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    ※現代パロ
    ※俳優(28)×舞台の臨時アルバイトスタッフ(15)
    ※前座が長いです

    またもや九年間の存在しない現代パロなので、苦手な方はご注意ください。
    恵視点でほぼほぼ前座ですのでそっと読み流していただけるとありがたいです。
    書くのはめちゃくちゃ楽しかったです!

     一目惚れというものを信じるだろうか。
     テレビで見た俳優とか道端ですれ違った人など、対象は誰だっていい。条件は一つ。『その人の人となりを知らない状態で、一瞬で恋愛感情を持つこと』。その条件を第一前提とした場合に、果たしてこの質問に『信じる』と答えられる人がこの世に何人いるだろうか。答えられるなんて、よほど惚れっぽいか、運命的な繋がりを心から信じているかのどちらかだだろう。
     もちろん俺は一目惚れなど信じていない。そもそも元から恋愛ごとに興味がないということも大きいが、どちらにせよ、たった一目、その人から得るたった一つの情報だけで恋愛感情を抱くなんて、あまりにも馬鹿げた話だ。

     まぁ、特別容姿が優れているわけでもない、普通の学生生活を送っている俺にとっては全くもって関係のない話だ。だからこんな言葉について、今まで考えたことすらなかったというのに。
     何故俺は今になって、こんな思考を巡らせることとなったのだろうか。
     その答えを唯一持ち合わせているであろうその人を見下ろしながら、俺は一瞬で回転させきった頭のまま、もらった言葉への返答を舌の上へと乗せた。



    「……舞台監督ですか」
    「助手な。といっても、テレビで見るような監督業とは全然違ぇぞ。舞台の助監はなんつーか、あれだ。小間使いだ」
    「はぁ、小間使い」

     本の中でしか見聞きしたことのないような単語に、思わずおうむ返しをしてしまう。そんな俺の前に座る真希さんは、横に置いたカバンの中からプリントの束を取り出すと、それらをザァ、とテーブルの上に広げた。一番目に付く表紙に書かれているのは舞台のタイトルと会場となる劇場名。ついで下から覗き見えるのはざっくりとしたタイムスケジュールと持ち物だけである。

    「舞台監督に指示された雑用をこなしていくって感じだ。テレビのADを想像したら分かりやすいか? そこの小物片付けろとか、役者呼んでこいとか、緞帳開けとか」
    「いや、緞帳開くのは雑用じゃないでしょ。すげぇ重要じゃないですか」
    「大丈夫だよ、ボタン押すだけだし」
    「不安しかねぇ……」
    「まぁ、適当にやればいいさ。とにかく男手が必要なんだと」
    「はぁ……」

     広げられたプリントを手元に引き寄せ、一枚ずつ目を走らせていく。そこに書かれている内容はやはり未知のものばかりで、バイト料に釣られたとはいえ、安請け合いしてしまった自分を若干呪った。だが、そんな俺を見ながら真希さんは口元を緩ませるばかりで、こちらの困惑を含めて楽しんでいるようにさえ思えてくる。いや、実際そうなのだろう。だが今更そこを指摘することもできないため、俺は手元にあるマグカップを引き寄せて中のコーヒーを一口含む。未だ熱を持ったそれは、いつものように俺の精神を穏やかに塗り替えていった。

     真希さんは俺と同じ学校で一学年上の先輩だ。だが、それとは別に父方の親戚筋の人でもあるため、実際は入学前からの交流の方が関係性が強い。父親は勘当に近い状態で家を出たらしく、俺はあまり詳しい話も知らないのだが、実は父親と真希さんの実家は相当な資産家であったらしく、様々な事業展開などを行なっている。らしい。その中の一つにあるのが劇場経営であり、今度新たに設立した劇場のこけら落とし公演があるのだという。
     その公演に携わるスタッフが、運の悪いことに集団で食中毒を起こしたというのがつい昨日のこと。立ち上げたばかりの劇場では突発的なスタッフの手配も行えず、主催側も手一杯、流れに流れて真希さんを経由し俺のところまでお鉢が回ってきたということだ。

