あした世界が終わってもいいよ 滞在三日目は、ちょっとは観光らしいことでもしようということになり、ビーチに行ってみようか、という話になった。タクシーに乗ってしまえばビーチまでは四十分程度で着くが、あえて公共のバス路線を使って行ってみようということになる。バスに乗れば地元の雰囲気もわかるし、何よりなんだか楽しそうだ。昨日買ってきたフルーツを平らげて、ついでにパンも囓る。フルーツは日本で食べるものとは違って、ジューシーで、物珍しい味がした。
さて、キューバでビーチと言えば、なんといってもサンタマリアビーチだ。キューバ革命前はもっぱら金持ちの別荘地だったということだが、今は市民に開放されている。季節も夏だし、きっと混雑しているだろう。人混みは決して好きではないが、夏油と行くなら話は別だ。帰り道にはまた市場に寄り、いろいろと仕入れてこようという話になる。
「ビーチなんて何年ぶりかな」
呟くように夏油が言う。
「海とか、行かないの?」
「泳げるような海はほんとうに久し振りだね」
夏油は水着を持ってきているということだったので、五条も荷物に水着を入れた。海に入るなんて何年ぶりだろう。写真集の撮影なんかで浜辺に行ったことはあるが、遊ぶのを前提に行くのはほんとうに久し振りのことだった。
「こっちの方だと思うんだけど……」
ガイドブックを片手に、バス乗り場を探す。とはいえ、そこまで詳しく書いてあるわけではないので、ふたりはすぐに迷子になってしまった。日本のようにバス停は一カ所に固まっているわけではなくて、その行き先に応じて、個別の場所に設置されているようだ。人の多いところは旧市街行きのバスだったり、観光地行きのものが多かったが、どうやらここからサンタマリアビーチに向かうものはないようだった。やはりみんな、ビーチまではタクシーを使うのだろう。
「困ったね」
「でも、なんか楽しいね」
五条がそう言うと、夏油もそうだね、と同意してくれる。何も予定がある旅ではない。こうして試行錯誤するのもいい撮れ高になるだろう。
「あ! あれ、アイスじゃない?」
「え? あ、ほんとうだ。すごい行列だね」
店の前どころか、通りをこえて広場の方にまでアイスを買うために並ぶ列が出来ている。並んでいる人に話を聞いてみると、地元で人気の安いアイス店だということだった。そこは現地価格だということで、並んでいるのはキューバ人が多く見える。並ぼうか悩んでいたら、地元の人間が観光客なら、と観光客向けの店を教えてくれた。どうやら価格設定が違うらしく、そちらはすこし高いので現地の人間は行かないようだ。聞いた場所はすぐ近くだったので、夏油を誘ってアイスを買いに行くことにする。確かにそっちの店は何人か並んでいたが、どれも観光客で、列も短かった。アイスを食べるために一時間以上並ぶよりは、とそちらの店に並び、おすすめのアイスを買う。ひとくち食べてみると、ほんのり甘くて美味しかった。確かに価格帯は違うが、出しているものは同じ物だと言うことなので、これが人気になるのはわかる気がした。
「美味しい」
「なんか、懐かしい味がするね」
そう言って、夏油が優しく笑う。最初はこんな観光染みたことをするのは慣れないと話していたが、すこしは慣れてくれたようだ。オレンジとパイナップルの味がするアイスを平らげて、改めてサンタマリアビーチ行きのバスを探すことにする。とはいえ、闇雲に探してもどうしようもないので、地元民らしき人に文字も交えて、サンタマリアビーチ行きのバス停を聞いてみることにした。
ここに行きたいのか? とスペイン語で問われ、頷く。地元民らしき男はすこし悩むと、ついてこいと言う。どうやら案内してくれるようだ。有り難い。男の案内に沿って着いていくと、随分と表通りからは離れてしまった。ほんとうにこんなところにバス停があるのか? と思いかけた時、ここだよ、と言われ、バス停を示されて、思わず面食らう。キューバ人はちょっと親切過ぎやしないだろうか。チップを求めるわけでもなく、無償でこんな風に案内してくれたり、昨日みたいに塩を分けてくれたりする。
「ありがとう」
スペイン語でお礼を言うと男は、こちらが幾ばくかのお礼を払う前に、いいよいいよ、と手を振ると、すぐにどこかへ行ってしまった。そのままバス停でしばらく待っていると、サンタマリアビーチ方面へ向かうバスがやってくる。見れば結構混雑していて、どうにか中に乗り込むと、五条は、ほ、と一息吐いた。
