所詮この世は弱肉強食軟体世紀20〇〇年
某月 某日
「♪~」
ウィン、と開いたロビーのドアから飛び出すかのように外に出た。足取りも軽く
いやあ、快勝快勝。最近のレギュレーション更新で新しく追加されたデンタルワイパー。これがまた使い勝手がいい、というか独特なんだけど、これにしかできない動きができるっていうのがいい。また今度誰か誘って、フルパでカネを稼ぐか……
「おい、お前」
「へ?」
獲得金を手にしてホクホクとしていたところをふと見上げると、目の前には一匹のイカがいた。真っ赤なゲソをした、アシメのイカボーイ。
「久しぶり。バトル、勝ちまくってガッポリ儲かったんだって?」
「え……?」
「ちょうど良かった。そのカネ、俺にくれ」
「う、わっ」
ぐい、と肩を組まれて引き寄せられ、耳元でひそひそと声をひそめるイカ。なんだこいつ、馴れ馴れしいな。
「いやー、お前がいてくれて助かった。今晩のメシ代足りなかったんだよな」
「は……え、えっ? い、いやそもそも誰だよお前」
「そんなつれないこと言うなよ兄弟……いつもバカマオープンに潜る仲じゃねえか」
何、何を言ってるんだこのイカは。こんなイカ、ボクの知り合いにはいない。大体ボクはナワバリガチ勢でバンカラマッチにも行ったことはないし。
見知らぬイカボーイは、強引にボクを連れてすたすたとバトルロビーのある建物から離れていく。降りかかった災難にボクが混乱しているのをいいことに、ずんずんと歩き続け、ついにはイカ目のない裏道の裏道まで来てしまった。
「どうせ今までもたくさんバトルして、これからもたくさんバトルするんだろ? だったら今回の勝ち分くらい俺に譲ってくれたって構わないよな」
「そ……んなこと、するわけ、ないだろ。だってこれはボクが稼いだバトルマネーだし……」
「……」
ヂャキ。
「ひっ……!? んぐッ」
いつの間に。いつの間に、背後に……!
「なあ、平和な頭のタコ君よお。誰が稼いだとかどうだとか……ンなことはどうでもいいんだってことくらい、わかるだろ?」
「……!!」
片ゲソで固められた首筋に宛てがわれているジムワイパー・ヒュー。ギュルギュルと音を立てる刃の振動。傷跡だらけの指で塞がれた口。密着した体から染み出してくるこいつのインクのせいでイカになれない。スリップダメージ。ブキを出す前に殺られる。耳元から捩じ込まれる低音。殺気。
羽交い締めにされる直前に目に映った、煌々と燃え盛る赫い目がボクを見ていた。
「テメェの有り金、全部俺に寄越せってんだよ」
*
「♫~」
「お! お前ら、ロイが戻ってきたぞ!」
「パンパンの財布持ってら!」
「さすがロイ! いくら入ってるの? ねえ見せてよ!」
「ハハ、褒めたってなんも出ねえぞ。まあこの財布の中身は山分けだけどな」
「ッしゃー! ロイさんあざす!!」
「なあ、今日こそロイも一緒に女ヤりに行かね? オマエの金だし上玉のガール用意してやるからさ」
「俺はいいっつっただろ。アイツらを襲う方がよっぽど楽しい」
「そんじゃあオレはパチ打ってくるわ」
「好きなだけ使え。……『ギフテッド』のカネだと思うと、吐き気がするけどな」
────『ギフテッド』。楽しくバトルやバイトに励む者たちへの、蔑みの言葉である。バンカラ街の最底辺に棲む落ちこぼれたちからの、憎しみと羨みの言葉である。
