我儘な恋人「降谷くんはいるか?」
警備企画課。普段彼がデスクワークをしている部屋を訪ねると、現れた彼の部下は、立派な眉をさげ、困った顔でオフィスの奥を見た。彼は声を潜め、席にいる降谷をうかがう。
「いるにはいるんですが……」
「ご機嫌ななめかな?」
「いえ、ご機嫌というより」
風見の言葉の先を待つまでもなく、赤井は彼の言いたいことを察した。
赤井の目当ての人物は、いつものように奥の席で姿勢よく座り書類をさばいていたが、よく見ればいつもの精彩がない。彼をよく知らない者が見れば、すばやく書類を捌いているように見えるが、常日頃から彼をよく知る自分(と風見)から見れば、その違いは一目瞭然だった。
「朝からあの様子なんですが、何度言っても休んでいただけず……」
「なるほどな。わかった、俺からも伝えてみよう」
「ありがとうございます」
風見はそう言って目を伏せた。
自席に戻る彼を横目に、赤井はオフィスの奥へ足を進める。ブラインドを下げた窓から入る日差しのラインを受けて、きらきらと輝くキャラメルブロンド。赤井は知らず目を眇め、凛々しくも映るその姿を見つめた。
「やぁ、降谷くん」
「……何の御用ですか」
赤井捜査官、と。
彼は尖る口調で口に乗せる。
普段こちらを強く睨みつけてくる瞳が、わずかにすれ違う。顔をあげ、金色の髪が彼の額に落ちる。なめらかで凛々しく映る顔は、彼のもともとの肌の色から気づかれにくいが、普段より血の気が薄い。
「例の件でしたら風見に聞いてください。調査の件は、そちらにも結果を報告しているはずです」
こちらが何も聞いていないのに、やけに饒舌に答える。彼が饒舌なのは、いつもだが。呼吸の速さと孕んだ熱を、ごまかすかのようだ。
「帰ろうか、降谷くん」
「……は?」
降谷は青い瞳を見開く。狼狽え、水面のように揺れる。ただそれは一瞬のことで、すぐに睨みつけるように眉をひそめた。
「何を言っているんですか。僕はあなたと違って忙しいんです」
「だろうな。そんなに体調が悪そうなのに登庁しているくらいだ」
降谷は息を詰める。彼がそんなふうにあからさまな仕草を見せるとは、なるほど、よほど体調が悪いらしい。
「降谷くん」
すきを突いて、デスクに置かれた手に触れる。常の体温よりずっと高い。おそらく38度を越している。間近で見た青い瞳は、ほんの少し潤んでいる。
「なにを……!」
降谷が手を振り払う。しかし、赤井はそれを見越して彼の手を握りしめる。普段より彼の力は弱く、赤井の手を振り払うこともできない。そのことに愕然とした表情をして、瞳ばかりは強く赤井を睨みつける。
「降谷くん、帰ろう。君はもちろん知っていると思うが、週明けには欧州の連中を交えてのテレビ会議がある。資料よりもまず、君の体調が万全であることが重要だと思わないか。資料は代わりの人間が作れるが、当日欧州の連中と渡り合えるのは君だけだ」
「……」
降谷は唇を引き結ぶ。唇の端がわななき、強く噛み締めていることがわかる。心配そうな視線を向けてくる彼の部下。その視界の外で、そっと降谷の耳元に口を寄せた。
「それとも、」
身体の熱ではなく、情欲のそれを、わざとらしく含ませて。
「抱き上げて運んだほうがいいかな?」
「やめろ!」
降谷は強く言い切り、赤井から逃れるように椅子から立ち上がる。勢いよく立ち上がった拍子に、くらりとふらついてたたらを踏む。
「おっと」
彼を支えるように肩に触れ、風見に視線を向ける。
「風見くん、降谷くんは帰るそうだ。資料の引き継ぎを頼む」
「はっ、明日中に仕上げ、ご連絡させていただきます」
「……悪い、風見」