「結構混んでるね」
「みんなビーチに行くのかな?」
「どうだろう」
路線バスは区間問わず、値段が決まっているらしい。その運賃ときたら馬鹿みたいに安くて、公共交通機関がこれでやっていけるのかと思ってしまった。そうしてまたバスを乗り継いで、結局四時間近くもかけてサンタマリアビーチに辿り着く。タクシーに乗れば四十分もかからないのに、思っていたより随分と遠回りをしてしまった。結構朝早くに出たと思ったのに、もう時刻は昼を回っている。一緒にそれに気付いて、ふたりで目を見合わせて笑ってしまった。
ビーチは、太陽が天高く上っていて、気温は暑いくらいだった。ふたりとも早速水着に着替えて、まずは浜辺に設置されていたチェアに横たわる。夏油は、さすがにちょっと疲れた、と言っていたから、すこし一休みしてから海に入ることにしたのだ。ビーチではいろんな人種や年代の人間が思い思いに楽しそうに過ごしている。五条達のようにビーチの横のチェアでそれを眺めている人も多かった。
「何か飲み物でも買ってこようか?」
「悪いね、お願いしていいかい?」
「もちろん」
近くの売店で、冷えたジュースを買う。ビールも売っていたが、これから海に入ろうというのにすこしとはいえ、アルコールはやめておいた方がいいだろうという判断だ。夏油に万が一のことがあったら困る。
「はい、ジュース」
「ありがとう」
それを一緒にごくりと飲み込んで、一息吐く。ビーチには若者の姿だけでなく、結構年配の人の姿も多かった。広く市民の娯楽となっているようだ。
「海、入る?」
「そうだね、そろそろ行こうか」
ビーチに入ると、カメラに気付いた近くにいた若者が一緒にビーチボールで遊ぼうと声をかけてくれる。有り難くそれに参加させてもらうことにして、ぽんぽんとボールを打ち合った。きゃあきゃあと楽しそうな声がビーチに響いて、こちらまで楽しくなってくる。夏油もいつの間にか笑顔になっていて、ちゃんと楽しんでいるようだ。最初はおじさんがやる遊びじゃないよ、なんて言っていたのに、結構真剣になっている。
ビーチボールで遊ばせてもらった後は、すこし海岸を泳ぐことにした。海はさすがカリブ海といったところで、どこまでも青く澄んでいる。ちょっとちゃぷちゃぷと泳ぐだけでも楽しくて、水をかけあったりして小一時間ほどを過ごした。
「ねぇ、おなかすかない?」
そう言い出したのは夏油で、全く同意だったので、すかさず頷く。身体も動かしたし、昼の時間もとうに過ぎている。そろそろ何か腹に入れてもいい頃合いだ。ビーチのまわりにはそれらしい店は見かけなかったので、水着から着替えて市街地に戻ることにする。また同じように市民バスを乗り継いでいたら夕食になってしまうので、帰り道はちょっと高い直通バスを利用することにした。
「何を食べようか」
「旧市街ぶらぶらしながら、探すんでもいいんじゃない?」
「確かに」
どこにしようと決めて店に向かっても、店がやっていない、なんてことはキューバではよくあることだ。日によって営業時間が違うこともあるし、実際に歩いて、見つけたところに行くのがいいと思われた。二人でちょうどやってきた直通バスに乗り込み、旧市街の方に戻る。そこからはまた目的のない散策だ。ふらふらと気になる店を覗きながら、市街地を歩き回る。途中、ラテン音楽を道ばたで演奏している男がいたと思ったら、まわりの人がそれに合わせて踊り出す、なんて場面にも遭遇することが出来た。キューバらしい出来事だ、と思う。ラテンの流れを汲むキューバ人は、踊るのが好きだ。時間があったらダンスが出来るような場所に行くのもいいかもしれない、なんて思う。何より、夏油が踊っているところを見てみたい。
「あ、ここ、どう?」
旧市街のビエハ広場からすこし離れた場所にある店を示して、五条が言うと、夏油も同意してくれたので、そこに入ることにする。中はキューバというよりもアメリカのダイナーみたいな雰囲気だったが、みんな食べているものはキューバ料理だ。やはりキューバといえばキューバンサンドイッチだろう、と五条はチキンサンドイッチ、夏油はハムチーズ入りのサンドイッチを選んだ。ふたりとも腹がすいていたのでサンドイッチだけでは足りないかも、とふたりでシェアしようとグリルチキンも頼んで、しばらく待つ。その間に飲み物が運ばれてきて、乾いていた喉を潤した。