ごく最近になって急速に再開発が進んだバンカラ街だが、当然ながら全てが発展したわけではなく。ただ街の機能が先進しただけで、住民の治安は以前劣悪なままだ。中でも完全なヒト擬態ができるようになって尚、ブキを持つこともできないほど貧しい……あるいは、バトルに参加することを危険視されるほど凶暴な者の層。
特に後者は、現在のバンカラ街における重大な問題である。バトルで楽しみながらカネを稼ぐという娯楽を知る前に暴力でカネやモノを奪う快楽を覚えてしまった彼らは、一般市民にとっての脅威となり得る。街の奥に今もなお残るスラム街には、そういう者たちが住み着いているのである。
「にしてもロイさんのそのブキ、チョーかっこいいッスね! なんてブキなんスか?」
「知らねえ。どっかのイカからユズッテモラッタやつだからな。でもこれ見たやつらはみんななんとかワイパーつってたぞ」
「へえ……ワイパーってあれだろ?車に付いてるやつ」
「ロイさんのワイパーってそういうのじゃないッスよね? なんかこう、ゴツくてイカしてるし」
「使えるなら何だっていいんだよ。あのハンドガンみたいなやつでも、フデみたいなやつでも」
「あの狙撃銃みたいなのはゴメンだけどな!」
「あんなのステゴロじゃ使えねえよなあ! ギャハハハハ!!」
スラム街では余所者に対して強請り集りが常習的に行われる。被害も多数出ているため、安易にスラムへ近づかないよう警察は呼びかけている。金銭や素行の問題で彼らは純正ブキを買えないが、しかし、他のバトル参加者から奪い取った純正ブキを持っているからだ。
「こいつをアイツらに突きつけるとな、面白いくらいに縮み上がるんだよ。バトルステージの中じゃ何度でも蘇るらしいが……スポナー? とかいう道具がない場所で死んだらそのまま死ぬんだそうだ」
「なあにそれ、ずいぶん甘ちゃんな生き方してんのねギフテッドは! 生き物みんな命は一つっきりよ!」
「生き物みんな死んだらそれで終わり、当たり前だよなあ! そういう感覚がないから腑抜けなんだよあいつら、街中で襲われるだなんて思ってもいないんだぜ!?」
「本当、いいカモだよ。このままずっとバカなままでいてほしいもんだ」
────そういった者たちがのさばっているということを、彼らは知らない。
*
ガチャ。
「……」
バタン。
「……」
「……」
「……」
ドカッ。
「ッ……」
「あん? なんだその顔は、文句でも言いたげだな」
「……帰った途端ワケもなしに殴られて文句の一つもないやつがあるかよ」
「親に向かってなんだその態度は!! こんな遅くまで出歩きやがって!! どこ行ってやがった、ああ!?」
「うるせえな。俺がどこ行って何してようが勝手だろ」
「勝手なわけないでしょこのガキが! お前がほっつき歩いて遊ぶのに使うカネは私たちが汗水垂らして働いて稼いだカネなんだよ!」
「はいはい、たった500ゲソのありがたいお小遣いどうも。ンな端金じゃ役にも立たねえよ、調子乗んなクソアマ」
「なんだと!?」
家に帰るといつもこうだ。外だけは小綺麗なゴミ屋敷。父親と母親の喧嘩か何かに巻き込まれては八つ当たりされる日々。自分の機嫌くらい自分で取れや、いい年こいて赤ん坊かよ。
「お前みたいなクソガキにやる飯はないからなクソガキ!」
「飯なんてとっくに食ってるっつの。コンビニ飯なんざいらねえわ」
「……!!」
顔を真っ赤にして何やら言いたげだがフル無視。コイツらの言葉は聞くだけ損だ、さっさとシャワー浴びて寝るに限る。そしたらコイツらが起きるより早く起きて家を出ればいい。
