またその手をつなぐ日まで(後編)【5】
それはまだ、妖精との付き合いがもっと身近なものだった、遠い昔の話。
魔法使いの街では、自慢の杖を楽器がわりに一振り二振り旋律を奏で、蜂蜜酒を飲むのが仕事終わりのたのしみだった。
ある夜のこと。その陽気な音楽につられた動物が森から一匹二匹。妖精族が一翅二翅。みんな集まり歌に加わった。
歌は次第に大きく賑やかに、遠くの谷まで届き、最後は竜の子までもが空から屋根に降りてきて。しかし、その大きさにびっくりした三角屋根は耐えきれず、がらんごろんと崩れてしまった。
それからはどんな種族のものも必ず門から『ノック』して入ってくるようにと、空に森のとばりの魔法がかけられた。街の入口にはどんな大きな隣人も入ってこれるように間口の広い門柱と、どんな小さな動物でも入れるように、ベルの代わりの古びたバケツ。
竜の子が降り立った当時の店の主人は『竜の寝床』と店名を改め、やがて宿泊兼食事処として街の名所になったのだという。
「わあぁ、だから今でもバケツをノックするんですね」
あの入口の作法はそういうことだったのか。
エランの話を聞きながら、スレッタは感心する。
「……」
「……」
これから行く場所の説明を終えると、少年はそれきり黙ってしまった。
正直とても気まずい。
お互いの話を聞いて、どうしようもない感情を抱えながらも、離れないままの手では一旦落ち着くための距離をとることもままならず。
こういう時はただ目的に向かってひた進むのがいいだろう、と。二人はネズミの行方を追うために、噴水広場の市場の次に人が多い場所。この竜の寝床と呼ばれる宿泊兼食事処にたどり着いた。
お昼過ぎということもあり、店内は多くの人間で賑わっていた。
その大半は袖が特徴的なローブを纏った学生たちだ。彼らは入口の扉を押して入ってきたエランを見てまず驚き、さらにその後ろから手をひかれるように連れ立ったスレッタの姿を見つけると色めきだった。あの『氷の君』が、見たことのない赤毛の女の子を連れている――
見られてる。すごく、見られてる。
故郷ではまず感じたことのない喧騒と視線の数に、スレッタは少々押され気味だった。隣のエランは視線も噂話もどこ吹く風で、まっすぐ奥のカウンターへと進んでいく。
ネズミの行方を聞くならば、食事処で一番噂話に詳しいだろう店主に聞くのが良い。そう思ったのだが。
「ああ、魔法道具売りのネズミね。前までは、箒屋のおじいさんとこの屋根裏に住んでいたらしいけど。最近は飛ぶ子もほとんどいないじゃない? おじいさんが店畳んじまってからは、どこ行ったか知らないねえ……」
もう少しで辿り着けそうなのに、いつもあと一歩届かないのがもどかしい。店主が知らないのであれば、よもやこの店中の――好奇の眼差しをいまにも向け続けてくる――学生たちに尋ね歩くしかないのだろうか。考えただけで緊張でどうにかなりそうだった。
「……人の多いところは苦手だった?」
ふと、周囲からの視線が遮られる。視線を上げると、エランがスレッタを客席側から隠すような位置に立っていた。
「いえ、ただ、故郷では私くらいの年の子は全然、いなかったので。だから、あんなにいっぱい……びっくりしちゃいました」
市場でフードの妖精に話しかけるのは躊躇いがなかったのに、食事処に来てから大人しかったのはその為か。見るからに気落ちしているのは、もちろん、市場での会話のこともあるだろうけれど。
一旦スレッタを休ませた方がいいだろうが、こうも混み合っていると空いてる席がない。と、店内を見回すエランの視界に、見覚えのある生徒の姿がうつった。それも、一人ではない。
「探しものか。エラン・ケレス」
「ネズミちゃん? わたしたち、知ってるよ。ね、イリーシャ」
「うん……この間市場に行ったときに会った子、だよね」
エランの背越しに、スレッタも様子を伺うように顔を覗かせ、ぱちぱちと瞬きをした。
先に声をかけたのは、スレッタより背が高く、その凛とした佇まいが惚れ惚れとする女性。次に声を上げたのは、明るい笑顔と声が見るものを元気にしてくれるような女性。その人にくっつくようにして現れたのは、とろりと夢見るような目元がどこか儚げで、守ってあげたくなるような不思議な印象の女性。
学舎の制服である同じローブを身に纏いながらも、全く異なる印象の彼女たち。
「エランさんのお知り合いです、か……?」
「同じ学舎の生徒だよ」
それは見ればわかります、というスレッタの困惑気味の視線が伝わったのか、ややあって「知り合いの知り合いだよ」とエランは付け加えた。
「少なくとも私とは、同じ副寮長の会議で付き合いがあるだろうに」
凛とした女生徒――サビーナの冷静な言葉にも、エランは動じる様子がない。そのずいぶんな態度に慣れている程度には、見知った間柄なのか、女生徒たちは少し呆れこそすれ怒る様子はなかった。
エランさん、クールっていうよりもしかしたら、他の人のこと全然気にしないだけなのかもしれない。スレッタは内心ちょっとだけ、そんなことを思った。
