鳴神がなくても『鳴神の 少し響みて さし曇り 雨も降らぬか 君を留めむ』
ピピピ、と意識の外から聞こえてきた音に、鋼はぱちりと目を開ける。ぼやける視界にまばたきを何度かしながら、音の出どころへ無造作に手を伸ばした。手探りで携帯のアラームを止め、そのまま引き寄せて画面を覗く。煌々と明るい携帯の画面に一度眉を寄せて、それから目をこすった。
時刻は朝の六時半だった。いつものアラーム通りの起床時間。何も問題はなかったが、ただ一つ言うならば、今日は平日ではなく休日だった。
「……アラーム消すの忘れてた」
鋼は携帯を持ったまま手を投げ出し、もう一度目を閉じる。昨日は日付けが変わるごろまで防衛任務だった。日曜日は久しぶりにゆっくり眠ろうとそう思っていたのに。
このまま二度寝へと洒落込みたい。もぞもぞと身じろぎ、布団の上で居心地のいい態勢を見つけて再び眠ろうと息を大きく吐く。まだ眠気はすぐそこにいるから、きっと羊を数える間もなく眠れるだろう。
そう思っていると外からさあとやわらかい音が聞こえてきて、鋼はぱちりと目を開けて身を起こした。
カーテンに手を伸ばし、そろりと外を覗く。
「……雨だ」
朝の静けさに沈んだ景色を糸のような小雨が濡らしている。さあさあと降雨の音は優しく、朝という時間をやわく包み込むようだ。眠りの邪魔をせず、雨粒が世界に触れる声音は密やかだった。
鋼はそっと布団から出る。二度寝の気分ではなくなった。雨の時は心臓の底のほうがそわそわとして、何だか落ち着かなくなってしまうのだ。
きっかけはもちろんあの雨の日だった。荒船が攻撃手を辞めたと知った日、倉庫の隅で泣いた日、来馬が自転車で走ってくれた日、画面越しに指を差されたあの日。振り返ると、あの日は悲しいと嬉しいが綯い交ぜになった不思議な日になっている。だから、そわそわと落ち着かない。
鈴鳴支部に暮らす面々はまだ誰も起きていないようだった。しんと呼吸を止めたような共用スペースを横切り、鋼は静かな空気を壊さないようにそうっと外へ出る。ふわりと雨が降る時の匂いが近くなった。地面から香り立つ土と湿ったアスファルトの匂いが鼻の先をくすぐってくしゃみが一つ。
傘を差した鋼は、その頭上にぱたぱたと雨粒を感じながら雨に濡れた街を歩いた。決まった行き先はない。ただ胸中の底にあるそわそわに突き動かされるまま、ゆるりゆるりと足を動かす。
日曜日の朝は、何となく時間そのものがゆるやかに感じる。急ぐ理由がないからだろうか。通行人は雨ということもあるせいか平日に比べると極端に少なく、すれ違ったのは片手で数えるほどだった。
さらさらと雨の音。てくてくと靴の音。たまに水溜りを避け損ねてぴちりと水音が跳ねる。歩くうちにそわそわは気がつけばお腹の底にもいて、そういえば起きてから何も食べてないなと空腹を今更思い出した。
引き返して支部に戻るか、空腹を供にして散歩を続けるか。ぼんやりと悩みながらもぼんやりと歩き続け、雨の音と靴の音を緩慢に耳で捉える。
さらさら、てくてく。鋼の後ろにもう一つ靴音が増えて、何の気なしに振り返った。
「……荒船?」
背後にいたのは知った顔で、名前を呼べば下がっていた視線が持ち上がってくるりと目が丸くなる。
「鋼。何してんだこんな時間に」
黒い傘を差した荒船が首をかしげながら隣に並ぶ。雨の日と荒船。胸の底がまたそわそわとする。
「アラーム消すの忘れてて、起きてしまって。寝れなくて」
辿々しくなった言葉を荒船は特に気にする素振りもなく、「そりゃ災難だな」と眉を下げて小さく笑った。
「おまえ、夜中まで任務だったんだろ?」
「ああ。だから、今日はゆっくりと寝ようと思っていたんだが……」
お互いに傘を差している分、いつもより並んだ時の距離が広い。それでも黒色と紺色の傘の先は時折擦れ合う。
「荒船は? こんな時間にどうしたんだ?」
「俺? 今から防衛任務だよ」
確かにこの先をずっと進めば本部だ。そんなところを歩いていたのかと、今更ながら鋼は居場所を認識した。
「ちょっと早いけど、ついでに書類仕事片しとこうと思ってな」
「そっか」
雨の日と荒船。隣の荒船はいつも通りで、鋼だけがずっとそわそわしている。やがて、そわそわは胸の底から這い出て喉元にやってきた。
「――雨が、降ると、」
「ん?」
勝手に言葉がこぼれ落ちる。
「荒船に、会いたくなる、んだ」
とつとつと漏れた言の葉に遅れてはっとする。あ、いや、と焦って荒船の前で手を振ると、その手をむんずと掴まれた。
「俺も、雨が降るとおまえを思い出す」
傘の保護下から抜け出た手が二人揃って雨に打たれる。さあっとやわらかい降雨はくすぐったいくらいで、ほんの少し冷たいけれど、でも触れた手があたたかくて気にはならなかった。
そわそわは気づけば鼓動に変わっていた。とくりとくりと心臓が脈打つ。
「お互いにラッキーだったな、今日は」
荒船が口角を吊り上げて笑い、握った手に一瞬力を込めてからするりと離す。
ああ、名残惜しい。離れた手を反射で追いかけようとしたが、タイミング悪く腹の虫が鳴いた。それも盛大に。
きょとりとした荒船が一拍を置いて目を細めた。
「腹減ってんだな。早く朝飯食えよ」
「あ、あらふね」
恥ずかしいやら離れがたいやら。鋼の気持ちが追いつかないままでいると、荒船は凛とした声音を落とした。
「鳴神の?」
「……少し響みて、さし曇り?」
いつかの授業で習った短歌に反射で先を繋げると、荒船は満足げに頷いた。
「吾は留まらむ、妹し留めば。……気持ちだけはな」
じゃあなと、今度こそ荒船は鋼を追い越して歩き去っていく。真っ直ぐ伸びた背中がこちらを振り返ることはない。
雷と雨でここにいて欲しいと望む歌に、そんなものなくてもと応える返歌。実際にそうすることは難しくても、そうしたい気持ちはあると荒船はそう言った。
「――ずるい」
鋼は思わずしゃがみ込んだ。顔が熱い。腹の虫がまたぐうと鳴く。
雨は変わらず、さらさらと降り続いていた。
『鳴神の 少し響みて 降らずとも 吾は留まらむ 妹し留めば』