高潔は渇望に穢れる鼻腔を刺激するガソリンの匂い。湿ったアスファルトの生ぬるい熱。頭から止めどなく流れるぬるりとした生暖かな生命。指一本さえ動かせない身体。くぐもって聞こえるどよめき。耳をつんざく鳴り止まないクラクション。割れて砕けた眼鏡。原型を留めていない愛しい人達だったもの。お父さん…お母さん…。目の前の惨状から逃げるように意識がホワイトアウトしていく。
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目覚めると真っ白な天井と微かに鈍い音を立てている業務用エアコン。少し視線を右に移すと腕に繋がれた点滴がある。薬品と消毒用アルコールの香りがここがどこかをぼやけた視界でも嫌でも理解させる。病院。視界とは相反するようにハッキリとした意識は私だけが生きているという事実を突き付け絶望させるのに十分だった。一瞬で愛する両親を失った。突っ込んできたトラック。間抜け面で寝惚けていた運転手の顔をありありと思い出していくと心の奥が沸き上がる黒々とした負の感情で支配されていった。返して、私の大切なお父さんとお母さんを。こんな醜い世界に一人ぼっちにしないで。死が救済だというのなら今すぐ私を殺せ。ろくに動かない左腕を伸ばして点滴を引き抜く。死んでやる。死んでやる。死んでやる。すぐに看護師が駆けつけて私のむなしい抵抗は止められた。
「絶望する気持ちは分かるよ。工道涼乃さん。」
「…。」
何が分かる、と思ったが口には出さない。目覚めた報告を受けて遅れてやってきた医師が私を哀れむ目で見てくる。不快だ。
「ご両親を一度で亡くされて…。それは知っていそうだね。加害者の運転手も亡くなったよ。打ち所が悪くてね。即死ではなかったけれど搬送中に…ね。その怒り、理不尽さ。どこにぶつければいいか困るよね。加害者の親族の方が―。」
「もういい。頭が痛む。眼鏡が無いと過ごせない。休ませて。」
「うん、眼鏡の件は善処するよ。それじゃあね。…死のうとなんて考えないでね?」
釘を刺された。今だけだ、と心の中で悪態をついて一人きりになった病室で歯軋りをする。この世界はやっぱり醜くて理不尽で救いようがない。大嫌いだ。お父さんとお母さんに愛される娘として生きる事だけが喜び。二人の笑顔と与えられる沢山の称賛。それだけでこの世界がどれだけおぞましくても生きてこられた。容姿が優れていてもそれは二人のお陰。成績が良くて褒められてもそれは二人のお陰。視力が悪いのは私の落ち度。人付き合いが嫌いなのは私の落ち度。二人以外にもて囃されてもだからなんだとしか思わなかった。他人など価値など無い。幼稚園生から高校生になるまで人間と関わったり、観察してきた。私に取り入って甘い蜜を啜ろうとする下衆。親睦を深める為という詭弁で振るわれる暴力に陰口で盛り上がる集まり。低俗なゴシップにそれを欲して喜ぶ人間。三枚舌、性欲の擬人化。挙げればキリがない。そんなろくでなしがのうのうと生きている世界なんて好きになれる訳がない。怒りで頭がズキズキと痛む。キチンと巻かれた包帯から血が溢れてきているのではないかと思う程に生暖かさを感じる。最悪な気分を寝て誤魔化す事にした。このままだと二人からもらった顔を突き立てた爪でズタズタにしてしまいそうだから。これが夢だったらなんてと思う程の逃げ思考は持ち合わせていない。
―
「スズノ…起きて…スズノ。」
聞き覚えの無い男女か分からない声が私の名前を呼んでいる。目を開くが暗闇しか広がっていない。
「何?」
闇に向かって愛想無く返事を返す。
「力をあげる。その代わりにヴィギィドを殲滅して欲しいの。」
ヴィギィド?聞いた事もない。それに力をあげる?確かに現状をどうにかする力は欲しいが…。
「貴様…悪魔か?」
そう。こんな問い掛けをしてくるのは悪魔しかいない。これは私が生み出した都合のいい幻覚。そうに違いない。
