君待つ夜更け ふと目が覚めて見回すと、窓の外はまだ暗かった。枕元の時計を見れば三時半。これ以上眠れないだろうと判断したオレは、いつものようにのろのろとベッドから起き上がる。
――今日こそは、という埒もない願いを胸の底に沈めながら。
◇ ◇ ◇
《ウィル・スプラウトの悔恨》
その日のパトロールには久しぶりにブラッドさんも参加するとあって、チームの雰囲気はいつも以上に引き締まっていた。
ブラッドさんはここ半月ほど連日会議に出ていて、明日ようやく久々のオフなのだそうだ。その前に久しぶりに市民や街の様子を見ておきたいと、会議でお疲れだろうに午後のパトロールに参加することになったのだ。お忙しい中でも常に市民のことを考えているブラッドさんの姿勢は、本当にすごいなと思う。
レベル三のサブスタンスが二体ケチャップストリート付近に出現したと報せを受けたのは、そろそろ切り上げようかと今日組んでいたブラッドさんと話していた時だった。オスカーさんたちと連絡を取り合って、現地で合流しようと話していたまさにその時に、マゼンタアベニューでもう一体レベル三が出現したとの連絡が入る。マゼンタアベニューの方を比較的近くにいるオスカーさんたちに任せることになった。
現場に到着してすぐ、ブラッドさんは戦闘に入った。避難誘導を頼むというブラッドさんの指示に、俺は逃げ惑っている市民たちのもとへ向かう。
現場にいた人たちを安全な場所まで誘導し終えて、内心ほっと一息つく。ブラッドさんの方もサブスタンスを一体は無事回収し、もう一体を追い詰めている所だった。
サブスタンスが一際強いビームを放ったのと、ブラッドさんが不意にその線上に飛び出したのはほとんど同時だった。そこからの動きはまるでスローモーションのように鮮明に記憶に残っている。
ブラッドさんの腕に防ぎきれなかったビームが当たる。それでもその数瞬後にはブラッドさんの攻撃が命中し、ブラッドさんは即座にサブスタンスを回収していた。俺は見ていることしかできなかった。
ブラッドさんの背後には、ビルの陰で子どもが一人蹲っていた。そんな、この辺りにいた人たちは皆避難してもらったはずなのに、と血が下がるのを感じる。足が竦んで動けないのだろうその子どものもとにブラッドさんは歩み寄って声を掛けている。俺はようやく我に返って二人に駆け寄った。
その子を俺が安全な場所まで連れて行き、現場の確認をしていたブラッドさんに声を掛ける。
「ブラッドさん、大丈夫ですか」
「ああ、問題ない」
「でも、傷になってます……タワーに戻ったら研究部で診てもらってくださいね」
「ああ」
「あの……本当に申し訳ありませんでした。俺があの子に気付かなかったせいで……」
「危険に直面して身を隠そうとするのは人の性だし、恐怖で体が動かなくなることも稀ではない。以後、気を付けろ」
「はい……!」
それから俺たちは現場の後処理を済ませてタワーに戻った。研究部に寄るというブラッドさんと途中で別れて部屋に帰る。
ブラッドさんが倒れたと研究部から連絡が入ったのは、その数分後のことだった。
俺はリビングで一人立ち尽くしていた。
ブラッドさんは研究部に着いて間もなく倒れたのだそうだ。負傷の現場を見ていた俺もノヴァ博士に呼ばれて話を聞かれた。その後、先にタワーに戻っていたオスカーさんにその場を任せて、俺たちルーキーは部屋に帰された。
ベッドに横たわるブラッドさんの姿を思い出す。俺と一緒に現場の後処理をしていた時も、タワーに戻る途中も、もしかしたら具合が悪いのに無理していたのかもしれない。また何も気付けなかった自分が情けなかった。
それに、本当ならパトロールが終わったらブラッドさんは久しぶりのオフのはずだったのに。ブラッドさんは珍しく、「今晩はタワーを離れるが、何かあればいつでも連絡してくれ」と今朝俺たちに言っていた。心なしか嬉しそうなその様子に、何か楽しみなご予定があるのだろうかと俺まで嬉しくなったのが遥か昔のことのようだ。そう、ブラッドさんはオフを誰かと過ごす予定だったかもしれないのに、その楽しみまで俺が台無しにしてしまった。