「え、でっか」
届いたのは、サンドイッチ、という名前にそぐわない、想像していたよりずっと大きなサンドイッチだった。大きいバタールとまではいかないが、それより一回り小さいくらいのフランスパンが半分に切られて具が挟まっており、横には揚げられたバナナが添えられている。スタッフの物撮りが終わってから、大きな口を開けて齧り付くと、鶏肉の旨味が一気に口の中に広がった。美味しい。夏油も同じようにかぶりついて目を見開いていたから、美味しかったのだろう。グリルチキンもジューシーで、フォークが止まらなかった。
「美味しいね」
「うん、美味しい」
美味い料理を前にすると、言葉が出てこない。ふたりで黙々とサンドイッチを平らげ、食後にジュースとビールを頼んで、一息吐く。さっきまであんなに腹ぺこだったのに、今はもう満腹だ。もう半ば夕方が近付いている時間だったので、夕食は軽く済ませることにして、市場に寄ることにする。晩飯の材料の調達だ。今日は自炊することにしていた。
「何買う?」
「昨日買った肉があるから、何か添え物が欲しいよね」
「スープとかもあるといいかも」
主食になる米も買ってあるので、そんなにたくさん買う必要はないだろう。市場をふらふらと歩き回って、何か欲しいものがないか探すことにした。市場はとうに昼過ぎだというのに、人が多く賑わっている。昨日買ったのは豚肉の塊だから、それをシンプルに焼くことにする。塩と胡椒は手に入れているから、まずは素材の味を楽しむことにしよう。それに添える野菜を選ぶことにした。
「キューバ料理も作ってみたいよね」
「地元の人に教わりたいね」
ふたりでそんな話をしていると、ちょうど市場の人が話しかけてくる。もし良ければ、キューバの料理を教えてくれると言う。
「いいの?」
なんと有り難いことに日本語もすこしわかると話していて、思ったよりもずっと流暢な日本語を話してくれた。
「明日の午後なら休みだから教えてあげる」
日に焼けた肌で、笑顔が眩しい女性だった。年の頃はたぶん、夏油と五条の間くらい。友だちと一緒に来てくれるというので、また明日、買い出しもかねて市場で待ち合わせをすることにする。先に市場には売っていないもので買っておいた方がいいものがないか聞き、明日の午前中はそれを用意することにした。こういう気軽さが、キューバという国民性を表しているような気がする。そうなると、今日買う物は今晩食べる野菜くらいになったので、帰り道にもまたふらりと散歩することにした。夜に近付いた風が気持ちいい。
「そういえば、悟がキューバ行きを決めたって聞いたけど」
「うん。他にもいろいろあったけど、キューバが良くて」
「どうして?」
そう不意に問いかけられて、どうしようか迷う。幼い頃に見た一枚の写真が忘れられないなんて、笑われるだろうか。いや、夏油はそうしない気がした。
「小さい頃なんだけどさ、百貨店で見た写真でね、キューバの写真があって。なんか、今でも忘れられないんだよね」
「そんな写真があるんだ。私の写真もそう言ってくれる人がいるといいなぁ」
「いるよ! ……ごめん、写真見たことないけど」
そう言うと、夏油はけらけらと笑う。持ってこれば良かったね、と言って、カメラでこれまでにキューバで撮った写真を見せてくれた。何気ない空港の風景、部屋に飾った花、それにキューバの人たちの笑顔。そこに写し出された笑顔はその活力をそのままに表現しているように思われた。
「帰ったらね、小さな個展をやろうかなって思ってるんだ。来てくれると嬉しい」
「行く! 絶対に行くよ!」
これで、やっと夏油の写真をちゃんと見ることが出来る。嬉しくてその話に飛びつくと、帰ったら詳細を送るね、と言ってくれて、夏油との繋がりがまたはっきりしたのを感じる。夏油との関係を、どうしてもこの旅だけでは終わらせたくない。いつしか、強くそう思うようになっていた。
誰かに、こんなことを思うのは初めてだった。これまで出会った誰とも、途切れたくないと思ったことはない。仲のいい友人はほんの数人ばかりいなくもないが、もし、彼等が離れていくのだとしたら、それも仕方のないことだとすら思っていた。けれど、夏油とはそうなりたくない。ずっと、どこかですこしでも繋がりを持っていたいとすら思っていた。
「その写真、見たいなぁ。素敵な写真なんだろうね」
「笑顔が印象的で。あと、夕焼けの写真もあったなぁ」
