きみは光のむこう/那須さんお誕生日2022期待を高まらすように静かに漂っていた甘く香ばしい匂いは、オーブンを開けた瞬間ふわっと部屋中に広がって、かわいいあの子はそれに釣られて、とことことこちらに歩み寄ってきた。
「いいにおい、なぁに?」
小首を傾げると細くやわい髪がさらりと揺れるものだからそれがいっそう愛らしく、私はしゃがんで目線を合わせながら答える。
「お誕生日ケーキよ、玲の」
その言葉に玲の瞳はきらきらと光って、おとなしい子だと言われるけど、こんなにも雄弁なのだと私は改めて実感する。
「ももものせる?」
「桃も載せるよ」
立ち上がり、キッチンの上の瓶を手に取って玲に見せる。とろみのあるシロップの中で白桃が揺れる。いつもの桃缶よりちょっとだけ奮発した、百貨店からやって来た瓶。それに釘付けになる玲。語らずともその期待は手に取るように分かって、私もますます気合いが入る。
今日は彼女の、3歳になる誕生日だ。
身体の弱い子だった。彼女の気管の音を聞きながら、失わぬよう抱きしめる夜があった。病院のベッドの脇、呼吸で上下する胸の動きを眺め、奇跡のように思う昼があった。この日を迎えられたことは、私にとっては僥倖で、玲にとっては戦果だ。
「ほら、向こうで待っててね」
そう言って彼女をリビングに送り出す。名残惜しそうにこちらを振り向いた後ソファに向かっていく背中に少し切なくなる。隣で眺めていたかったのだろう。私もそうさせてあげたいけれど、少しでも安静にしていてほしい気持ちが邪魔をする。玲がソファに腰掛けて絵本をめくり始めるのを確認して、作業に戻る。
まだ温かいケーキを型から外して、ケーキクーラーに載せる。ガラスボウルに氷をあけて水を注ぐと、からからと涼しげな音を立てた。そこに一回り小さいガラスボウルを載せて生クリームと砂糖を加えたら、あとは文明の利器の出番だ。試しにスイッチを入れてみると、ブゥンと少し大袈裟なくらいにハンドミキサーは唸りを上げた。動作確認は問題なし。先端をクリームに入れ、跳ねないように低速に切り替えて再びスイッチを入れる。お菓子作りの中でも、この作業は特に好きな工程だ。最初はただの少しだけ粘度のある液体だったものが、徐徐に自分の知っているクリームに変わっていくときの感覚を確かめるのが好きで、ひとり身で時間があるときは、それを長く楽しみたくて泡立て器を使っていた。道具と時間の使い方が変わっただけで、今でもそれは変わらない。
途中で中速に切り替える。モーター音も勢いを増して、聞きなれたそれに耳を傾ける。低く伝わる振動に、空気の漏れるような音が混ざる。一定のリズムで。故障かと、手を動かしながら先端を見つめるが、特段変わった様子もなく、クリームも順調におもたくなってきている。その間も止まない異音。だんだん音と音の間隔が短くなる。
違う。機械の音じゃない。知っている。これは――
「玲!」
玲のもとに駆け付ける、ハンドミキサーを放り出して。振動し続けるそれはキッチンの天板を生クリームだらけにするだろう。そんなことはどうでもいい。音は大きくなる。早く、苦し気に。
「おかあさ……」
か細い呼び声は喘鳴に遮られる。こちらを見上げる頬は涙に濡れていた。どうして気付かなかった。
「大丈夫、大丈夫だからね」
そっと頭を撫でて言い聞かす。そのまま抱き上げたい気持ちを堪えて立ち上がる。部屋のどこからでも取りに行きやすいよう、ローテーブルの中心に置かれた救急箱。吸入器の在処を、この子が生まれてから一度も忘れたことは無い。
薬を取り付けて吸い口を差し出す。慣れた動作のはずなのに、落ち着いていられたことは一度もない。玲が吸い口を咥えて、ゆっくりと息を吸う。
「大丈夫よ」
根拠のない言葉が本当になるように祈りながら、背中を撫でる。
「玲、落ち着いた?」
