夢の栞 頬に触れる冷たい空気が夢と現実を混ぜるようにして、晶の意識が浮上する。重みのある布団に籠る熱に、微かな落胆と未練が晶の胸に落ちた。それを飲み込むように、晶はぱちり、ぱちりと緩慢に瞬く。部屋の温度だけが夢の続きのようで、けれどそれ以外の何もかも、景色も匂いも夢のそれとはまったく異なっていた。
これでもかと掛けられた毛布の隙間から這い出るようにベッドから降りる。熱を溜め込んだ身体をひやりと空気が撫でて、晶はぶるりと背を震わせた。布団の上で丸まっていたサクリフィキウムが、に、と小さく鳴く。返事の代わりにその頭を撫でてやれば、猫をかたどった使い魔はふわりと浮かんで晶の肩に乗った。
部屋の隅、小さなクローゼットを開いて薄手のカーディガンとストールを寝間着の上に巻きつける。晶は開かれたクローゼットの取っ手に手をかけたまま少し考えて、サクリフィキウムにも短いストールを一枚巻いてやった。……姿かたちが猫に似ているだけ。寒さを感じるような生き物ではないとわかってはいるものの、晶はそのようにしたかった。
晶の首を覆うそれよりもよほど丁寧に巻き付けられたストールに、サクリフィキウムがちょいちょいと触れる。動きにくそうにしながら、けれどストールを振り払うことはしなかった。晶は小さく笑って、ストール越しの毛並みを撫でる。それから、部屋の空気をたっぷり吸いこんでいるカーディガンを体温に馴染ませるように、二の腕を擦りながら廊下へと出た。
静かな静かな廊下を渡る。窓から見える景色は仄暗く、まだ夜が明けていないことを示していた。眠る誰かを起こしてしまわぬよう、あるいは夜と朝の狭間に出歩いていることを誰にも見咎められぬよう、慎重に歩く。魔法使いたちの私室が並ぶ廊下を抜け、エントランスのほど近くまで辿り着くと自然と晶の肩から力が抜けた。絨毯が敷き詰められているのをいいことに、ほんの少しだけ大胆に足を運ぶ。己と使い魔の他には誰の気配もなく、歩く音すら響かない。何となく、宙に浮かんでいるような気持ちだ。踊り出したくなるような、地に足がついていないかのような。焦燥と呼ぶにはずっと曖昧で危機感のない、微かなざわめきが朝靄のように晶の心を覆っている。
玄関から、魔法舎の外に出る。つんとした空気が喉を擦って、胸の奥を満たしていく。溜め込んだ熱を削られるような感覚が、しかしどうにも心地いい。思わず、はあ、と息を吐いた。吐息は透明なまま景色に混じり、熱ごとほどけていく。
行き先を決めないまま、晶は建物を離れた。魔法舎のすぐそば、魔法使いたちが散歩に出かけたり、訓練に使ったりする森へと足が向かう。
シノやレノックスによって整備された小道を歩く。時々、わざと草むらをかき分けるように道を逸れれば、朝露が寝間着の裾をさらさらと濡らした。今にも雨が降り出しそうな匂い。そういえば、ここ数日は雨続きだったらしい。ふと頭上を見上げるも、いまだ朝日の昇らぬ空は暗闇に沈んでいて、雲の有無はよく見えなかった。
ざ、ざ、と土を擦る音だけが晶の耳を揺らす。音なく魔法舎の廊下を歩いていたときとは真逆の、得も言われぬ安堵と、たとえようのない寂しさが湧き上がる。まるで、世界に自分しかいないかのような高揚と孤独。きっと、晶は面影を探して歩いているのに、目に映るのは真新しい記憶ばかりだった。
はあ、ともう一度深く息を吐く。冷えた肺から送り出された呼気が、かろうじて上唇を温める。……寒いな。素直に、そう思った。
首元の使い魔に触れることを躊躇する程度には冷えた指先。朝露が少しずつ染み込んでかじかむ足先。防寒具というには頼りないカーディガン。それでも、晶はまだ自室に、魔法舎に戻ろうとは思わなかった。もう少しだけ、この冷えた空気の中を漂いたかった。
「……賢者!」
静寂が砕ける。ひとりと一匹だけの世界に声が割り込む。晶は肩を揺らして、ゆっくりと振り返った。
