プールサイド・レッスン──妙な時間に誘ってくるなとは思ったんだが。
夏の夜の帳は降りて、昼間は学生たちや家族連れで賑わうプールサイドの景色は変わる。
熱く絡み合う恋人たちがそこかしこにたむろし、そうでなければそうなりたい少年少女たちが出会いを求め、相手を必死に物色していたり。陽気だが、妙にねっとりした音楽が鳴り響き、薄暗い照明でもハッキリとわかる濃いめの化粧をした女達がギラギラとした視線をカノンに送る。
それに軽いウインクで答えながら、隣で呆然と、息を飲んでいる少年に目をやった。
「どうしたナイトプールとやらに誘ってきたのはお前だろうが」
「……ひ、昼間とぜんぜん、雰囲気がちがう…」
「そりゃそうだろ。デートスポットだろうしな」
「で、デート…」
「俺もてっきりデートに誘われたのかと思ったんだがなぁ。あんな風にいちゃつきたいのかと」
ニヤニヤしながらプールサイドのデッキチェアで絡み合うカップルを顎で指すとアイザックの顔が一気に真っ赤に染まった。
「は?そ、そんなわけないだろっ」
「じゃあなんなんだよナンパのやり方でも教わりたいのか」
さっきから目線をチラチラ合わせてくる少女達に手をふると黄色い歓声が上がった。
「ち、ちがうやめろバカ」
「いい機会だ。お前も女遊びの一つぐらい覚えないとな」
「興味ないッ!」
慌てふためきながらアイザックはぐいぐいカノンの腕を引っ張って、少女達の視界から逃れる。
賑やかな音楽から少し離れると娯楽色のない、なんの変哲もないプールにたどりついた。
おそらく会場内では1番広く水深もあるプールだ。入口だけ申し訳程度にライトアップされて蛍光色に染まっているが、その先は青黒く、濁っている。
「入れ、カノン」
「ああ?お前、俺の秘密を知ってるだろ」
「泳げない、ってやつだろ。だから、今日誘ったんじゃないか」
どういう意味だ、と訝しげな男に
「俺が、泳げるように特訓してやる!」
と少年は高らかに宣言をした。
周りは大きめの浮き輪やビーチボート、ハンモックなどで思い思いに浮いてるカップルだらけだ。
遊具もないプールのせいか人影もまばらで、その分恋人達の絡みも人目を憚らず大胆だ。
「この状況で泳ぎの練習やるやつもいないと思うがな…」
半ば無理矢理水中に引っ張りこまれたカノンは心底不快そうに眉根を寄せた。
「水の中でなけりゃ、もう少し楽しめるんだが。ほら見ろアイザック。あそこのカップルもうすぐ全裸になるぞ」
「見るな!バカ!変態!」
嬉々として周囲を覗き見るカノンを叱りつけながらも、アイザックは目のやり場に困って気まずそうに縮こまっている。
「……昼間、子供がいっぱいいるところでやるより恥ずかしくないと思ったんだ……アンタが」
ボソボソとそう言いながらアイザックは照れ隠しなのか逃れるように水中にざばりと潜った。
「そりゃ、お気遣いどうも」
それでナイトプールか、と納得はしつつもカノンは苦笑いするしかない。
その無知、よく言えば無邪気な気遣いは完全に裏目に出ているような気はするが、この年齢で泳げないという醜態が闇夜に紛れられるだけ多少はマシなのかもしれない。
泳いで向こうに行ったかのと思いきや、気がつくとアイザックはカノンのすぐ真下まで迫ってきて、ふいにその両腕を水中に引きずり込もうと引っ張った。
「おい、コラ!引っ張るな!」
「ちゃんと水につかれよ。来た意味ないだろ」
ようやく頭だけぴょこりと水面から出て、アイザックは口を尖らせた。
プールに入りはしたものの、壁にピッタリと貼り付いたまま棒立ちのカノンに、少年は不満そうだ。
「無茶言うなよ。これで精一杯だ。だいたい、なんで特訓なんてしなきゃならん?」
「海将軍筆頭が、いつまでもカナヅチなんてカッコ悪いだろ!」
──確かに、一理ある。
カノンもすとんと納得はしたが、だからといってこの嫌悪感が即座にどうにかなるものでもない。
「お前は、嫌か」
同情を買うようにわざと悲しげにそう言うと、アイザックの顔は分かりやすく揺れた。