不意に、無音のリビングに電子音が響いた。見れば、鳴っているのはテーブルの上に置きっぱなしになっていたオスカーさんのスマホだった。一度鳴り止んではまた鳴り始めるスマホを見てしばらく逡巡していた俺は、三回目に鳴り始めたタイミングでスマホを裏返して画面を確認し、通話ボタンを押した。
「はい、オスカーさんの携帯です」
「……ウィルか」
「っ、はい、そうです」
通話の相手はキースさんだった。
「ブラッドのヤツ、どうしてる? オスカーも電話に出られねぇってことは何か非常事態か?」
キースさんの声は冷静で、酔っている様子もなかった。俺はブラッドさんが倒れた経緯を簡潔に説明した。
「……それで、今のところ命に別状はないそうですが、脳波に異常が出ていて、意識が戻らないようです。問題のサブスタンスは回収済みなので、今研究部でその解析を進めていて、詳細がわかり次第特効薬を作ってくださるそうです」
「……そうか、わかった、ありがとな」
通話の切れたビープ音を聞きながら、ああ、ブラッドさんがオフを過ごすはずだった相手はキースさんだったのかもしれないな、とぼんやり思った。
それから一週間。ブラッドさんは眠り続けている。
◇ ◇ ◇
キッチンは思ったほど寒くなかった。と言っても、ここ数日でこの時間帯の気温に慣れてしまっただけかもしれないが。
鍋に水を張り、切ったコンブを入れて火にかける。煮立つ手前でコンブを取り出し、沸騰したところでカツオブシを入れて、沈んだら火を止める。この工程にももうすっかり慣れてしまった。
あの日ブラッドを誘ったのに深い意味なんかなかった。ただ、いつもオレの飲みの誘いを頑なに断るアイツを一度くらい頷かせてみたくて、ダメ元で声を掛けたのだ。
ブラッドは今月、会議三昧の十五連勤だという。正気の沙汰じゃねぇ。執務室で報告書を直されながらそんな話をしていた時に、誘いをかけたのは多分自然な流れだった。
『お前も大変だよな~。なあ、連勤明けたら飲みに行こうぜ』
『断る。貴様の介抱をさせられるのは御免だ』
ブラッドはいつも通り素っ気ない。オレはもう少し粘ってみることにした。
『え~つれないこと言うなよ〜』
ブラッドが溜息を吐いた。
『……ただし、』
『ん?』
『……お前が料理を作ってくれると言うのなら、付き合ってやってもいい』
『料理? 何食いたいんだよ?』
ブラッドは黙った。これは何か言いたいことがある時の黙り方だ。嫌な予感がした。
『……味噌汁を、作って欲しい』
『っ……』
オレは動揺をうまく隠せていただろうか。
『駄目か?』
ブラッドは抑えた声音でそう言って、眉を下げて憂いを帯びた目をして見せた。オレがその顔に滅法弱いのを知ってか知らずか、いや、知るはずねぇんだけど。無意識だからこそタチが悪りィ。
『……わかったよ』
『っ、本当か?』
『おう、そんじゃあな、精々会議頑張れよ~』
『待てキース、まだ報告書の修正が残っている』
『げっ、忘れてなかったのかよ』
『当然だ』
そして、その十五日目の会議が「あの日」だった、それだけだ。
前日電話した時には、明日は会議の後久しぶりにパトロールにも出るのだと嬉しそうに話していた。そのパトロールであんなことになるなんて、まさかアイツも思わなかっただろう。
――いや、いつでも市民を守ってこうなる覚悟は出来ていたとか、言いそうだな。
アイツのそういう所が、オレはずっと嫌いだった。
情けない話だが、オレはブラッドが目覚めなくなってから上手く眠れなくなった。元々眠りは浅い方だしそこまで困ってもいないのだが、何しろ手持ち無沙汰で、居ても立っても居られない夜に思い出すのはアイツを誘ったあの日の会話だった。それでどうしてそうなったのか、自分でもよくわからないが、オレはある日の深夜、自宅に味噌汁の材料を取りに戻って、気付けばチームの共同のキッチンに一人立っていたというワケだ。それも、それから毎晩。
鍋を適当に洗って、タッパーに移した味噌汁が冷めていくのを飽きもせずにじっと見ている。大概オレもおかしくなっているのかもしれない。
粗熱が取れたところでタッパーを持って部屋に戻る。ディノがまだ眠っているのを気配で確認して、冷蔵庫にしまう。オレはこのまま病室に向かうことにした。廊下から見える空はまだ暗い。
白い病室で眠るブラッドの傍に腰掛ける。コイツは眠っている時すらお綺麗なままで、無駄に長い睫毛が濃い影を作っている。
