夏影と祭りの声音 夏の夕暮れ、というのは不思議な気持ちになる。時刻の割には明るい空、日が落ち始めても生ぬるい気温、昼間の暑さが飽和してところどころに居座るようなそんな空気。
どこかから囃子の音色が聞こえる。空は濃い紫色で、時間は夜の七時をいくらか過ぎたくらいか。参道に並ぶ出店はどれも小さい頃に見たような懐かしさを覚え、漂う匂いは色んなものが混ざっている。ベビーカステラの甘い匂い、焼きそばのソースの匂い、フライドポテトが揚がる香ばしい匂い。すんと鼻を鳴らせば、その全部が綯い交ぜになった『祭り』の匂いが深く身体の内側に染みた。
「何か食うか、荒船」
隣の男を見る。いつもと同じ無表情の穂刈が窺うように荒船を見ていた。
「そうだな……とりあえずカゲんとこ行こうぜ」
「了解」
同意を落とす声は普段と変わりない。緩慢な足取りを特に変更はせず、人混みの流れに乗って荒船と穂刈は連れ立って歩く。目的の出店がどこに出ているかは聞いていないが、流れに沿って歩いていればそのうち辿り着けるだろう。
三門市内の神社で行われる夏祭りに、最初から行こうと決めていたわけではなかった。夕方の防衛任務が終わり、少し隊室で涼んでから本部を出る。加賀美も半崎も今日は同い年の連中と遊ぶと言って早々に出ていったが、荒船と穂刈には特にその予定はなかった。オレンジ色と藍色が混ざり始める時間、伸びた影法師が一緒に歩く。とつとつと他愛のないことを話しながらいつもの帰路を辿っていると、浴衣を着た子供がすぐそばを駆けていった。走らないで、と言いながら親が早歩きで追いつき、親子は手を繋いで楽しそうに笑い合う。
ああそうか、今日は祭りか。思い出して言葉にし、目が合った。一瞬の無言、言の葉が散って沈黙になる。何も言わないまま視線は前を向き、ぽつりぽつりと会話が再開した。いつもの帰り道、から段々と道が逸れていったのは互いに意図したことだった。
そうして辿り着いた神社は、夏の熱気が何倍も膨らんだように密度が濃くて賑やかだった。子供の甲高い笑い声がそこかしこで弾け、出店の店員の呼び込む声はよく通り、さざめく気配は祭り特有だ。灯された明かりは薄暗の中で眩しく、時折お客さんの持ちものに反射してちかちかと瞬く。
「子供の時にじーちゃんと祭り来たんだけどさ」
「おう」
「夜になっても外に出られて、辿り着いた先は色んなものが売ってる夢みたいな場所で、祭りってすげーなって思った記憶がある」
たくさんの人、煌びやかな出店、聞き慣れない囃子の音と色んな匂い。祖父に手を引かれながら歩いた祭りの景色は、そのあと何度も訪れているのに塗り替えられることなく荒船の脳裏に残っている。カラン、コロンと祖父が履いていた下駄の音すら蘇った。
「非日常的だよな、祭りは」
「確かに。子供心にわくわくしたもんだ。じーちゃんに色んなもん買ってもらえたし」
「オレは弟と喧嘩してたな、何を買うかで」
珍しく穂刈が小さく笑む。
「相談して好きなものを買ってねってお金をくれるんだ、親が。オレはたこ焼きとか焼きそばが食べたいのに、くじとか射的をやりたがって泣くんだ弟は。最終的には弟に遊ばせて、オレは一個だけ食いもん買って食べてたな」
「兄貴してたんだな」
「いい兄貴だからな、オレは」
ふふんとドヤ顔をする穂刈に荒船はくつくつと笑う。弟に気遣う穂刈は何となく想像がついた。存外面倒見がいい男だ。
「……お、カゲじゃないか?」
人越しにかげうらの名を掲げた出店が見え、中ではちょうど影浦が鉄板に向かっていた。
「おうカゲ、ちゃんと働いてるか?」
にやりと笑って手を振れば、汗を拭いながら顔を上げた影浦が「お」と意外そうな表情を浮かべた。
「荒船も来たのか」
「来ちゃ悪ぃか?」
「いや、穂刈は来るって聞いてたからな」
「そうなのか?」
穂刈に話を振れば、「ああ」と軽く頷いた。
「来る予定だったんだ、一回帰ってから」
「そうだったのか」