    『結構デカめの公演だからな。コヤ入りとゲネで二日、本番三日を含めて合計五日間の拘束。それでバイト料がコレだ』

     昼休みに突然現れた先輩から見せられた金額は、先日父親が賭博でスってきた金額を遥かに超えるものであった。『光熱費の支払い間に合うかな』なんて姉から聞かされたばかりのこの状態で、まさに渡りに船であったその話に食いつかないわけがない。
     結果、明日から始まるというバイトの内容を説明するためと連れてこられた喫茶チェーン店にて、俺は一人頭を抱えることとなったわけである。

    「まぁ大丈夫だろ。お前器用だし」
    「いや、マジで力仕事頼まれるだけだと思ったんですよ……なんですか、このバミリ補助って」
    「ん? あー、役者が舞台に立つ時の目印付けだよ。役者ごとに色を分けてビニテ貼るやつ」
    「これ絶対男じゃなくていいですよね」
    「まぁほら、セット組み立てるとかもあるしな。大丈夫だって、適当にやれよ」
    「適当にやっていい内容じゃないでしょ、これ……」

     そう、適当にやっていい内容じゃない。そう判断できるのは、重ねられたプリントの最後の方に書かれた『出演者』欄にある。
     大して芸能ごとに興味がない俺でも聞いたことのある名前がずらりと並ぶそのリスト。その人たちが今回、俺がバイトをするという舞台に立つ出演者だというのだから、頭を抱えるのも致し方がないだろう。些細なミス一つで莫大な金が飛んでいきそうだ。いや、むしろ指示された内容をすぐに行動に移せなかっただけで怒号が飛んでくるかもしれない。
     まぁでも、これだけそうそうたる出演陣だからこそ、不足したスタッフの補充にも俺が呼ばれたのかもしれない。だってこれ、一番上に書かれてる人なんて、なんかすげぇ女性人気が高いとかなんとか聞いた気がする。

    「恵が全くの初心者だってことは向こうにも伝えてあるから。ま、そこそこにやってこい」
    「……っす」
    「あ、ちなみにこの人、業界じゃ有名な鬼監督だっていうから気をつけろよ」
    「は」
    「ははっ、冗談」

     そう言うと真希さんはカバンの紐を引っ張り上げて席を立つ。冗談の度合いが分からないと視線を反らせないままでいると、ご自慢のポニーテールを揺らしながら、何度目か分からない「大丈夫だよ」をかけられる。

    「今回限りのアルバイトだ。ま、うまく稼いでこいよ」

     そうして背を向けた彼女は左手をひらひらと振りながら店の外へと出ていく。残された俺は、テーブルの上に置かれたプリントの束を再び見下ろし、ため息をついた。
     ──不安だ。不安しかない。
     そう思いながらも、アルバイトとしての五日間が始まるのはもう明日に迫っている。ならばせめて、下手なミスだけはしないようにしなければと、俺はプリントに書かれた文章と専門用語であろう単語をひたすらに頭の中へと叩き込んで行く。
     そうして店を出る頃には、マグカップの中身はすっかりと冷め切っていた。


    * * * * * * * * * *


     そうして迎えたアルバイト初日。
     劇場の入り口で真希さんへと話を通したらしいスタッフの人と落ち合い、諸々挨拶を済ませて助監としての仕事を進める。あれだけ意気込み、プリントだってほぼ丸暗記に近い状態で臨んだ。持ち物も服装も指定された通りに整え挑んだ初日の作業がつい先ほど終わり、現在帰路についているところである、のだが。