降谷は一歩下がって赤井から離れ、自身の部下に視線をやる。ああ、いけない。そんな美しい水面のように潤んだ瞳を他の男に向けては。ちりちりと肌を焼くような赤井の苛立ちをよそに、風見はただまっすぐに労りの目で降谷に話しかける。
「こんなときくらい頼ってください」
「……ありがとう」
降谷が目を伏せる。濃い金色のまつげが、血の気のない肌に影を落とす。それを日差しから隠すように、彼の額を手で覆った。驚いて振り仰ぐ降谷の肩を掴む。
「この熱じゃ運転できないだろう。送っていく」
「いえ、いいです。あなたも忙しいでしょう。そのへんで部下でも捕まえ、」
「ヒマな俺が送ろう。カバンはこれか? 行くぞ」
「ちょっ!?」
肩を引き寄せ、彼の文句を封じて連れ出す。
赤井ヒマってどういうことだ。彼は口悪く罵る。
「ヒマなわけないだろ。送ってもらわなくなって、ちゃんと家に戻る」
「俺が送りたいんだ。少しは頼ってくれ」
降谷は、でも、と眉を下げる。
「風見と違って、あなたは僕の部下ってわけじゃないのに」
「……」
なんの含みもない言葉。だからこそ苛立ちを感じてしまう。
「……赤井?」
なにを感じ取ったのか、降谷が訝しげに名前を呼ぶ。彼の瞳の水面に映る自分は、ずいぶんな顔をしていた。この区画は扱う情報が情報であるためか人が少ない。だが、通る人間がいないわけではない。赤井は人の気配がないことを十分に確認したあと、そっとその唇にキスをした。
「なっ!?」
触れるだけの、児戯のようなキスだ。
それでも降谷は目を見開いて顔を真っ赤にした。その容姿とは裏腹に、彼は生真面目の日本男児だ。職場でのキスなど、想像だにしないことだろう。羞恥と怒りで色を濃くする瞳を覗き込み、唇に指を当てる。
「そういうことじゃない」
口づけを思わせるような、ささやかで甘やかに。
見かけによらずうぶな男は、それだけで唇を震わせた。
「恋人だろう? 俺たちは」
「……でも、僕がうかつにも風邪を引いたから、それは」
自分の責任だ。降谷には迷いがない。
責任感の強い彼は、恋人にさえそうそう頼ってくれない。いや、頼る先は、むしろ部下の方が確率が高い。つまり風見だ。赤井の嫉妬が向けられているとは夢にも思っていないだろう。
「俺がそうしたいんだ。後生だから、いまだけは俺の言うことを聞いてくれ」
「……悪い。あなたに迷惑をかけるつもりは、なかったのに」
「俺が言いたいのはそういうことじゃないんだが」
「え?」
「いいや、まずは君を自宅へエスコートするのが先だな。行こう」
地下駐車場へ向かい、彼をマスタングの後部座席に乗せる。だるそうに目を伏せる降谷を横にさせ、ないよりましだと自分のジャケットを脱いで、腹のあたりにかけた。
「タバコ臭いだろうが、少し我慢してくれ」
「……へいき」
熱に浮かされているためか、常日頃、彼を覆っている理性の膜がほんの少し破けて、子供のように柔らかく微笑む。赤井はそっとキャラメルブロンドの髪を撫で、耳のあたりではねたそれにキスをした。
「降谷くん、ついたぞ」
彼のマンションにたどり着く。駐車場に車を置いたところで後部座席を振り返る。降谷はかすかに視線を向けて、頭を振るようにして起き上がろうとする。赤井は慌てて外に出て後部座席の降谷に肩を貸した。
彼の部屋には何度も訪れたことがある。いつもと違う時間に帰ってきた主人の姿に、ハロが不思議そうに顔を出す。具合の悪そうな主人を見て、ハロは心配そうに鼻を動かした。
降谷を寝室に運び、スーツのジャケットだけを脱がしてやって、着替えを渡す。几帳面な彼は部屋着をきちんとしまっているので、場所も覚えてしまった。
「飲み物を持ってくる。風邪薬のたぐいはあるか?」
「はい、その戸棚の真ん中に」
「わかった。とってくるから、着替えたら布団のなかに入るんだぞ」
「……はい」