「それで、ネズミの居場所を知ってるというのは本当?」
「市場で商品を見せてもらったときに聞きました。たしかいまは西通りに工房があるはず……」
おっとりした女生徒が答える。確か明るい女生徒にイリーシャと呼ばれていた人だ。
「西通り……!あのっあり、ありがとっ、ございます!」
緊張で声が上擦りながらも、頭を下げるスレッタに、明るい女生徒――メイジーは笑顔のまま、気にしなくていいよと手を振った。
「お礼なんていいよー。でもそうだなあ、よかったら今度は、シャディクともご飯一緒に食べてあげてね」
「あれでも、残念がってたから」
シャディクさん? 知らない名前にスレッタは首を傾げた。一方、投げかけられたメイジーとイリーシャの視線に、エランは「機会があれば」と目を伏せる。
「メイジー、イリーシャ。心遣いは嬉しいけれど。そういうの、普通は本人がいないところでやるもんじゃないかな」
やれやれとばかりに肩をすくめながら、ひとりの青年が近づいてきた。長い金髪に、はだけたシャツ。制服のローブにちゃんと袖は通しているけれど、エランのきっちりした印象とは異なり、その着こなしは何処か掴みどころがない雰囲気を醸し出していた。
レネとエナオは? と言うサビーナに、レネは先に買い物に行くってさ。エナオにはそっちについていってもらった、と青年は答える。聞くところによると、彼らはだいぶ大所帯で街に来たらしい。
「シャディク・ゼネリ」
「エラン、用事は……その様子だとまだ済んでないみたいだね?」
「……そうだね」
男の含みのある言い方に、エランは淡々と言葉を返した。その様子がなにやら興味深かったのか、男は一瞬スレッタに視線をやってから、話を続ける。
「ずいぶんとまた可愛いことになってるね。見たところ、誰かの魔法のようだけれど……しかし、エランなら力技でもどうにかできたんじゃないか。その手袋、杖の代わりでもあるんだろ」
「もー、シャディクってば野暮だよ」
メイジーの声に責めるような響きはなく、それに応じるシャディクも笑顔だ。エランの話をしているはずなのに、どうしてだか、二人の意識はスレッタに向けられているような。なんだか落ち着かない感じがした。
杖の代わり、つまりは魔力に指向性を持たせるための収束具。今の魔法使いは主に道具を通して魔力を扱うのだと、お母さんから習ったばかりだ。エランにとってはそのひとつが手袋なのだろう。
「情報ありがとう。西通りに行ってみるよ」
エランはスレッタを促して、礼もそこそこに立ち去ろうとする。シャディクはその彼ではなく、後ろをついていくスレッタを呼び止めた。
「ええと、君」
「スレッタ・マーキュリー、です」
「初めまして。俺はシャディク・ゼネリ。マーキュリー、ね。じゃあ『水星ちゃん』にもうひとつお土産を」
シャディクが少し屈んで、スレッタに耳打ちする。
「エランの手袋は杖でもあり、他者からの害意ある魔法を阻むものでもある。君も魔法にまつわるものなら、この意味はわかるね」
***
店に入るまで、あれだけ気まずかったのが嘘みたいだった。
エランはその気になればいつだってスレッタから離れられた。スレッタを、傷つけさえすれば。
杖でもあるエランの手袋。他者の魔法を無理矢理に解けば、少なくない代償を払う必要がある。でも、エランの手袋は防壁の役割もあるから、彼自身が手傷を負うことはない。
だからその手段を取らなかったのは、力づくで魔法をとくと、素手のスレッタが怪我をするから。
シャディクの言葉の意味をひとつずつ紐解いて理解していくと、胸の中にじんわりとあたたかいものが広がった。
エランさん、気遣ってくれたんだ。
いや、彼はいつも自分を見てくれていた。それが嬉しくて、その優しさに甘えるばかりなのが申し訳なくて。私も、エランさんの何か、力になれたらいいのにな。と淡い願望を抱いたりもした。
少し考えこむようなスレッタの様子に気づき、エランはその顔を覗き込む。
「どうしたの?もしかしてお腹すいた?」
「えっちが、ひょわ、あっ」
そんなつもりはなかったのに。昼食がまだだったスレッタのお腹はタイミングよく悲痛な鳴き声をあげた。慌てて片手でお腹を抑えても、子犬が鳴くような音は隠しきれなくて。二人は一旦食事処に戻り、片手で食べれるようなメニューをふたつ買って、外で食べることにした。
ネズミが帰る家である、工房の場所は判明している。ここまで歩き通しだったので、一度休憩を取ることにお互い異論はなかった。
手を繋いだままではテーブルを挟んで向かい合って腰を下ろすこともできないから、通りのベンチに並んで座る。
購入したのは、薄く焼いたパンケーキで野菜や果物などを包んだ軽食。スレッタが砂糖味のもの、エランが塩味のものを選んだ。
緊張が抜けたのか、スレッタは手に持った包みを一気に半分食べてしまった。砂糖味のパンケーキ包みは、お母さんとお姉ちゃんと一緒に作ったお菓子の甘さを思い出させ、ほっとする。
メニューを見て両方の味が気になっている様子のスレッタに、じゃあ半分ずつ食べる? とエランが提案してくれたので、残りは彼の分、なのだけれど。
