20220718 夕方。散歩途中に旦那の店の前を通った。もうすでに両手では数え切れないほど通ったこのバーは、中に入らずともその姿を見ただけで、なんだか少し心が落ち着く気がする。
最初はそのまま素通りする気でいたのだが、店の中からピアノの音が聞こえた。しかしそれは曲ではなくて、ポン、ポン、と単音が連続したり、いくつかの和音が不規則に響きあったりしていた。
(旦那……のとこの子ぉでも遊んどるんか?)
真っ先に頭に浮かんだのは、白髪をぴょこぴょこと揺らす奇天烈な子供だった。
なんとなく気になって、気付いたときには誘われるように店の扉に手をかけていた。「closed」の看板は見えていなかった。
ぐっと重たい扉を押し開けて中に入ると、ピアノの前に座っていたのは予想していた人物ではなかった。
「依織……お前入り口の看板見てないのかよ。まだ開店前だぞ」
「お、おお旦那……すまんな、なんやピアノにつられてもうたわ」
「ったく」
そういう旦那は満更でもなさそうで、ピアノの前から立ち上がると「ギムレット……より今はコーヒーのほうがいいか?」などと言ってサイフォンを準備している。こういうところが旦那らしいなあと思う。その言葉に甘えて、いつものカウンター席に腰を掛ける。
サイフォンの中の湯がコポコポと音を立てるのを聞きながら、先程旦那が弾いていたピアノを見やる。床にはばらばらと見慣れぬ道具が散らばっている。
「ほら、コーヒー。待たせたな」
「あ、おおきに。いつもすまんな。……旦那、なんか作業中やった?」
コーヒーを一口含んでから、「ああ」と少し掠れた旦那の声がした。
「調律をな。弾いてたら音が波打って気持ち悪くてよ」
「ほお〜……」
そういえば、こういう場面に遭遇するのは初めてだ。旦那がピアノを弾いている姿は何度も見ているが──十年前だったら信じられない──調律というのは……なかなかどうして興味が湧いてくる。
「旦那ァ、俺のこと気にせんと続きしや」
「あ? 別にあとでも、」
「ええねんええねん! 美味いコーヒー飲みながらゆっくりさせてもらうさかい」
はあ、と旦那は息をつきカウンターを抜け出す。俺の横を通る際に、頭をぽんぽんと撫でられた。な、んで?
名前も分からない器具を片手に持ち、旦那が鍵盤を叩く。器具で弦を調整しながら、何度かラの音が響く。その音が妙に心地よい。他の音も同じように調整していく。音の調和を確かめているのか、ときおり和音も鳴り響く。
旦那の耳にかかった髪がするりと落ちた。しかしまったく気付いていないといった様子で、旦那は調律を進めていく。
髪の間から金色の目が覗いている。真剣なそれには見覚えがあって、気を紛らわそうと脚を組みかえる。
──依織。
いつかの夜の旦那の声が思い出される。こんなときに……。
ひとつひとつ音を確かめるように、旦那の指が鍵盤を叩いている。丁寧に。いい音を、探るように。
──ここ、気持ちいいか?
「っ、旦那」
邪魔をしないように黙っていたが、堪らず声をかけた。手を止めた旦那が「どうした?」という視線を向けてくる。
「……夜、旦那ん家行ってもええか?」
「いいけど……急になんだよ」
「準備、して行くから」
何を、とは言わなかった。しかし旦那には伝わったようで、一瞬目を見開いたかと思えばすぐに艶っぽい顔に変わる。
「準備なんかしなくたって、俺が全部やるのに」
「なっ……」
「好きなんだよ。依織の体を解していくの」
「〜〜〜〜っ! こンのドスケベ! せいぜい夜まで気張って働き! コーヒーごちそうさん! ほなな!」
これ以上ここにいたら、もっと恥ずかしい思いをしそうな気がした。旦那がピアノを調律する姿を見て、不埒な心が顔を出したというだけでも散々なのに。
一旦帰ろうと大股で出口まで向かう。「あとでな」という呑気な旦那の声に雑に手を振って、外へと飛び出した。
夜の準備は、念入りにしていこうと思う。