力なく頷いた彼は、ノロノロとシャツのボタンを外しはじめる。耳を垂らして小さく鳴くハロを連れて、寝室から出た。
「ハロ、降谷くんは具合が悪いんだ。今日の散歩は俺で我慢してくれ」
小さく白い彼の愛犬は、まるで赤井の言葉をわかったかのように足に頭を擦り付けて、寝室の扉の前に身を伏せた。
飲み物と薬を用意して再び寝室へ入ると、降谷はスーツを吊るそうとしているところだった。赤井は慌ててテーブルに飲み物を置いて、降谷の手からスーツを奪った。
「これくらい俺にやらせてくれ。ほら、ベッドに入って」
でも、となかなか素直に頷いてくれない降谷を、抱えるようにしてベッドに追い立てる。枕に頭を乗せると、ようやく諦めたのか、あるいは気力をなくしたのか、力を抜いて横たわった。
「ほら、薬だ。飲んだら少し眠るといい」
「……はい」
降谷に薬を飲ませ、汗で張り付いた前髪をそっと払う。
「ごめんなさい、赤井」
少し潤んだ青い瞳が、赤井を見つめていた。褐色の肌はわかりにくいが少し上気して赤くなっている。
「なにがだ?」
「あなたまで仕事を中断させて。僕はもう平気なので、戻って大丈夫ですよ」
「……」
赤井は何も言わず、降谷の頬を撫でた。子供のようにつるんとした肌を撫でると、その熱さに驚く。こんなに発熱して、苦しいだろうに、彼は一人で耐えようとする。赤井はそれが寂しい。降谷は赤井を信頼していないわけではない。信頼していなければ恋人にはならないし、身体も預けてはくれない。そうではなくて、きっと、彼にはこういうときに誰かに頼るという選択肢が存在しないのだ。
「いるよ、ここに」
「でも……」
「いさせてほしい。君の助けになりたい」
懇願するようにその手をとって口づけると、降谷は頬を染めて布団に口元まで埋めてしまった。濡れた青い瞳が、うかがうように赤井を見つめる。赤井が動かないのを見て、戸惑いのなかに安堵が混ざる。
「……なにかあれば、そっちを優先して構わないからな」
口から出てくる言葉は、頑なだ。けれど目を閉じたその表情は、安心したような柔らかなものだった。赤井はその額にキスをして、小さく囁いた。
「おやすみ、零くん」
しばらくそうして手を握っていると、彼の呼吸が深くなり、眠りについたことがわかった。そっと手を外して、布団のなかに入れてやる。途端にむずがるような表情をするので頭を撫でてやると、安堵したように綻んだ。いとけない子供のような表情だ。愛おしさが心を締め付けて、赤井はそこから動けなくなってしまった。
二時間ほどで降谷は目を覚ました。あのあと一時間ほど恋人の寝顔を堪能した赤井が、買い物とハロの散歩を終えて帰ってきたタイミングだった。
「おはよう。少し顔色がよくなったな。なにか口にできそうか?」
「……はい。あ、ハロの散歩ありがとうございます」
足を拭き終えたハロが、一目散に主のもとへ駆けていく。その頭を撫でてやっている姿はあたたかで柔らかい。赤井が食事を作って持っていくと、ハロはベッドの隅で丸くなって眠っていた。
「……お粥」
「調べて出てきたとおりに作ったからまずくないはずだ。食べられるだけでいい」
「はい、ありがとうございます」
椀に盛られたそれを一口食べて、おいしい、と笑う。
「君の作る食事には敵わないがな。俺が風邪を引いたときは作ってくれ」
「作ります。英国では風邪のときなにを食べます?」
「特に思いつかないな。母は料理が苦手だったし、あまりいい思い出がない」
怒られるぞ、と降谷が笑う。
「じゃあ、あなたの好きなもの作ります」
「君が甘やかしてくれるなら、風邪をひくのも悪くなさそうだ」
「風邪を楽しみにしないでくださいよ」
降谷が唇を尖らせる。
「代わりに、君も甘えてくれていい」
照れたように、赤井を睨みつける。