そういえば、どうやって手渡せばいいんだろう。
片方の手は相手と繋ぎ、もう片方の手はお互いパンケーキ包みで埋まっている。
「どうぞ」
ぐるぐると頭の中で方法を模索してるうちに、エランが自分の分をスレッタの口元に差し出した。
「いっいいい良いんですか……!?」
「いいもなにも。きみの分だよ」
躊躇いがちにクレープの端っこの皮だけ、ほんのり小鳥みたいに齧るけど、遠慮しないでとばかりにエランはそのままの姿勢を崩さない。これは、全部食べ切るまで逃れられそうになかった。
えいっと思い切って、チーズがかかった野菜と肉の重なり部分にかぶりつく。野菜に引っかかったハムがくっついてきて、慌ててどうにか汚さないようにひとくち口におさめると、塩味のきいた生地と相性の良い具材が疲れた体にほどよく染み渡る。
ごくんと飲み込むと、エランと目があった。もしかして、ずっと見ていたのだろうか。ハムが皮から滑り出て慌てたところまで、食べ終えるまでを全部。
「どうだった?」
「お、おいしかったです…!ありがとうございます」
エランさんもどうぞ!と、恥ずかしさを誤魔化すように、スレッタはずいっと砂糖味のパンケーキ包みを差し出す。エランの手には包み紙が残るのみで、あとは空いた手に渡してくれればそれで済むのだが。
「た、食べない、ですか?」
手をぷるぷると震えさせ、献上品でも差し出すみたいに必死な少女を前に、エランはこてりと首を傾ける。何故だろう。食欲は強くない方だが、少し、食べてあげたい気持ちがわいた。
「……いただきます」
クリーム、苺と一緒に食べるとより美味しいですよ! という少女の言葉に素直に従う。美味しい、のだろうか。普段甘味を口にする習慣がないから、とにかく口の中が甘ったるいという印象だ。
スレッタはこういう味が好きなのだろう。
そう思いながら食べていると、クリームが少しだけ唇にくっついた感触がしたので、舌で舐めとった。指で拭うには、片手で手袋を外すのが少々手間だった。
視線を感じたので見上げると、スレッタが頬を染めて硬直している。
「……?もしかしてまだ何かついてる?」
「いっいえ、取れてます」
そう、と再び包みに目を落とすと、残った生地から具材が落ちかけていた。もういいか。エランは、空いた手でスレッタの手を押さえると、がぶりとひとくち。残ったパンケーキを食べ尽くした。ごちそうさま、と何故かスレッタの目を見ていうものだから少女は心臓がもたない。
「って、あっ、手!」
どうして言ってくれなかったんですか、とスレッタが真っ赤な顔で抗議すると、
「食べさせたかったのかと思って」
とエランは不可解そうに言った。
ちょっと気恥ずかしい思いもすることにはなったけれど。
昼下がりの街、軽食を片手にベンチで会話するなんて。なんだか、今まで一番、スレッタが夢みたような学舎の生徒らしい、和やかな時間だった。
【6】
西通りにたどり着いたエランとスレッタは、その光景に一瞬、視線を奪われ固まった。
ネズミが宙を浮いていた。
妖精の魔法で、あるいは魔法使いを真似て箒で、愉快に飛んでいたのならどんなにか可愛らしかったろうか。
きらきらと日を反射して輝く銀の首飾りを嘴で挟み、今にも屋根を超え上空へ逃げて行こうとする鳥と、その首飾りに絡まりもがく小さなネズミ。地上にいる他のネズミが仲間を取り戻そうと躍起になるが、一匹一匹の小さな魔法は屋根の高さまでは届かず霧散する。
探し求めいたネズミの一匹が今にも、見知らぬ鳥に連れ去られようとしていたのだ。
「た、たすっ、たすけ、なきゃ!」
たぶん、きっと、あれがカボチャの馬車を食べてしまったという鳥なのだろう。ネズミが言っていたように、見かけはカラスには違いなかった。けれどもエランが姿を変えたような瑠璃を混ぜた夜の色ではなく、色彩がぽっかり抜け落ちたような羽を持つ――シロガラスだった。
シロガラスも首飾りにネズミまでついてくると思わず戸惑っている様子だった。しかしせっかくの戦利品から嘴を離すこともできず、さりとてネズミの重みで飛ぶバランスを保てず。フラフラとそのまま通りの家の壁にぶつかりそうになっている。
このままでは鳥もネズミも危ない。
でも直接魔法でどうにかするには距離がありすぎる。
その時、ネズミの手伝いをお願いした風の精が、スレッタの気配に気づいてふわふわと近づいてきた。姉のエリクトと繋がりのある風の精、その一翅。他の妖精とは違い、ある程度までなら契約なしに魔法の補助をしてくれる。後で代償、お菓子のおねだりはしてくるだろうけれど。
「お願い!」
スレッタの力強い声に応えるように、風の精はくるりとその場で一回転した。すると、青みがかった光がくるくると地上に輪を描き、それはやがてひとつの大きな風となって、少女をふわりと浮かせる。その風の勢いは夏の青葉を揺らすように強く、手を繋いだ少年の踵をも浮かせたけれど。
――だめだ、わたしとこの子だけでは、せめてこの街に来た『みんな』そろってなければ、とても二人分は浮かせられない!