その陰にあるマゼンタの瞳が、気の強い眼差しが見えないのが惜しいと、ここに来ては毎日思っていることを今日も思った。
浅く吐き出した息は、吸う度に喉奥でヒュッと短い音を立てる。ぎこちない呼吸を何度か繰り返して、いつものように諦めの溜息を吐いた。
コイツが目覚めなくなってから、オレは呼吸すらまともにできずにいる。
いつからか、なんて、今となってはもうわからない――と言いたいところだが、コイツに向ける想いを自覚した時のことは生憎はっきりと覚えている。
前に、ずっと前に一度、ブラッドに「味噌汁を作って欲しい」と強請られたことがあった。アカデミーの頃、アイツはもう忘れているだろうが。
その時、オレは断ったのだ。
『え、嫌だよ面倒くせぇ』
『他のモンならまあいいけど、味噌汁は絶対ェ嫌だ』
いつになく強い調子で拒絶してしまってから、らしくない自分に戸惑い、珍しく傷付いたような目をしたブラッドに酷く動揺し、そんな自分に更に混乱した。その後一人になってから、ああ、オレ、アイツのことが好きなんだ、と腑に落ちたのだ。
とは言え、自覚した直後から、オレは必死にその感情に蓋をした。ブラッドは、面と向かってはとても言えないが「友だち」のはずだったから。「友だち」にこんな感情を抱くなんておかしい――オレは初めて出来た「友だち」の一人を失くしたくなかったのだ。その蓋は何度も剥がれかけて今ではもうボロボロだが、辛うじてその体を保っている、と思う。
あの時あんなに強く拒絶したのは面倒だからなんかじゃない。手の掛かる品を作ったら、好きな気持ちが溢れて知られてしまいそうだったから、その照れくささとむず痒さに耐えられなかっただけだ。そんな幼稚で身勝手な理由でブラッドを傷付けたことを、オレは心の片隅でずっと後悔していた。そしてそれ以来、ブラッドがオレに和食を強請ることはなかった――あの日までは。
ブラッドがそんなオレの内心を知ってまた味噌汁を強請ってきたとはとても思えない。あの頃よりジャパンフリークに拍車がかかっているのは事実だから、ただ単に疲れた時に味噌汁が食べたくなっただけなのだろう。
今回、オレが味噌汁作りを引き受けたのには大した理由があったワケじゃない。前回の負い目があったのと、ブラッドの押しに負けたというのが正直な所だ。ただ、ブラッドのささやかな願いを素直に聞き入れるのは思っていた以上に心地良いものだった。白い飯と味噌汁だけじゃ流石に寂しいからと、鰤の煮付けとほうれん草の胡麻和えも作った。今思うとブラッドと二人で過ごせることに浮かれていたのだと思う。アイツが約束の時間を過ぎても来ないことも初めはさして気にならなかった。オレがそんな風に呑気に待っている間にアイツを永遠に喪ってもおかしくなかったと思うと、胸の奥が薄ら寒くなる。
そんなことをぐるぐると考えながら過ごして、気付いた時には六時近かった。もうすぐオスカーかジェイがやってくる頃合いだろうかと思っていると、案の定廊下から足音が聞こえてくる。
「おはようございます」
入ってきたのはオスカーだった。ブラッドが倒れてすぐは一睡もせずに付き添おうとして聞かなかったが、見兼ねたディノの愛ある叱責が効いたのか、コンディションを整えてブラッドの留守をしっかりと守ることを決意したようだ。今朝も大分顔色が良い。
「おう」
手を上げて応えて椅子を譲る。オスカーはオレに軽く一礼して席に着いた。律儀なヤツだ。
流れるような自然な所作で、オスカーがブラッドの白い手を握る。
今までだったら二人の距離の近さに内心妬いていただろう。でも今は、素直にコイツの手を握れるオスカーを羨ましいとも妬ましいとも思わない。全ての感情が緩慢で、オレはやはりどこかおかしくなっているのだろうかと思いながら、ポケットの煙草を確かめて病室を出た。ブラッドの来ない屋上は、何だか殊更に寒かった。
◇ ◇ ◇
《ディノ・アルバーニの心痛》
キースの様子がおかしいのではないかと、初めに俺に相談しに来てくれたのはジェイだった。確かに、ブラッドが倒れてからのキースはいかにも不自然だった。その表面上の暮らし振りが、あまりに変わらなさすぎるのだ。ジェイも、俺が居なくなった時のキースの様子とは――ブラッドは現状確実に生きているというのは俺の時とは大違いだとしても――あまりに違っていて、それが逆に心配だと顔を曇らせていた。