「嫌とかそんなんじゃなくて……やっぱり、怖いのか」
「まあな」
そこはカノンも正直に吐露した。
今更、格好つけても仕方がない。
アイザックは少し悩んで、おもむろに身体を寄せ、カノンの腰の辺りに手を伸ばした。
ぱちゃりと水音とともに、少し冷えた指先が背中をなぞる。
水に濡れた前髪からのぞく赤い隻眼は、ライトアップされた光を反射して輝いて見えた。
「お、なんだ?周りのカップルに当てられたか」
ごまかすようにキスをしようと、露骨に顔を寄せたカノンを慌てて手で遮り、アイザックは顔をそむけた。
「バカそんなんじゃなくて首のあたりまで水に入れ。その、……怖かったら俺に、しがみついていいから」
「いきなり沈めって?スパルタだな。何か褒美ぐらいくれよ」
「……顔を水につけられるようになったらな。…さっきの続きぐらいならいいけど」
人前じゃ嫌だぞ、としっかり付け加えつつ。
アイザックはカノンの胸のあたりに顔を寄せた。
「ほら、とりあえず、水に慣れよう」
やり遂げるまで少年は離れる気がなさそうだ。
カノンは観念するしかない。
「仕方ないな」
アイザックの頭を抱くように、ゆっくりと膝を折り身体を水に沈めていく。
嫌悪感は残るものの、恐怖はそこまで感じなかった。ここが、海ではないからか。
柔らかな細い金髪が、鼻をくすぐる。プール独特の塩素の匂いを感じつつ、いや、こいつが側にいるからかもしれないと思い直した。
鼻先で体温すら感じ取れそうな、こんな近くに。
「入ったぞ」
そっとアイザックの耳元に囁くと、その顔はまた真っ赤に染まった。
「い、いやらしい言い方をするな」
「他にどう言えって?お前が勝手に思い出したんだろう。泳ぎより俺はそっちの特訓の方がいいがな」
いやらしい笑みを貼り付け、得意の誑かしを発動してみたが、アイザックは真っ赤になったまま「黙れ」と一喝するぐらいでなびく気配は全くない。
「……まだ、怖いか」
ふいに不安げに、まっすぐにカノンを見つめる少年に、カノンもふと心が揺れた。
「いいや、まだ大丈夫」
「じゃあ俺と一緒に、水中に沈んでみよう」
「どうしても、やらなきゃダメか?」
「当たり前だろ」
こう、と決めたら梃子でも動かないアイザックだ。やらなければこのままプールで一晩過ごさねばならなくなる可能性だってある。カノンは聞えよがしにはーっと深いため息をついた。
「大丈夫だ。溺れたらちゃんと、助けてやるから」
カノンの耳元で囁くその声はなんとも柔らかで、優しい。
そっと頬をなぞる指先に引き込まれるように顎のあたりまで水面につけて、思いきり息を吸い込んだ。
──こうなりゃ、ヤケだ。
どぷり、と全てを水に投げ込む。
全身をかけめぐった嫌悪感、あるいは恐怖心は、薄く目を開けた瞬間飛び込んできた少年の赤い瞳の輝きで霧散した。
それを夢中で引き寄せて、その唇に食らいつく。
微かにアイザックが呻いて、こわばった手が無理矢理カノンの顔を引き剥がした。
「ぐ…!」
息が詰まる気配にカノンは慌てて空気を求めて浮上した。
空気を吸おうと開いた口に容赦なく水が入り込みゲホゲホとむせこむ。
遅れて浮上したアイザックは冷ややかな目で睨みつけた。
「真面目にやれよ全く」
「先に褒美をもらっただけだ。ちゃんと潜れただろ?」
「……ちょっとだけな。全然、まだまだだ」
「助けてくれるんじゃなかったのか?どこまでスパルタなんだよ」
「まだ溺れてはないだろ、ほら!もう一回」
アイザックの濡れた腕が首に絡みついた。
小憎たらしいが、胸元で見上げるように睨む少年を見ていると可愛らしくも思え、カノンは吸い込まれるようにその唇に食らいついた。
「む、あ…」
アイザックも諦めたのか、されるがまま、身体を弛緩させ舌先を受け入れている。
このまま熱がこもって泳ぎの特訓も忘れてくれないだろうかと期待したのも束の間、
「ん、ああ、クソ。ちゃんと、真面目にやれって」