このままでは上空のシロガラスとネズミのところへは届かない。
助けなければという意識が先に体を動かして、エランと手を繋いだままであることを、その時ばかりは忘れていたのかもしれなかった。
少年は、少女のそんな様子を見て、思った。
どうしようもなく彼女は『そう』なのだ。
いつも、見るからに困ってるのはスレッタなのに。
こうして誰かに手を差し伸べることはできるくせに、自分が困ってる時に助けを求めることに臆病なのだろう。どうして――
どうして、こんなにも。放って置けないのだろう。
「大丈夫。そのまま飛んで」
涼やかな声が、少女の耳朶を打った。
「ひゃ、えっえええっ!!」
捕まって、という言葉と共にスレッタの身が少年の手で抱え上げられた。片手を繋いだままだから、だいぶ不恰好ではあったけれど。お母さんとお姉ちゃん以外の人に、それも男の子に、抱っこされる、なんて。
エランの耳飾り、紫水晶がゆらめいた。小さな呟きとともに二人を包んだのはもうひとつの魔法。
重きを軽く。軽きを重く。
この瞬間、この場所でだけ、二人の重さを世界に誤認させる。そう、たとえばシロガラスに持ち上げられる、一匹のネズミくらいの重量に。途端に、風が体をどんどん押し上げ、二人の体が地上から離れる。
「高度はぼくが維持する。きみはネズミの方を」
「はっはい!」
顔に吐息があたるほど近い距離に動揺している場合ではなかった。はっと空を見る。
高く飛翔したエランとスレッタの眼前には、シロガラスとネズミが迫っていた。
少女の細い指先が、シロガラスへと向けられる。
一番手取り早いのは、対象を至近距離から魔力で撃ち落としてネズミを回収することだが、スレッタ・マーキュリーはシロガラスを傷つけようとはしないだろう。短い付き合いでも十分わかる。彼女は、この鳥ですら助けようとするだろうから。
万が一の時のために、手袋に織り込まれた魔法の術式を即座に立ち上げられるよう、エランは意識を研ぎ澄ませた。
「大丈夫!いま助け、ます!」
スレッタが被っていた、とんがり帽子がふわりと空を舞った。
二人を空へ押し上げた妖精の風ではない。それはまるで意思を持つように自在に空を飛んでいた。
続いて帽子を飾っていたリボンがしゅるりと解け、まるでラッピングをするみたいに、シロガラスにぐるりと巻きついて、その動きを止めた。
突然羽ばたくことを封じられて驚いた鳥は、思わず嘴から銀の首飾りを放してしまう。
落下するネズミと首飾り、そして飛べない鳥を待ち構えていたかのように。スレッタの帽子がくるりと回転して、内側でぼすんと受け止めた。
「わっ、とっと……!」
スレッタが空いた手で帽子ごとネズミと鳥たちを抱き止める。
本当に、助けてしまった。胸を撫で下ろしたスレッタを、エランは瞬きをしながら見つめた。彼女はネズミや鳥の状態を注意深く確認している。帽子が良いクッションになったようで、どうやら受け止めたスレッタの手にも、ネズミの体も、鳥の嘴も羽も、傷はないようだ。シロガラスは落下途中で目を回したのか、帽子の中でぐんにゃりと横たわっていた。
勢いよく飛翔した時とは打って変わり、エランとスレッタはゆっくりと地上へ着地した。
「怪我はない?」
一人と一匹と一羽を抱き上げた姿勢のまま問いかける少年の髪が、さらりと頬にかかる。
「はい、あ、エランさ、その、勝手に、ごめんなさ、」
「きみがそうしたいと思ったのなら、それは謝ることじゃないよ」
魔法使いとも妖精とも、誰かと関わることはエランにとって、後々苦しむだけで、意味がないことだった。
だけどこの少女を前にすると、自分と違うと分かってても目が離せなくて、彼女自身を知りたくなった。知れば知るほど違いを認識するばかりなのに、何故だか放ってはおけなくて。
「それに、ぼくがこうしたかったんだ」
まだ心の内側が上手く整理が出来たわけではないけれど。ただひとつ、それだけは確かだと思う。彼女のへにゃりと安堵に崩れた笑みを見て、エランも少し目を細めた。
【7】
ネズミの工房は、西通りにある空き家の屋根裏部屋にあった。これでは見つからないはずだ。さすがに二人も、その辺の空き家の中に入って探すという発想はないからだ。
屋根裏部屋までは螺旋階段でのぼることができたが、その入り口は低く、背の高いエランは腰を落としてどうにか潜り抜けた。頭に気をつけて、とスレッタを振り返り注意を促したところで、
「か、カラスだー!」
工房のなかにいたネズミたちが叫んだ。
その視線は一斉にエランに注がれている。
「……」
鴉そのものではないしそう呼ばれるのは甚だ遺憾だったが、否定も肯定せずにエランは黙り込む。
先程魔法を使ったばかりだからだろうか。妖精であるネズミにはエランの後ろに潜むものが、感じ取れたようだった。慌てるスレッタより先に、先ほど助けたネズミがふんすと立ち上がる。
「違うよ! こちらはボクを助けてくれた良いカラスだよ!」
やや脚色過多な事の次第を聞いたネズミたちは、感謝の言葉と共に、わああ、と歓声を上げながらエランとスレッタの足元にまとわりつく。調子のいいネズミたちだった。
「そしてこちらがそのときのわるいカラス」
エランに続いて屋根裏部屋に足を踏み入れたスレッタの後ろから、ひょっこりとシロガラスがあらわれる。あのあと、何故かスレッタについて来たのだ。
ひゃああ。ネズミたちが今度は悲鳴を上げながらエランの後ろに隠れた。何匹かは隠れきれずに互いにぶつかって、ころころと床に転がった。
「びっくりさせちゃってごめんなさい、でも、もう、わるいことはしないみたいなので……!首飾り、巣をつくるための材料が欲しかったのかもしれません」