一方で、キースが夜中にキッチンで何かしていることには、途中からだけれど気付いていた。メンター部屋の小型冷蔵庫から大事なビールが無造作に取り出されてその辺に放られていることにも。
だからある日、俺はたっぷり昼寝をして、夜中まで密かに起きてキースを見張っていた。三時過ぎに一度キースは出て行って、しばらくして戻ってきて冷蔵庫に何か入れるとまた出て行った。ブラッドの病室に向かったのだろう。朝起きて病室に行くといつもキースさんがいるんです、とオスカーが言っていたから。
俺はそろそろと起き出してキッチンに出てみた。和食の匂い? これは確か、味噌の香りだろうか。キースは隠したかったのかもしれないが、生憎、俺は鼻が利くのだ。そしてその香りで、俺にはキースのしていたことがわかってしまった。
ブラッドが倒れる一週間ほど前、執務室に呼び出されたキースがやけに上機嫌で帰ってきたことがあった。どうしたんだと尋ねると、ブラッドの連勤が明けたら味噌汁を作ってやることになったと嬉しそうに教えてくれた。お前が和食を作るなんて珍しいなと驚く俺にキースは照れたように笑って、キースのブラッドへの気持ちを何となく察している俺としては、これはひょっとしていよいよキースが本気で動き出すのか、と胸を躍らせたのだった。
その味噌汁を、真夜中に一人で、いつ目覚めるかわからないブラッドのために毎晩作っているだなんて。
――ああ、やっぱりキースは全然大丈夫なんかじゃなかった。
それなのにキースは日中はいつも通りに振る舞っていて、仕事もしょっちゅうサボろうとしては俺やジュニアに叱られて失敗しながら、結局は卒なくこなしている。お酒はあんまり飲んでいないようだ。飲み過ぎてもブラッドが叱ってくれないからだろうな、と思うと、部屋に無造作に転がるビール缶が急に切なく思えて、俺は少し落ち込んだ。
そんな毎日の中で珍しく、その日は何か思う所があったのだろうか、検査に行っていた俺がノヴァさんの所から戻った時には、部屋には大量の空き缶が転がっていて、キースの姿はなかった。ビールを冷やさずに飲むなんて、普段のキースなら有り得ないことだ。
人の出入りがある日中にキースがブラッドの病室に行くことはまず無いから、屋上で煙草でも吸っているのかもしれない。そう思ってしばらく待っていたが、夕食時になってもキースは帰ってこなかった。何となく胸騒ぎがして探しに行こうと腰を上げた矢先、スマホが鳴った。オスカーからの着信だ。
「もしもし、オスカー?」
「ディノさん、お忙しいところすみません。実は……」
続くオスカーの言葉を聞いて、俺は部屋を飛び出した。
サウスの部屋に着くと、リビングでオスカーが待ってくれていた。話し出そうとする俺を静かに手振りで制する。怪訝な顔をする俺に、オスカーは眉を下げて小声で言った。
「……つい先ほど、眠ってしまわれて」
なるほど。俺はオスカーに続いて、足音を立てないようにメンター部屋に入った。
キースは眠っていた。ブラッドのベッドで、身体を丸めて、シーツを握り締めて。
「……酔って押し掛けたんだろう? 悪かったな」
「いえ、ブラッドさまをしばらく探し回られて、何で居ないんだよとは度々仰っていましたが、ベッドに辿り着いてからは比較的すぐに眠ってしまわれて……」
余程疲れていたのでしょうね、と呟くオスカーの声は暗い。
その言葉に頷いて、俺は一つお願いをした。
「オスカー、今夜だけ、キースをこのままここで寝かせてやってくれないか?」
もうずっと、まともに寝てないみたいなんだ。
オスカーが神妙な顔で頷いた時、ベッドのキースが舌足らずに「ぶらっど」と呟いた。
隈が色濃く残ったその白い横顔を見て、せめて夢の中では元気なブラッドに会えていると良いのに、と俺は願わずには居られなかった。
◇ ◇ ◇
出汁汁を濾して火にかけ、豆腐とワカメを入れて煮立たせる。出汁が沸騰して具材に火が通ったら火を止め、沸騰が収まったところで味噌を溶き入れる。
結論から言えば、アカデミー時代に味噌汁作りを引き受けなかったのは、ブラッドには悪いが正解だった。あの時作ってしまっていたら、その後十二年も何食わぬ顔で「友だち」を続けることなどとてもできなかった。