「幻覚でも悪魔でもないよ。そうだね。大いなる意思。それでいいかな。」
胡散臭い。馬鹿馬鹿しくなって目をつぶった。
「なら、力の一部だけ貸すよ。人間が疑り深いのは知ってるから。目が覚めたらスズノは奇跡を信じざるを得なくなる。」
声が消えると同時に私の意識も闇に溶けた。
―
「信じられない。一晩でここまで回復するなんて…!」
喧しいと目を開く。看護師が驚いている。回復した?真偽を確かめる為に手を握ったり開いたりする。ギリギリ繋がっていると思われた神経が無理矢理身体を動かしていた様な痛みと不便さがない上に驚く程に視界が開けている。小学生の頃からの近眼だったのに。一番は頭の痛みが全く無い事。元々の状態に戻ったどころか健康体そのものになっていた。呼ばれてやってきた医師もあり得ないと言葉を漏らしていた。
「退院してもいいという事?」
「…検査は受けてね。」
本来なら全治五ヶ月は掛かるという大怪我だったらしいがそれが綺麗さっぱり傷一つ無く治っていた。首を傾げながらも医師は退院を許可した。経過観察付きだが。これで金青縹高校に帰れる。高校は好きでも嫌いでもないが見舞いに来る筈だったクラスメイトという顔すら覚えていない有象無象に囲まれる事態は回避出来た訳だ。奇跡を信じざるを得なくなる。大いなる意思と言ったか。信じてやるとしよう。まあ、手続き等々を片付けてからだが。
―
放課後。運動部と一部の文化部の生徒が残る斜陽の校舎を歩いて校長室と職員室を訪ねて事のあらましを嘘を交えながら話した。驚かれはしたが納得してくれたようで。優等生だとこういう時に助かる。逃れられない二人を失った話で向けられた哀れみの目。実に不快だ。上位存在だけに許された傲慢なその行為。大嫌いだ。元から仏頂面な為、私の怒りが伝わる事なくすんなりと話は進み、無事に帰宅する事が出来た。
―
「ただいま。」
返事はない。私の日常は昨日終わったんだ。改めて突き付けられた事実に耐えられなくなってお手洗いに駆け込み、ろくに食べていない胃の中身を全て吐き出した。泣きたいとは思うが涙は出てこない。口を雑に拭って手を洗う。鏡に映る私は鬼神が如き表情をしていた。一女子高校生がする顔じゃない。そうか。私はずっと怒っている。全てに。絶望が一周した結果なのだろう。あまりにも醜い顔で見ていられなかった為、仕立ててもらった伊達眼鏡を掛ける。少しは落ち着いた。本来なら目が悪い象徴である眼鏡は嫌いだったのだが二人に可愛い、似合ってると褒めてもらった事からずっと眼鏡を着けている。私に残った二人の痕跡はこの家と私の記憶だけ。守らなければ。そう思う前向きな心と死んでしまって楽になってしまえばいいという魔の囁き。そんな感情を抱えながら夕飯も食べずに眼鏡を外して、ベットに潜り込む。疲れたかと問われたらそうとも言えるが直感的に思ったのは眠れば大いなる意思と交信できるのではないかと。そんな事を考えつつ、意識を手離した。
―
「スズノ。奇跡は信じられた?」
「信じざるを得なかった。」
古くからの友人かの様な距離感。大いなる意思が何かは知らないし知りたくもないが魅力的な存在である事は間違いない。
「スズノ、ヴィギィドを殲滅してくれる?」
「恩義には報いる。」
二つ返事で答えた。
「ありがとう、スズノ。力を授けるよ。この力で君が善なろうと悪なろうとこの大いなる意思はヴィギィドを殲滅さえしてくれればそれでいいんだ。」
随分と適当だなと思った。善であった方がいいだろうに。ヴィギィドを殲滅。心に刻んでおこう。
「さぁ、スズノ。事は早い方がいい。復唱してくれ。『ミュートロギアアムルル。我は神話より語り継がれし守人』」
「ミュートロギアアムルル。我は神話より語り継がれし守人。」
