冬にねむる春 ――おはようございます賢者様! 今からお出かけですか?
――おはようございますアーサー! はい。お城に書類を出しにいかないといけなくて……
――そうでしたか。城へのものでしたら、私が出して参りましょうか?
――アーサーはさっき帰ってきたばかりじゃないですか! お城の騎士の方たちが迎えにきてくださるので大丈夫ですよ。
――彼らなら安心ですが……
――はい! なので、アーサーはゆっくりしていてください。久しぶりのお休みなんでしょう?
――お気遣いありがとうございます。……そうだ、賢者様。今夜、中央の魔法使いの皆で集まって、パジャマパーティーをするのです。よろしければ賢者様もいらっしゃいませんか?
――わあ、楽しそう! けど私がいていいんですか?
――もちろんです! なんでも、今日はリケがお茶を淹れてくれるそうなのです。ネロと練習をしていたらしく、オズ様やカインや私に成果を見せるのだと言っていました。賢者様にも見ていただけたら、きっと喜ぶでしょう。
――そうですか、リケが……じゃあ、パーティーに間に合うように帰ってこないとですね! お誘いありがとうございます、アーサー。とっても楽しみです!
――私もです! 賢者様が戻られるまでに、完璧なパジャマパーティーの支度を整えておきますね!
◆ ◆
狭い路地を縫うように駆ける。日がほとんどあたっていない地面は、ぬかるんでいたりごみが散らばったりしていて、何度も足を滑らせそうになった。けれど追いつかれるわけにはいかないと、晶は一心不乱に足を動かす。
中央の国、その都でありながらここはいやに静かだった。市場の喧騒は遠く、人の気配もまた少ない。知らずしらずのうちに、ずいぶんと寂れた場所に誘い込まれてしまっていたようだ。「あれだけ知らない人間にはついていくなと言っただろう!」と、晶の脳内で過保護な呪い屋が声を上げたが、すべては後の祭りだった。
背後からは複数人の足音と、時折がしゃんとモノを倒すような音が絶えず聞こえてくる。晶は背後を振り返らず、胸元の紙袋をぎゅっと抱え込んだ。はっ、はっ、と息を切らしながら走る。
……ほんの一時間ほど前。グランヴェル城での用事を終えた晶は、中央の国の市場に立ち寄って買い物をしていた。魔法舎まで送ると言う護衛の騎士たちと馬車を大丈夫だと説き伏せて、途中で降ろしてもらったのだ。
日没まではまだ少しの時間があって、午前ほどではないにしても市場はまだまだ活気づいていた。朝、魔法舎を出る前に誘われたパジャマパーティー。その準備をしているであろう魔法使いたちに、何かお土産を買って帰りたいと考えたのだ。馴染みの菓子屋やかわいらしい雑貨を売る露店を気の向くままにまわる。これだという品に巡り会えた頃には、空がすっかり赤く染まって、道行く人もまばらになっていた。
「それ」が近づいてきたのは、そろそろ帰らなければと、晶が市場を後にしようとした時だった。
――あんた、賢者様だよな!? 助けてくれ、もう間に合わないかもしれないんだ!