あの日、自宅でブラッドを迎える準備をしていたオレは、この七面倒くさい工程の一つひとつがブラッドのためだということを始終意識してしまって、頭の中はあっという間にブラッドのことと、これからアイツと二人で過ごす時間のことでいっぱいになってしまった。今だって、オレはどうしようもなくブラッドのことを思っている。
ブラッドの、真っ直ぐで自他どちらにも厳しい所が好きだ。それゆえに融通が利かない不器用で少し子どもっぽい所も。そして、本当は誰より情が深くて優しい所も、ずっとバカみたいに好きだった。
ブラッドはアカデミー時代から強引にオレの手を引いて日の当たる道へと導いてきた。アイツがディノの居ない四年間に、どうしようもないクズみたいなオレを目の当たりにしてもその手を決して離さなかったこと、オレをガラでもないメンターなんかにしたこと、フェイスをオレのチームに入れたこと――アイツに懸けられた想いは、気付かない振りなどできないほどにオレの中に降り積もっている。でも。
そんなアイツに、オレはどれだけのものを返して来た? あの四年間への謝罪と感謝すら、オレはまだアイツに伝えていない。
鍋を掻き混ぜながら、こんなことをして「何か」をした気になっている自分に吐き気がする。それなのに、この奇妙な習慣は、一度始めたらやめられなかった。
その日もオレは懲りずに作った味噌汁を部屋に持ち帰る所だった。
「あれ」
振り返るとルーキー部屋の入口にフェイスが立っていた。喉渇いちゃってさ、水飲みに来たんだよね、と言いながらフェイスは近付いてくる。当然だ、オレはキッチンに居るのだから。
「それ、何?」
フェイスはオレの手元のタッパーを指差して言った。
「あー……作り置き」
「ふぅん」
こういう時、無闇に踏み込んでこない質なのがありがたい。オレはフェイスの視線から逃れるように部屋へと戻った。
◇ ◇ ◇
《フェイス・ビームスの失敗》
確かに、その日は朝から情緒が少しおかしかったかもしれない。
ブラッドの見舞いに行かないのかとおチビちゃんがあまりにうるさいから、別に俺が会いに行ったところで早く目覚めるわけじゃないでしょ、と言ったら、おチビちゃんの地雷を踏んでしまったらしく、真っ赤になって怒ったあの子にトレーニング終わりに無理やり病室に連行された。まあ、当然のことだけどそんなことでブラッドが目を覚ますはずもなく、俺たちはその場でいつも通りの他愛もない雑談を小一時間して、そのまま部屋に帰った。おチビちゃんはどうだったか知らないけど、俺は普通に居心地悪かったよ。
そんなことがあって、精神的に疲れていた、というのもある。けど、所詮言い訳だ。
夜中に喉が渇いて目が覚めて、何か飲もうとキッチンに来たら、今夜も先客がいた。キースがコンロの前で鍋を掻き混ぜている。俺はちょっとした気紛れで声を掛けた。
「また作り置き?」
「……ああ、まあ」
「ふぅん。でもさ、」
一口水を飲んでキースの丸まった背中を見る。昼間のことでちょっと気分がささくれ立っていたから? いつまでも目覚めないブラッドに痺れを切らしていたから? 自分でもわからないけれど、俺は無性に誰かに意地悪がしたい気分だった。
「毎日同じもの作って消費してたら、それ、作り置きって言わないよね?」
キースは手を止めて面倒くさそうに俺を見た。
「……気付いてたんなら言えよ」
「アハ、触れるなってオーラ出しまくってたのはキースでしょ? 気を遣ってあげたんだよ」
ハァ、と溜息が聞こえる。俺は数歩キースに近付いた。
「ねぇキース」
だからこれも、ちょっとした興味本位の悪戯のつもりだった。
「……ソレ、ブラッドと関係ある?」
キースは一瞬動きを止めて、何も言わずに薄く笑った。何かを諦めたようなその笑みが俺は気に食わなくて、更に食い下がる。
「なんか意外。キースってそういう願掛けみたいなの興味ないかと思ってたけど」
「……別に、アイツのためじゃねぇよ」
「アハ、それじゃ自分のためとか言っちゃうワケ? そういうのちょっと気持ち悪いんだけど」