「巣って、ええっつがいなの?」
「この街って、森の魔法のせいで、なかに入った動物がたまにでれなくなっちゃうんだよね。最近じゃあバケツの叩き方は定期的にかわるから」
「きみもそう? ごはんたりてる? カボチャの皮いる?カボチャ…...カボチャのかたき!」
「皮はあとでたっぷりチーズのグラタンにするつもりだったのに!」
カボチャの皮で出来た荷車も元々食べる予定ではあったのか。静かに見下ろすエラン、その足の後ろに隠れたまま、きいきいと鳴き声をあげて抗議するネズミたち。
「どっどうどう!落ち着いて……!話し合いっ!大事、です!しましょう!」
小さきネズミにとって自分より大きな荷物を運ぶための商売道具を壊した罪は許し難いものだ。たとえ、あとで自分たちも食べるつもりであったにせよ。材料のカボチャだってタダじゃないのだ。
スレッタとエランの仲裁のもと、シロガラスには壊したカボチャの荷車分、ネズミの店で働いてもらうことになった。
空を飛べる助っ人は、それはそれで頼もしい。スレッタも風の精も、ずっとこの街にいてくれるわけではないから。
一方で、シロガラスの働きに応じて、おまけでごはんと巣の材料を分け与えるという約束もした。ネズミもシロガラスもこれから先この街で暮らしていく存在で、敵対し続けるよりはこれで不可侵の契約の代わりとした方がいいというエランの提案だった。
シロガラスは、カァカァと鳴いた。スレッタにその言葉がわかるわけではなかったけれど。きっとそれは、ごめんなさいとありがとうの意味があると思った。
シロガラスはネズミとは違い、人の言葉は使わなかった。白い羽はとても神秘的だというのに、エランの鴉の姿を見た時のように、風の精が反応したりはしない。
大昔、何代も前の血筋は妖精だったんだろうけれど、長い時間の中で忘れちゃったんだろうね。とネズミが言った。妖精の操る魔法も、その身に宿した神秘も、人と交わす言葉も。ぜんぶ。
「忘れるのは怖いよ。だって自分がネズミかどうか忘れたら、鏡を見たってボクはネズミだってわからないんだもん。知らないネズミがうつってる!っておもっちゃうよ」
エランは、その言葉にかすかに反応したようだった。
自分は妖精に呪われているのだと言った、彼。スレッタはまだその意味を深く知らない。
ただ、その瞳に昏く落ちた影は、彼女の中にも潜んでいるものと似た、寂しさの形をしているような気がして。勇気を出して、握った手の指を、エランの指にぎゅっと絡めた。理由を聞いてもスレッタに何かできるものなのか、彼の何かになれるのかなんてわからない。でもいま、あなたは決して一人じゃないと、伝えたくて。
俯いたままのエランがどう思ったかはわからないけれど。指先がほんのりとスレッタの手の甲を滑るように力が返ってきたから、もっともっと強くその手を握る。スレッタの方からそうするのは、思えば手が離れなくなってからはほとんど初めてのことだった。
***
「ところで二人とも、なんでずっと手を繋いでるの?」
小首を傾げたネズミに、思わず二人して顔を見合わせた。どうしてもなにも……そうだった。
本題をすっかり忘れかけていた二人は、ネズミたちにもらった腕飾りで起きた出来事を伝えたのだった。
***
「えっ、ネズミさんたちでも魔法、解けない、ですか!?」
スレッタの声は今にもその場に崩れ落ちそうなほど、困り果てていた。
「ほんとうにほんとうにごめんなさい。ボクたち一匹ずつは魔力が弱いから、いつもみんないっしょに、えいって同じ魔法をひとつの商品にかけてるの」
「だから魔法を解くなら、そのときと同じみんなで同じ手順を、逆しまにかけるしかないんだけど……」
「誰がどのくらいの魔力量で、術式のどの要素を担当していたか、覚えてないの?」
エランの指摘に、ネズミたちはしゅんとうなだれる。覚えてないどころか、そもそも意図して役割分担をしたことはないようだった。
それであの魔力の糸がこんがらがったような複雑な術が完成するわけか。そもそも、妖精が魔法使いと同じように、魔法を理論的に組み立てて行うはずもなかった。人間の魔法使いからすれば、設計図なしに感覚のみで時計を組み立てるようなもので、むしろそれでちゃんと魔法が機能してることが驚きだ。
「じゃあ、正式な手段で外す方法はもうないってこと、ですね……」
「外れるよ?」
「え?」
「外したいって、二人が思えば外れるよ」
ネズミはさも当たり前のように言う。
「ボクらがその氷の蕾の腕飾りの、『おねがいごとが叶う魔法』自体を解くことはできない。でも、キミたちの、『手が離れない』って状況はどうにかする方法はあるよ」
「まだ腕飾りにボクらのこめた魔力が残ってる。だからまた願えばいいんだ。まえよりもつよく。今度は『手が外れますように』って」
ネズミの魔法は群体の魔法。みんなで作ったお願いごとが叶う腕飾り。小さな奇跡しか起こせないけれどその代わり、お願いごとは一度だけ……じゃなくてもいい。だって三翅の妖精がいたらみっつの贈り物をもらうのが、御伽話でもお決まりだ。
「ええっとね、いま二人は腕飾りを介して、ちょっとだけ魔力的に繋がった状態だから。どっちかが強くお願いすれば外れると思うよ」
「......」
「……」
スレッタは思わず、エランをまじまじと見つめてしまった。元々の原因はスレッタがエランを引き留めたことだ。少なくともネズミに会うまでは、まだエランと離れたくないという気持ちは、道中彼女の中にあり続けただろう。だから魔法が解けなかった。でも、それはつまり、彼の方も?