「――――――」
声の主を探す必要はなかった。珍しくも見開かれた深紅と視線がかち合う。十歩ほど離れた木のそばにオズがいた。晶の歩を止めた声の鋭さはどこへやら、オズは晶の顔を見て虚を突かれたかのように固まっている。
「……オズ?」
ぱちん。瞬きをひとつ。シャボン玉が弾けるような小さな衝撃とともに、晶の心がようやっと地に足をつける。
どこかおぼつかない響きで名を呼べば、魔法使いも我に返ったようだ。口元を引き結び、ざくざくと大股に草をかき分けて晶のすぐ正面までやってくる。
晶と向かい合ったオズは眉間に皺を寄せて、けれど晶を見下ろすばかりだ。その肩が、ほんのかすか上下していることに晶は気づく。いついかなる時も泰然としている彼の珍しい変化に、無垢な疑問が晶の心を撫でた。
黙したままのオズがおもむろに手を伸ばす。ぬるい指先が晶の赤らんだ頬に触れた。暮秋の外気に晒され続けた肌は、放置された陶器のよう。オズがいっそう表情を険しくする。
「…………体が冷えている」
何度か言葉を飲み込むような沈黙の後、オズは溢すようにそう言った。かさついた手のひらが晶の右頬を包む。決して高くはない体温がじわりと浸透する感触に、分け与えられていると晶は思った。
熱の境界が完全に溶け合う前に、オズの手が離れる。半端にぬくもった頬がまた元通りになるのは少し惜しくて、晶は己の手で頬に触れた。熱を閉じ込めるように包んでも、そもそもが冷え切った手のひらだ。せっかく与えてもらったものを手放すのが早くなるだけだと、晶はあっさりと手を下ろした。
ばさり。羽ばたく翼のような音を伴って、落ちた晶の肩に熱が触れる。重力がほんの少し、強まる感覚。己の身体を見下ろせば、今しがたまで晶の目の前にあったはずの衣服が寝間着を覆っているのが見えた。顔を上げると、威圧感をやや削ぎ落としたオズが腕を組んで晶を見ている。
「……着ておけ」
オズはぶっきらぼうに言った。
晶ははっとして、今しがた被せられた彼の外套、その合わせをぎゅっと両の手で握る。次いで、オズを見上げてぶんぶんと首を振った。
「だ、だめです。オズ、風邪引いちゃいますよ!」
「私にとってこの程度、寒さのうちにも入らない。おまえこそ、病み上がりなことを忘れたか」
「うっ……それを言われると……」
痛いところを突かれて晶はたじろぐ。……オズが指摘する通り、晶は病み上がりだった。季節の変わり目にやられたか、日頃の疲れが出たか、あるいはその両方か。少しばかりたちの悪い風邪にかかって、昨日ようやく熱が引いたばかりだった。
フィガロにも他の魔法使いたちにも、しばらくは安静にしていろと言われたのに、こうして夜明け前に薄着で出歩いている。そのことを後ろめたく思う晶はそれ以上なにも言えなかった。
後悔と、申し訳無さが膨らむ。北の国、それも最も厳しい最北の城で過ごしていた彼であれば、確かにこの程度寒さのうちに入らないのかもしれない。けれど薄いシャツとベストばかりを纏うオズは、どうにも寒々しく映る。
そうだ、と晶は己の首に手を伸ばした。部屋を出る際に適当に巻き付けたストールをほどいて、軽くはたく。
「じゃあ交換しましょう。せめて首元だけでも温かくしてください」
「……私は寒くなどないと」
「私も、オズのコートのおかげで寒くありません。はい、失礼しますね」
半ば無理やり、オズの首にストールを通す。オズは納得のいかないような顔をしつつも、力で晶を止めることはしなかった。晶にされるがまま、髪と、首筋にふれることをゆるす。……この魔法使いは存外、押しに弱い。
丁寧に巻き付けられるストールを、宙に浮かんだサクリフィキウムが覗き込んでいる。薄暗がりにぼんやりと浮かぶ金の瞳と深紅の瞳。ましろいストール。森の一部ではないもの。
巻き終えたストールから手を離して、晶はゆっくりと息を吐いた。行き場をなくした両の手で外套をつまむ。裾が地面に触れぬよう、指先が震えぬよう。オズを見上げたまま、晶はぽつりと言葉を落とした。