そこまで言ってしまってから、俺は踏み込む方向も言葉の選択も何もかも間違えたことを悟った。キッチンの照明に照らされたキースの横顔は、蛍光灯の色でも元々の血色の悪さのせいでもなく、病的なほどに白かった。
「……ごめん」
「……フェイス」
「今の、聞かなかったことにして」
キースの返事はない。でも俺はこれ以上この場に居られなくて、消え入りそうな声でおやすみ、と言って部屋に逃げ込むしかなかった。
ブラッドが倒れてからも、キースは表面上はいつも通り振る舞っていた。迎えを呼べないからか深酒もしなくなって、生活態度だけで言えばむしろ良くなったくらいだ。それでも、ゼロが捕まる前後のキースの様子を思えば、同じく同期の、多分親友が倒れて目覚めないのに、あのキースが内心何事もなくいられるわけがなかったのだ。それくらいのこと、簡単に気付きそうなものなのに、俺は気付けなかった。あーあ、俺もこの状況で普通じゃいられないってことか。仮にも当事者の身内だもんね。
でも、さっきのキースを見たら自分のことなんてどうでも良くなってしまった。キースはきっと今ギリギリの所に立っている。ブラッドは多分、ディノともまた違う意味でキースにとって特別なんだろう。
ブラッド、早く目覚ましてよね。あんなキース、正直見てられないよ。アンタのせいでしょ、早く何とかして。
翌日、リビングでキースと二人になったタイミングで思い切って声を掛けた。
「キース、今朝……っていうか、昨晩はごめん。俺、」
キースは一瞬、そう言えば、とでも言いそうな顔をすると、目を細めて俺の頭をわしゃわしゃと掻き混ぜた。
「お前はなんも悪くねぇよ」
いつも通り深い低音は優しかった。この話は終わり、とでも言いたげな背中をつい追い掛ける。
「ねぇ、俺、キースの近くにいない方がいい?」
「は?」
「……だって、ホラ、あんまり言いたくないけど、似てるでしょ、それなりに。顔見るとしんどいんじゃないかなって」
キースはもう一度俺の頭を、さっきよりもいくらか乱暴に掻き混ぜた。
「お前らは違げぇよ」
「そっか……ブラッド、早く目覚ますといいね」
「……そうだな」
頭を撫でていた手を握り締めて、噛み締めるように呟いたその声音に、キースの想いの深さを垣間見てしまった気がした。
◇ ◇ ◇
一向に目覚めないブラッドを待ちながら毎日味噌汁を作っているうちに、オレは自分の内心が少しずつ変化していくのを自覚していた。
まず、こんなこと言うのは照れくさいが、アイツを大切だと思う気持ちは否応無しに深まった。まあ当たり前だ、眠れない夜に手を動かすものはあっても頭の中はブラッドのことばかりだったのだから。
それから、これも今更と言えば今更だが、自分がブラッドにできることなんて何もないんじゃないかという思いが日に日に強くなっていった。病室のアイツの傍に居る時も、キッチンでフェイスと二度目に遭遇した夜も、思っていたのはそのことだった。
だから、オレの出した結論はこうだ。ブラッドが生きていてくれるだけで良い。オレが傍に居なくても――いや、むしろきっと居ない方が良い。
そして、特効薬が完成したと聞いたその晩、オレは味噌汁を作るのをやめた。
◇ ◇ ◇
《ブラッド・ビームスの不本意》
もう身体には何の違和感もないというのに絶対安静を言いつけられて、俺は大層不満だった。ご丁寧にスマホまで取り上げられたままで、これでは溜まりに溜まっているであろう業務メールのチェックすら出来ない。寝たきりだったから体力は多少落ちているだろうが、書類仕事ぐらいなら問題なく出来るというのに。しかし、二週間も眠っていたのだからいくらヒーローといえども少しずつ身体を慣らしていかなければ危険だ、とノヴァ博士に懇々と諭されては、逆らうことは出来なかった。
もう一つ、俺には不満なことがあった。有難いことに俺の病室には研修チームのメンバーを中心に入れ替わり立ち替わり来客が訪れてくれるのだが、一人、数日経っても顔を見せない男がいるのだ。いくら筋金入りの面倒くさがりでも、一度見舞いにくらいは来ても良さそうな間柄だと思っていた。
気になった俺は、ディノにキースの様子を聞いてみた。聞けば、最近のキースは深酒もせず、問題なく仕事をこなしているという。