エランは、自分でも知らないものがいつのまにか胸の中にあったような気持ちで、眉をひそめていた。
「もしダメでも、そのまま、魔法の効力が消える夕方になれば自然と外れると思うけど」
試しにいま外れるかお願いしてみましょうか、という提案をする気にはなかなかなれない。
もしかしたらエランさんもこのままでいたいって思ってくれてるのかな。なんて、淡い期待のようなものが脳裏をかすめてしまって。スレッタは自分から手を外すのは、もはや難しい気がしてしまった。
「とりあえず、夕方になれば外れるみたいだね」
「そ、そうですね!」
もうひとつの手段については一旦棚上げするとしても、状況が解決する期限が定まった事は喜ばしいことだ。夕方というのが明確にどの時刻を指すのかはわからないが、少なくとも夜には外れるということだろう。
つまり夜、エランと離れることになる。
「……エランさん、私、大丈夫なので、もし本当にイヤだったら、いつでも手を離してくださいね」
シャディクの助言のおかげもあって、エランがその気になれば力づくで魔法が解けるのはもう知っている。こっそりと話しかけると、エランは首を振った。
「そうしたいと思ってたら、とっくにそうしてるよ」
きみ、けっこう意地が悪いんだね。
ふいっと顔を背けられてしまって、それは普段のスレッタならひどくショックを受けるような態度だったけれど。
そんなことを言ってもまだ外れない手と手に、思わず緩みそうになる頬を、慌てて引き締めた。
【8】
日が暮れるまではまだ時間がある。
エランはスレッタの本来の目的である、学舎に通うための買い物に付き合ってくれた。
転入のため授業に追いついていけるか不安な少女に、エランはいくつか参考になる本を見繕ってくれて。本を大事に抱きしめながら、ああ、この人とこれから同じ学舎に通うのだと、その事実を改めて噛み締めたりした。
「わぁ、いい眺めですね……!」
ネズミが教えてくれたとおりに階段をのぼり、細い通路を抜けていくと、街を見下ろせる高台にたどり着いた。
「すみません、こんな時間まで付き合わせてしまって」
「大丈夫だよ。それより、きみもずいぶんと帰りが遅くなってしまうけれど、問題はないの?」
「そうですね……一応遅くなるって、さっき連絡をお願いしておいたんですけれど」
ネズミの工房にいた風の精がそばにいないと思ったら、実家への伝言をお願いしていたらしい。
見下ろした街では、ちらほらと街灯が点き始めた。夜光石を使った街灯は、石自体が昼に集めた光を魔法の力で増幅させ、暗がりを照らしている。スレッタの故郷の道にも、ようやく置かれるようになったものだ。
彼女の家の前にも、灯台のようにぽつんとひとつ、夜光石の街灯がある。箒でどこかに行ったあとは、いつもその光を目指して帰るのだ。
「お母さんもエリクトも心配するかな……」
声に滲む寂しさに反して、少女の顔に憂鬱の色が差しているのが、見過ごせなかった。
「もしかして、帰りたくないの?」
否定の言葉はすぐには出てこなかった。
スレッタからこれまで聞いた話だけでも、複雑な家庭であることは想像できる。
「うまく言えない、ですけど。帰りたくないのとはちょっと違うかもしれなくて」
少女の口ぶりはたどたどしく、だけど、エランにちゃんと伝えようと、糸を紡ぐように丁寧に言葉を選んでいた。
「お母さんとお姉ちゃん、優しくて、とってもすごい魔法使いなんです。私はそんな二人が大好きで、大切で……でも、三人一緒にいると、ときどき。お母さんとお姉ちゃんの間には、ちょっと入れない感じがしてしまうんです」
「なぜ、そう思ったの?」
「私は、お姉ちゃん……エリクトが妖精の国から戻ってくるまで、お母さんと二人で暮らしてました。あの日、エリクトが戻ってきてくれた日は本当に嬉しくて、もうエリクトがどこか行っちゃわないようずっとくっついてたら、お母さんが、それじゃお姉ちゃんが困るでしょって笑って。今でも覚えています。それからは、三人で暮らすようになって、賑やかになって」
でも、ふとした瞬間。母と姉が共有している時間と、自分が母と姉それぞれと過ごした時間の隔たりを覚えてしまったのだ。
ほんのひととき、でも、日々積み重なればそれもたくさんの時間。家族の中で、宙に浮いたように所在のない自分。
「お母さんの知り合いの魔女さんから、学舎のことを教えてもらうようになったのもその頃でした。学舎には、私と同じくらいの歳の子がいっぱいいるんだって。友達も、きっとできるって――お母さんもお姉ちゃんも、入学を賛成してくれて、でも」
「寂しかった?」
躊躇いがちに、スレッタが頷いた。
きっと、故郷にスレッタを縛り付けないための、家族の優しさと気遣いでもあったのだろう。だけど、スレッタの心の中に巣くった孤独を思えば、それは家族という枠組みの中から急に放り出されるような。頼りない小舟で大海に流されるような気持ちになったのかもしれない。