そう言って縋りついてきたのは三十歳前後とおぼしき青年だった。晶の腕を強引に掴んで、こっちだと街のはずれへと連れ出そうとする。突然のことに驚いた晶は、助けを求める青年に手を引かれるまま走った。
「依頼であれば手続きを踏んでから」「いまは魔法使いがいないから力になれるかわからない」など、晶は走らされながらも青年と対話を試みた。しかし青年は、「一刻を争うんだ」「魔法使いの力は必要ない、賢者が必要だ」などと言うばかりで、晶の腕を離そうとしない。こっちが近道だからと路地に入って、どんどん人気のない場所に進んでいく青年に晶もようやく危機感と懸念を覚えたが、その時には時すでに遅し。連れ込まれた路地の奥は袋小路で、複数人の男が晶を待ち構えていた。
後からわかった話だが、男たちは近頃になって力をつけはじめた、ゴロツキあがりの盗賊だった。当然、晶をここまで連れてきた青年もその一味である。ある商人に雇われたという彼らは、はじめから賢者の身が目的だったのだ。
男たちは仲間が連れてきた「賢者」を見ると、口々に馬鹿にし、見縊る態度を取った。こんなものが賢者なのかと、侮る声にはどうしようもない油断がある。晶は緩みきった男の手を力いっぱい振り払うと、肩から下げていたポーチに手を突っ込んだ。細い持ち手と、冷たい球体。ほんの一瞬の迷いの上、手に取ったのは球体の方だった。薄青のそれを男たちの足元めがけて叩きつければ、薄暗い路地裏で白い光が弾ける。もしもの時の目眩ましとして、魔法使いがもたせてくれていた魔法具だ。本来は魔獣用のそれは、人間相手にも十分な効果を発揮した。
怒号を背中に感じながら、晶は走った。黄昏時、街のはずれとはいえ、ここは中央の国の都だ。大通りにさえ出れば多少の人通りはあるし巡回する憲兵だっている。そこまで逃げれば、何とかなるはずだと考えた。ポーチの中、取りそこねた細い取っ手が脳裏をよぎったが、小さく頭を振って思考の隅に追いやる。幸い、追手の足音はまだ遠い。これに手を出さずとも、何とかなると判断した。
心臓が胸から飛び出しそうなほど跳ね回っているのがわかる。吸い込んでも吸い込んでも酸素が足りないと肺が痛む。晶を騙した青年がずっと走っていたのは、人目につく前に事を運ぶ意図に加え、獲物を疲れさせるためでもあったのだろう。こちらの世界にきてから多少体力がついたものの、特別鍛えているわけでもない身体は、何十分も走り回れるようなつくりはしていない。
もつれそうになる足を必死に動かして、迷路のような路地をひたすらに駆ける。角を曲がって大通りからの光が見えたのと、背後から「いたぞ!」と叫ぶ声が聞こえたのはほとんど同時だった。
これなら間に合う――晶の希望を嘲笑うように、力を振り絞った右足がずるりと滑った。
「わぁっ!」
がしゃん、と派手な音を響かせて晶は転倒した。すぐに立ち上がろうと地面に手をつくも、滑った右足がずくりと痛んで叶わなかった。
背後からの足音がすぐそばで止まる。転倒の衝撃でポーチから飛び出した「それ」に伸ばそうとした手が、容赦なく踏みつけられる。
「手間かけさせやがって……鬼ごっこは終いだ、賢者サマよ」
息を荒げた賊の一人は、晶の手を踏みつけたままそう言った。ばたばたと他の男たちも続々と晶に追いついて、周りを取り囲む。やってしまった、晶はそう思った。彼らの目的は知らないけれど、きっとろくなことではない。賢者に危害を加えるのが目的にせよ、賢者を攫うのが目的にせよ、大きくは変わらない。すぐそばまで迫った恐怖と、迷惑をかけてしまうであろう人たちへの申し訳無さがぐっと喉をしめた。
四方から鬱憤をぶつけるように、手が伸びてくる。衝撃に備えるよう、晶はぎゅっと目を瞑った。
「――――――」
……それは雷鳴の音にかき消されて、賊たちの耳には届かなかっただろう。けれど晶にははっきりと、形ある音として聞こえた。炎を噴き上げる直前の活火山のような厳かさと、怒りをかたどった、その呪文を。