「……夢を見たんです」
オズの眉がぴくりと震える。けれど、それ以上の変化はなかった。肯定も否定もない態度に、内心安堵して晶は言葉を続ける。
「元の世界にいた頃の、思い出でした。友達とカラオケでオールした時かな……どういう経緯だったかは、あまり、思い出せないんですけど」
「…………」
「友達と別れて、家に帰ろうと夜明け前の道を歩いていて……ついこの間まで暖かいと思っていたのに、寒くて、空気が澄んでいて。雨もちょっとだけ降っていて。いつも塀の上でお昼寝してる猫はどこにいるんだろうとか、遠くの山にかかっているのは雲なのか霧なのかとか、いつもと違うことが気になって」
思いつくまま追いつくまま、言葉が零れていく。伝えることよりも吐き出すことを優先した話ぶりは、普段の賢者のそれと異なる。……甘えているのだと、晶自身わかっていた。
「いつもは、ずっと何かの音がしている街も、夜明け前はすごく静かなんだって気づいて……。歩いているうちに夜が明けて、でも街中だから朝日は見えなくて。周りの家やビルが段々、明るく色が変わって……それで夜が明けたんだなって実感するのが、何だかとても不思議で」
オズは黙して、ただ晶の話を聞いた。晶の話は、オズにとっては意味のない夢の欠片であり、徘徊の言い訳であり、それでいて彼女の最も深いところに触れてしまうようなものだった。オズは今、意図せず暴いてしまった彼女の静寂に招かれている。
「ちょうど、自分の家の前に帰ってきたタイミングで、お寺の鐘の音が聞こえて。ここに住み始めてそれなりになるのに、近くにお寺があることをその音で思い出して……今度お参りに行こうかなと考えながら家の扉を開けて――そこで、目が覚めました」
そこまで話して、晶はずっと上向いていた頭を下ろした。ついぞ逸らされなかった深紅が視界から失われて、森をひとり歩いていた時のような、どうしようもない気持ちに陥る。散々踏まれて土にまみれた落ち葉が足元に沈んでいるのが見える。
「すみません……」
「何故、謝る」
ほろりと落ちた謝罪さえも受け止められて、晶はいよいよ言葉を詰まらせた。
……夢からはもうずっと前に覚めていて、高揚も未練もとっくに冷めている。自分は何がしたかったのか、何を求めて部屋の外に飛び出したのか、今となってはあやふやだ。少なくとも、こうして誰かに心配をかけてまで行うことではなかったと、冷えた晶は思う。
満たされない何かがあったとして、きっと明日には忘れてしまうのに。
「晶」
名を呼ばれる。役目の名ではない、晶個人を指す名前。いつもならするりと、ともすれば喜びさえ伴って返事ができるはずなのに、冷え固まった喉はそれを許さない。心だけが、いまだ眠りについているかのようだ。目が、濡れた土と砂利の細かな輪郭ばかり追っている。
コートの裾を握りしめていた手に、先ほどのかさついた熱が触れる。……怒らせてしまっただろうか。面倒だと思わせてしまっただろうか。何であれ、晶にはどうしようもなかった。晶でさえ、晶の心の内がわからない。心の内にいる、言葉をもたない晶の正体が掴めない。
「晶、顔を」
黙したまま世界から目を背けて、いかほどの時間が経っただろう。オズが、囁くように晶を呼んだ。
急かすような声ではない。輪に入れないでいる子どもの背を押し撫でるような、ささやかな誘いだ。
握り込んだ手を解かれる。オズの指先が、下からすくい上げるように晶の手を取って引いた。頬に触れた時と同じ温度。それに絆されて、晶はゆっくり顔を上げた。
「…………あ」
弱々しい、けれど影ばかり見つめていた晶の目には眩しくうつる光が、魔法使いの輪郭を半分、照らしている。光と彼の境界を馴染ませるように、瞼が勝手に瞬いた。ずっと、晶を見守っていたらしい眼差しに導かれるまま、空の端を見る。