「夕焼けはもう間に合わないけど、夜景でも見に行く?」
「いいね」
夜景といえば、かの有名な要塞群だろうか。旧市街が宵闇に包まれるのも趣があるが、どうせならハバナを一望出来る場所がいい。ガイドブックによるとモロ要塞の周辺がハバナビエハの夜を一望出来るとのことだったので、ふたりで部屋に荷物を置いて、出かけることにした。モロ要塞は、ハバナ防衛のために築かれたフエルサ要塞、カバーニャ要塞、プンタ要塞とともに世界遺産の構成資産の一つとなっている場所だ。市街からは大凡南へ十キロくらい行ったところにあるらしい。要塞までは徒歩はさすがに厳しく、市街地でタクシーを捕まえるのがいいと書いてあったので、近くで客引きをしているタクシー運転手に値段交渉をする。モロ要塞までは相場通り十五兌換ペソで行ってくれるというので、お願いすることにした。
市街地から大体二十分くらいで遺跡に着き、入場料を支払う。入り口で夏油のカメラを見ると、入場料のほかにカメラ代が必要だということで、夏油の分だけ支払った。あとでデータをくれるというし、五条が携帯電話なんかで撮るよりずっといい写真を撮ってくれるだろう。
そうして要塞から見た夜景は、美しいものだった。クラシックカーや建築物から溢れる光に包まれた市街地が見えて、それは満天の星空に勝るとも劣らない夜景だった。そこから一望出来るきらきらと輝いて見えるそれは、夏油の隣だとさらに美しく見えるような気がする。そうするうちに、夏油が切るシャッターの音とともに、カバーニャ要塞の二十一時の号砲が鳴った。あまりに綺麗なものだから、どうやら随分と長居してしまったようだ。
「そろそろ帰ろうか」
「うん。綺麗だったね」
一緒に食事をして、夜景を見て、まるで恋人同士みたいだ。そう考えて、夏油とそうなっても全然構わないと思っていることに気がついた。むしろ、そうなりたいとすら思っている。夏油の隣はほんとうに居心地が良くて、ずっと一緒にいたいくらいだった。
そんなことを思ってしまったおかげで、タクシーの中では妙な沈黙が続いてしまった。どうにか巻き返そうと話をしてみるものの、どれも空回ってしまう。こんなことは初めてだった。それなのに、五条の拙い話にも、夏油は楽しそうに笑ってくれて、それもまた嬉しいと思ってしまう。――どうしよう、夏油が、好きだ。
けれど、それをこの場で言ってしまうのは出来なかった。相変わらずカメラも回っているし、何よりも、夏油が五条のことをどう思っているのかがわからない。もしこの思いを告げて、この関係が駄目になってしまったら、と思うと容易に踏み出すことは出来なかった。こんな風に関係性に悩むなんてこれまでにはないことで、五条自身、戸惑っているというのが大きい。
アパートに戻って、ごく簡単な夕食を摂り、お互いの部屋に戻る。夜には、互いの部屋に固定されたカメラでその日の感想を述べるという仕事があるのだが、夏油への思いを自覚すると、それだけでなんだか妙に緊張してしまった。
「傑は、なんだかすごく自然で。一緒にいるのがすごく心地いいです」
こんなのは初めてだ、と言おうとして、ほんの僅かに躊躇(ためら)った。夏油がこのオンエアを見た時、どう思うだろうか。一瞬だけそう考えたけれど、やっぱり言いたくなって、「こんな人は、初めてです」とその日の撮影を締め括った。どうせオンエアは数ヶ月後だ。見られたって構わないだろう。それよりも、今、夏油が何を語っているかが気になった。
自分のことを、どう思ってくれているだろう。ただ、旅の感想を話しているだけだろうか。すこしでも、自分のことを考えていてくれているだろうか。そんなことが気になって仕方がない。夏油の好感度を上げるためなら何でもしたいと思うし、夏油と出来るなら手を繋いだり、キスしたりしたい。もちろん、その先もだ。こんな風に誰かを想うことは初めてで、戸惑いもあったが、自覚したならここで踏みとどまってはいられない。時間は有限なのだ。この旅が終わるまでに、すこしくらいは進展したい。そうなると、期日まではもうあと数日しかなかった。気持ちだって焦るという話だ。
悪い感情は、抱かれていないと思う。せめて弟くらいには思ってくれているだろうか。でも、それじゃあ足りないのだ。もっと大切な存在になりたい。この旅が終わって、それから先だって保証されているような。また一緒に、旅をしてくれるような、そんな存在になりたい。そう願った。