大砲のような突風が晶のすぐ頭上を通って、空間ごと周囲のものを吹き飛ばす。重いものが壁に叩きつけられる音と、短い悲鳴がそこかしこで上がった。
かつん。決して大きくない音が、路地の隅から隅までを駆ける。初夏の空気が、一瞬にして真冬のそれへと塗り替わる。晶は、閉じたままだった瞼を開いた。
……氷が、路地を埋め尽くしている。地面も壁も賊も、何もかもを凍てつかせている。晶の周りだけが、切り取られたように元のままだ。いまだ整わない息が、口から溢れる度に白く染まった。
路地の奥にはひときわ大きな氷が形作られていて、そこにこの景色を生み出したものが立っている。鈍く光る杖の先には、うめき声を上げる生き物がいた。四肢を氷の結晶に飲まれ、壁に磔にされた男――先ほどまで晶の手を踏みつけていた男だ。
杖を握った魔法使いが口を開く。冷ややかな呪文が今度こそ賊の耳にも届く――
「オズ!」
――その前に、半ば叫ぶような声が魔法使いの名をかたどって、遮った。
……男の方に杖を傾けたまま、首だけを動かした魔法使いが晶を見る。その瞳の色に、晶は思わず身体をこわばらせた。真っ赤な瞳はぞっとするほど温度がないのに、そのくせぐらぐらと煮え立っている。これから、この場所に撒き散らされるものを暗示するように。
「オズ、だめです、それ以上はだめ……! 私なら大丈夫ですから!」
「…………」
オズは何も答えなかった。ふいと視線を晶から男へと戻す。男へと向けられたままの杖が、微かに光を放ちはじめる。
「オズ!」
ずきんずきんと痛む足に鞭をうって晶が立ち上がる。けれど背をまっすぐに立てたところで、とっくに限界を迎えていた膝ががくりと力を失って、身体が傾いた。
「わっ……」
崩れるように、倒れる。身体が地面と接触する寸前、真横から伸びてきた腕が晶の腹に回った。間一髪のところで、身体を支えられる。
おそるおそる腕の先をたどれば、路地の奥にいたはずのオズが晶のすぐ横に膝をついていた。煮える瞳が、ほんのわずか安堵に揺らぐ。
オズは無言のまま、晶を地面に座らせた。呪文もないのに風が吹いて、晶の身体と、晶が座り込んだ地面から泥を払っていく。
「……痛むところは」
オズの口からようやく言葉が落ちる。少し不自然なほど、平坦な声だった。
「ええっと……足を捻ったみたいで、ちょっとだけ痛いかも……?」
困ったように晶が言えば、オズは不愉快げに目を細める。白々しい、と言わんばかりの表情は晶の罪悪感と後ろめたさを煽ったけれど、結局オズはそれを言葉にはしなかった。小さく、晶にだけ聞こえるように呪文が唱えられる。同時に、きらきらとした光が晶の身体に降り注いで、脈打つようだった痛みがましになる。捻った足首だけでなく、踏みつけられた手首と、擦りむいた膝の痛みまで。
「あ……痛くない。ありがとうございます、オズ」
「一時的なものだ。魔法舎に戻り次第フィガロに診せる」
オズは素っ気なく言った。それから、晶の背後へと目を向ける。つられるように晶も振り返れば、そこには先ほど拾おうとした、もともとは晶のポーチに入っていたベルが転がっていた。あ、と晶の口から音を伴った息がもれる。さっきから晶の胸をゆうらりと包む後ろめたさが、一気に重さを増した気がした。
……不意にふわりと風が吹いたと思うと、ベルがひとりでに持ち上がる。ふわふわと宙に浮かんだベルはゆっくりとこちらに飛んできて、晶の目の前で動きを止めた。受け止めるように両手を差し出すと、大人しく手の中に落ちてくる。繊細な装飾が施された、赤くてかわいらしいベル。
「何故」
すぐそばからの声に、晶は顔を上げた。ベルと同じ色の瞳が、問い詰めるように晶を射抜く。
「何故それを使わなかった」
……それ、というのはベルのことだろう。このベルは、ただのベルではない。魔法のベルだ。世界最強の魔法使いを呼び出すことのできる、魔法のベル。
晶にこれを渡したのは、目の前の魔法使い本人に他ならない。悪意ある者の手に渡れば彼自身に害を成すかもしれないそれを、何かあれば使えとひとこと添えて晶に預けてくれたのだ。すべては、晶の身を守るために。