俺が眠っていた間キースはどうしていたのかと尋ねると、ディノはしばらく言い淀んだ後、躊躇いつつも話してくれた。深夜の密かな習慣のことも。痛々しくて見ていられなかった、でも、ブラッドが目覚めてからのキースも何だか変だ、とディノは悄気たように呟いた。
キースが毎晩味噌汁を作っていたと聞いて、当然心当たりのある俺は驚いた。伝え聞くキースの様子には勿論胸が痛んだが、他方で、キースにとって自分がその程度には重要な存在なのだということが感じられて、浅ましくも内心嬉しさも覚えてしまい、自己嫌悪に陥った。もしかしたらキースも俺と同じ気持ちなのではないかと、否応無しに期待してしまう自分がいたのだ。
そして、そんなキースに言ってやりたいことがあった。
――そんなに俺のことを想っているのなら、会いに来い、臆病者め。
病室での絶対安静生活で気が急いていたというのもある。俺はキースを動かすべく、一計を案じた。
◇ ◇ ◇
《キース・マックスの切望》
『もしもしキースか、ブラッドが大変なんだ! すぐに病室に来てくれ!』
ディノからの着信に駆け付けた病室にはしかしディノの姿はなく、謀られた、と気付いたオレの目の前ではブラッドが一人不機嫌そうに眉間に皺を刻んでいるだけだった。
「貴様の考えていそうなことは、大方想像がつく」
開口一番、ブラッドは居丈高に宣告した。
「自分は俺に必要無いとか、傍に居なくても良いとか、そんなことを思っているんだろう」
図星を指されて頷くことしかできないオレに、ブラッドは静かに問うた。
「では、何故今ここへ来た?」
「……なんも考えてなかった」
呆然と呟くと、ブラッドは淡く笑んだ。その表情の唐突なあたたかさに胸が軋んで、蓋をしたはずの想いが疼く。
「明後日退院が決まって、その日は強制オフなんだが、キース、あの約束はまだ有効か?」
オレたちの間に、約束なんて一つしかない。
「貴様の作った味噌汁が食べたい」
有無を言わせぬ強さでそう告げて微笑むブラッドは、どうしようもなく綺麗だった。
豆腐を切るだけのことに、味噌を溶き入れるだけのことに、情けなくも手が震えた。
どうにかこうにか出来上がった味噌汁をテーブルに運ぶ。もう普通に食事ができるようになったブラッドは、リトルトーキョーのテイクアウトの寿司を並べていた。テーブルには、ブラッドが淹れてくれた緑茶のマグも二つ並んでいる。何だか、今日はオレも飲む気分になれなかったのだ。
「いただきます」
二人で手を合わせる。思えばこの作法も昔ブラッドに教わったものだった。
ブラッドはじっと味噌汁を見つめると、次いで香りを楽しむように器を顔に近づけて目を細めた。そして、器を傾けてじっくりと一口飲む。
「美味いな」
「……そりゃ良かった」
何でもないように答えながら、内心胸を撫で下ろす。同時に胸の内にあたたかなものが広がっていく。ああ、オレはブラッドのこの顔がずっと見たかったのだと、今になって腑に落ちた。
釣られるように自分も器を口元に運ぶ。数日前まで作っていた味噌汁を一人で消費していた時には味も香りもわからなくなっていたが、今日は大丈夫だった。誰かと食卓を囲むというのは絶大な効果があるらしい。いや、誰か、ではない、無事に目を覚ましてくれたブラッドとだからこそ、だろう。
ふと、ブラッドが箸を止めて言った。
「俺が眠っている間、毎日味噌汁を作っていたそうだな」
「! ……ディノか」
知ってはいたけど、本当に隠し事ができない質だな。ブラッドは頷いて言葉を継ぐ。
「俺の為だと、思っても良いのか?」
「……わかんねぇ」
目で続きを促されて、ぽつぽつと言葉を零す。
「そんなことしてお前が目覚めるワケもねぇってわかってたし、勝手でムダなことしてんのもわかってた。……だけど、何かせずにいられなくて、一度始めたらなんでかやめられなかった」
どうかしてるよな、と自嘲するように笑うと、ブラッドの表情が翳った。ああ、こんな顔させたいワケじゃねぇのに。
何か考えるようにしばらく俯いていたブラッドが、ふと顔を上げて言った。
「そうか……そうだな、ならば俺から少し昔話をしよう」
「え?」
「アカデミーの頃、一度お前に味噌汁を作って欲しいと強請ったことを覚えているか?」
「っ……覚えてるよ」
オレは戸惑っていた。なんで今になってそんなことを? と言うかブラッドのヤツも覚えていたのか?