    「……普通だったな」

     一人きりの夜道、誰に聞かせるでもない本音がポツリとこぼれ落ちる。
     そう、予想に反して仕事内容が普通の雑用だったのである。俺に仕事の指示を出す立ち位置である舞台監督は、真希さんの言った冗談とは真逆の、非常に穏やかな男性であった。俺が舞台の何も経験のない初心者であることを分かった上で、指示出しもとても丁寧なものだった。
     舞台といえど、これも芸能の世界だ。もっとピリピリした空気感を想定していたため、若干の肩透かしを喰らった気さえする。まぁ、今日が役者の入りのない、完全裏方作業日であったことも要因の一つではあろうが、それにしたって平和な職場であった。
     この調子なら残りの四日間も恙無く終わりそうだと気を抜いてしまいそうになるが、必死で自分を律して力を込める。いや、そうそう上手くいくなんて限らない。何せ明日から役者が入り、明後日からは観客を入れた本番の始まりだ。緊張感も責任感も、今日の比じゃないものに変わるだろう。
     だから、今日のところは上手く動けた自分を程々に労わりつつ、明日からの仕事にまた気を向けるのが正しい行動だろう。
     家賃、食費、光熱費。
     魔法の言葉を並べながら、俺は暗くなった住宅街をひたすら歩く。そう、明日からが勝負だ。俺は真っ直ぐに家へと向かいながら、今日もまた暗記したプリントの中身を頭の中で思い返し続けた。

     そして気合を入れて臨んだ二日目であったが、これまた拍子抜けしそうな仕事内容であった。
     いや、最初は柄にもなく緊張したのだ。出演者である役者はもちろん、舞台設置に関係のなかった音響・照明スタッフ、ついで演出家なども朝からフルでいるという状況、下手なミスなど決して犯せないとそこそこに気を張っていた。だが、スタッフに初心者が紛れるというのは日常茶飯事なのか、はたまた集団食中毒の話が効いているのか、適度な緊張を保ちつつも、俺に対する風当たりは決して悪くなく、むしろ気遣いの言葉までかけてもらえるというフルサービスだ。
     へぇ、学生さん。じゃあ本当にアルバイトだね。
     あぁ、僕の立ち位置バミる時は爪先のあたりに少しで大丈夫。
     あ、この場面は暗転時だから蓄光でお願いできる? そう、その一番細い、白いテープ。上から透明テープで重ねてあげてね。
     これでもかというほど丁寧に指示してくれれば、ミスだってそうそう起きるはずもなく、俺の作業はかなり順調に終わらせることができた。もちろん、全員が全員そうだったというわけではない。この舞台の主演俳優などは、俺が足元をバミる時、足元をずらすことはもとより、こちらに視線を向けることすらなかった。この人も爪先の手前あたりがよいのだろうと判断して、いざビニールテープをちぎって貼り付けようとしたタイミングで片足だけ後ろにずらされる。その行動に一瞬ぽかんとしてしまうも、明らかに空けられたスペースに、俺は慌てて指先のテープを彼の足の間、土踏まずが乗るあたりの床へと貼り付けた。バミリが完了したことの合図として袖へ捌けた俺に対して、その人も特に言葉をかけることはなかったから、多分あの位置であっていたのだろう。
     そう、本来はそれが通常なはずだ。他の役者たちがあまりにもフレンドリーだったものだから面をくらってしまっただけで。
     そしてバミリ──立ち位置確認を終えると、役者陣は舞台上から捌け、再び楽屋へと戻って行った。この後に行われるゲネプロ、つまり本番前のデモンストレーションに向けての準備であろう。
     結果、誰もいなくなった舞台上で照明スタッフによる最終調整作業が行われる中、やることのなくなった俺は舞台袖で一人、壁にもたれたまま立ち尽くしているというわけだ。
     他のスタッフたちは客席に座ったり、あとはロビーで談笑するとかしているようだけれど、単身一人で乗り込んできた身としてはどちらも躊躇されてしまい、一人暗闇に隠れている方が気楽だと思ってしまった。念のためと、ウェストポーチの中にしまっていたタイムスケジュールを取り出して眺めるけれど、照明チェックが終わった後もまた音響チェックが続くため、その後のゲネプロ開始まで俺の仕事は何もない。であれば、誰の目にも止まることのない、この袖幕の裏手でぼうっとしているのがちょうどよかった。