「桃もある。デザートに食べよう」
降谷の目が瞬く。喉がこくんと動く。血色のいい頬を撫でると、心地よさそうに目を伏せる。
「……あなたって、甘やかすの上手だな」
そんなことははじめて言われた。逆に冷たいと言われたことの方が多いくらいだ。けれど、降谷に対しては、どうしてか甘くなる。大切にしたくなる。強い男だと、そんなことは知っているのに。
「君が、甘やかす俺を許してくれるのが、嬉しくてな」
「そんなこと言ってると、つけあがるかも」
「どんどんつけあがってくれ」
降谷は眉を寄せて、じゃあ、と口を開く。
「桃、きってきて。そのあとシャワー浴びたいから、着替え用意して……あと、」
「あと?」
「……あがったら、髪、乾かしてほしい」
降谷らしい精一杯の可愛らしい我儘に、赤井は小さく笑う。なんだって叶えてやりたいのに、彼が望むのは、些細な我儘の積み重ねだ。降谷は笑われたことに憮然としている。すまない、と小さく謝る。
「任せてくれ。愛をこめて甘やかそう」
■
赤井は甘やかすのがうまい。
降谷は、その赤井にドライヤーをかけられながら、ぼんやりと思った。とうの本人は、上機嫌で降谷の髪を梳いている。こうして髪を乾かしてもらうのは、はじめてではない。風邪を引いたときに、降谷が我儘を言ったのがはじまりで、それからは、赤井が泊まりにきたときに、なんとなくそういう流れになっている。
「零くん、熱くないか?」
「ちょうどいいよ」
よかった、と赤井が言う。後ろにいるから見えないけれど、笑っているのがわかるような、柔らかい声。銃を扱うその指が、降谷の頭皮に触れる。それがひどく甘ったるい。できたぞ、と背後で声がして、キスが落ちる。振り向くと唇にそれが落ちてくるのを知っているから、迷わずに振り向いてしまう。案の定、赤井は笑って降谷の唇にキスをする。
その日の気分で、ベッドに直行するか、そのままソファでいちゃつくか、普通に過ごすかが決まる。今日はいちゃつきたい気分だった。どうしてか赤井にはそれが伝わるようで、そういうときには、すぐさまベッドに誘われることはない。経験のなせる技だろうか。むかつく男だ。唇を離すと、赤井は少し眉を動かして、降谷の唇を追う。再び呼吸を奪われて、ずぶずぶと沈んでいくように、キスに思考が奪われる。赤井によって整えられた髪に指が触れる。少し目を開けると、深いエバーグリーンの瞳と視線が結ばれた。奥底で光る瞳だ。目が離せなくて、まるで溺れているような気持ちになる。
「あか、い」
呼吸のあいまに名前を呼ぶ。赤井は頬にキスをして降谷を抱きしめる。
「さて。君が見たいと言っていた映画でも見ようか? 梅昆布茶がいいか、カモミールティーがいいか」
「……梅昆布茶」
「了解だ、ダーリン」
赤井が用意した梅昆布茶を飲みながら、気になっていた映画の配信を眺める。ソファはそれほど狭くない。だから、くっついて見る必要はまったくない。にもかかわらず、降谷は赤井に寄りかかったままだ。いや、これは、赤井が降谷の肩を抱いてくるからだ。こちらから近づきにいっているわけではない。
映画はといえば、予告編は面白そうだったのに、本編は中盤から失速気味で、オチもなんとなく想像がついてしまった。案の定ピンチに陥る主人公たちから視線を外し、傍らの男に目をやる。視線に気づいたのか、赤井が画面から目を外す。
「つまらないか?」
「……オチが読めました」
「奇遇だな、俺もだ」
ちなみに、どんな? 聞かれて答えると、同じ見解だ、と赤井が笑う。もう寝ようか? 赤井が降谷の髪を撫でながら尋ねる。そうされると、まるで催眠のように眠気が浮かんでくるから不思議だ。
「でも、明日から忙しくなるから……」
「なら余計、早めに寝たほうがよくないか?」