注文をしないうちに影浦は勝手にパックにお好み焼きを詰め、輪ゴムで蓋を止めて渡してくる。財布を開けようとすると雑に「いらねえ」と断られ、そのままさっさと行けと言わんばかりに手を振られた。あたたかいお好み焼きを一つ穂刈に渡し、それから影浦にひらと手を振って店をあとにする。
「どっかに座って食べるか」
「じゃあ向こうの鳥居の下だな、おススメは」
再び人の流れに乗ってゆるゆると歩く。さっきと違うのは、手中にあたたかいお好み焼きがあることと、それから一つの懸念だ。
「……予定、崩させたか?」
ぽつりと荒船が漏らすと、穂刈はちらりとこっちを向いた。
「そんなことはない、帰ってから一人で行くかと軽く考えていたくらいだから。予定ってほどのもんじゃねーよ」
「そうか、ならいい」
言葉にしないままの曖昧な空気で穂刈の予定を壊してしまったか、と考えた。悪かったかと思ったのは一瞬、穂刈本人にそうではないと否定されればそれでもう仕舞いにする。
「好きだからな、祭りが。空気だけでも感じられたらいいと思ってたんだ」
「そうか」
「だから、これでも浮かれてるんだ。おまえと来れて」
「……」
喧騒に紛れて聞こえないフリをしたかった。しかしきちんと耳朶に触れた穂刈の声に、勝手に反応して顔に熱が集まるのが自分でも分かる。返す言葉が咄嗟に出ない。
くつくつと隣の男が喉の奥で笑う。それを気にしていれば、すれ違う人と肩をぶつけそうになった。
「手でも引いてやろうか、哲次くん?」
「いらねえよ。じーちゃんだけで充分だ」
べ、と悪態を吐き、荒船は顔に集まった朱を飛ばすようにずんずんと先へ歩く。時折穂刈は臆面もなくそういう台詞を落とすから油断ならない。
穂刈を置いていく勢いで人を避けて進んでいくと、射的の店を見つけた。おもちゃの銃にコルクの弾。腕が疼くのは狙撃手の性か。
「おい穂刈、射的あるぞ!」
後ろから悠々と歩いてくる穂刈に向かって声を上げる。人混みの中で頭一つ抜け出している穂刈は興味を引かれるように少し眉を上げ、足取りを射的のほうへ真っ直ぐに向けた。
しかし射的の前まで行くと、すぐに踵を返して戻ってきた。目が合うとふるりと首を横に振る。
「駄目だ、あそこは」
「何かあったのか?」
「『ボーダー隊員の参加を禁ずる』だそうだ」
「何だそれ」
「誰かが根こそぎ景品を持っていったんだろ、きっと。大方、当真か佐鳥あたりか」
「あいつらならやりかねないな」
半崎が遊びに行くと言っていたから、もしかしたら同い年連中で祭りに来ているのかもしれない。当真もふらりと遊びに来ていそうだ。顔を思い浮かべると思わず口角が上がる。
「上層部に知られたら怒られそうだな」
「だな。知らぬが仏だ」
射的は諦めて三たび人混みの流れに乗り、少し歩いてから「こっちだ」と穂刈に案内されて脇道に逸れる。出店と出店のあいだを通って抜ければ、それだけで喧騒から遠ざかる気配がした。がやがやとしたさざめきと虫がジージーと鳴く声がきっぱりと分かれて聞こえ、世界が分たれたのをはっきりと感じる。その狭間の上に、荒船と穂刈はいた。
静寂と騒然の上を黙々と歩き、やがて荒船たちは完全に静寂側に踏み入れる。ほんの少しそこから外れただけで、祭りの賑やかさは音というよりもっと感覚的な微かな気配としてしか感じられなくなった。
「ほらな、いないだろ誰も」
「本当だ。穴場だな」
神社の鳥居の下、そこを起点に上に上に登っていく石段の先は暗闇に塗り込められて見えない。ぼんやりとした明かりは灯っているが、先があることを告げるだけのそれは先行きを照らすことはしないようだ。
石段に腰かけ、影浦に奢ってもらったお好み焼きを開ける。渡された時にあたたかったそれはもうだいぶ冷めてしまい、かつお節はへにゃりとソースとマヨネーズにまみれていた。わり箸を割り、いつもよりコンパクトにまとめられたお好み焼きを一角切り取り口に運ぶ。焼き立ての美味しさはないが、それでも食べ慣れたかげうらの味に変わりはなかった。冷めていても美味しい。
