見覚えと聞き覚え 記憶の整理に紛れて、懐かしい光景が過ぎっていった。一番最初に見たもの、一番最初に憧れたもの。夢の中の自分が手を伸ばした瞬間、懐古はやわくゆるやかに形を崩していった。
ふと目を開けた時、一番最初に視界に入ったのは荒船の横顔だった。
端末でログでも確認しているのか、真剣な眼差しは鋼を見てはいない。凛とした横顔をまどろみながら眺めていた鋼は、ふとどうして荒船がいるんだろうと疑問が湧いた。
「――あらふね……?」
こぼした声は我ながら寝ぼけていた。しかし荒船の耳にはきちんと届いたようで、理知的な瞳が冷静に鋼を映す。
「悪い、起こしたか?」
「いや、オレ……」
まだ半分くらい眠りの淵を漂う意識で何となく状況を思い出す。ああそうだ、さっきまで荒船と十本勝負をしていて、今はあいだの十五分の休憩時間だ。鋼のために与えられた十五分。鋼はそのあいだに眠って記憶を整理するが、荒船はいつもログを見返していた。体験を即経験に変える鋼とは違い、荒船は何度も繰り返し反復して頭と身体に叩き込むコツコツタイプだ。たぶん今も、さっきまでの戦闘をおさらいしていたのだろう。
「まだ五分ある。寝とけ」
重たくまばたきを繰り返す鋼の目の上に荒船の手のひらが乗る。ひんやりと冷たいのにじんわりとあたたかい体温が気持ちよくて、鋼は手足の力を抜いた。
「……あらふね」
「ん?」
閉ざした視界は荒船を映さず、落ち着いた声だけが耳朶に触れる。とろとろとやわらかい眠りの世界に身を委ねながら、鋼の脳裏には懐かしい記憶が閃いていた。
「そういえば、オレ」
「うん」
「一番さいしょに見たボーダーの隊員、あらふねだったんだ」
三門市に越してきた初日。色々な手続のためボーダー本部に向かう必要があった鋼は、警戒区域との境目に張り巡らされた有刺鉄線沿いを歩いていた。外から見える範囲は至って普通の住宅街に見えるが、でも自分自身もこの境界線を超えて中に入るようになるんだと緊張したことはよく覚えている。ボーダーがどういう組織かは既に聞いていたし、スカウトされた目的やこれからやってほしいことだとか、そういったことも話してもらっていた。
だから尚更だった。オレに、期待してもらったことができるのだろうか、と。
もやもやと考えながら歩いていると、突然警報が鳴り響いた。静かな住宅街をつんざく警報に釣られるよう、空間を突き破って出てくる何かをはっきりと見た。見たことのない異形のそれが説明された近界民なのだと、一拍遅れて気がついた鋼はただただ不安になった。あんな初めて見る何かとこれから戦うのかだとか、ここから少し距離はあるけど大丈夫だろうか、だとか。
「――おい、そこの人!」
近界民というものを遠くから眺めていた鋼は、突然後ろから声をかけられてびくりと肩を跳ね上げた。そうっと声のほうに視線を向ければ、黒と緑の帽子、それと同色のジャージに身を包む同い年くらいの男の子が走ってくるところだった。
「大丈夫だと思うけど、一応ここから離れとけよ!」
鋼を指差して告げると、その人はそのまま走り過ぎて有刺鉄線をひらりと飛び越えていく。遅れて悪い、現着した。そうぼそりとこぼしたのが一瞬聞こえた。
離れろと言われたが、鋼は遠ざかっていくその背中をずっと見ていた。はっきりと全部見えたわけではなかったが、その人は近界民に近づくとぼんやりと光る刀のようなものを振るい、一瞬で破壊した。
起こったことが全部非日常すぎてその時はうまく飲み込めなかったけれど、でも強烈に、さっきの人がかっこいいとそう思った。恐れも怯みもなく立ち向かっていくその背中が眩しくて、あんな風になれたらいいなと強く思ったのだ。
だからC級隊員になって最初に選ぶトリガーは、迷いなく弧月にした。鮮烈な太刀筋が記憶に深く刻まれていた。
「それ、初めて聞いたな」
「はじめて言ったから」
「言ってくれればよかったのに」
「あらふねは覚えてなかったみたいだから」
荒船と知り合った時、あの時のあの人だとすぐに分かった。でも一方的な記憶で話すのも違うなと思って口をつぐみ、以降一番最初の出会いを話す機会は訪れなかった。ただそれだけのことだった。
「……だから、オレ、あらふねが師匠になってくれた時すごく嬉しかったんだ」
限界まで近づいてきた眠気で力の入らない腕を何とか動かし、鋼の目の上に乗せられた荒船の手を握る。
「あらふねは一番最初からずっとかっこよくて、憧れで……だからありがとう、あらふね」
言の葉が曖昧にこぼれて、自分でも何を言っているのかあまり分からなかった。ああ、眠たい。すぐ後ろにいた眠気が鋼を捉える。
「……そーかよ」
何だか照れくさそうだった荒船の声も、閉じた目蓋の上をゆるく撫でられる感触も、全部心地がよくて鋼は完全に眠りの世界に落ちていった。
ピピピ、と無機質な電子音が意識に割り込んできて鋼ははっと目を開けた。個人戦のブースの、見慣れた天井。きょろりと中を見回しても、誰かがそこにいることはなかった。
『鋼、時間だ。起きたか』
「荒船……あ、ああ、起きた」
内部通信で荒船に応え、鋼は自分の目蓋に手を当てる。ひんやりと冷たくじんわりとあたたかい、あの手の感触はどこにいったのだろう。
「……荒船」
『どうした?』
「もしかして、さっきまでこっちにいたか?」
とつとつと話していた自分の声も、穏やかな荒船の声も耳に残っている。夢だと思うにはあまりにも感触がリアルで、でも今ここに荒船はいなくて鋼は首をひねる。そもそも、あいだの休憩時間で荒船が鋼のそばにいたというのが日常的ではないのだが。焦がれすぎてそれこそ夢にでも見たのだろうか?
『……さあ、どうだかな』
ほんの少し照れくさそうなその声音には、聞き覚えがあるような気がした。