「……しばらくゆっくりできなくなる」
こんなふうに、赤井と。
言ったきり恥ずかしくなって、赤井の胸に顔を伏せる。
「じゃあオチが予想通りかどうか確かめよう」
「……ん」
けれど眠気もあって、ぐったりと横たわる。頭が赤井の腿にあたる。膝枕のような格好に落ち着く。赤井は苦笑して降谷の頭を撫でる。画面のなかでは、ヒロインの機転でピンチを脱した主人公が、黒幕と向き合っていた。黒幕は主人公の親友だったのだ。伏線は、降谷や赤井には少々あからさますぎた。親友が過去の因縁をご丁寧に説明している。頭に入ってこない。頭の撫でてくれる手が心地よくて、降谷は目を閉じた。
目を開けたら布団の中だった。周囲は薄暗い。夜明けが近い。最後の記憶がソファなのに布団のなかにいるのは、後ろから抱きしめるようにして眠っている男が運んだためだろう。降谷がみじろぐと、首筋に吐息を感じた。
「……れい」
起こしただろうか。けれどそれきり赤井は動かない。降谷がくるりと姿勢を反転させてもそのままだ。切れ長の瞳は、まぶたに閉ざされている。首筋に顔を近づけると、かすかにタバコの匂いがした。降谷を移動させたあと、眠る前に吸ったのかもしれない。
「れい?」
今度こそ覚醒した声がして、降谷は顔をあげた。淡くグリーンに光る瞳と目が合う。まだ半分くらいは眠りに引きずられているのか、口調が柔らかい。
「運んでくれて、ありがとうございます。途中で寝ちゃってごめん」
「かまわないよ。……ああ、オチは予想通りだった」
「ふふ」
他に聞く人間もいないのに、小さな声で言葉を交わす。
「起きるにはまだ早いだろう? もう少し眠ろう」
その言葉にうなずきながら、降谷は赤井の首に頭を寄せる。額に口づけが落ちる。触れ合った肌があたたかい。じわりと身体の奥に熱がともる。いちゃついてからベッドで一度くらいは身体を重ねるつもりだったのに、自分が寝落ちしてしまったものだから。
「……おやすみなさい」
赤井は眠そうだし、やり過ごせる程度の熱だ。降谷はわずかに身動いで目を閉じた。
「零くん」
言葉とともに、耳元を撫でられる。降谷は肩をすくめて目を瞬かせた。降谷の目の前に、夜の薄闇のなかでも輝く緑眼があった。そこに宿る自分と同じ熱に、降谷は頬に胸にあるそれを伝播させた。
「俺になにか言いたいことがあるだろう?」
なぜわかる?
肌を撫でる赤井の指を軽く振り払う。
「……別に、ない」
夜目のきく赤井に、赤くなった頬を知られないように顔を伏せる。
「……れい」
欲を孕んだ声音。せっかくやりすごせそうだった腹の底の熱が大きくなった気がした。いい声してるからってコノヤロウ。降谷は苛立ちすら感じながら、緑色の双眸を睨みつけた。なにもかも見透かすかのような目だ。そうなのだったら、いっそ降谷の形ばかりの否定なんて気にせず手を出してほしいのに。
「僕に」
赤井の手を持ち上げて、自分の胸にあてる。女性がやったら扇情的かもしれないが、残念ながら自分は男なので、セックスアピールできる部分に思い当たりがないのだ。けれど赤井は、降谷の身体のありとあらゆるところを美しいとか可愛いといって憚らないので、このさいどこでもいい。
「……さわって、ほしい」
赤井は降谷が持ち上げた手でそこを撫でて、触るだけか、と意地悪げに問う。降谷はむっとして顔をそむける。
「赤井が眠くてその気にならないなら、自分でしますけど!」
引き寄せておいて、今度は引き剥がそうとする。赤井は、悪かった、と笑って、降谷の唇にキスをした。その手が降谷の背後に回って、腰と尻のあいだを行き来する。
「どうか俺にさせてくれ。意地悪をした詫びに甘やかそう」
「……そうしてください」
降谷は両手で赤井の首に抱きついて、偉そうに囁いた。