言われるがまま厨二病じみた一文を呟く。全身に力が漲り、装いが変わっていくのを感じる。右手が重たい。足元がぐらつく。目を開くとそれなりに肌面積の多い青を基調としたミニスカートにフリルの付いた可愛らしい服装に慣れていないヒールの高い靴。サイバーチックな大剣を右手に握っていた。しかも、ビルの上で。
「スズノはミュートロギアアムルルに変身したんだ。」
ミュートロギアアムルル。要は祝日の早朝に放映している変身ヒロインの様なものかと納得し、ヴィギィドというのは悪の組織という訳か。高校生にもなってこんな格好をするとはと軽くため息をついた。
「ミュートロギアアムルルは気高い魂を持った少女がなれるんだ。」
私のどこが気高いのだろうと思った。怒りで動くだけの俗物。それだけなのに。
「スズノは気高いよ。強い意思も持ってる。さぁ、付いてきて。ヴィギィドの怪人が空間を毒して世界を構築し、人間を飲み込んで殺める前に。」
声だけで姿は相変わらず見えないが頬を撫でていく風が行く先を示している。風に乗ってビル街を駆ける。ただ走っているだけなのに凄まじい風圧を感じる。その風圧は車の窓から手を出した時の感覚に似ている。障害物を飛び越える為に跳ぶと高さも相当だが飛距離がビルの屋上を軽々と飛び越えていくものだった。
「凄いだろう?これがミュートロギアアムルルの力。噂ではこの姿を見た人間が娯楽の一つのジャンルとして変身する者を主題とした創作物を作ったらしい。」
此方が女児人気のアニメの先駆けか。面白い事を言う。私の顔は仏頂面で眉一つ動かないが。
「ここだよ。恐れずに空間の蝕みに入っていくといい。大いなる意思は見守っているよ。」
路地裏の突き当たりに縁がケロイドの様な歪んだ闇が広がっていて、丁度サラリーマンがその闇に引き摺りこまれていく所だった。彼が叫んでも誰も振り返らない。こんな異常が起きているのに。無関心な群衆を無視して闇に突撃する。恐怖はなかった。頭の片隅に『いつ死んでもいい』という感情があったから。
「ミュートロギアアムルル!ついに現れ…。」
黒くてドロドロとした出来損ないの木の擬人化の様なかろうじて怪"人"と呼べそうなそれを手慣れた手付きで一閃する。剣なんて振るった事など無いのに。
「『戦闘システムは組み込んでおいた。スズノは飲み込みが早いね。こんなに将来有望なミュートロギアアムルルは彼女以来だ。』」
脳内で声が響く。切り裂かれた怪人は塵となって消えていった。よく見ると私の剣は空間さえ切り裂いてしまうようで切れ目からは現実世界の景色が見えている。
「『さぁ、早くその人間を連れて逃げるんだ。空間が閉じてしまう前に。』」
彼女?と思いつつも目の下に隈がくっきりと浮かんだサラリーマンを抱えて外に出た。
「お疲れ様。スズノはセンスがいい。初めてでここまでうまくいく子はいないんだ。」
「彼女とは何者?」
「相当前の話さ。伝説のミュートロギアアムルル。そう呼ばれる偉大な娘がいたんだ。ヴィギィドはその娘が壊滅させた組織の生き残りが発足した組織だよ。」
成る程と納得しながら変身を解いて、交番を探しにいく。流石にこのままにはしておけない。私は雑踏に消えていった。
「スズノ。君は実に優れた娘だ。大いなる意思は君の未来を見守っているよ。その力は君の物だ。好きに使うといい。」
―
深夜だったが為に警官に怒られたが意識の無いサラリーマンの方が優先だという事でほぼ不問となった。私だって深夜に出歩く不良少女になどなりたくてなってる訳じゃない。変身したせいで財布もなければスマホもない訳で。パジャマ姿ではなく私服姿だったのが幸いだった。帰りはこういう使い方じゃないだろうと思いつつ隠れた所で再変身し、走って帰った。とんだ身体能力を再認識した。家から徒歩五時間の距離の都市部だったのにたった三十分で帰投。どれだけ遠くへ転送されたんだか。雑踏に消える前にうっすら聞こえた力は君の物という文言。しかも、好きに使っていいらしい。投げやりだな。こんな強大な力はいとも容易く人を狂わせる。もし、私から両親を奪ったあの男が生きているなら間違いなくこの剣で惨たらしく、怒りのままに切り裂いていただろう。そう、対象がいないだけで私はもう力に狂っている。今すぐにでも世界を滅茶苦茶にしてやりたいという欲だってある。何故しないのか。無意味だから。私の目標は『両親に誇れる娘でいる事』と『ヴィギィドの殲滅』その二つ。目標達成の為なら手段は問わない。
