また手をつなぐ日まで(中編)【3】
ネズミいわくの市場、数々の露店が立ち並ぶ噴水広場。数少ない、魔法使いだけが暮らす街であればこそ、なのだろうか。そこには、探せばなんでも見つかりそうなくらい多様な品物で溢れていた。
色とりどりの装飾品で煌めく敷布の上には、貴婦人の姿を写し、道ゆく人に語りかける手鏡。
薬屋と思われる店先には、珊瑚を蓋のかわりに差し込んだ、貝殻形の上品な小瓶。
隅の屋台では、中の具材が煮上がるたびに、鈴の音で歌って知らせるシチュー鍋。
どれも、人の少ない故郷から出てきたばかりのスレッタの好奇心をかき立てるような不思議なものばかり。一方で、この街との行き来が盛んな学舎に通うエランにとっては、すっかり見慣れた光景なのだろうか。少年は店先の品にはまるで気に留めるそぶりもなかった。だというのに。
「なにか気になるものでもあった?」
「ふおぁっ、い、いえっ、大丈夫!です!」
びっくりした。どうして気づかれてしまうんだろう。自分はそんなにわかりやすいのだろうか、と思わず空いた方の手で頬をおさえる。
「隠すなら顔じゃなくて目じゃないかな」
「え、」
「君の目、とてもおしゃべりだから」
エランはふっと息を吐いて、広場を振り返る。
「ここは魔力を扱える者しかいない街。つまり妖精が人間と取引しやすい数少ない場所だ。だから、本でしか見ないような古い魔法道具も流通している。他ではあまり見ない光景だと思うよ」
だからスレッタが興味を惹かれてしまうのも仕方がない、というフォローなのだろうか。エランの瞳はスレッタのそれとは違い、感情が読み取りづらい。ただ、広場を見る彼はあまり楽しそうではないと、そう感じた。
「エランさんもよく来るん、ですか?」
「……ぼくは必要がない限り行かない。他の魔法使いとも、妖精とも。あまり関わらないようにしているから」
じゃあ、どうして妖精と共にある自分を助けてくれたんだろう。あの黒い鳥の姿で。
聞かれたくないことかと思って、なかなか言い出せずにいた疑問やお礼。繋いだ手、自分より大きな彼の手のあたたかさを意識する。この魔法が解けて離れるまでに、ちゃんと伝えよう。それには無事ネズミと再会しなくては。
「まずは入口に近い、手前の店から順番に聞いていこうか」
本当は手分けして聞き込みをすればもっと効率が良かったのだろうけれど。そもそも探している原因となっ腕輪の魔法が、二人を文字通り一瞬たりとも離れさせない。
これでもしスレッタが興味を持って足を止めれば、エランも立ち止まらざるを得なくなってしまう。好奇心はきっちり心の中にしまっておかないと。と気を引き締める。
落ち着いた少年とやや人見知りの少女。
手を繋いで露店から露店へと声をかける姿は、理由を知らないものからすればなんとも微笑ましく、こどものおつかいじみていた。
「ネズミ?ああ、あいつらなら、さっきまで噴水の縁で店開いてたよ。――ほら、小さいから。地面に敷物引いて客寄せしたって見えっこないだろう? ただ、十二時の鐘で水が噴き上げるの忘れてたみたいでさ。商品がびしょ濡れだって騒いで、慌てて帰って行ったよ」
ネズミの行方を尋ね続けて、ようやく得られた目撃情報。
スレッタは教えてくれた織物売りのフードの妖精にお礼を言う。ネズミたちのお手伝いをお願いした風の精も、おそらくネズミたちの濡れた商品を運び出すのに付き添っているのだろう。
しかし、その肝心のネズミの帰った場所がわからない。これで振り出しだ。
こっそりと肩を落としたスレッタに、フードの妖精が問いかける。
「ネズミの住処を知りたいのかい?」
彼女は改めて妖精と向き直った。背丈はエランやスレッタより頭ひとつ小さく、袖も裾もずるずると引きずるように長い。一見すると小人のようだが、声はしわがれて性別も歳の頃も推測しづらい。フードの奥は不自然なくらい真っ暗で、そこだけ深い森の夜のように何も見えなかった。
そういう仕掛けが施されているか、あるいは最初から中身のない――形なきものが、人と関わるためにだけに被った皮のようなものが、このフードなのか。
「いま織物を作っていてさあ。ちょうど目が覚めるような赤が欲しいところだったんだ」
フードの奥の暗闇から、何か得体の知れないものがいまにもスレッタの髪へと手を伸ばそうと這い出してきそうな、ぞわりとした感覚。
妖精はさも自分から取引を持ちかけてないふうに、スレッタへ対価を要求している。スレッタの方から、お願いするのを待っているのだ。
そのことは彼女自身も気づいていた。
先ほどのエランとの会話ではないが、いくらこの場所が例外的に妖精と人間が交流しやすい場であったとしても、距離感を間違えてはいけない。