「…………」
疲れた。俺の体に合わせたちょうどいい浸透圧のシャワーを浴びるのが、この家の中での唯一の楽しみと言ってもいい。だいぶボロいシャワーヘッドだけど。あとは精々、寝ることくらいか。アイツらが寝てからこういうことができりゃまだ楽なんだがな……あのクソ親が寝たら帰るってのができないのが困るんだよな。俺がいなくても鍵を閉めやがる……別に寝るのは家じゃなくたって構わねえが、野宿じゃ水浴びできねえし。
暴れ回るのは好きだ。俺の力を見せつけて蹂躙して、相手の全てを奪い尽くすのは好きだ。けどそれで汚れっぱなしなのは嫌だ。綺麗さっぱり、汚れとはおさらばしたい。そう話すと周りのやつらには変な顔をされるが、そういう性分なんだからしかたない。俺らイカタコは水に落ちただけですぐ溶けちまうから、浸透圧をどうにかしても水を浴びるのを嫌がる個体は多いらしい。だからまあ……変な風に思われるのが道理っちゃ道理なのかもな。
どさ、と薄っぺらい布団に倒れ込む。まあ俺の部屋があるだけまだマシか……俺のは、俺に俺のものを持たせたくないってより俺を視界に入れたくねえってタイプだし。……ん? 待てよ。
「あ」
*
*
*
*
「♬~、♩~〜……」
気持ちのいいことをした後の気分はいい。ヒトのために何かをしてやった後は特に。鼻歌でも歌いたくなる。
もう一度シャワーを浴びて、普段は沸かせない湯船も張った。久しぶりに開けた冷蔵庫にアイツらがしこたま貯め込んでいた美味そうな食い物を思う存分頬張り、残りの日持ちしそうなものは持ち物と一緒に適当な袋へ突っ込んだ。……後でデカめのリュックでもパクるか。
「あー、あれどこにあったかな……アイツどこにしまってんだ? ……ああそうか、あそこか」
ごそごそと床に落ちたフクの中を漁ってようやく目当てのものを見つけた。……まあ大丈夫だとは思うが、善は急げとか言うらしいし早めにカタをつけたい。
「そんで何用意すんだ……んー……? ……なるほどな。んじゃありったけの新聞とフクと油と……松ぼっくりか」
こぢんまりとした家の1階から2階をくまなく回って、溢れるほど手に持ったそれらを均等に分けていく。ついに最後の部屋……階段から一番遠い部屋に辿り着いた。
カチッ。カチ、カチッ……
「ガキの頃に拾ってとっといたやつが役に立つなんてな……てかこれ本当に燃えるのかよ?」
ボウッ。
「おっ、やっべ」
どうにも嫌な感じの着火音がしたもんで、さっさとおさらばすることにした。余裕があればゆっくり見物でもと思ってたがこりゃ無理そうだ。こんな家未満の場所に未練なんてないしな。
「じゃあな、クソジジイにクソババア! お前らが俺の親で別に何もいいことなかったけど! 俺をこんなふうに産んで育ててくれたのは感謝するよ! おかげで今、俺は! こんなにも晴れやかだ!!」
各部屋に用意した火種に次々と点火しながら逃げ、階段を駆け下りる。家の中全てに火をつけるその道すがらにドカ、とフクが散らばるリビングの床を一度強く踏みつけ唾を吐き、スタコラサッサと家の外に出た。日常的に窓もカーテンも閉めきられていた家だから、近所のやつらに炎が見つかるまで時間がかかるはず。
「……よし」
1箇所だけ開けていた窓の網戸かはイカ状態でぬるりと脱出。ぴちぴちと地道に移動して、誰にも姿を見られないように。死角に入り込んだところで、そのまま全身に力を込める。3、2、1……!
