宛先のない手紙教室の空気は静かだった。
古典の教師が黒板の前に立ち、手元の資料を見ながら穏やかな声で話し始める。
「これは最近発見された室町時代頃の文書の一部だ。筆跡などから多分男性のものと推測され、強い想いが込められた当時の恋文のような内容になっている」
生徒たちの興味を引くように、教師は一拍おいてから、その資料をそっと読み始めた。
『届くはずもない文に想いをしたためて、溢れそうになるこの気持ちに封をした。我ながら女々しいと思うが、そうでもしないと思わずぽろりと零れてしまいそうで。宛先は白紙のまま。自分の墓場まで持っていくつもりだ。これも自分の一部だから。捨てることのできない想い。届かないほうが、いい』
朗読が終わった瞬間、教室に微かなざわめきが広がった。
「うわ、めっちゃ切ない…」
「誰に宛てたんだろう?」
そんな声が聞こえる中、三郎は自分の喉がからからに渇いていることに気づいた。心臓が嫌な音を立てる。鼓動がやけに大きく聞こえた。
(待て……これは……)
筆跡を間違えるわけがない。自分の字だ。
瞬間、全身の血の気が引いた。
(なぜだ、どうしてこんなものが……!)
耳鳴りがするような気がした。視界の端が霞んで、教室の風景がぼやけた。
そんな中、ふと斜め前の席から視線を感じる。雷蔵だ。彼の手元のプリントには、さっきの手紙がそのまま印刷されている。彼はそれを見つめた後、ちらりと三郎に視線を向ける。
その瞬間、三郎は悟った。
(まずい。気づかれた)
雷蔵の表情は驚きと、わずかな確信めいたものが混じっていた。
「……うん?」
小さく漏れる雷蔵の声。その意味するところに気づいた途端、三郎は膝の上で拳を握りしめた。苦しい。呼吸すらままならない。
後ろの方に座る八左ヱ門は気づいてないかもしれない。うとうとと居眠りをしていたらいい、と思いながら振り向くことは到底できなかった。
隣のクラスはもうこの授業を受けたのだろうか。勘右衛門と、兵助……は。
兵助がこれを見たかどうか、それはまだわからない。しかし、もし目にしていたら。
考えたくない。
自分の墓場まで持っていくはずだった手紙が、今やクラスの話題になろうとしている。何百年も経って、記憶も戻ったというのに、こんな生まれ変わり先で過去の自分に苦しめられるなんて思いもしなかった。公開処刑もいいとこだ。
(届かないほうが、いい……そう思っていたのに)
けれど。
届いてしまったのなら——
どうすればいい?
* * *
別の教室。
兵助は、手元のプリントをじっと見つめていた。
信じられなかった。
何百年も前に、一度だけ目にしたあの手紙。それが今、授業で朗読され、プリントに印刷されている。
間違いなく、同じものだった。
(……まさか、こんな形でまた見ることになるとはな)
当時、兵助はその文を読むつもりはなかった。
だけど、あの最後のとき……
「……っ」
覚えては、いるはず。けれど詳しく思い出そうとすると頭が痛くなる。靄がかかった記憶の中。
宛先のないその手紙を読んで、どうすることもできずに、ただ胸が締め付けられた。想いを寄せる相手がいたこと、その相手に届かぬまま綴られた切ない言葉。
まさか、それが——
(……いや、違う)
兵助は、強くそう否定した。
だって、三郎が想いを寄せていた相手は、自分じゃない。そう、ずっと思っていた。
それなのに。
今になっても、この手紙を目にして、胸が苦しくなるのはなぜだ。
ずっと飲み込んできた気持ちが、喉の奥で膨れ上がる。
(今も、俺は——)
教師の声が遠くに聞こえる。教室のざわめきも、どこか他人事のようだった。
ふと、隣の勘右衛門が気遣わし気にちらりとこちらを見た。
「……兵助?」
兵助は一瞬迷ったが、小さく首を振る。
「なんでもないよ」
そう言いながらも、手元のプリントを強く握りしめる。
もし、三郎がこの手紙のことを覚えていたら——。
兵助は、教室の窓の外を見つめたまま、深く息を吐いた。
続かない😂