スレッタは思案する。正直あやしい、とは思う。でも、エランにこのまま長い時間迷惑をかけるわけにもいかない。このまま聞き込みを続けても、あの小さなネズミたちの次なる行方を掴めるかどうか。
焦りが思考を鈍らせる。求められているのはそう大きな対価ではない。少しくらいなら、問題ない、はず。たとえ間違っていても失うのは髪だけだ。意を決して応えようとしたところで、それを押し留めるように、エランの指がぎゅっとスレッタの手を握った。
「これとこれ、合わせていくら?」
「はあ、銀貨二枚ですが」
突然話に割り込んできたエランに、フードの妖精は戸惑いながらも答える。彼が指さしたのは、緻密な模様のタペストリーと、鮮やかな紐飾りだった。見たところ、これも魔法道具のようではあるが、エランが突然これらを欲しがったようにはとても思えない。
「買うよ。その代わりネズミの住処を教えて。教えてくれなければ別にいい。別の店で買うから」店主であるフードの妖精は慌てたように口篭る。
「本当は知らないんだろう」
エランの緑の瞳が、フードの奥の正体を捉えているかのように冷ややかに見下ろした。
「この街で商売をするなら、妖精といえ君たちは此処のルールに縛られる。契約は、魔法使いにとっても妖精にとっても破れば代償を伴うものだ。だけど、それが商売じゃない、ただの個人間のお願いの範囲であれば。多少は融通が効くと思った?」
エランの後ろにできた影が、ざわざわとうごめくような気配がした。それは鴉の羽音に似て、聞くものを不安にさせるような。
フードの妖精が小さく悲鳴を上げ、小さな身をさらに縮こませる。エランはその姿を最早一瞥もすることもなく、「行こう」とスレッタを促して店を後にした。
【4】
「きみは今までそうやって生きてきたの」
エランは広場を出たところで急に立ち止まった。その声は静かだった。
「髪はまた、伸びますから」
「髪だけじゃなくて、君自身のことだよ」
「きみは妖精と関わるのが怖くないと言ったけれど。それはきっと、妖精を恐れていないんじゃない。彼らと関わることで起きる摩擦、そのなかで自分が負う犠牲を受け入れてしまっているだけだ」
もしかしたらスレッタの近くの妖精は今まで、ほんの些細な、例えばこどもがお菓子をねだるような要求しかしてこなかったかも知れない。だが、少なくとも此処では違う。
あるいは、人間相手でもこの子は同じように振る舞っているのだろうか。
きっかけがたとえスレッタの方にあったとしても、手が解けなくなったという状況の負担は同じだ。だというのに、これまで彼女はエランに遠慮するばかりで、自分の疲労などは全く口にしようとしないのだから。
「そうやって自分を切り分けて、すり減らしていたら。いつかは君自身をなくしてしまう」
厳しい言葉だった。だけど確かに、スレッタ自身へ向けられた言葉だった。
「ごめんなさい。でも、あの、ありがとう、ございます。エランさん。また、助けてくれました」
また、という表現が引っかかって、エランはスレッタをじっと見つめ返す。
「あの時の黒い鳥、エランさんだったんですよね」
現代の魔法使いの多くが空を飛ぶことを忘れたように、別の生き物に姿形を変える魔法もまた、御伽話の中に置き去られていった。今もそれを扱うのは、御伽話のなかの魔法使いか、あるいは――人間が立ち入れないヴェールの向こう側、妖精の国の魔法、古き神秘に手を伸ばしてしまったものだけ。
だからその質問は、エランの出自を問うものでもある。これまでのささやかで、だけど小さくてもあたたかい宝物をもらうような『知りたい』とは違う。なにも頼るものがないままに、冷たい夜の海に一歩、踏み出すような感覚。
「いつ気がついたの」
「出会ったときに、きっとそうだって思いました。――でも、今はちょっと違うかもしれません。エランさんと話していくうちに、本当にそうだったらいいな、って思ってました。どうしてあの時、助けてくれたんですか」
なぜ鴉という姿形であったのか、とスレッタは聞かない。
たとえエランが鴉とどういう関係であったとしても、彼女はそれを忌み嫌ったり、恐れることがないからだろう。彼女自身、そうしたものと共にあろうとする存在だから。
「君に興味があったから」
スレッタの他人を優先する気質とは真逆の、魔法使いらしさ――自分のためだ。そう、エランは認識している。それも期待とは違っていたようだけれど。
「じゃあどうして、今回も助けてくれたんですか」
あの取引がたとえ虚偽でも、その結果エランが失うものは何もなかったはずだ。それを見逃せなかったのは、ひとえに彼自身がもつ優しさではないかとスレッタは感じていた。だがそれは違う、とエランはかぶりをふる。
「……ぼくは、きみがぼくと同じように、妖精に呪われているのかと思っていた」