「さすがカゲんとこだな、出店でも変わらずうまい」
この状況が尚更そう思えるのかもしれない。いつものお好み焼きを、非日常的な祭りの喧騒から少し外れた静かな場所で食べている。遠くささやかな祭りの気配、ジージーと鳴く虫の声。気温はまだ生ぬるいが、昼間に比べればだいぶマシで時々吹く風が心地よい。
一人満足して頷きながらもぐもぐと食べ進める。少し手を動かすたびにプラスチックのケースがパキパキと乾いた音を立てた。
「……じーちゃんと祭りに行った時にも、お好み焼きを食べたんだ」
口の中に入っていたお好み焼きをごくりと飲み込んでから、穂刈が「そうか」と相槌を打つ。
「たださ、今思うとそれすっげーまずかったんだよ。ほら、出店の粉ものって異常に粉っぽい時あるだろ?」
「確かに当たったことがあるな、たこ焼きで」
「だろ? 粉っぽくって、家で食べたり店に食べに行った時のお好み焼きのほうが何倍もうまいのに、でもどうしてかもう一度食ってみたいなとも思うんだ」
祭りといえば、粉っぽいお好み焼き。こうしてかげうらの美味しいものを食べても、記憶は塗り替えられることなく鮮明に蘇る。もう二度と戻れない時間だからこそ、より鮮やかにそう思うのかもしれない。
「……おまえの中の、おじいさんの記憶を上書きしたいとは思わないが」
早々に食べ終えたらしい穂刈がソースで汚れたケースの蓋をし、輪ゴムでパチンと閉じる。
「でも、思う。何番目でもいいから、今日のこの時を……オレのことを、思い出す時があればいいな、と」
口の中はいつもと同じで少し違うお好み焼きの味、鼻はソースの匂い、手はパキパキと安っぽいプラスチックの感触、視界はいつの間にか完全に日が落ちて紺色に染まった空と隣の穂刈を捉え、そして耳は遠ざかった祭りの微かな気配と穂刈の真剣な声音。
五感が、今この時を荒船の中に刻み込む。
「……いや、おまえ、」
くっ、と笑いが込み上げてきて荒船は肩を揺らした。
「くっ、はは、おまえみたいなやつ忘れられるわけがねえだろ」
「……分かんねーな、何で笑われるのか」
こちとら真剣なんだぞ、と真面目腐った顔で言い募られて荒船は笑いを継続させる。
「特徴的すぎるんだよ、おまえは」
「……そうか?」
本人は至って不思議そうにするから尚笑いが止まらない。思わず目尻に滲んだ涙を指で拭い、荒船はからからと笑いながら穂刈の背を叩いた。
「安心しろ。生憎俺は、大切だと思った人との記憶は何年経っても鮮明に覚えてる人間だ」
祖父がいい証拠だ。そう言ってにやりと笑えば、穂刈は少し考えてから納得したように声を落とした。
「そうか。大好きっていうことだな、オレのことが」
「勝手に翻訳してんじゃねえよ!」
ばしりともう一回背中を叩き、でもたぶん否定しなかったことは穂刈にも伝わっているだろう。顔に集まる熱を隠すように、あと少しだったお好み焼きを勢いよく掻き込んですっくと立ち上がる。
「よし、行こうぜ」
「どこに?」
「決まってるだろ、祭りだよ。こうなりゃ、徹底的に遊んで帰ろうぜ」
とりあえず腹は満たした。祭りといえばまだかき氷もあるしフライドポテトもあり、射的は出禁のようだがそれ以外にも金魚掬いやら輪投げやら遊べるものはたくさんある。
楽しんで、楽しんで、徹底的に記憶に叩きつけてやろう。思い出そうとしなくても勝手に思い出が滲んでくるくらい、盛大に。
トト、と石段を降りて穂刈を待つ。空になったプラスチックケースを右手に持った荒船は、何もない左手を「ん」と差し出した。
「手、引いてくれるんだろう?」
「……ああ」
普段、そう表情を崩さないこの男が嬉しさを隠そうともせずやわく微笑む。隣に並び、握られた手は大きくてあったかい。
記憶にある祖父の手とは違う。でもこの温度も忘れることはないと、荒船は少しだけ握った手に力を込めた。