春にとける檻 それはたとえるなら、少しぬるめのお風呂で揺蕩っているときのような。あるいは、自分より大きなふかふかのパンケーキに身を沈めたかのような。あたたかで、甘やかな心地。少しだけ怠惰で、手放せないくらい愛おしい時間。……夢と目覚めの狭間で、晶はそんな幸福を味わっていた。
呼吸の度に肺に満ちる空気はすこし冷たい。芯までぬくもった身体にはちょうどいいようにも思えたが、あいにくと今日はもっと温かくなりたい気分だった。瞼をおろしたまま、すぐ隣で横になっている熱のかたまりにすり寄る。決して高くはない、けれど確かなぬくもりがじわじわと伝わって、知らず口角が上がった。
このまま溶けるように眠ってしまおう、そう胡乱な頭で考えていると、不意に冷たい空気が流れ込んできて頬を撫でた。思わずきゅっと眉間に皺が寄る。せっかくいい気分だったのに、と抗議するように頭を熱にこすりつけた。そのまま、冷気から逃れるように、布団の奥を目指して潜り込む。最も心安らぐ場所はどこかと手探りで探して、やがて広くてあたたかい胸元に落ち着いた。頭を預けて深く息を吸うと、彼の匂いが胸いっぱいに満ちて、心までぬくもる心地がする。わたあめに埋もれるような甘やかな幸福を手放したくなくて、晶はオズの寝衣の裾を控えめに握り込んだ。
そのままうとうとと微睡んでいると、そっと身体に腕が回されたのがわかった。かたちを確かめるように、弱い力で抱きしめられる。世界中の誰よりも強い力をもつこのひとは、手加減というものがどうしようもなく苦手らしかった。晶がどれだけ平気だと伝えても、繊細な硝子細工を扱うように触れてくる。昔――晶とオズが賢者とその魔法使いでしかなかった頃――は、よく言えば大胆に、悪く言えば少々ぞんざいに触れることもあったというのに。
晶とオズは同じひとの形をしているけれども、本質的にはまったく別のいきものだ。オズよりずっと幼くて、そのくせオズよりずっと早くに死んでしまういきもの。魔法使いの加護がなければこの地で生きていくことも難しい、弱くて脆いいきもの。それが晶だった。
だから、オズの恐怖にも似た危惧を理解できないわけではない。晶が生まれたての仔猫に触れるとき細心の注意を払うように、オズもまた晶を壊してしまわないよう気を遣ってくれているのだろう。……そのことを嬉しいと思う時もあれば、寂しいと思う時もある。だって晶は脆くて弱いけれども人間で、決して仔猫ではないのだから。
微睡みに身を委ねながら、意識をほんの少し耳に集中させる。とく、とく、と規則正しい心音が微かに聞こえた。彼は時に魔王と恐れられる魔法使いだけれど、心臓の音は晶と何ら変わらない。その上、晶とオズは同じ食べ物を分け合えて、言葉を交わして心を繋げることもできる。ならばオズが思うほど、自分たちは離れたいきものではないと、晶は半分眠りながらも思うのだ。
ふと、抱きしめる腕に力がこもった気がした。閉じ込めるような動きがかえって心地良くて、意識が本格的に夢の世界へと切り替わっていく。密着した身体からはほのかに甘い香りがして、晶は久しぶりに彼のつくるパンケーキが食べたくなった。
……目が覚めたら、朝ごはんにパンケーキを焼こう。二人で食べたいのだと伝えれば、きっと彼も手伝ってくれるはずだ。数時間後のやり取りを想像して、晶はそっと意識を手放した。
◆ ◆
冬の空気が肺に満ちて、オズの意識は眠りから引き上げられた。
一度、二度瞬いて、微睡みをふるい落とす。視線だけを窓の外に向けると、ほのかに白む空にちらちらと細かな雪が舞っていた。北の国、それも最北のこの地には似つかわしくない、穏やかな冬の朝だった。
オズの魔法によって適温に保たれているはずの室内はほんの少し肌寒い。しばらくかけ直していなかったので、魔法に綻びができていたのだろう。目覚めたばかりのオズの眉間に皺が寄る。
この地で何千年と暮らしてきたオズにとってはこの程度寒さのうちにも入らないが、彼女はそういうわけにもいかない。オズと共に暮らしているのは人間、それも年若い娘なのだ。オズが気にとめないような些細なことでも、彼女には脅威となるかもしれなかった。
魔法で部屋を温めるべく、オズが小さく口を開く。呪文を吐息に乗せようとしたまさにその時、オズは己の首のすぐ下で熱のかたまりがもぞもぞと身じろぐのを感じた。子どものように高い体温が、衣服ごしに触れ合った場所から広がっていく。
