こうなるなんて聞いてない! 晶の恋人である魔法使いは、感情表現があまり得意ではない。
感情が薄いというわけではないが、口下手な上、顔にもあまり表れないので、何を考えているのかわからないと言われることが多々ある。二千年もの間、外界とほとんど関わることなく過ごしてきた彼は、他者に己の気持ちや考えを伝えるということがどうにも慣れないようだった。
しかし、情や優しさを知らないわけではない。彼の一等大切な養い子や、その友人たる子どもたちを見ている時の眼差しには確かな慈愛が滲んでいる。まるで暖炉の火のような、ぬくく穏やかな愛情をもつ人なのだと、出会ったばかりの頃に晶は知った。
そんな彼の気質は、晶が彼の恋人となってからも変わらない。二人が恋仲になったのだと魔法舎中に知れ渡った日はそれはそれは大層な騒ぎになったが、発覚から日が経つにつれ、別の疑惑と心配が魔法舎でひそかに囁かれるようになった。……すなわち、恋仲であるはずの二人が、まったく恋人らしくないというものである。
この二人ときたら、傍から見ている方が不安になるほど今までと変わらないのだ。任務中はもちろん、魔法舎で過ごしている時であってもいつも通り。甘やかな雰囲気を醸し出すこともなければ、そもそも二人きりでいる姿を見かけることもない。一応、夜に晶が彼の部屋を訪ねているという目撃情報もあったのだが、これについてはフィガロから、二人してただ茶を飲んでいるだけという情報が上がっている。実際、中央の生徒たちが夜に彼の部屋を訪ねると、暖炉の前でのんびりと茶を飲んでいた二人に迎えられ、そのまま茶会に招かれたという。
……他の魔法使いの手前、節度を守っているといえば聞こえはいいが、それにしても雰囲気がなさすぎではなかろうか。言葉にはせずとも、そのような心配を抱く魔法使いは少なくない。
晶自身、消極的な恋人に不安を感じない時がないわけではなかった。波乱万丈、紆余曲折、数々のトラブルと偶然の果てに恋人同士という関係に収まったが、彼も本当に今の関係を望んでくれているのか。もっと言えば、彼が恋人同士という関係を理解できているのか怪しんでしまう時もある。
それでも、以前よりいくらかやわらかくなった眼差しと労りを受ける度、晶の心は勝手に跳ねて、小さな不安を弾き飛ばした。好きな人が、自分を見てくれている。愛を囁かれることはないが、晶が告げる拙い愛の言葉を受け入れてくれる。キスどころかハグだって数えるほどしかしたことはなかったが、晶は満足だった。
願わくば、この穏やかで心地良い幸福が少しでも長く続くように――そんな晶のささやかな祈りは予想外の形で破られた。
◆ ◆
(どうしてこんなことに……!)
ぱちぱちとすぐ傍で弾ける炎の音よりも近く、小さなリップ音が晶の耳元に落ちる。思わず逃げるように身をよじれば、腰に回った腕が逃さないとばかりにぎゅっと力を強めた。晶よりもずっと大きな背が丸められて、腕の中に捕らえたものをすっぽりと包む。
暖炉の前、一人掛けのソファに腰掛けた城の主。その膝上で晶は借りてきた猫のように縮こまっていた。
……その日、晶は珍しくも恋人の方から呼び止められた。一度城に戻るがついてくるか、と。まさか彼の方から誘いがあるとは思っていなかった晶は、その申し出を二つ返事で承諾した。彼がそんなつもりで言ったのではないにしても、二人きりの外出であるならそれは晶にとってデートと変わりなかった。
城に到着し箒から降りる否や、晶は背後からぬっと伸びてきた腕に捕まった。何が起きたのかわからず首を傾げたのも一瞬のこと。晶は幼子のように抱え上げられ、あれよあれよという間に城の中へと運ばれた。魔法で火を灯した暖炉の前、城の主はすぐ傍のソファへと腰掛けると、呆気にとられたままの晶を己の膝に乗せて、執拗に構いはじめたのだ。