「二人に甘えて、頼るばかりじゃダメ、応援してくれてるんだから頑張らなきゃ、って。今日、お母さんとお姉ちゃんと離れて一人で街に行こうって思ったのも、そのためでした。……けっきょく『みんな』ついてきてくれたので一人の力でもなくて。それにエランさんにも、街で会った方々にも、いっぱい手伝ってもらって。これじゃお母さんとお姉ちゃんを安心させられない。帰ったらなんて言おう、って思ったらちょっと、気が重くなっちゃいました」
照れたような笑顔は、空元気だとすぐわかる。
「エランさん。私、あのとき、ほんとうに嬉しかったです」
澄んだ碧の瞳が、エランをうつした。
「これから学校に通う準備のために来たのに、街の結界に阻まれてしまった時。まだ学舎に入学してもいないのに、なんだか拒絶されてしまったみたいで、ちょっと、こわかったんです」
だから、もう一度お礼を言わせてください。
「私のところに来てくれて、ありがとうございます」
今度の笑みは、作ったものではなく彼女の心からのものだったから、「うん」とエランもやわらかく応えた。
少女が真新しい夜の空気を取り込んで、ゆっくり吐く。少し、気持ちが落ち着いたようだった。
「あっ、私、あの時のエランさんの質問の答え、今ならちゃんと言える気がします!」
「あの時?」
「エランさんのことを知ることで、私に何かいいことがあるのか、っていう……」
そういえば、そんなこともあった。たった数時間前のことなのに、もうずいぶん前のことに感じる。今日はとても長い一日だったから。
「あの時、私はエランさんが疑問に思ってることがわからなくて。でもずっと考えてて」
「そのうち、エランさんは私が聞いたことが、お昼に何食べたとか、好きなものとか、そういう、日常のことだったから……それを聞いてどうしたいのか、って質問してくれたんじゃないかって思いました。でも、私にとっては、日常のことも……エランさんの魔法のことも。みんな知りたい。エランさんのことだから」
「どうしてぼくのことが知りたいの?」
「あなただから、知りたいんです」
あの時、カラスの姿で親切にしてくれたことがきっかけなのは確かだけれど。今はもうそれだけじゃなくて。好きなことだけじゃない、何が嫌なのかも。ちゃんと知って、話して、あなたのことを想いたい。
「助けてくれた優しいエランさんだからじゃなくて。目の前のあなたのことが、もっと知りたかったんです」
エランが何かを言いかけたその瞬間、ぱきん、と硝子が割れるような音がした。
音は、ネズミがつくった氷の花の腕輪からだった。今はまだ手は重なったままだけれど。そこにはもう、魔法による強制力は働いていない。
「あ……」
惜しむような声に、彼女の意思で解けたわけではないことはすぐわかった。
どちらかの願いという条件で解けたわけではなく、腕輪から魔力が尽きたようだった。気づけば、空はすっかり群青色に染まっている。
どちらかが力を抜けば、手は簡単に離れてしまいそうだった。
「……妖精はぼくにとって呪いだ、といったね」
腕輪のことには触れず、エランは口を開いた。
あと少しだけ。あるいは、スレッタが手を離して帰りたいと思うまで。手はそのままにするつもりだった。
「記憶がないんだ。だから学舎での生活にも、誰かと関わることも……知ることも。意味なんてないと思ってた」
友達なんていたかどうかもわからない。血に繋がった兄弟は家にいるけれど、ともに育った記憶がないから実感がない。先のこともそう。のちのち失うことがわかってるのに得ることほど、むなしいものないだろう。
「意味なんてない、なんて……そんなの、寂しい、です」
絞り出すように呟く。エランさんは、ずっとその寂しさに耐えてきたんだ。それは彼にとってとても大事な、心の奥底にしまった秘密だっただろう。
「あの、どうして、教えてくれたんですか?」
「きみがきみのことを教えてくれたから。ぼくのことを話そうと思った。きみだから、そうしたいと、思ったんだと思う」
ああそうか。今やっとわかった。
――鴉の姿で出会ったとき、妖精と仲良くしている姿を見て、自分とは違う関わり方だと思って勝手に期待して落胆した。
でも彼女にこだわる気持ちはどうしてか捨てられなくて。
そう、期待、していた。誰でもなく、目の前のきみがそうであればいい、と期待していたんだ。
すとんと腑に落ちる感覚があった。
きみは、自分は母親や姉のような特別な魔法使いじゃないといったけれど。ここにいるエラン・ケレスも、ただ目の前にいるスレッタ・マーキュリーのことが知りたかったんだ。
「スレッタ・マーキュリー。このままぼくと一緒に学校にくる?」
エランが口にした思いがけない言葉に、スレッタは頬が熱くなるような感じがした。
「それって、」
冗談を言ってるような口ぶりではない。
その言葉はとても嬉しくて。でも、そうしたら、さっきの魔法と同じことになってしまう。エランの手を、自分のわがままでずっと離さないままでいるだろう。それはなんだか違う、と思うのだ。
「あの、準備とか、残りの手続きとか、全部終わってからなので、本当は入学は一週間後になるはず、で」
離さなきゃ、離したくない。揺れ動く気持ちが言葉をぎこちなくさせる。
「学舎でも手続きはできるし、先に来ても後に来ても、そう変わらないと思うけれど」
返事を言い淀む少女に、少年は「じゃあ、」となんでもないことのように続けた。