オズは魔法を中断して、己の身体を覆う上掛けをめくった。すると案の定、晶がオズの首元に頭を寄せて寝息を立てていた。その寝顔の穏やかさに、思わず息を呑む。
上掛けをめくった際に入り込んだ外気が気に入らなかったのか、晶がきゅっと眉間に力を込めた。むずかるようにオズに頭をすり寄せて、もそもそと布団の奥の方へと入っていく。より良い場所を求めて身じろぐ身体は、やがてオズの胸元で動きを止めた。一度だけ深く息を吸って、安らかな寝息が再開される。きゅう、とオズの寝衣の裾が弱い力で掴まれて、小さな皺をつくった。
晶はくぅくぅと、穏やかな顔で眠りこけている。まるで、ここが世界一安全とでも言うような、呑気で、間の抜けた、春の花みたいな寝顔だった。
魔王と恐れられる男の懐で、よくもまあそんな顔を晒せるものだと、オズは息を吐く。吐息にこめられたのは呆れだけではない。むずむずとした心地がオズの心の一等やわらかい場所を引っかいては撫で回していた。その感覚をごまかすように、オズは胸元のぬくもりをそっと抱きしめる。生活を共にすることですっかり染み付いた己の匂いと彼女本来の匂いが混ざって、この上なく心を満たしていく。
……いつか、このぬくもりも匂いも、穏やかな寝顔も何もかも、失われる日が来るのだという。その日のことを考えるとオズは決まって、胸の内に氷を詰め込まれるような、あるいは逆に腹の底から燃やされるような、乖離した苦しみに襲われた。そして思うのだ。景色を氷の中に閉じ込めるように、この人間のことも、どこか遠い、運命すらも手が出せない場所に閉じ込めて隠してしまいたい、と。
執着も愛着も、必ずしも良いものだけをもたらすわけではないと、オズは身をもって知っている。だからこそ、これ以上大切なものなんて持ちたくなかった。思い出を何度も火に焚べてはその灰に縋るような、あんな思いは二度とごめんだった。……それなのに、同じことを繰り返そうとしている。
けれどもう手放せないのだ。仮に晶と出会った日に戻れたとして、オズはもはや彼女が傍にいない未来を選択できない。これから先、彼女が元の世界に帰る方法を見つけたとして、それを許してやることができない。アーサーに向けるものと同じだと思っていた執着は、その中身が致命的なまでに違っていた。いつかこの手から零れ落ちてしまうというのなら、己しか知らない場所に隠して、どこにも行けないようにしてしまいたかった。
不意に、オズの腕の中で大人しくしていた晶が身じろぐ。唸るような声がわずかに聞こえて、オズは彼女を抱きしめる腕に知らずしらずの内に力が入っていたことに気がついた。はっとして力を緩め、顔を覗き込む。意外なことに、晶の寝顔は穏やかなままだった。むしろ微笑すら浮かべている。何やらもにょもにょと口を動かしていて、先ほどの声もオズが危惧するようなものではなく、単なる寝言のようだった。
晶に対して仄暗い執着を向ける恐ろしい魔法使いの腕の中で、はたして彼女はどんな夢を見ているのだろう。ほんの少し興味が引かれたオズは少し身体をずらして、彼女の寝言に耳を傾けてみた。タイミング良く、晶が笑って小さく口を開く。
「……ん……ぱん、けーき……」
「……………」
「……おず、にも……いっぱい……」
これでもかというほど大きなため息が出て、オズは全身から力が抜けるのを感じた。パンケーキ。かつて世界を混乱に陥れた悪名高い魔法使いの腕の中で見る夢がパンケーキときた。なんという人間だろう。オズは先ほどまで胸を支配していた仄暗い感情も忘れて、つい喉奥で笑ってしまった。
「……おまえはいつも、私が考えもしないことばかり口にするな」
誰に聞かせるでもなく、オズはそう呟いた。触れた先からほろほろと崩れる、砂糖菓子のような声だった。
……いまだむにゃむにゃと夢の世界にいる晶を見て、いまはまだこれでいいと、そう思った。今このひと時だけは、どこか遠い場所ではなく、この腕の中に彼女を閉じ込めておきたかった。
オズは晶を起こさないように慎重に体勢を変えて彼女を抱き込んだ。そのまま、晶が己にしたことを真似るように、彼女の頭に鼻先をほんの少しすり寄せてみる。ほのかに甘い香りがして、オズは先ほどの寝言を思い出した。
外はまだ夜が明けたばかり。もう少しだけ眠って、目が覚めたら朝食の準備をしよう。夢で散々見たであろうものをつくったら、晶はどんな反応をするだろうか。彼女の驚いた顔を思い浮かべて、オズはそっと瞼をおろした。