向かい合わせになるよう座らせた腰に腕を回して、ぐっと自身に引き寄せる。撫でるように髪を梳いたかと思えば、輪郭を確かめるように頬に、首に、肩に手を滑らせる。……この時点で、晶は顔を真っ赤にしてカチンコチンに固まっていた。彼――オズがそのように触れてくるなど、はじめてのことだった。
固く筋張った手は壊れ物に触れるようにやさしく、けれど一切の迷いなく晶を撫で回す。晶は、己がとびきり高級な人形にでもなったかのような錯覚をおぼえた。
耐えきれず、俯いて彼の胸元に額をつける。顔が熱くてたまらなくて、とてもじゃないが人目に晒すことなどできそうになかった。
「ひぇっ!?」
頭を押し付けたまま、羞恥と混乱でぷるぷると身体を震わせていると、指や手のひらとは違う、もっと柔らかなものがつむじに触れて晶は肩を跳ねさせた。思わず小さく悲鳴をあげると、それを笑うように晶のすぐ頭上の空気が揺れる。ほとんど間を置かず、ぬるく湿った呼気が耳をかすめた。
「……晶」
「ひゃあっ……!」
名を囁かれると同時に、晶のつむじを襲った柔らかなものが耳に触れる。低い声はほんの少し掠れていて、そのくせねっとりと絡みつくようだった。その声から逃れるように目の前のベストにしがみついて、晶はぐるぐると考える。
いったい彼はどうしてしまったのか。何か悪いものでも食べたのか。というか目の前の男は本当に晶の恋人か。晶の妄想ないし他の魔法使いの悪戯という説も――
「こら」
俯いたまま物思いに耽っているのがばれたのか、晶の頭は大きな手によりぐいと胸元から離される。晶はぎゅっと目を瞑った。彼の顔を直視する勇気はまだ持ち合わせていなかった。
だがその行動は間違いであったと、晶はすぐに思い知ることになる。猛攻は止むことなく、晶の額に頬に好き勝手に落ちてくる。乞うように瞼へと口づけられて、晶はとうとう白旗を揚げた。
「お、オズ……! ちょっと待って……!」
「……」
ようやく絞り出した制止の声に、返事はない。けれど降り続けていた口づけがぴたりと止んだので、晶はおそるおそる瞼を持ち上げた。
……愉悦を滲ませた双眸が想像よりずっとすぐそばにあって、晶はぎょっとした。驚きで反った背が後ろに倒れそうになる前に、腕を回され支えられる。
「……後ろには火がある。気をつけなさい」
「あ、ありがとうございます……じゃなくて!」
小さく咎められ、部屋を満たしていた甘ったるい空気が少しだけ乾きを取り戻す。止んだ口づけと緩んだ雰囲気によって、晶の心にもかすかな余裕が生まれた。今しかないと晶は口を開く。
「オズ、いったいどうしちゃったんですか……!?」
「……どうしたとは」
「こ、こんな……膝に乗せたり、だ、抱き寄せたり、キス……したり……」
日頃の彼を知れば奇行と言わざるを得ない行動をひとつひとつあげるものの、羞恥心から晶の声はどんどんしぼんでいく。せっかく遠ざかっていた数々の感触が、言葉にすることで鮮明な形を取り戻してしまった。
狼狽する晶とは真逆にオズの方は、何も不思議なことはないと言わんばかりの表情をしている。
「……私とおまえの仲だ。何も問題はないと思うが」
「そっ、それはっ、そうですけど……!」
一般的な恋人同士ならそうだろう。だが晶が言いたいのはそういうことではない。
交際が始まって数週間。今の今まで一切手を出してこなかった相手が、いきなり人が変わったように晶に触れはじめたのだ。晶の困惑は至極当然の反応と言えよう。
「だって、オズ、今までこんなこと、一度も……!」
これまでの二人がおこなってきた身体的接触といえば、それこそ手を繋ぐことくらいだった。だがそれは、二人の関係が賢者とその魔法使いでしかなかった頃にもしていた行為だ。なんなら、交際後もプライベートなシーンで手を繋いだ記憶は一切ない。
一度だけ、晶からねだってハグをしたこともあるが、抱き合っている間オズは気まずげに視線を彷徨わせていた。身体的なふれあいはあまり好まないのかもしれないと考えた晶は、以降スキンシップを控えるようになった。