「ふっ!!」
バッ、と一番近くのダチの元へスパジャンをかました。みるみる小さくなっていくボロ屋から、白と黒が入り交じる煙がぷすぷすと漏れ出始めている。
「────はっ……は、はは、ははは……! あははははははは!! アハハハハハハハ!!」
────あるいはここが、彼の人生の岐路だったに相違ない。スーパージャンプの重力に圧されて、彼の口から小さく漏れ出た空気にみるみる愉快気な色が混じり、……やがてそれは狂気へと変わっていった。
「ざまあみろ!! やってやった、俺がやってやったんだ、しかえしにしてやった!! 散々俺をコケにした罰だ!! あんな雑魚が俺に適うわけねえんだよ!!」
空を飛びながら笑う。嗤う。こんなに笑ったことはないってくらいに。両腕を広げて開放感を味わって、空気圧さえも心地よくて。
「これでもう俺を邪魔するやつは誰もいない!!誰も!! そうさ、これで……!」
ズダン! と地面を這うほどの深い姿勢で地に足をつける。今まで溜め込んだ鬱憤を晴らす勢いで立ち上がり、そして。
「これで俺は!! 自由だァァァ!!!」
「うおおおおぉっ!?」
これ以上ないほど清々しい空に向かって咆哮した。表通りから冷たい視線の気配が向けられようが、誰から何を思われようが変な目で見られようがどうでもよかった。ずっと俺を縛りつけてきた鎖から解き放たれた事実だけが、今の俺の全てだった。
「急にスパジャンしてきたと思ったら着地していきなり雄叫びかよ!! 耳壊れるか思ったわ、だいぶ盛ってんじゃねえか! しかもなんかすげえ凄味があるしよ……!」
「あー、悪かったな。つい気分がアガっちまった」
「で? 何しに来たんだ」
「別に。一番俺の近くにいたのがお前ってだけだよ」
「んだよ! タコ騒がせなやつだな」
「そう言うなって。……あー、また今度ヤク買うカネ盗ってきてやるからさ」
約束だからなー!? と叫ぶダチと別れ、このスラムの出口の一つに向かう。目的地はバンカラ駅だ。
「……さすがにしばらくは隠れた方がいい……よな?」
火事で家は全焼、ブツの証拠は何も残らない。きっと俺も死んだことにされるはずだ、が。何がきっかけで俺が生きていることがバレてもおかしくない。細心の注意を払ったはずだが、もしかしたら知らない誰かにスパジャンの瞬間を見られてたってこともある。こりゃ念のため、ほとぼりが冷めるまで身を隠すべきかもしれないな。
「とりあえずバンカラ地方から離れとくか」
ハイカラまで行くカネくらいはあるはずだ。まあ、ハイカラっぽい名前の行先の電車に乗れば行けるだろ……
*
「迷った!!」
マジか。どこだよここ。いつの間にか普通の電車ってより地下鉄じみてきてたし。なんか暗くて陰気くせえ場所だな……
「しかもここ終点じゃねえか。時刻表……ねえ! 嘘だろ!」
あるのは空っぽの線路と、見たこともないへんちくりんな機械が1つだけ。もしかしたらここからハイカラに行くのに使えたかもしれないが、どう使うのかもわからないんじゃ意味もねえ。
「どうすりゃいいんだよ……イカもタコも他のやつもいねえからなんも盗れねえ……隠れられるかもだけど出られなきゃ意味ねえよ……」
[ほウ。キサマ、外へ出タいのカ]
「!?」
声がした方へワイパーを構える。……それはさっきのよくわからない機械。2つ呼び鈴が付いた直方体の、細長い鉄の棒で地面に突き刺さっている珍妙な機械だった。
[まあ落ちツけ海産物。……ここは改マってインクリングと呼ぶべきカ]
「ンだテメェは。機械のくせに喋りやがって」
[キサマ、ジン工知能というものを知らんノか? ……マアいい、本題はそこでハない。先ホドも聞いたガ、ここから出たイのだろう]
「おう」
[シかし、ココなラ隠れラれルとも言ってイタな。ナゼだ?]
「……テメェに話す義理はねえ」
そう答えると、警戒心の強いヤツめ、と機械野郎はボヤいた。当たり前だ、初見のやつをそんな簡単に信じるバカがどこにいるんだよ。
[場合によってハ、キサマがここから脱出スる手助けをしてヤロウ……といウこトだ]
キュルル、と箱の横に付いた取っ手みたいなのが数回転した。なんだァ、コレにも機嫌みたいなのがあんのか……?
[ワタシが考エるにキサマは、]
「ロイド」
[ワタシの話を遮るな海産ぶ、]
「ロイ」
[……]
「……」
[ワガママなガキかキサマ。ふん、まあよかロう。ワタシは……タルタルといウ。覚えてオけ]
「そうかよ。ま、善処してやる」
[それで、ロイド。お前の立ち振る舞いヲ見ていテ、ワタシは1つ確信しタことガある。
オ前────罪を犯したナ?]