     一つ一つが新鮮な時間であった。もともとテレビはもちろん、こういった舞台などの芸術に触れたことがとんとなかったものだから、どんどん出来上がっていくセットや照明の色の移り変わりなど、初めて見るものにただただ圧倒され続けた。あとは舞台から見る景色。舞台上に立つ人間から見える客席なんて、一生縁がないものであったはずだった。そんな経験ばかりが積み重なっていくこのアルバイトは、きっと一部の人にとっては喉から手がでるほどやりたいアルバイトなんだろうなとは思う。興味のない俺でさえ、今度何か舞台を観てみようかなんて思ってしまうほどなのだから。
     いい経験になった。いや、本番は明日からなのだからまだ早いが、舞台の幕が上がってしまえば正直、俺の仕事もただの雑用係となる予定である。(緞帳の開閉は舞台監督が自分自身でやるらしい。これは非常に安心した)
     だから今日は、この後あるゲネプロでの立ち回りを含め、しっかりと仕事をしていこう。そんなことを思っていると、耳につけたシーバー用のイヤフォンから舞台監督の声が聞こえてきた。

    『伏黒君、いますか? いたら舞台まで上がってきてください』

     突然の呼び出しにハッと意識が傾く。やばい、もしかして仕事を飛ばしてしまっていただろうか。何か指示された作業が抜けてしまっていたか? 壁から背中を離し、慌てて舞台袖から壇上へと飛び出ると、客席に座っていた舞台監督が「あ、そこにいたの」と柔和な笑みを浮かべた。

    「っ、すみません、俺なんか飛ばしてましたか?」
    「え? あ、ううん。ちょっと頼み事がしたくて呼び出したんだ。休憩中にごめんね」
    「あ……そうですか、よかったです」

     ひらひらと手を顔の前で振る仕草に、思わず安堵の息がこぼれ落ちる。本当によかった、ミスがあったわけではなかった。いや、でもここで焦ってしまうぐらい気が抜けていたということだ、後でもう一度スケジュールとメモを確認しておこう……そう思っていると「それで、頼み事なんだけど」と言葉を続けられ、慌てて背筋を伸ばす。

    「音響さんがチェックの手伝いをしてほしいらしくて。お願いできますか?」
    「あ、はい。もちろんです」
    「ありがとう。じゃあ、後よろしくね」

     いつの間にか照明チェックが完了し、音響の時間へと移っていたらしい。舞台監督の前の席に座っていたらしい女性は、立ち上がると舞台上まで上がってきて俺に黒い機械を手渡してきた。箱型で掌サイズのそれからは細いコードが伸びており、その先端は小さく盛り上がっている。

    「はい、これ」
    「? なんですか、これ」
    「役者につけるピンマイク。これの集音と出力のレベルをそれぞれ調整したいから、基準値を測るのを手伝って欲しいの」
    「マイク……」

     それだけ言うと女性は舞台を飛び降り、再び元の席へと戻っていく。俺は手渡されたそれをまじまじと見つめた。マイクなんてカラオケに置いてあるもののイメージしかないから、これがマイクだと言われてもいまいちピンとこない。つまりはこの、コードの先端部分がマイクの集音箇所になっているのだろうと予測して、俺はその根元、コードの部分を摘まんで待機した。すると、女性は席に置いていたらしいマイク(こちらはとても見覚えのある形をしていた)を手にし、俺へと指示を出し始める。その音は劇場内にわん、と大きく響き渡った。

    『じゃあ、何か適当に喋って』
    「適当に……あー、あー……あー」
    『文章』
    「……あ、あいうえお、かきくけこ、さしすせそ」
    『止めるまで続けて』

     突然の指示に思わず頬がひくり、と震える。突然何か喋れとは、なかなかな無茶振りではないだろうか。いや、タイムスケジュールで区切られたチェック時間だ、きっとてきぱきとチェックを済ませなければいけないのだろう。俺はひたすらあいうえおを頭から口にし続け、んまで辿り着いたらまた最初からやり直すを繰り返し続けた。
     その間、客席に座る音響スタッフは、シーバーを通して何か指示を出しているようだった。俺の喋る声が劇場に響き、突然大きくなったかと思うとすぅっと小さく絞り込まれる。その音の変わり用を耳にしながら、俺は再びあいうえおから言葉をやり直した。

