オーカイ.
「ああ……どうぞ」
気怠げで淡々とした声が傍でしたかと思うと、手が触れた。途端、相手の姿が現れる。たくさんの指輪が嵌められた手。その手は大きかった。
「おはよう、カイン」
楽しげな声と、微かに消毒液の匂いがした。そのまま温かな手が軽く触れる。現れたのは愛想の良い笑顔と、節くれ立った指。
「……ああ」
素っ気ない挨拶が返ってくる。見えなくても、強大な魔力の流れが分かる気がした。合わさった手は乾いていて、清潔に整えられた爪が見えた。
相手に触れないと見えないカインの一日は、こうして始まる。毎日のことなので皆慣れてしまって、誰も文句は言わない。それは有難くもあり、申し訳なくもあった。
普段、人と話すときに手に注視する者は稀だろう。こうして他の魔法使いたちの手に触れることにより、カインはいつの間にか相手の手を覚えてしまっていた。今のカインなら、手だけで誰か分かる。
たった一人を除いて。
雲ひとつない青空だ。たまに吹く暖かな風が、カインの長い髪をサラサラと揺らす。いい天気だな、とありきたりなことを思いながら、カインは目的の木へと近付いた。
「オーエン」
大きな木の、太い幹の下から、葉が生い茂る頭上を見上げる。降り注ぐ木漏れ日が眩しくて目を細めた。
カインの目的の男は、太い枝に座り、幹に寄り掛かって本を読んでいた。その膝上や肩の上では、名前の知らない鳥たちが戯れている。相変わらず動物に好かれるんだな、と多少羨ましくもあった。
「賢者様が呼んでる。美味しい紅茶があるから飲まないかって」
「いらない」
オーエンはこちらを見ることもない。本に夢中なのか、紅茶に興味がないのか。
やれやれ、とカインは内心で溜息を吐いた。
「おやつはチョコレートケーキだぞ。生クリームも載ってる」
そう言うと、漸くそのオッドアイがこちらを向く。紅い瞳と、蜂蜜色の瞳。あれが自分の眼球かと思うとたまに不思議な気分になる。怒りなのか哀れみなのか、よく分からない感情だ。
「……食べる」
案の定、オーエンは本を閉じて枝から飛び降りた。囀りと共に、鳥たちが空へと逃げてゆく。
「おまえ、ほんと甘いもん好きだよなぁ」
「うるさいなぁ、別にいいでしょ」
カインの横を素通りして、さっさと魔法舎へと向かう。よほどケーキが食べたいのか。それとも照れているのかもしれない。髪の隙間から見えるオーエンの耳に視線を送るが、別に赤くはなっていなかった。残念だ。
華奢な背中と、手袋に覆われた手。あの手袋の下にある手を、カインは知らない。何故ならオーエンだけは視認することができるから。他の皆のように、オーエンにはハイタッチは必要がないのだ。
「どうしたの」
「いや」
訝しげにオーエンが振り返るのに、カインは曖昧に笑った。その手を見てみたい。その手に触れてみたい、なんて──そんな気持ちを彼に悟られるのは嫌だった。
「変な騎士様」
オーエンは興味をなくしたように再び背を向ける。その背中に何故か寂しさを感じながら、カインは後ろをついて行く。
俺がおまえの手の温もりを知ることは、多分ずっとないんだろうな──。
そう思えば、右目がズキリと痛むような気がした。
そう、思っていたのに。
ふわり、と頭を撫でられる感触に瞼を開ける。温かくて、少し湿った優しい手。
「大丈夫?」
こちらを覗き込むオッドアイ。血のような色と、蜂蜜のような色の瞳。猫みたいな目だった。
「……お前が、無理させたんだろ……」
「ははっ」
発したカインの声は僅かに掠れてる。そんな憎まれ口にオーエンは声を上げて笑った。少し汗ばんだその横顔は、随分と機嫌が良さそうだ。
大きなベッド、真っ白なシーツ、裸の自分達。部屋に流れる淫靡な空気。こうして夜伽を共に過ごすようになり、どれくらいの時が流れたのだろう。
何度も交わっていれば体は慣れるが、無理を強いられた体勢は痛みを訴える。これは明日の朝は腰痛になっていそうだ。カインは小さく息を吐くと、身を起こそうとベッドに手を付く。
すると、その体を支えるようにオーエンの手が背中に回された。力強いオーエンの手。見えなくても、白皙で長い指を知っている。爪を短くしているのは、カインの為だと言うことも。
なんだかそれが可笑しくなって、カインは小さく笑い声を漏らした。
「どうしたの」
「いや」
訝しげなオーエンの声。小首を傾げるその姿に、カインはますます笑みを深くする。
「変な騎士様」
言いながらも、オーエンはカインの体を引き寄せた。そのまま髪の毛に頬を寄せ、ほう、と安堵するように息を吐く。触れ合った裸体は温かい。少しだけ早い鼓動が聴こえた。
おまえの手が、一番愛しいよ──そんなことを口にしたら、きっとこの男は照れるのだろう。素っ気なく見えて、意外に子供のようなところがあるから。
自分を抱きしめるオーエンの肩に額を押し付け、カインはそっと幸せの溜息を吐いた。