無機質なタルタルの声がトンネルの中みたいな形をした駅の中にぼんやりと反響する。暗闇の中、遠いどこかから、重苦しい海鳴りが聞こえていた。
「タルタル。機械ってのはジョークも言えんのか? 全然面白くねえけど……」
[平静ヲ装ッているようダが、ワタシのセンサーは誤魔化せンぞ。オ前からハ厭なニオイがすル。煙と、生き物の残骸が焼けた醜悪な臭いガする。ここに来た時からズッとだ]
「は、」
[それに精神も不安定だナ。その波の形、その揺レ方。ワタシが持つ膨大な量の犯罪者データにおいテ、ソレと一致スる罪状はたった1ツだけ。……ソレが何か、わかるカ?]
「……」
……これがジンコウチノウってやつなのか。ならコイツは、それをダシに何をしようとしている?
[沈黙ハ肯定と見ナすぞ]
「別に構わねえよ、事実だ。ったく、誰にもバレねえと思ってたのに、初っ端でバレるなんてよ……」
構えていたワイパーを下ろした。
[ワタシが特殊なだケだ、気にすルな。これホド堂々としテいてハ、殆どの者は気づけマい]
「……つか、俺を捕まえるとかじゃねえのな。てっきりサツに突き出されるもんだと思ってた」
[警察からはホド遠い組織ダぞ、ここは。突き出すつモりもナイ、安心すルがイい]
「で。お前、それを知って何がしたいんだよ」
[何故殺しタ?]
「……」
なぜ。なぜ、ね。したことの理由を言葉にしろってか? そういうの、好きじゃないんだけどな。まあ、強いて言うなら。
「アイツら……俺の親な。どっちもだ。俺が生まれたときから俺のこと嫌いだったんだと。気づいたときにゃあもう俺のことゴミみてえに見てたんだぜ? じゃあなんで産んだんだよとは思うけどな。……ん? ああそうか、ヤッたらデキただけか! そりゃそうだ!」
[……]
「実際に俺はゴミみてえな命だったわけだな。ヤりたい放題した後に出てきたやつってことだから。…………なに話してたっけか。……あー、思い出したわ。で、つい最近に解決策を思いついたわけだ」
なら、もう二度と俺を見なくて済むようにしてやればいいんじゃね?
不幸の中にあるイカは救われるべきだと、カタギのイカやタコは言っていた。そんなに嫌いならアイツらは今まで、俺を見るだけで苦痛だったろう。辛いのは嫌だろう。俺だって痛みには強いだけで、痛いのや苦しいのが好きなわけじゃない。苦しいのは可哀想だ。困ったイカは助けるが世の情け。
「ただそれだけだ。俺は別に親を好きでも嫌いでもなかったからな」
[なるほど。お前の精神性はよく理解できた。礼を言おう]
「礼を言われるようなことでもないだろ、この程度の話」
[いや、そうでもない。おかげでワタシは正式なオファーをする決心がついた]
次に来る電車に乗れ、悪くはしない。
それきり、デンワはうんともすんとも言わなくなった。ハンドルも回らない。手前勝手な野郎だ。
「ま、他に行くアテもねえし……」
ガタンゴトンと騒音を立てながらホームに突入してきた電車の扉が開く。俺が乗ってきた電車にはいくらかいた他の乗客だが、この電車の中にはクラゲ1匹もいなかった。
「面白いことになりそうだ」
*
『[おイ]』
「……んがっ」
『[起きロ、ロイド。全ク、悠長に居眠りナどしおって]』
「みぃ……どこだよここ……」
『[教えてヤロう。
ココは、深海メトロが最深部────ネル社本部ダ]』
ネル社。聞いたことない会社だ。少なくともバンカラでは……ひょっとして、今俺がいるのってバンカラ地方じゃないのか?