     止めるまで続けろと言われたこの発声は、いつまで経っても終わる様子がみられなかった。さすがにあいうえおを続けることに疲れた俺は、ウェストポーチの中にしまっていたプリントを引っ張り出し、頭から音読をするという作業へと切り替える。かれこれ五分ぐらいは喋り続けているんじゃないだろうか。こんなに喋っているのはきっと人生で初めてだろうと、またもや初めての体験にぼんやりとしているところで、ようやく『ストップ』の声がかかる。ほっと息を吐いて、俺は喋り倒して疲れ切った口を解放するべく、頭をぶんと左右に振った。これで手伝いも終わりだろうとマイクを持ったまま舞台から降りようとしたところで、女性は再び『ストップ』と声を上げた。

    「え」
    『次、歌って』
    「……え?」
    『歌。こっちでインスト流すから、それに乗せて適当にメロディーつけて』
    「…………え?」

     突然の無茶振り、その二である。いや、だが今度は無茶振りのレベルが高すぎた。歌えとはなんだ。それも適当にメロディーをつけて?
     いや、きっとこれも限られた時間の中で必要なチェック作業なのだろう。それにしてもだ、歌はないだろ、歌は。役者ならともかく、俺は一介のアルバイトスタッフだ。そこに歌を求められても普通応えられるわけがないだろう。
     だというのに、女性は無慈悲にもマイク越しに『音流して』とスタッフへ指示を出してしまい、舞台に設置されたスピーカーから軽やかなカラオケ曲が流れ始めてしまった。こうなってしまったらもう俺に止める手立ても、逃げ出す手段もありはしない。初めて会った人の前で、こんな舞台上でスピーカーから歌声を流せとは、なんという羞恥プレイだ。
     だがもう流れてしまったものは仕方がない。どうせ音響チェックだ、誰も聞いていないことを祈るしかない。はぁ、とバレないように息を吐いた俺は、覚悟を決めてマイクを摘まむ手に力を込める。そうして聞こえてくる音楽に乗せて、適当に浮かんだメロディーをマイクへと吹き込んだ。



     たった数分の時間が、まるで永遠のように長く感じられた。客席からの視線はスルーするために目を閉じたまま歌い続けてしまったため、どんな反応をされたかなんて分かったもんじゃない。ただ、自分の歌声がスピーカーから流れてくるというのは、想像以上に恥ずかしいものだということを思い知らされただけだった。フェードアウトするように音楽が消えていったため、今度こそ俺はお役御免であろう。熱くなった頬はこの舞台照明の熱が強いせいだということにさせてほしい。
     未だ音響の女性から指示は飛んでこないが、これでもう一度と音楽を流され出したらたまったものではない。ここはさっさと舞台を降りてマイクを返してしまおう。そう思い、俺は閉じていた目を開き、舞台から降りるためとヘリまで足を進めた。

    「ねぇ」

     突然かけられた声に、動き出していた足が止まる。それは音だけのせいではない、俺の進む先、降りようとしたその場所に、先ほどまでいなかった人が立っていたからである。
     舞台に両腕を置き、こちらを見上げてくる男性。その見覚えのある顔に、俺は小さく息を飲んだ。
     この世界に疎い俺でも知っていた人。出演者のリストの中、一番上に名前が書かれていた人。この舞台の主演俳優。
     五条悟、その人だ。

    「ねぇ。君役者?」

     何故この舞台の主役様がここにいるのか。いや、この後休憩を挟んでゲネプロが始まるのだから、いたって別に不思議ではないのだけれど。いや、じゃあなんでわざわざ客席に座らず舞台の前まで来て俺に話しかけてくるのか。言葉を発するのも億劫で、ただただ意味不明なその行動に、俺は首を振って否定の意を示す。
     いいえ、違います。なのでどいてください。
     首振りだけでその意図が伝われば良いのに、その人は「へぇ」とだけ言って動く気配がない。一体どうしたものか。とにかく俺は、次なる無茶振りをされる前にこのマイクを返したいだけだというのに。
     飛び降りれないのならば、舞台の傍に備え付けられている階段を降りて客席に出ればいいのに。冷静な頭ならすぐにその答えに行き着けたはずだが、いかんせん突然の出来事続きで疲れ切った頭ではその発想に辿り着けない。ただただ、目の前にいる男性が早くどいてくれないかと願うしかできないまま、ゆっくりと時は流れていった。
     だが、その流れは男が発する言葉によって唐突に止められることとなる。