滲むように広がる薄明。雲はなく、光を遮っているのは森の木々のみ。その木々も、色を思い出すかのようにじっくりと時間をかけて明るく染まっていく。夜が明けたのだ。
「……猫なら、木のうろと……森の入り口にある小屋に集まっている」
質朴さの滲む声が朝の空気を揺らす。隣を見れば、いつのまにか魔道具である杖を手にしたオズが、いつもと変わらない表情で晶を見下ろしていた。波打つ曙光が、彼の瞳の上を跳ねている。
「雨は……今は降らせない。これ以上冷やせば体に障る」
ぽつぽつと脈絡なく言葉が落ちてくる。オズが口を開くたびに、かちりかちり話題が変わる。
「この時期、魔法舎の北にある山脈にかかっているのは雪雲だ。降雪があれば、遠目には霧のように見える」
ああ、と晶は声なく息を吐いた。不器用に編まれた言葉だ。けれどその裏側にある思いを察せられないほど、晶は愚鈍でもなければ、彼のことを知らないわけでもない。
「おまえの体調が戻ったら、連れて行ってやろう。雲を掴める山頂へ。鐘の音が響くあらゆる場所へ。……この世界の中であれば、どこへでも。おまえが求めるものに出会えるまで」
真摯に言葉が紡がれる。声には、誠実ないたわりと、ほんの微かな無力が乗っていた。……世界一の魔法使いであっても、晶の夢を完全に再現することは叶わない。晶がどれだけ詳細に語ったとしても、魔法を使ってその記憶を垣間見たとしても、きっと、オズが本当の意味で彼女の夢を理解しうることはない。
オズと晶の間には、いつだって見えない線があった。生まれた世界。育った環境。魔法使いと人間。永く世界と共にあるさだめと、瞬きの間に過ぎ去るいのち。
けれどその線が亀裂となりふたりを隔てるクレバスとならないのは積み重ねてきたからだ。知りたいと願う心を。信頼を。たとえ理解できないものであったとしても、それを大切にするあなたを大切にしたいという思い。無力を晒してでも、己にできることで慰めてやりたいという祈り。
……晶の身体に知らず籠っていた力がすっと抜ける。焦りも、不安も、その形をとらえることすらできなかったのに、どうしてか、もう大丈夫だという安堵だけは知覚できた。
繋がれたままの手を、自らの意思で握る。思わず、息がもれた。朝陽に濡れる森は、コンクリートの街とは何もかも違う。けれど、晶だってここにいていいのだ。
オズを見上げる眼差しが、こもれびよりも頼りなく、やわらかい光を宿す。それを見て、オズがほんの僅か目を瞠った。交錯する視線が、これ以上の言葉を必要としないままお互いを満たす。
オズが、微かに笑みを浮かべた。安心させるような、安心したような笑みを。
……熱がすっかりとけあった手を引いて、オズは歩き出した。つられて踏み出した晶の足が、さくりと音を立てて地面に吸いつく。弾かれるような高揚も、宙から降りられないような不安も、今はない。ぼやけていた足は輪郭を取り戻し、この世界の土を踏みしめる。
「そろそろ戻るぞ。……昔、アーサーも熱が下がったからと外に飛び出して、半日もしない内にぶり返したことがあった」
「……ふふ、ちょっとだけ想像できますね。じゃあ、私も今日は部屋でゆっくりするとして……オズ、よければ今度はあなたの話を聞かせてくれませんか? 北の国で暮らしていた時のことでも、魔法舎に来てからのことでも、何でも」
「…………おまえの部屋で、おまえが休むまでの間であれば」
森の入口、魔法舎へと続く小道を辿りながら、ゆっくりと他愛のない言葉を交わす。静謐を揺らすふたりぶんの足音。見守る金の瞳。晶はオズの隣を歩きながら、そのすべてを今朝の夢に挟んで、心に仕舞う。
――きっと、ずっと覚えている。はじめて触れた冷たい熱を。さかしまの月夜を。風がすさぶ中庭を。共に唱えた呪文を。そして今、線の上で伸ばしあった指先を。花に降り積もった雪をとかすような、あたたかないたわりを。