この手を離さないで自室で目覚めたジョゼフは早くも異変を察知してため息をつく。
「…出たな」
ベッドから身を起こすと誰がいつの間に用意したのか一揃いの衣装がかかっている。普段着るものとまったく様子の違う、ジャージの上下が。
時折荘園主の気紛れで普段とは違う『催し』が行われることがある。
今回はラジオ体操とやらなのか、運動会とやらなのか。食堂に行けばいつもと同じ招待状に、いつもと違う内容が書かれているだろう。
「おはよう、ジョゼフ。ふふ、なかなか似合ってるじゃない!」
先に食堂にいたガラテアは初めて遭遇する事態にいささか高揚しているようだった。
「あら、おはよう!黒無常。朝から貴方が出てくるなんて珍しいわね!」
ジョゼフの背後に続けてガラテアが愉快そうに話しかける。
「おはよう、黒無常。…もしかして、白無常は」
ジョゼフが振り返って尋ねるとうつむきがちに立っている范無咎がぼそりと呟いて右手を少し持ち上げる。
「…居る」
范無咎の後ろに隠れるようにして、手を引かれて謝必安が居た。
「あらぁ!こんなことってあるのねぇ!他にも何か異変はあるのかしら!」
謝必安を認めるとガラテアはまた愉快そうに笑って、点検するように食堂のあちこちを眺めはじめた。
本来白黒無常は謝必安と范無咎の二人が同時に存在することは無い。傘を介して交代してひとつの体で闘っている。こうした荘園主の気紛れで行われる催しに際して何故か二人ともが存在することが、ごく稀にある。
繋いだ手がずっと震えている。
「…おはようございます、ジョゼフさん。すみません…」
そういうと謝必安はず、と鼻をすする。泣いている。
その様子にジョゼフはまたため息をつく。
「…すみません…目の前に、無咎が居るなんて。信じられなくて…どうしても涙が止まらなくて」
これでも謝必安は落ち着いている方だった。このような自体は確か四度目。いつのことだったか忘れるほど相当の過去。最初に異変が起きたときは相当取り乱していたし、催しの後、普段の様子に戻ると相当沈んでいた。
「…お前たち、朝食は」
「…喉を通りません」
「それなら、」
ジョゼフは2人の肩をぐっと押す。
「部屋に居ろ。まだ招待状は届いていないし、内容によってはしばらく待機する可能性もある」
「でも、」
「お前たちなら知ってるだろう。いつもと違うわけのわからない招待状の内容を理解することから時間がかかるし、おそらく作戦会議することになる。決まったら巡視者をやる」
「…良いんですか、すみません」
謝必安は深く俯いて泣いている。
「…助かる」
いつも無愛想に喋る范無咎も、何かを耐えるように更にぶっきらぼうに呟いた。
「早く行け。ジャックなんかに絡まれたりすると厄介だ」
二人を食堂から追い出したジョゼフは一段と深くため息をついた。唯一無二の存在と引き裂かれる心地は想像にかたくない。
その片割れの姿を目の前にした境地ははかりしれない。
自室に戻った2人は扉をしめたきり、そのまま動けないでいた。
「…あの、無咎、すみません。座っても…?」
「あぁ、すまない」
先に発言したのは謝必安だった。范無咎はそっと謝必安の肩を支えてベッドに座らせ、隣に自分も座った。きし、とベッドが沈む。自分の隣にもう一人が居る。
そんな何気ない仕種だけで二人は胸が一杯だった。
「…なんだか、うまく力が入らなくて」
まだ震え続ける謝必安の手をそっと范無咎が握る。
謝必安は両手を優しく、強く握る范無咎の顔をじっと見つめる。その姿は親しんだ懐かしい義兄弟の姿では無い。自らと同じく異形化してしまった姿でも、それは確かにずっと会いたかった范無咎であった。
「…無咎…会いたかった。こうして触れたかった」
謝必安は未だ震える手でそっと范無咎の頬に触れてみる。己の手にも、范無咎の頬にも体温は無いがそれでも何故か温かく感じてまた涙が溢れた。
「俺も、こうしてお前に触れたかった」
頬に触れる謝必安の手を取り、口許に引き寄せるとそっと口づけた。それから静かに確かめるようにゆっくりと謝必安の肩に腕を回して抱き寄せた。
「……」
何を言えば良いのかわからなかった。会いたかった。ただそれだけだった。触れ合えないとは言え、いつも文字通り二人でひとつだった。この荘園で異形化してからは離れることはなかった。もどかしいことはあれど対話は出来ていたので募る話というものがあるわけではない。
それなのに、目の前の存在に伝えたい気持ちが漠然と膨れ上がってどうしようもない。
「…無咎。少し、痛いです」
「すまない」
「いいえ、無咎を感じられて嬉しい」
少し体を離して改めて顔を見つめる。范無咎が謝必安の頬に触れると、謝必安はその手に自らの手を重ねた。
「……」
嬉しい。けれど素直にそう口には出せなかった。こうしていられる時間は長くない。喜びと感動と焦燥感がないまぜになって何も言えなくなる。
「…何か、したいことはあるか」
「…いいえ、ただ、無咎に触れられるだけで、こうしているだけで、もう…」
二人はただ、手を握りあったり、髪を撫でたりしていると、そのうちに廊下からチャッチャッと小さな足音が聞こえてきた。
「…支度をしましょう、無咎」
「ああ、どんな勝負だろうが俺たちが勝つぞ、必安」
再び食堂に着く頃には、こうして二人で並んで歩くことが当然のような心地になっていた。そうだった。ずっとこうして過ごしていた。
「巡視者、ありがとうございます。お待たせしました」
二人の顔を見て、ジョゼフはふぅ、と息をつく。
「少しは使えそうだな」
「負ける気がしませんよ」
荘園主の気紛れなゲームは玉入れから始まる。