「一週間後。学舎で待ってる」
「……エランさんが、待っててくれるんですか?」
「うん。学校を案内するよ」
「あの……そのときまた、よかったら、今日みたいに、手を繋いでくれますか」
「手を繋ぐだけでいいの?」
「あっ、えと、その」
「一週間もあるから。他にもやりたいこと、あったら考えておいて」
家に帰るのも、学舎での生活も、あれだけ不安だったのが嘘みたいだ。待っててくれる人がいる。なにより、それがエランだということが、なによりうれしい。
「ほんと、ですか。も、もしエランさんが知らないって言っても、わたし、覚えてますっ」
繋いだ手の小指を絡めた。ぜったいですよ、と念を押すように、次に手を繋ぐまでの約束を。
「約束やぶったら何にする?」
「え!えっと、ううん、その時もやっぱり手を繋いで欲しいです……!」
「こだわるんだね」
「だって、また会えたときも、今日みたいに一緒にいたいから」
こどもがよくするように、約束するときのお決まりの台詞を言ってから、二人は手を離した。
離れてしまった手、その小指は、まだちょっと相手の温もりが残っていて。不思議となにか魔法の力でも宿ってるみたいで、もう片方の手で大事に包み込んだ。
きっと、それは家に帰っても解けることがない。離れる寂しさを、再会の待ち遠しさに変える、エランの魔法だと思った。
喜びにほんのり頬を染めるスレッタを見て。エランはわずかに口元を綻ばせた。
この約束で、自分たちの根本的な何かが解決するわけでも、状況が変わるわけでもない。
だけど、それでも。
星のない夜に互いの場所を確かめるように、ただ手を握って、寄り添う。
行き先が見えないまっくらやみ、少女のぬくもりが隣にあることを、手を通じて感じる。それだけのことなのに。
痛みしかないと思っていたこの世界で。そのときばかりは、小さな星を胸に抱いたみたいに穏やかな心地になったのだから、不思議だった。
【epilogue】
「起きるの早くない?」
学舎の寮は基本二人部屋だ。
エランのルームメイト、同じ緑の目をした少年が、眠たげに目元を擦っていた。
「今日は転入生の案内があるから」
「案内……あぁ、わざわざ別の寮の寮長から仕事譲ってもらったっていう……うちのとこには入らないんでしょ?なんでまたそんな面倒な」
「鍵は今日はぼくが持ってくよ」
「はいはい。じゃあ、おやすみー」
「おやすみ」
朝にするにはおかしな挨拶だ。
二度寝を決め込もうとするルームメイトを置いて、扉に鍵をさす。寮長の証でもある特別な魔法鍵は、扉の先をあらかじめ設定された別の場所へとつなげることができる。行き先は中庭だ。
ルームメイトは寮長で、エランが副寮長ということになっていた。二人のどちらかが引け受けなければならず、比較的社交的な方が寮長の肩書を背負うことになった。押し付けられた、なんて彼は溜息をついていたけれど。
扉が閉まる。二人は学舎では基本的に部屋以外で話すことはない。ルームメイトが眠そうにしてるのは、おおかた家の......当主である兄の命令で、夜忙しく働いていたのが原因だろう。その前はエランが仕事していたので、部屋ですらあまりタイミングが合わない。
そういえば挨拶なんて、いつぶりにしただろうか。珍しくそんなことを思った。
スレッタ・マーキュリーが入学するまでの一週間のあいだに、学舎の中庭に植えられた木々もすっかり色づいていた。鮮やかな赤はスレッタを思い出させる。
秋の少し冷え込む風に背を押されながら、エランは中庭を通り抜けて正面入口へと歩いていく。視界を過ぎ去っていく生徒たちが、何故か皆一様に驚いているのにふと気づいた。
そんなに急いでいるつもりもなかったが、少し足早になっていたらしい。気にすることでもないので、そのまま一気に学舎のエントランスホールへ最短距離を通って行った。
「エランさーん!」
ホールには、はねる兎みたいに元気よく手を振るスレッタの姿があった。
待ち合わせよりいくぶん早い到着だ。また箒で飛んできたのだろうか。真新しい学舎の制服に、前会ったときも被っていた、とんがり帽子がよく似合っていた。
「入学おめでとう。スレッタ・マーキュリー」
「ありがとうございます!また、こうしてエランさんに会えて嬉しいです」
「ぼくもだよ」
学舎は全寮制だ。スレッタはすでにはいる寮が決まっていたので、違う寮の所属とはなったが、会おうと思えばこれからは毎日でも会える。
その事実を確かめるみたいに、お互いの制服姿をしみじみと見つめた。
「じゃあ、行こうか。約束通り学校を案内するよ」
「はい!」
エランが左手を差し出し、スレッタはこぼれ落ちそうなほどの喜びをたたえて、右手を重ねる。
手を繋いだスレッタの手首には、あの時の氷の蕾の――今はお願いごとが叶ったあとの、白い花の腕飾り。
もう魔法の力なんて残っていないけれど。
思い出がつまった、二人にとっては大切なものだ。
今日はその、あの日のつづき。
学舎での日々はきっと、楽しみばかりではいられない。よろこびもかなしみも期待も不安も入り混じるだろう。でも、まだ見ぬあなたを、きみを、知れるかもしれない。日々のはじまりでもあった。