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数ヶ月後
入浴前の自身の身体を見る。傷だらけでとても人様に見せられる代物ではなくなっている。その上、戦闘で疲弊し最近はろくに学校にも行く事が出来ていない。二人からもらった大切な身体を乱暴に扱っているという罪悪感と死ねば解放されるから肉体なんて大した価値じゃないの思考が争っている。結論の出ない争いに辟易しながらどれだけ戦っても手入れは怠らない自慢の艶やかな黒髪ストレートロングを纏めて湯船に浸かる。両親の葬儀の事を思い出していた。工道家はそれなりの名家。財産目当てだとよく分かる親戚を名乗る者達。それ以外の参列者。親戚が口を出してきたが葬儀は私が執り行い、財産の相続も私が弁護士を雇って全てかたをつけた。賢く育ててくれてありがとうと二人に感謝した。あの薄汚い獣共の目は忘れられない。これだけの力があるのならばズタズタに切り裂いてやりたい。報いを受けさせてやると憎悪が沸いてくる。私にすり寄ってくる人間は大体そうだ。入浴しても疲れが取れない。精神のすり減りも相まって負の感情を抑えられない。深々と沈んでみる。無音の世界。息は止めている。力を酷使しているせいで身体能力が素で上がっている。その為、沈んでから二十分経過している事に気付いたのはのぼせて湯船を鼻血で汚してからだった。愚かで醜いと辟易しながら血を洗い流して、涼をとった。こんな知性の欠片も感じられない私だが幹部クラスの怪人には近付いてきている。その名誉の負傷と疲弊だ。労ってくれる者などいないが。痛みは私だけで背負うと決めた時から。いや、そもそも人間を忌み嫌っている頃からそうせざるを得なかった。理解者なんていない。もういない。愛して欲しい。寂しい。事故の光景がフラッシュバックする。最近はこのフラッシュバック回数も増えて無意識に腕を掻きむしっている。自傷癖。確実に適切な医療機関にかかった方がいい事は理解しているが『ミュートロギアアムルルという変身ヒロインとして戦っていて精神がすり減っているんです』なんて言ったら確実に脳の病気か違法な薬物を使っていると思われるだろう。リビングの幸せだった頃の写真を見る。中学生の頃に二人と遊園地に行った時の写真。混じりけの無い純粋な幸福。まだ一度も泣けていない。言うまでもなく笑えてもいない。ずっと仏頂面だ。元から感情を表に出すタイプではなくてもここまで感情が振れないのは異常。知っている。そんな事はどうでもいい。心など殺せ。明日には幹部クラスの怪人を始末しているだろう。近いうちに頭領も片付けて私は…。大分落ち着いた。深夜の巡回と行こうか。私は息をする様に自然に変身をし、夜に溶けていく。
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朝。カーテンを開け放てば青々とした空が広がり、世界を照らす暖かな日光が迎えてくれるであろう明るい世界を拒絶してリビングのソファーから寝転がったまま無感情にTVを眺めている。
「昨夜未明、民家から胴体を切断された男性の遺体が―」
