいいかもしれないって思っていたけれど、もしかしたらその前提が違っていたのかもしれない。
(……でもそれなら、まだ道はある)
幸いなことに、誰かの思考を操る魔法は得意だ。それならこの僅かな魔力でも十分だろう。よし、と決めると渚君の家の窓からふよふよと浮いて外へ出る。渚君は今、『会社』というところに行っている。そこにはたくさんの人がいると前に言っていた。きっと女の人もいるだろう。その中の誰か一人に魔法をかけて、渚君を誘わせれば彼もやっと興奮するかもしれない。そしたら僕がその女の子へ乗り移って精子を搾取してもいいし、一度興奮して不能から抜け出せばこれからは空腹感に悩まされることもなくなるかもしれない。
やっとありつけるかもしれない餌を想像して、ふんふん、と鼻歌を口ずさむ。首洗って待っててよ、渚君……!
僕の姿は自由に実体化させたり、逆に今みたいに見えないようにすることもできる。渚君の会社のビルに潜入し、そこらへんを歩いていた女の人の中で一番綺麗な人に魔法をかけた。渚君に対しては失敗ばっかりだった僕の魔法もその人にはばっちりかかって、腕が落ちたわけじゃないんだとちょっとだけ安心する。
渚君がいるのは『社長室』というところだという情報を掴み、女の人を操りながらそこへ向かう。どうやら運よく女の人と渚君はある程度関係があるらしく、社長室をノックして名前を伝えさせると簡単に「どうぞ」という言葉が返ってきた。女の人と一緒に部屋へ入れば、そこには珍しく眼鏡をかけてパソコンに向かっている渚君の姿があった。
「やぁ、どうしたんだい?」
「……社長、実はずっと前から私、社長のことが……」
指先でくるくると思考と言葉を操って、女の人を渚君へ近づける。渚君の膝の上に対面座位のように乗っからせて、顔を近づけさせた。
(……あれ?)
なんとなく、胸の中がもやもやする。何なんだろう、これは。今まで感じたことのない類の感情が急にふつふつと湧いてきて首を捻る。よく分からないけれど、あともう少し、あとちょっとで女の人と渚君が……──
「いるんだろう、シンジ君」
それはあまりにも、予想外の言葉だった。
え、と身体が固まる。おかしい、僕の姿は見えていないはずなのに。
「分かるよ、僕を舐めてもらっては困るね。とりあえず彼女を解放してやってくれないか。最近結婚したばかりなんだ、不倫なんてさせたら可哀想だろう?」
「…………」
もうそこまでバレてしまったらどうしようもない。仕方なく女の人を部屋の外へ出してから魔法を解けば、「出ておいでよ、怒っていないから」と言われた。別に怒られるのが怖いわけじゃないけど、パッと身体を実体化させれば渚君は手招きして僕を膝の上に乗せた。さっき、僕が女の人にさせたのと同じ体勢だ。
「さて、この続きはどうする予定だったのかな」
「え……そのままキスして、たくさん触れ合って、最終的にはセックスを……」
「そう。それなら想像してごらん。僕があの子にこうしてキスをして、」
そう言うと、渚君は僕にキスをしてくる。その行為自体は僕らの間で何度もしたことがあった。だけど──
(な、なんか今日、すごくねちっこい……!)
サキュバスの僕がそう思うぐらいなんだから、余程のものだと思って欲しい。ぢゅうぢゅうと大きな音を立てて僕の舌を吸い上げ、口内を舌先でねっとりとなぞられ、主導権を全く握らせてくれない。それなのに渚君はさらに僕の腰から尻たぶまでを羽でなぞるかのようにいやらしく撫で上げて、そして、それから僕の身体をデスクの上に寝そべらせるとあの赤い瞳を僕へ真っ直ぐ向けてきた。
いつもの、瞳じゃない。まるで血だまりのように獰猛なそれは、初めて見るものだった。
「このまま食べてしまう──それでも良いのかい?」
良い、と即答できるはずだった。渚君が興奮さえするのならなんだっていいと。それなのに。
(……おかしい、おかしいよ、こんなの)
理性でも本能にも属さない、未知の欲望が爪先から頭のてっぺんまでをどろどろした何かが支配していく。一体何なのかなんて見当もつかない。そうだ、そういえば女の子に渚君を誘惑させた時にも同じ感情になった気がする。これって何だろう。今まで知らなかった感情。知り得なかった感情、は。
息をする度に、心臓が飛び出そうになる。グロテスクだ、その行為もこの感情も。けれど渚君はそれら全てを許すような優しさを口元にたたえて、「ようやく分かってくれたね」と口にした。
「知っているかい、ネコ科の動物は交尾の最中にメスの首に噛みつくんだ」
「ぇ……」
「僕も同じさ。僕はずっと君に愛していると告げていた。君の中に秘められた感情が花開くまで、何度も繰り返していたんだよ」
渚君はそう言うと、笑う。笑う。笑う。こっちはそんな余裕もないということを知っているくせに。
──注ぎ込まれていたんだ、知らないうちに。恋を知らないサキュバスには重すぎるほどの愛を。
ぞわり、と背筋が震える。セックス中じゃないのに身体がこんなに敏感になるのは生まれて初めてだった。つまり、渚君の企みは成功したのだ。勃起しないくせに。僕へ満足に本来の食事をさせてくれないくせに。そもそも、僕はサキュバスだっていうのに!
「……サキュバス失格だ」
「ふふ、責任なら喜んで取るよ」
そう渚君は楽しそうに言うと、僕の頭を撫でる。その手のひらからさらに渚君からの愛が伝わったような気がして、泣きたくなった。