「あの時お前に断られて、俺はとても悲しかった」
「……は?」
悲しかった、と淡々と口にするブラッドの表情は読めない。
「断られたことが無性に悲しくてな。お前に人として拒絶された訳でもないのに、暫くはお前に話し掛けるのも躊躇うほど、臆病になっていた」
「……ブラッド」
「それで、何故こんなにも感情が揺さぶられたのか考えてみた結果、お前に好意を抱いていて、その好意を無碍にされたかのように感じているからではないかという結論に至った」
それからずっと、お前を想っていた。
ブラッドの口調は静かで、茶化すことも、かと言って素直に受け入れることもできなくて、オレは黙った。信じられない思いと、ブラッドが冗談でこんなことを言うワケないとわかっている自分とで頭の中はぐちゃぐちゃだった。だってそうだろ、ブラッドが、オレを……?
「お前、今回味噌汁リクエストしたのって」
ブラッドは薄く笑って答えない。
「オレが断ったらどうするつもりだったの」
「さあな。どうもしないさ」
と言うことは、断っていたらオレはブラッドの気持ちを知る機会を永遠に失っていたってことか? 背筋が寒くなった。
「キース、お前から、俺に何か言うことはないか?」
確信を帯びた澄んだ視線に、オレは自分の想いがブラッドに悟られていることを知った。だからと言って、想いが重なったことを素直に喜べるほどオレは自信家じゃない。
「……でも、お前にはオレなんか居なくても」
「それを決めるのは俺だ」
間髪入れずに言葉が返ってくる。
「お前のことやっぱり全然わかんねぇし」
「そうは思わないが……そう言うならこれからいくらでも教えてやる」
「……オレ、お前に何もできない」
追い詰められて、胸の奥の弱音をつい口にしてしまった。
「そんなことはない」
「嘘」
「あの頃からずっと、お前は、俺にとって安らげる場所だ。今回味噌汁を強請ったのも、お前の作ってくれた料理を囲んで、お前とこうして二人で過ごす時間が欲しかったからだ」
言葉を失うオレに、ブラッドは言い募る。
「いいかキース、よく聞け」
焦がれたマゼンタがオレの目を真っ直ぐに射抜く。ブラッドは静かに言った。
「お前が傍に居てくれるだけで、俺は幸せだ。そして、俺の幸せにはお前が必要だ」
完敗だった。オレはもう何も言えなかった。
ブラッドは俺の応えを急かすことなく、黙々と食事を続けている。しばらくぼんやりとその姿を眺めて、オレはようやく口を開いた。
「毎日味噌汁作りながら、本当はさ」
「うん?」
「……約束やら口実がなくても、お前が食べたいって言ったモンをいつでも作ってやりたいって、思ってた」
自分でも驚くくらい、蓋をしていた本音が素直に言葉になっていく。
「ブラッド、好きだ」
「ああ」
「すげー、好き」
「ああ、俺もだ」
ブラッドの指が頬に伸ばされて初めて、自分が涙を流していることに気付いた。クソ、カッコつかねぇ。まあ、ブラッド相手に今更か。
「心配を掛けたな」
「……マジで埋め合わせしろよな」
グスッと鼻を鳴らして睨むオレに、ブラッドは淡く笑んだ。
「そうだな、まずは今日のところは、目一杯お前の我儘を聞いてやろう」
微笑むブラッドがあまりに綺麗で、オレは思わず見惚れた。息をすることすら忘れていたことに気付いた頃、くぐもった小声で尋ねる。
「……なら、ブラッド」
「ん?」
「手、握ってもいいか?」
「……ああ」
それくらい、我儘でも何でもないがな、とブラッドは笑った。
傍に居させてくれ――照れくさくて口にできなかった想いを込めて、恐る恐る手に手を重ねる。握り返してくれるブラッドの手のあたたかさに、止まりかけていた涙がまた溢れた。
「キース」
どれくらい時間が経っただろうか、ブラッドがオレを呼んだ。
「味噌汁のお代わりを、貰っても良いか?」
「……もちろん」
握った手を離すのが何だか惜しくて、少し迷ってからその手の甲に祈るようにキスを落として、照れを隠すようにオレは立ち上がった。背中にブラッドの柔らかい視線を感じながら、ああ、幸せだ、と思った。