■
「……いま、なんて?」
目の前の男が口にした言葉は、脳が理解することを拒否したかのように、遠く聞こえた。
自分はいま、どんな表情をしているだろうか。問うた言葉は掠れていた。なのに、赤井は表情ひとつ変えずに再び口を開いた。湖のような静けさをもって、緑色の瞳がまっすぐに降谷を見つめていた。
「FBIを辞めることにした」
降谷は息を詰めた。身体中が熱くなって、咄嗟にその肩を掴んで引き寄せる。赤井はされるがままだ。
「どういうことだ」
肩を掴まれたまま、赤井は器用に肩をすくめてみせた。
「どういうもなにも、そのままだ。前々からジェイムズには伝えていたことだ。組織の件が片づけばFBIは辞めるとね。一度は向こうへ渡って片付けないといけないことがあるが」
「辞めてどうするんだよ。その年で隠居でもする気か」
「日本で永住権を申請するつもりだ」
赤井は、これから職探しだな、と言って小さく笑う。
「ッふざけるな!」
降谷は激昂して声を荒げた。
彼に対して、こんなふうに声を荒げるのは久しぶりだ。確執を越えて、関係が変化して、恋人になった。ときどき諍いや言い合いはあるけれど、鷹揚で甘い男はすぐに譲ってしまう。ケガをして怒られたことはあるけれど、あれは降谷が悪いからノーカウントだ。
赤井は降谷に甘くて、どんな我儘だって叶えてしまうのだった。
「……僕が、寂しいって言ったからか」
降谷は赤井の肩に額を置いた。肩を掴んだ手が、まるで縋るように服の皺をすべる。
組織の幹部は軒並み死亡あるいは逮捕され、対策室は徐々に規模を縮小していた。各国の捜査官たちもひとり、またひとりと帰国している。外交面での調整はそれなりにかかるだろうが、対策室自体は、年内には解散される運びだ。
FBIは組織と関わりのある赤井ら四人を残すのみで、他の者たちは帰国している。対策室の解散に合わせて、彼らも帰国の途につく。そうジェイムズ氏から聞いていた。
年内。それが、赤井と一緒に過ごせるリミット。
最初から覚悟していたことだ。出会ったときから、赤井はFBIのエージェントだった——もちろん、当時はそれを知る由もなかったのだけれど。そうでない赤井を知らないし、赤井はずっとそのままでいるのだと思っていた。
ずっと一緒にいられるはずもない。何十年かして二人が役目をおりるまでは、どんなに二人が努力しても、寄り添える時間の方がずっとずっと少ないだろう。それでもよかった。どんなに寂しくても、どんなに不安になっても、降谷はそれを選んだのだから。
それでも、ふと。こぼしてしまったのだ。
赤井と過ごす休日が、あまりに穏やかで。彼が自分に触れる指先が、あまりにも優しくて。なくしたくないと思ってしまったのだ。
「……さみしいな」
降谷の心の、やわいところからこぼれたものだった。
口に出した瞬間に、きまずさを覚えたけれど、赤井の目が優しく降谷を見ていたから、ほっとした。赤井は読んでいた本を閉じて、降谷に手を伸ばす。
そうだな、けれど、俺たちならきっと大丈夫だ。
彼はきっとそんなふうに言って、降谷に寄り添ってくれる。その指が降谷の髪を撫でて、小さく笑んだままの口が、降谷の名前を呼ぶ。
「零くん」
そうして同じように、赤井は自分の名前を呼ぶ。俯いた降谷の髪を撫でて、口づけが落ちる。
「……違うんだ」
自分の恋人は本当に優しくて、甘くて、いっそ嫌になる。
「辞めてほしいなんて思ったことない」
元々イギリス生まれの男が、どれほどの努力でFBIに入局したのか、知りはしないけれど想像はできる。この男が捜査官としてどれほど優秀で、スナイパーとしてどれほど得難いか、降谷はよく知っている。そんな男を、自分の我儘で日本に縛りつけたくない。