世の中はこんなニュースばかり。ヴィギィド以外にも悪というものは蔓延っている。悪というものは伝染する病だ。しかし、元を断とうにも性悪説に則った人間がいる限り。つまりは人間という生物が存在する限り、悪は潰えない。こんな世界を傷を負ってまで守る価値があるのか。そんな無駄な思考するのはやめた。ミュートロギアアムルルとなったのならばヴィギィドを殲滅する事だけを考えればいい。それに世界が醜くて理不尽で救えないのは今に始まった事じゃない。大嫌いだ。憎しみと怒りで私は歩み続けている。この心をドス黒く染める感情がなければ喪失感で止まるだけなのだから。
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「ここまでやるとは思わなかったぞクドウスズノ。」
後光を放ちながら君臨したのは色素の薄い少女。左が水色、右が黄色の虹彩を持ち、白百合の髪飾りを付け、黒基調の和柄の入ったドレスを身に纏っている。得物は槍。人でないという点を挙げるなら耳が尖っていて長い。数多の怪人の残滓が奴に吸収されていく。
「貴様を始末する。それでヴィギィドは終わりだ。」
「はん、強気な娘だ。さあ!来るがいい!」
強い殺意が具現化して見える。冷や汗が足元に落ちる。歪む。世界が歪む。何故ならここは奴の世界だから。足元がおぼつかず繰り出される素早い槍の突きをうまくかわせない。頭領だけあって他とは明らかに力量が違う。
「ミュートロギアアムルル!この程度か!」
歯を食い縛り、剣で攻撃を受ける。防ぎきれなかった分のダメージが蓄積されていく。痛い。痛い。後光による目潰し、研ぎ澄まされた槍術。自身をよく分かっている戦い方だ。だが、私は負けない。敗北する訳にはいかない。私は叫ぶ。
「貴様を殺す為に堕ちる所まで堕ちた。その力受けるがいい!」
真っ黒なオーラが身体を包む。突き攻撃がくるが空に浮いた大剣がそれを防ぐ。
「貴様ッ!」
「ウフフフフッ…アハハハハハハッ!」
心の奥底から笑う。楽しい訳じゃない。完全に壊れたんだ。黒基調になった衣装に膝まであるテカリのある皮の厚底ブーツ。禍々しい二本の角が生え、紫と黒が混ざったオーラが全身から溢れている。赤い宝石が刀身に埋め込まれた無骨な大剣を掴むと私は口端を上げた。
「殺してやった。悪党を。大勢。殺される訳にはいかない。これは世界を守る為の必要な犠牲だ。」
「ミュートロギアアムルル。見損なったぞ。そんなに自身の魂を燃やすのが嫌か。そんな身体で長生き出来るとでも?」
「知った事か。」
獣のように咆哮する。力が溢れて止まらない。私は知っていた。善であり続けるのならば自身の魂を燃やさなければこいつには勝てないと。長く希死念慮と同居し、その心に引かれて逝っても構わなかったがふと、生きたくなった。生きてる意味なんて無いのに。善のままで二人の元に逝くのが最善手なのに。分かっている。でも、この世界を本当の意味で守るならヴィギィド以外の悪も滅ぼした方が良いのではないか。そう思った。だから、死ねない。そして、悪党を殺し回って魂を魔導力に変換した。守るだけでは足りない。世界に分からせてやる必要がある。毒を持って毒を制する。もう私の思考は滅茶苦茶。壊したいのか守りたいのか。どちらも本心。後退る小娘に渾身の斬撃を食らわせる。大振りでがむしゃらで品性の無い一撃。それが逆に致命傷になった。読めもしない動き。奴は腹部に深い傷を負っている。
「ぐっ…。」
「耐えたか。まあいい。」
剣を宙に浮かす。回転させ、勢いが付いた大剣は槍をへし折った。必死に腕で防ぐも暴力的な重さの剣は小娘の周囲を縦横無尽に飛び回り容赦なく切り刻んでいく。
「どちらが悪党だか分からないな。痛ぶって殺す趣味はない。トドメだ。」
両手で剣を持ち膝を付いた小娘の首を落とす。転がった頭部を踏み潰して塵に返す。
「ありがとうスズノ。これでヴィギィドは滅んだ。」
大いなる意思の声が聞こえる。本当にヴィギィドさえ滅べばそれでいいのか。私という巨悪が残ったが?