二階の子供部屋、梅雨の晴れ間の風がレースのカーテンを揺らす。ベッド脇に座る私の問いかけに、玲は頷く。幸い発作はすぐに落ち着いて、疲れてそのまま眠ってしまった玲も今しがた目を覚ましたところだ。布団をきゅっとにぎったまま、玲はあたりを見回す。
「おかあさん、はこんでくれた?」
「ふふ、そうよ」
答えて頭を撫でると、玲は嬉しそうに目を細める。けれど、すぐその表情が翳ってしまう。
「どうしたの?」
尋ねるけれど、彼女は俯いて、布団を握る自分の手から目を離さない。何か言いにくいことがあるのだろうか。怒られるようなことをしたとは考えづらいけど。
「あの、あのね」
消え入りそうな声に耳を澄ます。相槌を打ったらその声は霧のように散ってしまいそうで、黙ったまま。
「たのしいおたんじょうびにできなくて、ごめんなさい……」
どうして、そんな。
私は玲を抱きしめる。ほとんど飛びつくと言っても良かった。そんな悲しいことを言わないで。それが自分のエゴだと分かりながらも、それ以上聞きたくなくって。
「いいの、いいのよ」
「だって……」
腕の中で玲がしゃくり上げて、私のサマーニットの胸元が濃く色を変える。こんなときも、声を抑えて泣く彼女に、歯がゆくなる。
「ケーキもっ、つくってくれたのに……」
「大丈夫よ」
背中を撫でながら言い含める。実際のところ、ケーキは大丈夫ではなかった。玲が眠りに就くまでしばらくほったらかしにしていたケーキとクリームは誰かに食べてもらうにはいまいちで、自分の小腹が空いたとき用に切り分けておいてある。けれど、大丈夫だ。
「ケーキはまた今度作るから、今日は桃でお祝いしましょ」
幸い開封前だった瓶は、夕ご飯の後に備えてしっかり冷やしてある。何にもだめになどなっていない。玲のせいで損なわれたものなど、なに一つとして無い。
「玲が楽しいのが一番だから、ね。泣かないで」
頬を濡らしたまま、玲が頷いた。
つややかに照り映える桃を眺めていたら、あの日のことを思い出した。桃のケーキは数日後に延期だったけれど、喜ぶ玲の表情は今でも焼き付いている。それでも追憶はいつだって少し苦いけれど。
あのときのケーキと違った小ぶりなそれを、タルト台を崩さないようゆっくりと持ち上げる。クーラーバッグの中に並べた紙箱の上にそれぞれ載せて、味気ないかと思いながらラップをかける。桃のタルトが4つ。少し大きく作りすぎた気がしないでもないが、食べ盛りの女の子なら、ぺろりと平らげてくれるだろう。
リビングでは、支度を終えた玲が鞄の中身を確認している。支度と言っても、学校から帰ったときと同じ制服のままだけれど。
「大丈夫? 車で送っていこうか」
「ありがとう、でもくまちゃんが迎えに来てくれるって」
そう言って、玲は時計に目をやる。そろそろ約束の時間なのだろう。そわそわすることも戸惑うこともなく、ただ自然に、楽しみに待っている。そのことがただ、とてもまばゆい。
玲が、あの化け物と戦う。最初にそれを提案されたとき、私は耳を疑った。目の前のスーツの職員に、正気かと尋ねた。今だって、すべてに納得ができたわけではない。けれどあの時、玲の選択を跳ね除けていたら、私の腕の中で守るばかりだったなら、今の彼女の姿は無かった。閉ざさないでよかったと、今は思う。
チャイムが鳴る。玲が玄関にかけていくのを、私も追いかける。
「待って、これみんなで」
差し出したクーラーボックスを、玲は両手で受け取る。
「ありがとう、楽しみだわ」
そう頬を緩めたあと、ドアノブに手を掛ける。まだ何か足りていない気がして、私はつい声を掛けてしまう。
「大丈夫?」
空白を埋めるような、対象も省略した言葉。玲は合言葉を返すみたいに、自信満々に答えた。
「大丈夫、行ってきます!」
外の光が差し込んで、彼女の背中を縁取った。