「一緒にいられなくていいんだ。電話したり、たまに会えたら、それで十分だから」
「零くん」
「たまに会うくらいの方が、盛り上がって長続きするかもしれないし……」
「零」
咎めるような響きで呼ばれて、降谷はおそるおそる顔をあげる。
仕方ないな、という顔をして、赤井は降谷の手をとる。
「そんな寂しいことを言わないでくれ」
だが、まあ。赤井は小さく息を吐く。
「遠距離でも、俺と恋人でいてくれようとしたのは、素直に嬉しいよ。付き合ったばかりの君だったら、別れると言い出しかねなかった」
「……」
反論できず、降谷は口をつぐむ。
「君は少し勘違いをしている」
「……なにが」
「FBIを辞めるのは、君のためじゃない。俺自身の選択だ。そもそも俺は君のように、愛国心が強いわけじゃない」
「でも、」
米国に強い思いがあるわけじゃなくても、そこに生きる人々を守りたいと思っていたはずだ。
そうだな、と赤井は頷く。
「だが、俺はそうでない方を選んだ。言うなればこれは、俺の我儘なんだ」
緑色の双眸が、降谷を映す。底のない湖のようで、どこか恐ろしい。
「君が耐えられても、俺が耐えられない。君のそばに俺がいないことに」
「そんなわけないだろ」
「……あるんだよ」
否定を許さない声音。降谷が口を曲げると、赤井は小さく笑って口づけた。
「前から決めていたんだ。ジェイムズに聞いてみればわかる。人事を漏らしたことについて俺が怒られるが……君が、寂しいと言ってくれたことがうれしくてな」
「……日本に住んだら銃を持てなくなるぞ。ライフルなんてもってのほかだ」
日本は警官が銃を撃つことさえ滅多にないのだ。……基本的には。
「捜査官じゃない俺のことは恋人にしてくれないのか? ライフルを取り上げられた俺は、君のお眼鏡に敵わないか?」
「……どうでしょうね」
まったくそうは思っていない、楽しそうな赤井の様子に、降谷は鼻白む。赤井がスナイプ以外に能のない男だったら、降谷は彼を追いかけるのに何の苦労もしなかっただろう。
「君に愛想を尽かされたくないから、再就職は頑張るさ。ジェイムズからも、たまに講師をしてくれないかと打診されているしな。ライフルの腕も鈍らないようにするさ」
だから、と赤井は降谷に請う。
「我儘な恋人を許してくれ、零くん」
「……しかたないですね」
二人の行く末を、部屋の隅で見守っていたハロが、主人のまとう空気が変わったことを察して足元でワン、と鳴いた。降谷は笑って愛犬を抱き上げて、来年にはもう少し広い部屋に引っ越そう、と思うのだった。
眠っている降谷の顔は穏やかだ。はだかの肩に布団をかけてやると、熱を求めて赤井の腕に寄り添う。子供のようにいとけない。激昂したときとのギャップに思わず笑みがこぼれる。感情をむき出しにして激昂する降谷を見るのは久しぶりだった。ああして強い感情を向けられることは、赤井をとても楽しい気持ちにさせるのだった。……彼には到底言えないが。
彼が本当は孤独に耐えられることを知っている。いじらしく寂しいとこぼした言葉は本音だろうが、現実的な願望を伴ったものではなかった。遠距離で関係を続けるつもりだっただけでも大した成長だ。甘やかしたかいがある。
「……あかい?」
寝ぼけたような声で、彼が名前を呼ぶ。視線がうるさかっただろうか。おやすみ、と囁いてこめかみに口づけを落とすと、ううん、と呻いて再び目を閉じる。その甘やかさも、表情のやわらかさも、そばにいなければ触れられない。赤井は同じように目を閉じて、今度こそ眠ることにした。
彼が孤独に耐えられても、自分が孤独に耐えられても。
彼のささやかな我儘すら聞いてやれない自分に、耐えられないのだった。
だからどうか、ずっと。
俺にだけ、我儘を言ってくれ。