まだ口内に舌先の体温が残っている、そんな余韻も吹き飛ぶような台詞をアイザックは心底悔しそうに吐き出した。
「お前な、この状況でいう言葉か?」
「だって、せっかくアンタをプールに連れ出せたのに」
濡れた睫毛に水辺を照らす光が反射して、揺れる赤目は泣いているようにも見えてカノンは動揺した。
「おい、泣くなよ。……分かったよ。ちゃんとやるから」
泣いてるわけないだろ!とカノンの胸に拳を叩き込みつつ。ぱっとアイザックの顔がかがやいた。
「ちゃんと真面目にやるのか?もうキスはなしだからな!」
「後でたっぷりしてもいいならな」
「家だ!家に帰ってから!」
それからひたすら、泳ぎのコーチングを受けた。泣いているようにも見えた隻眼に絆されたことを後悔しつつ、アイザックに言われるがまま、沈んでは浮きを繰り返し、ついでにたっぷりプールの水も飲み込んだ。
結局、劇的な進展はないまま、二人は営業時間終わりのプールを後にし、来たときと同じように電車に乗り込んだ。
家の最寄りの無人駅が終点の車内は、先程大きめの駅であらかた乗客を吐き出し、残るはカノンとアイザックの二人だけとなった。
ガタゴトと揺れる振動と水から上がったあとの疲労感が心地良い。
「なあ、やっぱ、泳げないのはダメか」
散々水には沈められはしたものの、泳げたとは言い難い体たらくだ。罪悪感にかられてカノンはボソリと呟いた。
目を閉じかけていた隣の少年はそれを感じ取ったのか慰めるように優しげな笑みを浮かべた。
「アンタの場合トラウマの克服だけだ。水に入ると妙に身体が固まってしまうから泳げないんだろう。運動神経はいいんだし、克服できれば普通に泳げると思うぞ」
「……だといいがな」
トラウマと言われたら、心当たりがありすぎる。
カノンは長いため息をついた。
「自信ないか?だけどアンタがそこまでできないのも珍しいし、それを俺が教えるってのも気分がいいから、気にするな」
「別に。家に帰ったらきっちり褒美はもらうからな」
かろうじて言い放った負け惜しみだが、アイザックは気にも止めずに逆に心配そうにカノンの顔をのぞきこんだ。
「そんな体力残ってるのか俺はもうクタクタだけど」
むろん、そんな体力など残っているわけもない。
「……じゃあ明日だ、明日」
「ちゃんと泳げるようになったら、まとめてな」
そんな約束したら後悔するぞ、と脅したものの、その日はまだまだ先になりそうだと、肩にもたれてきた少年の柔らかな髪に顔を埋めながらカノンは思った。
「明日の昼はどうだ?アイザック」
「空いてるが、いいのか?」
「今日みたく夜行くより、特訓向きだろ?」
いいぞ、とアイザックは嬉しそうだ。
「珍しく前向きだな」
「──お前に、失望されたくないからな」
これはまごうことなき本音だ。
ふいに口をついて出た言葉にカノンは自分で驚いていた。
(俺は、こいつには失望されたくないのか)
カノンの戸惑いなど知らぬげにアイザックは今更だろ、と鼻で笑って一蹴した。
「とことん付き合うさ。……来年こそアンタと一緒に海で遊びたいし」
アイザックの声は気恥ずかしそうで、最後のはどうにか聞き取れるぐらいの小ささだった。ようやく吐き出した意外な理由にカノンも眉をひそめた。
「それがいきなり特訓などといいだした理由か?別に俺が泳げなくったって行けるだろうが」
「あのなぁ、浜辺で酒飲んで肉食って寝てるだけなのは、一緒に行ったって言えないからな」
そう釘をさしつつ、アイザックは無邪気にどこの海に行こうかなぁ、やっぱり暖かい太平洋の海かなどとぼそぼそ呟きながらゆったり目を閉じて、電車の振動に任せるように眠りに落ちた。
そんな少年の楽しげな未来のプランに、泳げるようになった自分の姿が映っている。それが妙に嬉しくなり、俺もいよいよヤキが回ったなとカノンはまたため息をついた。
「おやすみ」
閉じた長い睫毛を見つめながら、起こさないようにそっと呟いて、どうせ終点だしな、と揺れに任せて目を閉じた。