妖精に何かの代償を渡す代わりに、何かを得ることは、エランにとって血筋の呪いを思い出させる行為だった。
「でも、近づいてみてすぐわかった。きみは妖精とは近しいけれど、ぼくとは違う。きみは妖精に呪われてなんかいなかったし、それどころか共生して。その力を代償なく、まるで御伽話の魔法使いみたいに、使いこなしているように見えた」
妖精に、大鴉に関わるほど失うばかりの人生だった。
祖先が病気の息子を生きながらえさせるために契約した、冥府の大鴉。その代償として、ケレスの当主は代々、大鴉に魂を繋がれることになる。命を扱う魔法を得る代わりに、大鴉に肉体も人格も記憶もすべて取り込まれるのだ。
本来は、一人の後継者が請け負う大鴉の呪い。それを腹違いの兄弟で代償を分けるために施された、魔術的、外科的手術は、苦痛を伴う。
無くしたことを認識できているものは、まだマシな方だ。スレッタはあれこれとエランのことを知りたがるが、話せる自分のことなどたかが知れている。幼少期から数年前に至るまでの一切の記憶も、代償として失ったのだから。
そんなことを彼女に言ったところで、どうなるというのか。エランは自分の背景について深く語ることはなく、唇をかたく結んだ。
「違うんです」
少女の声は、悲しげだった。
「私、故郷では『みんな』とはいつも一緒で。でも、力を借りることができるのは私自身の力じゃないんです。お母さんの特別な魔法で私は魔法使いとして『生まれて』、お姉ちゃん――エリクトが側にいるから、みんな妖精は仲良くしてくれるんです」
お姉ちゃんはヴェールの向こう側へ行って戻ってきた、妖精の国の魔法使いだから。
スレッタの言葉には、ところどころ抜け落ちた穴のような部分がある。彼女の言葉をすべて理解できたわけではないけれど、彼女と家族の間になんらかの壁のようなものがあることは明白だった。
「私はお母さんともお姉ちゃんとも違う。御伽話にでてくる素敵な魔法使いなんかじゃ、ないです。ただの、ちょっとだけ魔法が使える、スレッタ・マーキュリーなんです」
がっかりさせたのなら、ごめんなさい。
困ったように眉を下げて微笑む姿が、痛々しかった。
『あれはきみだけの魔法じゃなかった』
『はい、「みんな」に手伝ってもらって』
『仲が良いんだね』
『はいっ! あ、でも、もちろん学校では、みんなの力なしで魔法が使えるよう、勉強がんばるつもりで――』
魔法道具屋でのあの言葉は、学舎において彼女の妖精との深い付き合いを隠すためのものではなく。真実、ただの現代の魔法使いとして学舎で研鑽を積みたいという意味だったのか。
魔法使いの学舎において、転入生は珍しい。
そもそも二学年から授業に追いつけるのかという問題もあるが、何より、学舎に入れるかという判断は主にその家系の意向によるからだ。
本来は組織や家系で閉ざされていた知識を共有し相互助力する場をつくる、という名目で建てられた学術機関。実態は、魔法使いを『学舎に通うもの』『それ以外の魔法使い』で区別し、その統制管理するための箱庭のような場所。飛行術、変身術、そういった古き魔法が廃れていったのは、この統制のためだ。よく言えば危険性のある魔法を管理抑制したとも、悪く言えば一方的に排斥したとも言える。
エランは学舎に家の命令で通っている。古き家系だが、妖精との悪縁は既に断ち切って、あくまで今の時代に適応したのだという演出のために。
じゃあ、スレッタ・マーキュリーは?
彼女の母親と、妖精の国の魔法使いだという姉。
いまだ妖精と深く繋がる血筋ありながら、なぜ彼女を学舎に通わせることにしたのだろうか。
エランの家と同じく、演出のため?
彼女自身は、学舎に通うことについてどう思っているのだろう――
繋いだ手、指先に思わず力が込められる。
彼女も痛みを抱えている。だけどそれはエランとは形のちがう痛み。自分の大鴉との関係性とは違うと、もうわかっているのに。まだ目の前の少女にこだわっているのは、何故なのか。
もし、魔法が今解けたとして。期待と違ったことに落胆して、エランはこの手を振り解いて去ることができるだろうか。
――馬鹿馬鹿しい。
それについて考えるのは、自分の心を無闇にさざなみ立たせるだけだった。
だってほら今だって。込めた力を抜いても全く、スレッタの手はエランの手から離れないのだから。
彼女の指が、やわく、手を握り返そうか戸惑うようにぴくりとかすかに動いたのが感じられた。
あんな、ひび割れた硝子細工みたいに今にも壊れそうな笑顔なのに、手袋越しでも伝わる体温はエランの心を労るようにあたたかくて。繋いでない方の手がむしろ寒々しく感じられるのが、ひどく、鬱陶しかった。
<後編に続く>