だから、城に来てからのオズの行動は、晶にとって新鮮を通り越してもはや劇薬だった。こんなに密着したのも、大切なもののように触れられるのも、唇を寄せられるのもはじめてのこと。晶のキャパシティはとっくに限界を迎えていた。
晶の訴えを聞いたオズは、少し考え込むように目を伏せた。その間も、晶の背に回っている手はゆるゆると動き続け、背を服の上から撫でている。オズが言葉を紡ぐまでの間、晶はオオカミに追い詰められたウサギのような心地を味わった。
晶にとって無限にも等しい時間の果てで、ようやくオズが口を開く。
「……魔法舎に、完全に閉ざされた空間はない」
「へ?」
「強固な結界で部屋を閉ざすことも不可能ではないが……破られない可能性がないとは言えない」
あの場所には面倒な魔法使いが集っている、オズはそう付け足した。
晶は困惑のままに、オズの顔を見上げた。いったい、彼は何の話をしているのだろう。
話の流れが掴めていない晶を見下ろして、オズは小さく息を吐いた。呆れというよりは、仕方のない子だと目元を緩めるような雰囲気を纏って。
オズの手が晶の頬へと伸びた。
「余人の目に、おまえの愛らしい姿を晒すわけにはいかない。それらはすべて、私だけのものだ」
もうずっと、暖炉の炎にも負けないくらい真っ赤な頬をゆるりと撫でながら、防御も覚悟も何もかも貫いて叩きつけられた必殺の呪文。今日一番の発言に、晶は完全に言葉を失った。オーバーヒート寸前の思考がゆっくりと、しかし確実にオズの言葉を噛み砕いていく。
なるほど、今までオズが関係に消極的だったのは、魔法舎が人目につきやすい場所だったから。万が一にも、恋人との時間が流出することがないよう、オズは気を張っていたのだろう。
だが、この城ならばその必要はない。過酷な北の国、その最果てに聳えるこの城は、一切の邪魔者を寄せ付けない。城に来た途端、オズの様子が豹変したのはそういうことだったのだ。ここでなら、何にも邪魔されることなく、恋人を思う存分愛でることができるから。
……ようやくその事実に辿り着いた晶は声とも呼べない音を喉奥から発しながら、ずるずると崩れ落ちた。
もうすっかり理解したつもりになっていた恋人の、底知れない情と執着を垣間見る。晶の胸から今にも飛び出しそうなのは、羞恥か、呆れか、それとも歓喜か。どれを吐き出しても、きっと今の彼には勝てないのだろう。
「なんですか、それぇ…………」
せめてもの抵抗に、晶はかろうじてしがみついたままだった胸を拳でとん、とん、と数度叩いた。言葉が使い物にならないなら、もはやパワーに頼るのみ。……もちろん、ふにゃふにゃの拳では魔王を倒すどころか喜ばせるだけなのだが。
なけなしの抗議を見て、オズの双眸が満足げに細められる。でろでろにとけたスライムのような姿すら、オズの心をくすぐってやまなかった。
オズは己の膝に乗ったぐにゃぐにゃの生き物を丁寧に抱え直すと、その額に自身のものを合わせる。なおも逃げようとする身体をがっしりと押さえ込んで、吐いた息が混ざり合うような距離で問いかけた。
「こういう私は嫌いか」
声にはほんのかすかな嗜虐心が滲んでいる。それを感じ取り、晶は背を震わせた。
このやり取りすら楽しまれている。そう気づきはしたものの、普段は冷ややかさすら感じさせる深紅の瞳が、熱と欲でとろけている様を至近距離で見てしまっては、もうお手上げだった。
「…………きらいじゃないです」
誰にも聞こえないように小さく、偽りのない本心を吐き出す。叶うなら今すぐこの腕を飛び出して、雪にでも埋もれてしまいたい心地だった。
しかし晶の願い虚しく、腕は力を強めるばかり。蚊の鳴くような返事も、この距離だとしっかり伝わってしまったらしい。
オズは口角を小さく持ち上げてこう言った。
「知っている」
……再び降り始めた口づけを止める術は、もはやこの城のどこにもない。