    「君、一目惚れって信じる?」

    「…………は?」
    「一目惚れ。その人となりを知らないで、ただ見ただけで恋愛感情を抱く行為」
    「いや……意味は分かります、けど」
    「じゃあ、信じる?」
    「……信じないです」
    「だよねぇ。僕も信じない」
    「あの、なんですか、これ」
    「いや、嘘。信じなかった。あ、いや、どうだろう? 一目じゃないんだよね。一聴?」
    「はぁ?」

     ぽんぽんと続けられる言葉に、相手が芸能人だということも忘れて怪訝な表情を返してしまう。なんだこれは、雑談か何かだろうか。それともアンケート? いや、何故このタイミングで。一向に現状が把握できないままだが、固まってしまった体がようやく通常通り動かせるようになったため、俺は迷いなく彼へ『そこをどいてほしい』と告げられる精神状態になれた。今だ。口を開き、そう言葉を発しようとした直後。だがそれはまたもや唐突に発せられた男の言葉によって堰き止められてしまった。

    「僕、君の歌声に惚れたみたい」

     予想だにしなかったその言葉に、俺の口は開いたまま閉じなくなってしまう。驚き、困惑、呆然、理解不能。様々な感情が渦巻く中、劇場のスピーカーから聞こえてきた吹き出し声は、おそらく先ほどの無茶振り音響のものだ。今にも爆笑しそうなその声が劇場内で反響する中、男は──五条悟は、俺を見上げたまま視線を外すことがなかった。

    「ねぇ、僕と付き合ってよ」

     固まったまま動けないでいる俺に、畳み掛けるように言葉が紡がれる。思わず凝視してしまったその顔は、やはり俺の知る芸能人その人であった。だが発せられる言葉が何一つ俺の知るものではない。
     わけがわからない。手元に持ったままになってしまっているマイクも、目の前に立つ男性も、何もかも。分からないまま、ただ手首につけた腕時計の秒針だけがカチカチと時を刻んでいた。その音に促されるように、ゆっくりと戻ってくる思考回路のまま、俺はその人を見下ろしつつ瞬きをする。そうしてゆっくりと、今言われた言葉を頭の中で反芻していった。

     一目惚れというものを、信じるだろうか。


    「いや、付き合わないです」
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    ytd524

    DONE※ほんのり未来軸
    ※起伏のないほのぼのストーリー

    伏から別れ切り出されて一度別れた五伏が一年後に再結成しかけてるお話。
    akiyuki様が描かれた漫画の世界線をイメージしたトリビュート的な作品です。
    (https://twitter.com/ak1yuk1/status/1411631616271650817)

    改めまして、akiyukiさん、お誕生日おめでとうございます!
    飛ばない風船 僕にとって恵は風船みたいな存在だった。
     僕が空気を吹き込んで、ふわふわと浮き始めたそれの紐を指先に、手首にと巻きつける。
     そうして空に飛んでいこうとするそれを地上へと繋ぎ止めながら、僕は悠々自適にこの世界を歩き回るのだ。
     その紐がどれだけ長くなろうとも、木に引っ掛かろうとも構わない。
     ただ、僕がこの紐の先を手放しさえしなければいいのだと。
     そんなことを考えながら、僕はこうしてずっと、空の青に映える緑色を真っ直ぐ見上げ続けていたのだった。



    「あっ」

     少女の声が耳に届くと同時に、彼の体はぴょん、と地面から浮かび上がっていた。小さな手を離れ飛んでいってしまいそうなそれから伸びる紐を難なく掴むと、そのまま少女の元へと歩み寄っていく。そうして目の前にしゃがみ込み、紐の先を少女の手首へとちょうちょ結びにした。
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