「最深部……一番深いとこ? 大事な場所なんじゃねえの?」
[ソう。本来ならバ部外者を入れるコとはない場所ダな]
「……なんでそんなとこに」
[言っタだロう? コレはオファーだト]
進め、と言われるがままに進んでいく。深海と言ったからには、ここは海の中なんだろうが……そのせいか、奥に行けば行くほどこの場の「空気」が暗く、重くなっている……気がする。メトロに乗ったときの比じゃない。この建物は生きているんじゃないかと、生き物の中に入っていっているんじゃないかと……鳴り止まない音が、この空気が、そう感じさせる。
そして。
「……これ、は」
[素晴らシいダロウ。これこそ、我ガ1万2千年に及ぶ研究の根幹……ネリモノだ]
目の前に蠢く、緑色のナニカ。
[取リ込んだ者ノ精神を高揚さセ、身体能力を高めル代物ダ。一例を挙げルと、スペシャルを無尽蔵ニ使えるヨうにナるな。暴れるこトが好きナお前には持ってこいのモノダロう]
「そうだな。なあ、ネリモノの力を使えば『ギフテッド』もボコボコにできんのか?」
[ギフテッド? 待テ、検索スる…………あア、バンカラ街の貧困層にヨる中流裕福層へのスラングだナ。もちロん可能だ。魚介類ナら分け隔てなク殺すたメの力なのダから]
「ならいい。それでこれを取り込……どうすんだこれ。飲むのか? ヤクみたいに針で入れんのか?」
[まア待て、早まるナ。そこマデ乗り気ニなられるトこちらの反応ガ些か困ル……まだワタシは大事な説明をしテいない]
聞く限りめちゃくちゃ楽しそうなブツだ。はやく試してみたいんだが。
[ワタシがこれを作ったのは、この世全ての海産物……魚介類を、根絶するためだ]
「……皆殺しってことか?」
[そう。お前たち海産物……とりわけイカとタコにはもう失望しきっている。しばらくは観察を、と思っていたが……もうやめた。ネリモノを用いて新たなニンゲンを生み出すことがワタシの目的だ。オマエには、新人類第一号になってもらおう]
「俺ニンゲンになるのか。なれるもんなのか?」
[概念上は。それは追って話をしよう。オマエにはインクを生成する臓器が染まるまでネリモノを取り込んでもらう予定だ。それほど多量に取り込んだ時点で、オマエは純粋なインクリングではなくなる]
「ふーん」
ジンコウチノウの時間感覚ってのはよくわかんねえもんだな。しかしそうか、俺たちを滅ぼすのか。このネリモノ? ってやつを上手く使えばできそうなもんだしな。……
「元々そのつもりで俺に声をかけたのか?」
[ああ、そうだ。オマエには適性があると思った。このネリモノを取り込み、使いこなす適性が。
いざコンタクトを取ってみるとやはりインクリングであるが故に、多分に漏れず楽天的。それは良い。とても良い。段取りが速くなるのはいいことだからな。
そして何より……オマエはこれ以上なくエゴの塊だ]
自分の利益のためだけに動く。
そのためなら手段も選ばない。
そして何より、他人のために自分が身を切る意思が欠片もない!
[オマエの幸福の定義に口を出すつもりはないが、少なくとも殺しを経験する必要はなかったろう。どうあれオマエは重犯罪者だ、もう太陽の下で人並みの幸せは得られまい。
……それはオマエのせいか? ロイド]
「俺以外のやつらのせいだ」
[そうだな。元凶はもうこの世にいないだろうが……オマエの論調からすれば、そういう親が生まれたこの世界そのものが悪いと言えるだろうな?
では……その『オマエ以外のやつら』をめちゃくちゃに破壊する力が……この世界の秩序に矛突き立てる力がほしいとは思わないか]
「ほしいに決まってるだろ!!」
[よくぞ言った! ワタシの目に狂いはなかった……!]