「ごめんなさい……」
「謝罪はいい。理由を聞いている」
けれど使われなければ意味がない。そのことを、オズは怒っている。晶はここにきて、彼の怒りが自分にも向けられていることをようやく理解した。
「なんとかできるかなって思ってしまって……中央の皆さんは今日お休みですし、夜の準備もするって聞いていたので、邪魔しちゃうかなって……」
自分で言っていて、浅はかな言い訳だと晶は自嘲した。けれど本当に、あの時はそう思ってしまったのだ。
せっかく全員揃っての休みに、夜にはパーティーの予定。多忙でなかなか魔法舎に戻ってこれないアーサーも一日オフという貴重な日が今日だった。そんなタイミングで、オズを突然呼び出してしまうのは少しだけ気が引けた。他のみんなと一緒にパーティーの準備をしているかもしれないし、もしかしたらアーサーとゆっくり過ごしているかもしれない。いつか身体を壊してしまうんじゃないかと心配になるほど頑張りやさんな王子様が、一番心安らぐであろう時間を晶は知っている。それが、目の前の彼にとっても大切な時間であることを。
一度脳裏に浮かんだ可能性は、晶の指に迷いを生んだ。幸い相手はただの人間で、ここは中央の都。晶ひとりでも何とかできるはずだと思ってしまった。それがどれだけ甘い考えで、過ちだったのかは、今の晶を見ればわかることだ。
「おまえは全能の神ではない。手の内に方策がありながら、それを使わないのは愚か者のすることだ。己の能力と状況を見誤るな」
「はい、その通りです。すみません……」
叱責に言い返せるような言葉もなく、晶はうつむく。情けなさと、申し訳なさで、オズの顔をまともに見ることができなかった。
……オズがどうしてここにいたのかはわからない。けれど偶然というわけではないのだろう。大方、帰りの遅い晶を心配した若い魔法使いたちを宥めるために、探しにきたに違いない。素直にベルを使っていたほうが、よっぽど手間をかけなかっただろう。身体はもうどこも痛くないのに、後悔が晶の胸の内側をじくじくと突き刺す。
「……それにかけられた魔法は、それほど強いものではない」
不意に、オズが言った。悩むような声だった。まだ顔をあげられない晶は、耳だけを彼の言葉に傾ける。
「私の意思を無視して呼び出すものではない。応えるかどうかは私が決める。……だから、そのようにおまえが気にする必要はない」
途切れ途切れにゆっくり紡がれた言葉を聞いて、晶はそっと顔をあげた。うかがうようにおそるおそる、オズを見上げる。先ほどよりも幾分やわらかさを取り戻した瞳には、呆れと、気遣うような色が滲んでいた。
「何かあれば迷わず使え。私の力が必要な時でも、不要な時でも構わない。そのために、おまえに預けたのだから」
オズはそれだけ言うと、晶を抱えて立ち上がった。不慣れながらも紡がれた言葉は、間違いなく晶への思いやりと心配からくるものだ。それをオズ自身が自覚しているかはわからない。けれどその無自覚な情を、晶は敏感に感じ取った。ぎゅっと、自らを抱える男の服にしがみつく。大切に思われていることが嬉しくて、それを大切にできなかった自分がかなしかった。
オズは晶の背をゆるく叩いて、それから小さく息を吐いた。かつてのオズであれば、このように誰かに心を揺らされることを決して許しはしなかっただろう。オズの心は二千年もの間、凍りついたように凪いでいて、それをとかしたのがあの幼子だ。解け落ちた心から現れたものを拾っているのがこの娘だ。
……動き始めた心を、オズの心を動かすものたちを、煩わしいと思うことがないわけではない。目が離せないから何かと手をかけているのに、心配も焦燥も募るばかりで減ることがない。けれど、その煩わしさをオズはどうしてか手放せずにいる。オズを揺らすこの生き物を、手放せずにいる。
「オズ、ごめんなさい。心配、いっぱいさせてしまって」
「もういい。…………おまえが無事でよかった」
そっと囁かれた言葉は、きっと精霊たちにも聞こえていない。今はまだ、彼に抱えられてその首元に頭を預けた晶だけのものだ。