噛む 噛まれる、という行為が全て等しく苦手だ。それは元凶となった犬に限らず、普通に触ることができる猫にだって牙を剥かれれば途端に身構える対象になる。ウサギだって、ハムスターだって、犬以外の動物に恐怖を覚えることはあまりないが、それでも口元に手を持っていくのは正直嫌だ。玉狛支部にいる雷神丸だって、一番最初に「こいつは噛むぞ」と冗談混じりに言われてしばらく近づかないようにしていたこともあった。
噛まれるという行為が、荒船は全て等しく苦手だった。
だから。
「……っ!」
がぶり、と肩に覚えた感覚に思わず息を飲んで身を固くした。ひゅっと背中を走ったのはトラウマの気配で、ぞわぞわと肌が粟立つ。
「っ、おい!」
すぐ近くにあった頭を乱雑に押しやり、荒船自身も身じろいで距離を取る。心臓が走ったあとのようにドクドクと早鐘を打っていた。
「……何だ」
不満そうな顔をする穂刈に、こっちこそ何だと目を鋭くする。
「噛むなって前から言ってるだろ!」
「痛かったか?」
「痛くはねえけど!」
噛まれた肩を見やるが、血が出ているなんてことはないし何なら赤くすらなっていない。痛みも全くなかった。
それでも、噛まれるという行為自体がダメだった。歯を立てられた、その事実に腹の底が不安定にぐらつく。
「本当に無理だからやめてくれ。知ってるだろうが」
「……噛むのに、おまえは」
穂刈が荒船の目の前で自分の手を閃かせる。普段イーグレットを握るその手には赤黒い跡が残っていて、荒船は思わず払い除けた。
「それは、おまえが手を持ってくるからだろ!」
「そのままだと噛むからな、自分の手を」
「声出したくねえんだよ!」
「別にいいけどな、声出してくれて」
腹立ち紛れに足で蹴る。けれど穂刈の身体はびくともしなくて、それもまた腹が立った。
「とにかく噛むなよ。分かったな?」
「……善処はする、一応」
穂刈は分かっているのかいないのか漫然と頷き、さっきと同じ場所に顔を寄せてきた。荒船は一瞬ぎくりとしたが、触れたのは歯ではなく舌だった。這われる感触にまた背筋をひゅっと駆け上っていくものがあったが、それがトラウマ由来ではないことはきっと穂刈にバレている。
たぶんきっと、荒船は今夜もこの男の手を噛むのだろう。