「スズノ。生きたいと思うのは悪い事じゃない。それにミュートロギアアムルルは上位者。生きとし生けるものを生かすも殺すもスズノ次第なのは当然の流れ。禍々しいスズノも気高いよ。」
「戯言を。私を狩る者でも育成しているのだろう?」
「大いなる意思はミュートロギアアムルルに成れる者を探し、生み出すだけ。ミュートロギアアムルルのその後は自由意志に任せている。それにスズノ以上のミュートロギアアムルルなんて彼女位しか頼れないね。だけど、あの子が活動していたのは二十年も前。既に少女ではなく女性なんだ。つまり、何も出来ないんだ。資格を持つ子はいるけども無駄死にさせる程愚かな意思ではないよ。」
「伝説のミュートロギアアムルルか。」
「そう。円満に力を手放したんだ彼女は。年齢を重ねた事でね。スズノ、永遠なんて無いんだよ。その身が女性になった瞬間、ミュートロギアアムルルは力を失うんだよ。」
「そうか。どうせ長くはない。寿命でも期限切れでも時間が許す限り、私は殺戮を続ける。」
心の奥底では地獄に堕ちて二度と二人に会えないという悲しみが襲い掛かって来ているが既に手遅れ。正気など捨てろ。もう戻れない。剣を引き摺りながら崩れゆく世界から去る黒衣のミュートロギアアムルルは不気味な笑みを湛えていた。
―
「スズノ。」
大いなる意思が工道家の廊下の壁を背にして力無く頭を垂れて座る少女に話し掛けている。その瞳に生気はなく、身体はすっかり冷えきっている。パッと見は人形の様だ。
「帰ってくるだけの正気はあったんだ。強靭な意思の持ち主だねスズノ。君が悪党と定義される者を殺戮した結果、世界の人口が三割減ったよ。スズノの存在に怯えている者、正義の執行者として崇め奉る者。認知される程の上位者となった。見えない殺戮者ではなくなった訳だよ。ミュートロギアアムルルは誰もその存在を知らずに生きていくものなのだけれどスズノはそれを覆した。だけれども、ミュートロギアアムルルのクドウスズノという少女だと突き止めた者はやはり彼女だけだった。伝説のミュートロギアアムルルの由珠那。ユスナは行いを辞めさせたくて探りを入れていたのではなく最初から動機が痛みや苦しみだと理解した上で―」
「寄り添いたかった。手遅れだったけどね。もう力なんてないただの主婦だけどさ。涼乃。ゆっくりお休み。キチンと弔うよ。財産等々は貴女が手続きした弁護士辺りがうまくやってくれるだろうさ。私はそういう所も無力だからね。」
大いなる意思の言葉を遮って、涼乃の頭を撫でるのは水色髪の前髪パッツンセミロングヘアーの女性。
「ユスナ。久し振り。」
「大いなる意思とは随分と大仰な名を名乗るじゃないか。私と会った時はアグラロガラを打倒する意思だったのにね。」
「分かりやすければ名称なんて何でも構わないよ。力を授ける意思でしかないのだから。」
「ふーん。まあいいや。どうせこれだけの所業を行おうがミュートロギアアムルルは忘れ去られる。私の時もそうだった。人間なんて薄情なんだからさ。こんなの天災の一つぐらいにしか思ってないよ。」
「変わらないね、ユスナ。冷めきったその思考。少女特有のものだと思っていたんだけど。」
「悪かったね根底から冷めてて。私の話なんていいんだよ。この娘は人間として弔う。さっさと警察呼んで何とかしてもらうさ。しかし、生娘がこんなに傷付いて。痛ましい。だけど、哀れまないよ。私はそんなに偉かない。」
「大いなる意思は次の脅威に備えるとするよ。人の理は人に任せる。さようなら、スズノ、ユスナ。」
「はいはい。」
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工藤涼乃の葬儀。由珠那は遠目から様子を見ていた。涼乃は遺書を残していた為、不審点が多々あれど自殺として片付けられた。醜く財産を取り合う俗物。涼乃はこんなの為に一生を捧げてたんだなと溜め息をつく。しかも、狂気に犯されたせいで死しても救われない。今頃は地獄の業火にでも焼かれているのだろうか。ミュートロギアアムルルになっていようがならなかろうが工藤涼乃は救われない。由珠那は涼乃の代わりに一筋の涙を流した。手向けにもならないと思いながら。