パイロット 誰かに名前を呼ばれたような気がして、わたしはまぶたを持ち上げた。
どっしりと重いカーテンが掛かった窓の向こうから、ざざ……と打ち寄せる波の音が聞こえてくる。
そうだ、ここは家じゃない。わたしの部屋じゃない。
今は休暇中で、数日前から家族に連れられて海沿いにあるグループの別荘へ来ていることを、わたしは思い出した。
今夜もパーティーで、退屈な挨拶ばかりさせられて(何年も先の話なんて知らないわ!)、でもお客様の中に見知った顔があったからそれなりに楽しくて。
ゆっくり首を動かしベッドサイドへ目を向ける。そこには、同じこども部屋のひとつ隣のベッドで眠っていたはずのシャディクが、パジャマ姿のまま立っていた。
シャディクの肩越しにぼんやり見える大きなホールロックの針はどうやら真夜中を指しているようだ。まだ眠たい目をこすりながら身体を起こし、わたしは「こんな時間にどうしたのよ?」と小声でシャディクに訊ねた。
「ミオリネ。今から温室へ星を見に行かないかい?」
「星?」
突飛な提案にわたしは首を傾げる。
明かりを落とした部屋の中でもシャディクにっこり笑うのが分かった。
「今夜はアクエリアスの方角から、数え切れないくらいたくさんの星が降るんだ。ね、ミオリネも見てみたくない?」
わたしは目を見開いてシャディクを見た。
数え切れないほどのお星さま! そんなの、見たいに決まってる!
だけど――
夜空を流れる星に興味をそそられた一方で、心配なこともあった。
「でも、こんな夜中に十歳と九歳の子どもだけでベッドを抜け出したら、叱られちゃうんじゃない?」
「それは誰かに見つかった場合の話だろ。大丈夫。俺がついているから心配いらないよ」
誰も知らない秘密の抜け道を知っているんだと、シャディクが胸を張る。
「俺は君と一緒に星を見たい。あの星空を君に見せたい。ね、どうする?」
シャディクに問いかけられて、わたしはこっくり頷いた。
「うん。わたしもあんたと一緒にお星さまを見たいわ」
ベッドから抜け出し、パジャマの上に空色のガウンを羽織る。さあ、行こうかと差し出されたシャディクの手に、わたしはそっと自分の手を重ねた。
*
廊下を抜けて、階段を下りる。わたしも知らない(この別荘には毎年来ているのに!)小さな扉を抜けて、暗いお庭も抜けて、わたしはシャディクと手をつないで温室へ向かった。
「あんた、どうしてこんな道を知ってるのよ?」
「『秘密の抜け道』だから、それは秘密だよ」
笑ってごまかされちゃったけど、すごいすごいすごい! 真夜中の冒険みたい!
シャディクが言った通り、わたし達は誰にも見つかることなく温室へたどり着いた。夜風は少しひんやりしていたけれど、ガラスの扉を引いて温室の中へ入ると、そこは外よりもあたたかい空気に満ちていた。
お花の香りが漂う温室を中ほどまで進む。そこは少しひらけた場所になっており、猫足のテーブルを囲うように籐の椅子が置かれていた。シャディクは籐椅子から大きなクッションを三つ四つばかり取ると、タイルが敷かれた床に並べて置いた。
「ここに寝転がると空がよく見えるんだ」
ふかふかしたクッションにすっぽり身体を横たえるシャディクを真似て、わたしもクッションの上に寝転ぶ。夜空を仰いで、わたしは「わあ……」と感嘆の声を漏らした。
大きなガラスが張られた、高くてまあるい天井の向こう側、どこまでも広がる群青色の天幕に銀色の星々がちりばめられていた。時折きらめく筋になっていくつもの星が空を流れていく。
「きれい……」
うっとりつぶやくと、わたしの隣でシャディクがふふっと笑う気配を感じた。
「何よ?」
「気に入ってもらえたみたいでよかったなあって。今夜のパーティーで、退屈そうな顔をしていただろ」
「だってお父さんったら、お客さまに挨拶ばかりさせるのよ。何度も何度も、嫌になっちゃう。将来のために慣れておけとか何とか、そんな何年も先のことを言われても、わたし知らないわ」
「おじさんなりに考えがあってのことだと思うよ」
「だとしても……」
言いかけて、仰向けになったままわたしは首を横に降る。
「この空の下でそんな話をするのは勿体ないわ。この空を見ていると、あんたがわたしにこの空を見せたいって思った気持ちがよく分かる。もしもわたしがあんたなら、わたしもあんたにこの空を見せたい、見てほしいって思うもの。連れてきてくれてありがとう」
と、指の先に子猫のようなぬくもり。わたしの手を覆うようにシャディクが自分の手を重ねたのだ。――シャディクの手って、こんなに大きかったかしら。
ちらりと視線をシャディクに向ける。睫毛が長い、そんじょそこらの女の子よりも可愛らしい横顔。だけど今夜のシャディクはいつもと違い、思わず見とれてしまうほど凛とした雰囲気をまとっていた。
「ミオリネ、俺は――」
何かを決意したような眼差しで空を見上げて、シャディクは言葉を継いだ。きっぱりと、迷いのかけらもない力強い声で。
「俺はいつか、りらの花よりも美しい翼で空を駆ける操縦士になって、あの空の向こうまで君を連れていく」
「シャディク……」
息を飲んでわたしはシャディクの横顔を見つめた。
ふいに、胸の中にきらきら輝く星が飛び込んできたような心地がした。幸せの流れ星。わたしの胸に落ちた星は無数の小さなかけらになって、わたしの血に溶け込んで、わたしの全身に幸せな気持ちを運んでいく。
「何年も先の話をしてしまったね。忘れてくれて構わないよ」
「そんな……、忘れたりなんかしないわ」
シャディクの手の下で手のひらを上に向ける。鏡のように重なる手。指を絡めてきゅっと握る。星降る空を見上げながら、わたしはすうっと息を吸い込んだ。
「――絶対に連れていってくれる?」
「ああ」
「どこまでもよ? 約束よ?」
「うん」
「破ったら許さないんだから」
「そんなことにはならない。決してね」
「じゃあ、待っててあげる。あんたをずっと待っててあげる。だから、あんたの翼で、どこまでもどこへでも、わたしを連れていくのよ」
遠くに聞こえる波のざわめき。
鏡に映したようにシャディクがわたしの手を握り返す。彼が頷く気配と同時に、ひときわ美しい星がひとつ、夜空を流れていった。