ガコン。
煙を吐き出しながら、ネリモノが貯まったデカい入れ物の蓋が開いていく。中から一本、触手体のネリモノが飛び出してきて、俺の前で平たくとぐろを巻いた。
[さあ、乗れ]
「わ、すげえ。こういう使い方もあるのな」
[フフ……これもニンゲンの叡智の結晶、その一部に過ぎないのだよ。……よし。下を見ろ]
言われた俺の真下には、グツグツと茹だるように蠢くネリモノの海。
[オマエを作り上げる何もかもをネリモノで塗り変えるために、ありとあらゆる手段を用いてネリモノをオマエの中に注ぎ込む。体の外も中も犯されることになるが、構わないか]
「構わねえけど、痛えのか?」
[多少は。だがオマエにこれを受け入れようという意思さえあれば、これはオマエに応えるだろう。適応するほど様々な快情動に変換される……それまでの辛抱だな]
「ん、ならいい」
[相変わらず思い切りがよくて助かる。……では]
足場がなくなっ……たと思ったら、何本もの触手体が俺の体に絡みついて俺を抱き留め、そのままゆっくりと下に降りていく。ネリモノの海が、近づいてくる。
[母なる海に身を委ねるがいい。さすればネリモノの力はオマエのものだ、ロイド]
「おう、楽しみにしてる。そんじゃまあ……またな、タルタル」
瞬間、俺の体は支えを失って宙に投げ出された。無抵抗のまま落ちていく背中の少し下に、巨大な質量が迫ってくるのを感じる。
「────あ、」
鳥かごのように伸び上がった無数の触手の群れ、が、
俺を、ネリモノの海に引きずり込んだ。
*
*
*
*
*
*
*
*
「じゃあねコチョウ君! バケツ使うの頑張って!」
「ああ、今度バトルするときまでに練習しておくよ」
「コチョウまたな〜!」
「またな。……………………はあ。行ったか……」
疲れた。午前中に始めたはずがもう夕方だ。体力無尽蔵なのか? あのイカとタコたちは……あのナワバリバトルとかいう競技、人間の常識から外れた代物すぎて、本当に疲れる。インクをブキに送って撃ち出す? そのインクに当たると死ぬ? 死んでもリスポーン……イカスポーンとやらがあれば何度でも生き返る、だって? ……到底理解できない。死ぬときはいつ何時も恐ろしくてたまらない、あんなものの何が楽しいって言うんだ。
それでもこの体の持ち主の友人、つまり友達のイカとタコがバトルに誘ってきた。人間だからということも、イカタコが狂ったように楽しむあのバトルが怖い、気持ち悪い、と正直に言うこともできないで、適当な理由をつけてひたする断り続けるのも限界を迎えてしまい。試し撃ちの段階で、シューターというハンドガンの類や機関銃、狙撃銃の見た目をしている武器は使いこなせなかった。当たり前だ、死人が出る戦場で使われていたような武器ども見た目をしてたら体が震えるに決まってる。
だから1番扱いやすそうなブキを選んだ。「バケットスロッシャー」という名前の、ただのバケツに見えるようなブキでなんとかインクをばら撒く日々をなんとかやり過ごすこと、なんとか数ヶ月。
「スロッシャーとかいう種類のやつならまだ使えるんだろうけど……いや違う、そもそもバトルなんかしたくないんだ。そんなこと考える必要なんてない」
人間、人という単語を目にも耳にもすることがないこの魚介類たちの世界。元の世界に戻れるかはわからないけれど、その日が来るまではここで生きていなきゃいけないから。
自分は上手にインクリングとかいう生き物になりすますことができているんだろうか。もしかして、上手くやっていけるんじゃ────
「おい、お前」
「へ?」
ドン、と胸を押され、よろけて地面に倒れ込む。なんだ? 何なんだ一体、人にいきなり突っかかってきて……
「いやー、アンタがいてくれて助かった。腹減ってんのに今晩のメシ見つからなくて困ってたんだよな。アンタ、名前は?」
「は? コチョウですけど……って何ふざけたこと言ってるんですか、早く離れてくださ」
ズルン。
「い────」
「そうか。なあコチョウ。実はアンタから、めちゃくちゃ美味そうな香りがするんだ」
ぎゅる、と。目の前のイカから伸びた触手に絡め取られた。緑色に発光した、得体の知れない……
「だから、な? ……俺のハジメテになってくれや」
言うなりこちらを抱き締めた緑色のイカは大きく口を開け────